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利用者:宮原 康

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則岡氏(のりおかし)は橘姓正儀流楠木支族、紀伊国在田郡宮原荘の豪族戦国時代管領畠山家に仕え、江戸時代以降は代々宮原地域の六十人地士を勤めた[1]

戦国時代

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畠山基国紀伊国守護となり有田郡宮原荘の岩室城に入城するにあたり、正則もこれに従い城中の政務を行った。以後その子孫は、畠山貞政豊臣氏に敗れるまで7代にわたり畠山氏に仕えた[2]

江戸時代

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徳川氏が政権を握り豊臣氏が滅びると、御三家の一つ紀州藩徳川頼宣は、則岡氏の筋目の良さや、それを裏付ける歴代の畠山当主等の書状により、宮原地域の六十人地士に任じた。六十人地士は、紀州藩士として有事の軍役に加え、警察機能を持って村々を統治すると共に、訴状を取り扱うなど各村の奉行代官的な役割を果たすために広範な権限を与えられた役職だった[3]

2代藩主徳川光貞の時代に、8代目当主・信榮の長男忠重と次男久盛が、賄人として同藩の直参となって分家し、新たに家を興した。本家は信榮の弟である信忠が相続した。同家はその後も血筋を繋げ、明治時代に有田から和歌山に転居した[4]

歴代当主

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1.楠木正則(幼名河内三郎)楠木正儀の男子。南北朝統一後、将軍足利義満の命により畠山基国の家で養育され、成長後、家名を則岡氏と号した[5]

2.則岡則綱畠山持国に仕える。父正則と南紀に赴任し、宮原の庄司を領す。文安2年畠山持国岩室城を築城し、則綱は城中の政務を行った。 [6]

3.則岡久明畠山政長に仕える。妻は畠山持国の娘。宮原荘に田畑を開墾したり数軒の家を建てる等し宮原庄南村を開基した。当初この土地は宮原荘楠村と呼ばれていたが、いつのまにか宮原荘南村と呼ばれる様になった。 文明1年4月21日生67歳で卒。 [7]

4.則岡長久畠山政能畠山高政に仕える。永正5年に大内義興が先の将軍足利義尹を擁立し上洛、義尹を将軍の座に戻し自らも管領代として幕政を執行する立場になった。しかし義興は、不安定な領国情勢を危惧して泉州堺に入り、帰国の途に着く用意をしていた。その時.則岡長久は、畠山勢の先陣として陣中に切り入り大内勢を撹乱し、大内氏の系図を奪った。 文明18年3月3日河内にて卒。 [8]

5. .則岡久榮畠山政国畠山高政に仕える。妹は豊臣秀吉の右筆木下吉隆の妻。 摂津国芥川並びに舎琳寺の合戦では、800余騎を率いて淀川を臨む河内佐田天神に陣を構え戦った。 永正15年2月15日卒

6. .則岡貞久畠山高政畠山政能畠山秋高畠山貞政に仕える。生年34歳で剃髪し、浄教入道と名を改む。則岡氏は則綱の代より宮原荘を領有していたが、貞久の代に至り河内八尾久宝寺村と替地の沙汰を下される。宮原荘内に於いては、8町3反の屋敷地及び道村と西村領を賜った。これにより則岡氏は名実共に畠山家重臣の首頭となった。 文禄1年7月9日91歳で卒。 [9]

7. .則岡久宗畠山政能畠山貞政に仕えるが、豊臣氏により岩室城は落城。その後大和大納言.豊臣秀長に仕えるも秀長は程なく死亡。故郷の宮原荘に戻り浪人生活を過ごす。大坂の陣では片桐且元より参陣の誘いを受けるが辞退した。 その後豊臣氏が滅び、久宗は徳川御三家初代紀州藩主 徳川頼宣より六十人地士 に選ばれるが、病により勤めを辞退する。代わりに分家した弟の則岡信久がそれを引き受ける。以後六十人地士 は信久家の筋が勤める事となる。 正保3年7月6日96歳で卒。 [10]

脚注

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  1. ^ 太田亮姓氏家系大辞典 第5巻』国民社、1944年、4640頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123956/49 
  2. ^ 紀伊続風土記』巻之五十八(『紀伊続風土記 第2輯』歴史図書社、1970年、349頁。『紀伊続風土記 第2輯帝国地方行政学会出版部、1911年、349頁)。
  3. ^ 生駒佳三『甦る宮﨑貞直と有縁の人びと』私家版、2000年、52頁。 
  4. ^ 和歌山県立文書館 編『紀州家中系譜並に親類書書上げ 下』和歌山県、2012年、143頁。 資料番号11127、11129。
  5. ^ 東京大学史料編纂所所蔵『則岡系図』(原題「河州橘姓則岡氏系図」)。
  6. ^ 東京大学史料編纂所所蔵『則岡系図』(原題「河州橘姓則岡氏系図」)。
  7. ^ 東京大学史料編纂所所蔵『則岡系図』(原題「河州橘姓則岡氏系図」)。
  8. ^ 東京大学史料編纂所所蔵『則岡系図』(原題「河州橘姓則岡氏系図」)。
  9. ^ 東京大学史料編纂所所蔵『則岡系図』(原題「河州橘姓則岡氏系図」)。
  10. ^ 東京大学史料編纂所所蔵『則岡系図』(原題「河州橘姓則岡氏系図」)。


--宮原 康会話) 2021年8月5日 (木) 08:49 (UTC)