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利用者:岡部碩道/下書き3/執筆中4

禅院額字方丈二大字』(・張即之筆、東福寺蔵、国宝

張 即之(ちょう そくし、淳熙13年(1186年) - 景定4年(1263年[1]))は、南宋末に活躍した能書家和州安徽省)の人。温夫(おんぷ)、樗寮(ちょりょう)とした。

官は司農寺丞(しのうじじょう)。伯父の張孝祥も書をよくした。即之の書はほとんどが楷書で特に大字が良いとされているが、当時としてはかなり独特な書風であり、古来評価はまちまちであった。その中で董其昌は高く評価している。その書は禅僧によって日本の禅林に伝来した。作品には楷書の『金剛般若波羅蜜経』などがある[2][3][4]

即之はに造詣が深く、禅僧と交際したことから、即之の書は禅家の間で尊ばれた。入宋した日本の禅僧達は即之の書を将来したため、東福寺智積院に即之の書とされるものが多く蔵されている[5]。金人は特に即之の筆跡を珍重した[4]

略伝[編集]

父の孝伯参知政事(副宰相)に至った。父の兄に能書で知られた張孝祥がおり、若いときにその影響を受けたと考えられる。

進士に及第した。

宋史』(巻445)に伝が立てられている。

張孝祥

生没年について[編集]

生没年について諸説伝えられている。即之の伝記はまだ詳細なことはほとんどわからず、伝存する作品によってその年代を推測することができるだけである[6]。しかし、淳熙13年(1186年)生まれであることは疑う余地がない。智積院に伝来する『金剛般若波羅蜜経』のに、宝祐元年(1253年)68歳と自署している。また、中国に伝える『金剛般若波羅蜜経』にも、淳祐6年(1246年)61歳と自署しており、両者の年齢が一致するからである[7]

没年は、無文道璨の詩文集『無文印』に、「祭樗寮張寺丞」と題する文によって、■[7]

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彼の書は、米芾と褚遂良を学んでいるとされているが、自己の創意によるもので、当時としてはかなり独特な書風であった[2]

彼の書学についてその他の詳しいことはわからない。

よい楷書作品が少ない宋代にあって、張即之の大楷、小楷はともに独特の風格をもち、禅家に尊ばれた。

ほとんどが楷書で特に大字が良いとされている。

評価[編集]

古来評価はまちまちで、高く評価するもの(董其昌王澍)もあり、無視するものもある。

董其昌は、「■」と評している[7]

王文治は即之の書法を学んだ。中国書道史上に一席を大家であることは間違いない[7]

背景[編集]

南宋の書[編集]

北宋徽宗宮廷コレクションに持ち去られたが、南宋初代皇帝・高宗は、父・徽宗の資質を受け継ぎ書画に巧みで、徽宗の蒐集品の回収に努めた。2代皇帝・孝宗もその影響で書をよくした。高宗は二王黄庭堅米芾を好み、以後の南宋の書に大きな影響を与えた。米芾の影響は、子の米友仁呉琚、張孝祥、范成大などに見られる。張孝祥、范成大には黄庭堅の影響も見られ、張孝祥は黄庭堅の『伏波神祠詩巻』に跋文を書いている。このように、南宋にあっては北宋の諸家の影響が見られるが、独自の書風を示した人物がいる。王升呉説陸游朱熹文天祥、そして張即之であり、その書が尊ばれた[8]

南宋末の傾向として、禅の影響を受けたと考えられる独特な書家が現れた。■や■、そして張即之である。

当時は禅のすぐれた名僧が輩出したが、即之はそれらの人々と交わりを結び、影響を受けたといわれている。

他国への影響[編集]

彼は禅に造詣が深く、禅家のあいだで尊ばれ、入宋した日本の禅僧たちは彼の書を将来したため、日本には張即之の書とされるものが多く伝わっている。

作品[編集]

張即之の書として、小楷で書かれた『金剛般若波羅蜜経』、『仏遺教経』(ぶついきょうきょう)、『華厳経』などがある。

金剛般若波羅蜜経[編集]

『金剛般若波羅蜜経』(部分、張即之筆、智積院蔵、国宝

『金剛般若波羅蜜経』(こんごうはんにゃはらみつきょう、金剛経(こんごうきょう)とも)は、宝祐元年(1253年)69歳のときの書。

末尾の跋語によると、宝祐元年7月13日、亡き母の冥福を祈るために書いたものとある。

現在、智積院国宝として蔵されている。

即之は熱心な仏教徒で、多くの金剛経を書いたらしく、この本もその一つ。

末尾の跋語によると、宝祐元年七月十三日、先妣(せんび、亡き母)の韓氏の冥福を祈るために書いたもので、筆力に緩みがない。

禅院額字方丈二大字[編集]

『禅院額字方丈二大字』(伝・張即之筆)

『禅院額字方丈二大字』は、

李伯嘉墓誌銘稿[編集]

李衎

李伯嘉の墓誌銘の草稿である。

楷書と行書で1200余字の長巻で、書風は点画の肥痩を尽くし、首尾一貫している。

紙本で、縦28cm、横602cmある。

項元汴の旧蔵で、巻末に収蔵年月日を記している。

現在は藤井斉成会有鄰館重要文化財として蔵されている。

尺牘棐茗帖[編集]

『尺牘棐茗帖』(せいきとくひめいじょう)は、張即之が禅僧である大歇和尚に宛てた尺牘で、淳祐5年(1245年)から淳祐12年(1252)の間に書かれたとされている。山中の棐茗(棐はかや=榧、茗は茶)が大歇より贈られてきたので、その礼を述べ、書の揮毫を頼まれたが、直ちには希望に応じられないと丁寧に断っている内容である。行書で全文六行、即之の特色が歴然としている佳品といえる。

脚注[編集]

  1. ^ 没年は姜亮夫の『歴代人物年里碑伝綜表』では、1263年古田紹欽の説では、1266年である(松井 巻末解説)。本項は中文に従った(#生没年についてを参照)。
  2. ^ a b 木村卜堂 pp..177-179
  3. ^ 鈴木洋保 p.95
  4. ^ a b 二玄社書道辞典 p.182
  5. ^ 石田肇 p.122
  6. ^ 中田勇次郎(中国書人年譜) pp..326-327
  7. ^ a b c d 神田喜一郎 p.172
  8. ^ 石田肇(中国書道史) p.113

出典・参考文献[編集]

関連項目[編集]