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利用者:桂鷺淵/資料2

皇朝二十四孝』(こうちょうにじゅうしこう)は、江戸時代幕末期に会津藩第8代藩主・松平容敬の命によって編纂された道徳の教本。

中国・代の郭居敬が編纂した『二十四孝』を参考として、天皇から庶民まで「孝道」に厚い日本の人物(24件25人)を選んで顕彰したもの。容敬の養嗣子・松平容保安政3年(1856年)に記した序文を付している[1]。『二十四孝』は日本でも広く読まれ、中国の孝子のことは庶民も知っているのに対し、日本の孝子についてはこれをまとめたものがないため知る人が稀であることを遺憾とし、「童蒙の教」のために編纂されたという[1]

取り上げられた人物と説話

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仁徳天皇
父である応神天皇に仕えてその心に違わず、「世にたぐひなく孝行」であった[1]
このほか、父の死後は菟道稚郎子と互いに皇位を譲り合って3年が過ぎたが、漁民が献上した鮮魚を両者とも受け取らず、漁師が腐敗した魚を泣く泣く捨てざるを得なくなったことを見た菟道稚郎子が、自ら命を絶って仁徳天皇を皇位に就かせたとする逸話、および、仁徳天皇が高殿から庶民のかまどの煙を見たとする逸話を掲載する[2]
顕宗天皇
顕宗天皇の父は市辺押磐皇子であったが、市辺押磐皇子が雄略天皇に殺害されたため、兄[注釈 1]とともに身を隠した。顕宗天皇が皇位についたのちに父の墓を探した結果、老婆(記紀によれば置目という名)の案内によって近江国蚊帳野で父の墓に至り、これを掘って遺骨を見、大いに悲しんだ。市辺押磐皇子は帳内(舎人)の佐伯仲子とともに殺害されたため、2人の遺骨は混ざっており、生前に上の歯がなかったという仲子の特徴から頭蓋骨が判別できるのみであった。顕宗天皇は元の通り埋葬し、2つの山陵を築いた[3]
仁明天皇
嘉祥3年(850年)正月[注釈 2]、仁明天皇は「太皇大后」(嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子。仁明天皇の母)が住まう冷泉院に赴いたが、その帰り際に次のような出来事があった。「大后」は、帝が日頃宮中奥深くにいるため、帝が車に乗る姿を見たことがまだないので、ぜひこれを見たいと強く求めた。天皇から相談を受けた源常(左大臣)・藤原良房(右大臣)は、礼とは人を敬うことであるから大后の言葉に従うのが良いと言上した。天皇は大后の御簾の前に北面して跪き、御殿の階下に車を寄せて、車に乗って内裏に帰った。これを見た人々は、天子が北面して跪いたのは、親を尊び敬う道であり、常の人にはできないことであると感涙した[4]
前賢故実』より藤原吉野。父の求めに応えなかった庖人との場面を描く[5]
藤原吉野
藤原吉野は藤原綱継の子で、人格・声望にすぐれ、中納言まで進んだ人物であった。「先帝」崩御ののち、老いた父に孝養を尽くすため辞職を再三願い出たが許されず、勤めに励みつつ父の意に違うことはなかった。あるとき綱継が、吉野の家に「鮮肉」があると聞き、使いを送ってこれを求めたことがあった。このとき吉野は不在であり、庖人(料理人)は鮮肉を惜しんで応えなかった。帰宅してこれを知った吉野は泣きながら料理人をとがめ、以後死ぬまで肉を食べなかった[6]
藤原伊周
源雅実
源光圀卿(徳川光圀
大江挙周
役小角
倭果安奈良許知麻呂
美濃孝子
養老の滝
前賢故実』より丈部路祖父麻呂。
丈部路祖父麻呂
紀夏井
丸部明麻呂
前賢故実』より山田古嗣。
山田古嗣
丹生弘吉
随身公助
僧某
鎌倉孝子
絵屋勘兵衛
兄媛
応神天皇の妃で吉備国の人[注釈 3]
衣縫造金継女
橘逸勢朝臣女
橘逸勢の娘。
微妙

備考

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  • 福島県会津若松市飯森山にある会津さざえ堂(円通三匝堂)は、もともと正宗寺という寺の仏堂で、内部には三十三観音像が置かれていた。明治初年の廃仏毀釈によって正宗寺は廃寺となり、さざえ堂は個人所有となって観音像は他に移され、代わって皇朝二十四孝の額が掲げられている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 億計王。のちの仁賢天皇
  2. ^ 仁明天皇は病弱であり、この嘉祥3年(850年)3月に41歳で崩御した。
  3. ^ 『日本書紀』によれば御友別の妹。

出典

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参考文献

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