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利用者:相隣/sandbox

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武田信玄像

Template:Infobox 市町村 甲府市(こうふし)は、山梨県の中央部に位置する同県の県庁所在地である。山梨県の政治経済の中心地であり、甲斐国守護大名であった武田氏の本拠地として歴史的な建築物も多く存在する。なお、甲府駅前には有名な武田信玄像も存在する。

概要[編集]

この甲府市が都市としての機能を持ち出したのは、永正16年(1519年)に当時の守護である武田信虎が居城を石和から躑躅ヶ崎に移して居館を置いたことから始まる。城下町は上府中(古府中)と呼ばれ、このことから甲斐の「甲」と「府」をとって甲府と呼ばれるようになった。府とは「都」を意味し、その名の通り「甲斐の都」として甲府は京都を模したように城下町が建設されていったという。しかし甲斐武田氏武田信玄の死後、跡を継いだ武田勝頼の時代に長篠の戦い織田信長徳川家康連合軍に大敗してから急速に衰退し、天正10年(1582年)3月の両雄による武田征伐で滅亡する。甲府は信長の家臣・河尻秀隆に与えられて居城は下府中(新府中)に移されて甲府城の築城も始まったが、わずか3か月後の本能寺の変で信長が死去すると、秀隆も武田家旧臣による反乱によって殺害され、甲府は徳川家康の所領となった。一時的に豊臣秀吉の家臣・加藤光泰や秀吉の養子である豊臣秀勝、秀吉の縁戚である浅野長政幸長父子の支配下に入ったが、江戸時代になると再度、徳川家康の所領となった。

家康は江戸を居城としたが、この江戸の防衛のために甲府は重要視され、譜代大名である柳沢吉保吉里父子を除いては全て徳川氏の近親者の属領か本拠として支配下に置かれるか、あるいは天領として幕府直属の甲府勤番が置かれることになった。また甲州街道の整備により、同地は宿駅や周辺農村の商業の中心地として繁栄した。町の数は江戸時代前期に古府中26町、新府中23町と定まって以来、変化は無かったが、戸口は新府中に集中する[1]。また、商業街は新府中のうちの柳、八日、三日、竪近習、上連雀、下連雀、魚の各町が繁華で、職人町として古府中に新紺屋、細工、大工、畳の4町が、新府中に工、鍛冶、桶屋の3町があった。江戸時代中期になると煙草木綿など周辺の農村の特産物の取引も盛んになるが、幕末に至って日本が開国すると生糸の生産が目立つようになった[1]

明治時代に入ると、中部養蚕地域の中心地のひとつとして甲州生糸生産地の名を高めた。また山梨水晶として知られる研磨工業は天保年間から始まる古い歴史を持ち、現在も市の代表的な工業となっている。政治的に見ると、明治時代に甲府城の追手門前御役所跡に山梨県庁が設置され、城の南に隣接する旧武家屋敷跡に官公庁学校が設置された[2]

明治22年(1889年7月市制施行して甲府市が誕生する。この時の人口は3万1000人であったと言われている[2]。明治36年(1903年)にJR中央線甲府駅が開業し、明治42年(1909年)には歩兵49連隊が設置されたため、甲府市街は西部から北西部へ繁栄を移すようになった[2]

昭和12年(1937年)に相川村里垣村中巨摩郡国母村貢川村の4村を編入した。昭和17年(1942年)に西山梨郡千塚村大宮村の2村を編入する。しかし太平洋戦争で日本の敗色が色濃くなると、米軍による空襲を受けるようになり、そのため甲府市の7割が焼失することになった[2]

戦後の昭和24年(1949年)に中巨摩郡池田村西山梨郡住吉村の一部を編入する。昭和29年(1954年10月に西山梨郡甲運村能泉村千代田村山城村住吉村朝井村玉諸村・中巨摩郡大鎌田村二川村宮本村の10村を編入する。そして平成18年(2006年3月1日東八代郡中道町および西八代郡上九一色村の北部(大字古関・梯)を編入した。

甲府市街は甲府盆地の中央部に位置し、中心部の高度は361メートル、気温の年隔差は24度、年の降水量は900ミリから1300ミリであり、は蒸し暑くは厳寒の内陸盆地機構の代表的な土地である。市域の頭部は甲州葡萄の名で知られる山梨県内第2の葡萄栽培地であり、ワインも甲府市の特産品となっている。また武田信玄など歴史に恵まれていることから観光資源が豊富であり、湯村や積翠寺の温泉や自然美の昇仙峡、武田家にちなむ古社寺などがある。また静岡県方面へJR身延線が分岐しているほか、富士・昇仙峡・湯村方面へのバスルートの要地にもなっている。

武田信玄を礎とする街[編集]

甲府市は「武田信玄」というひとりの英雄が現在まで色濃く息づいている街である[1]。甲府駅を出た正面右手にその像があるのは勿論、甲斐を長年悩ませてきた釜無川の氾濫を懸命な治水対策で治めたことでも知られている[1]。また、信玄は領国経営発展のために商工業者の奨励にも努めており、金山開発の副産物としての水晶加工は宝石研磨業として現在まで受け継がれ、平成28年(2016年)時点では日本全国のジュエリー出荷額の約3割が甲府産である[2]

農業[編集]

太平洋戦争後、甲府の農村部では養蚕から果樹栽培に切り替えが行なわれたため、その結果として甲府市は果樹王国として生まれ変わった。特に葡萄酒醸造が盛んで、工場は甲府市の東部、峡東地区の葡萄産地に立地し、勝沼のワイナリーは観光名所としても繁栄している。JR中央本線からは山麓の美しい葡萄畑が眺望でき、中央高速道路沿いはになると南部の扇状地一帯が桃畑のピンクに染まっている[2]

出身有名人[編集]

甲府市の見どころ[編集]

甲府市の特産品[編集]

甲府市の年中行事[編集]

人口・面積[編集]

  • 人口は19万5438[3]
  • 面積は171.89平方キロメートル[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『読みたくなる「地図」東日本編』(平岡昭利編。海青社。2017年)・120頁。
  2. ^ a b c d e f 『読みたくなる「地図」東日本編』(平岡昭利編。海青社。2017年)・121頁。
  3. ^ a b 平成8年度3月31日の住民台帳

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

行政
観光