利用者:Ami du Peuple/サン・キュロット

ルイ=レオポール・ボワイユ[1]作(1792年), 「サン・キュロットの扮装をした歌手シュナール」

サン・キュロット: Sans-culotte)とは、1792年から1795年までの期間[2]フランス革命の推進力となったパリ革命的群衆[3]の呼称である。語義はフランス語の「キュロット(短ズボン)をはかないひと」で、当時の貴族や上流ブルジョワの服装と異なり、平民が長ズボンをはいていたことからこう呼ばれ、一般に人民主権を主張する過激な共和主義者(または革命的民主主義者)をさす。

暴動や直接的な示威行動を行い、しばしば武装して集団でヴァンダリズム[4]に走って街頭の暴力として政治に圧力をかけた。コミューンを組織して8月10日事件王政を打倒し、ジロンド派を追い出し、恐怖政治の実現を要求して、革命を急進化させた主体はサン・キュロットであり、コルドリエ・クラブを中心とする自律した議会外勢力であった。

無秩序であり、生首を槍に刺して練り歩くなどの過激な行動から、貧しい下層階級が集まって狼藉をしたもので暴民[5]であったとの一面的な評価をされた時期もあったが、実際には、パンの価格高騰に抗議したパリの大多数の市民、小商店主、小商人、農民、手工業者、職人、賃金労働者、失業者、女性など(特権階級を除く)幅広い社会階層が参加した大衆運動であった[6]

パリのサン・キュロットは25万にも達する武装勢力であったが、ヴァンデの反乱鎮圧に投入されたほか、1794年1月のアンラージェ[7]の一斉摘発、3月のエベール派の逮捕などで徐々に粛清されて弱体化していき、1795年のジェルミナル暴動[8]、プレリアル蜂起[9]で壊滅的打撃を受け、最後はヴァンデミエールのクーデターにおいて全市が武装解除され、新しく政治に登場した軍隊に力で抑えつけられて表舞台から姿を消した。

背景[編集]

パリの状況[編集]

1789年4月28日のレヴェイヨン事件[10]

13世紀にフィリップ尊厳王オーギュストによって原型が築かれた中世城郭都市パリは、人口の増加とともに拡大を続け、シャルル5世の時代には城壁の外側まで広がって、このときに東の入口を守るために造られたのがバスティーユ城砦であった。ルイ13世の時代にはさらに市の境界は拡大され、従来は町の外であった場所に市街地ができて城外区フォーブル[11]と呼ばれる区画となった。1784年から大臣カロンヌはこの城外区をも取り囲む形で、全長18マイル、高さ10フィートの三度目の新しい城壁を建設させたが、これは軍事的障壁ではなく、人々の往来を規制し、50箇所の市門すべてに税関を造って入市税[12]を取り立てるのが目的であった。壁に包囲されたパリ市民は、城砦に見下ろされ、壁に閉じこめられるという状態で、常に心理的な圧迫を受けていた。

18世紀後半、パリの人口は52万〜66万人であったと推計されるが、このうち約1万人が第一身分たる聖職者で、第二身分たる貴族は約5千人、第三身分のなかで金融や商工業、自由業を生業とする(裕福な)ブルジョワジーは約4万人、残りの市民が後にサン・キュロットとして知られるようになる階層を形作る様々な職種の人々であった[13]。パリは広い意味で労働者の町であり、零細な手工業者や日雇労働者が多数生活していたが、1786年の英仏通商条約[14]によって自由貿易が開かれたことで不況に陥っていた。それでブルジョワジーは中世的なギルドを用いて抑圧的な賃金を設定しようとしたため、賃金引き下げに反対するストライキもしばしば起こって、労資の対立が第三身分を分断した。特権階級はブルジョワジーの味方したので、彼らの抵抗を排除するために軍隊が動員されたり、(毎回数名の死者が出る程度であったものの)発砲騒ぎも珍しくなかった。つまり革命が起こる前からパリは抗議する町であって、対立の火種と暴力的な素地の両方がすでに培われていたわけである。

他の大都市の例[15]にもれず、パリも人口を養うだけの食糧の供給に苦労していた。食糧のなかでも、労働者の家計に占めるパン購入費の割合は通常の物価でも約50%にも達したので、パンの価格は市民の最大の関心事であった。しかし飢饉や凶作だけでなく、買占めや投機といった自由主義経済の弊害、あるいは飢餓政策[16]によって、パンの価格が極端に高騰することがあったので、1709年1725年1740年1752年には大規模な食糧暴動が起こった。革命前の最大のものは1775年に財務総監テュルゴーの改革の失敗によって引き起こされたもので、これは小麦粉戦争[17]の名で知られる[18]。以後、食糧価格は十数年間は比較的安定していたが、革命が近づく頃に急に悪化し始める。

革命の勃発[編集]

1789年の夏にヴェルサイユで起こっていた出来事は、特権階級の王権に対する反抗から始まって、開明派貴族と上流ブルジョワジーの連合による自由主義的改革へと進んだので、食糧暴動を起こしていたような大多数の市民階級はこれに関与できず、傍観するに留まっていた。パリでも第三身分代表を選出した407名の選挙人が集まってできた常任委員会[19]パレ・ロワイヤルオルレアン派が運動の中心にいた。ところが、ネッケル罷免のニュースに怒った群衆が行進を始めてルイ15世広場[20]でランベスク大公[21]の竜騎兵部隊と衝突し、パリ守備隊司令官ブザンヴァル[22]が撤兵を決断すると、7月12日無政府状態になったパリでは、群衆が蜂起して一斉に入市門を襲い、破壊して火を放った。サン・ラザール修道院[23]も掠奪を受けた。驚いた常任委員会は、翌日、暴挙を非難し、パリの市民軍の構成員は身元がしっかりしたブルジョワ民兵に限定されねばならないとして、市民の武装解除に躍起になったが、国王側が武力鎮圧を目指しているというデマが広がると、刃物店や銃砲店に押し入って勝手に武器を持ち去る市民が後を絶たなかった。臨時市長フレッセル[24]は市庁舎にあった武器と火薬樽の引き渡しを拒んで、バスティーユ襲撃後に惨殺され、捕虜になって同じく殺されたド・ローネー侯爵[25]共々、首を切られて槍先に掲げられた。大臣フーロン・ド・ドゥエ[26]とベルティエ・ド・ソーヴィニー[27]も捕まって市庁舎の街灯で見せしめに縛り首にされた。興奮の頂点にあった群衆の蛮行はしばらく続いた。騒動が収まると、常任委員会は国民議会の初代議長で天文学者のバイイを新市長に選び、新しく国民衛兵と名付けられることになった市民軍の最高司令官には同副議長だったラファイエットを任命して治安の回復にあたらせたが、廃兵院や武器庫から大量に盗まれていた武器の回収は進まなかった。

バスティーユ襲撃において、群衆は

共和主義の台頭[編集]

市民階級ブルジョワジーの分裂は、革命が進展するほどに顕著になっていった。

前述のように第三身分の分裂は

混乱のまま7月14日にバスティーユ襲撃事件が起こったが、

から盗まれた28,000丁の小銃が市民に分配された。

ときも、その矢面に立った約800名の衛兵は、として組織された市民軍であり、構成員は身元がしっかりした者に限られていた。

サン・キュロットとは[編集]

8月10日事件でのサン・キュロット(長ズボン)男女

外見的特徴[編集]

キュロットとは、前述のように、ボトムスの一種で、膝丈ほどの短ズボンのことである。これは17世紀から18世紀のヨーロッパでは一般的に貴族や上流階級の男性が着用した服装で、キュロットは絹の靴下とセットで着るのが普通だった。これに対して、絹の靴下などを買えない民衆が長ズボンを着用したことからサン・キュロットと呼ばれたわけだが、もともとは特権階級が、長ズボンをはく従属的な身分を「賤しい」として使った言葉であった。

しかし革命後は平等主義が台頭したことによって、人々の意識が変わった。サン・キュロットをはくことは民主主義に適ったものであり、「誇らしい」服装であるということになった。そしてキュロットをはいて立派な服装でいると(旧貴族かどうかに関わらず)特権意識をもった者として疑われ、平等な市民の敵であるとして、反革命容疑者法で取り締まる対象にすらなったのである。

サン・キュロットの男性のはく長ズボンは、トリコロールを意識して、赤白か青白の縞模様が多くみられた。この時代の女性は基本的にズボンははかかったので、(アウターの意味の)ペティコートであったが、革命的共和主義者女性協会ごとき女権論者の中には(当時でも服装に男女差のなかった)乗馬服でズボンをはく者もいた。いずれも男女とも、革命支持を表す、三色の花形帽章は必ずどこかに付けた。武装する場合には、小銃やピストル、槍、剣、狩猟用ナイフや短剣などだけでなく、(洗濯用の)棍棒や包丁、鋤や鍬、鎌など日用品も武器として用いた。

社会階層[編集]

サン・キュロット層は社会的に異質な諸要素の連合体であった。テーヌのような実証主義論者が全体像を把握せずに描いた暴徒の群れでも貧しい下層階級の集まりでもなかったし、ジョレスのような唯物史観論者が安易に結びつけようとした19世紀の工場労働者(プロレタリアート)の同質的集団とも異なった。ソブール[28]リューデらの精緻な調査によって明らかにされたサン・キュロット層には有産階級無産階級[29]の両方が含まれていた。

親方と職人、商店主と店子、工場主と賃金労働者など、雇用主と被雇用者は当時のパリでは隣り合って生活しており、地区が蜂起したとき、住民は経済状態に関わらず参加した。多くが能動的市民である有産階級は、地区のサン・キュロット層で指導的地位につき、多くの役職を占めた一方で、同様に受動的市民である無産階級も活動の主体的役割を果たしていた。


彼らを結びつけたのは、互いに都市の消費者であるという点と、共和主義の愛国者であったという点であった。 このためパリの社会断面的


の利害で結ばれていた。

しかし自ずから亀裂が生じた

しかし経済状態や政治意識の違いから、サン・キュロット層には明らかに亀裂が内在していて、この内部矛盾のために統一的な綱領を樹立することができずに、分派に分かれ、結局は政治的に挫折するに至ったわけである。


パリ市民として共通の利害関係で結ばれており、


ており、パリ市民の縮図


プティ・ブルジョワ、グロ・ブルジョワ(大資本家)

政治的主張[編集]

1789年の人権宣言にある全面的な所有権の信奉者と、 所有権の制限の信奉者

統制経済や公定価格の主張、経済的自由の敵

サン・キュロットは、政治的にも社会的にも穏和派モデレと対立していた。

富裕市民を敵視



組織[編集]

地区コミューン


行動[編集]

九月虐殺[編集]

前述の不況によってパリに溢れていた失業者は、社会問題となっていたが、彼らの手からは買取などの方法で武器が回収された。革命の第二の波であった怒れる市民達は、まだ眠ったままであった。

ジロンド派追放[編集]

富裕層は市の比較的西側に邸宅を構え、貧困層は東側の城外区とセーヌ川より南側に多く居住していたが、都市の人口を増やす要因となっていたのは、農村部から流入する労働者であった。この時期のパリは建築ブームで、町の外観は少しずつ

ヴァンデへの出征[編集]

恐怖政治と9月5日デモ[編集]

テルミドールのクーデター[編集]

軍隊による弾圧[編集]

サン・キュロットの発生は、パリ市の状況と密接な関わりがあった。


特に城壁は不平等の象徴として憎んでいて、革命が起こるとバスティーユよりも先に破壊され、税関は焼き討ちを受けた。



という社会階層は、必ずしも画一的だったわけではないが、


商店主、手工業者や職人、賃金労働者などのからなり、当時のパリの貧困層が主体であった。

親方などのプチブル


サン・キュロット階層は、不況やパンの価格高騰などによって生活に苦しんでいて、参政権どころか一切の権利を持っていなかった。そのこともあり、フランス革命の到来はサン・キュロットに熱烈に支持された。流言に端を発する暴動でバスティーユ牢獄を襲撃した7月14日バスティーユ襲撃事件、九月虐殺など、血なまぐさい革命の暴力的側面はすべて彼らによって引き起こされたものである。

パリのサン・キュロットはフランス革命での不安定要素で、ブルジョワ主導の国民議会を悩ませた。立法議会になってもその傾向は変わらず、武装民兵と化した彼らが度々起こしたデモや暴動は議会への圧力となり、生活の改善を求める運動は、革命を急進化させた。各党派は、パリのサン・キュロットに迎合せざるえない状況にあったため、フランス革命が極端な平等主義や富の再分配といった、社会主義的な政策を途中で取り入れようとしたのは彼らの影響であった。

恐怖政治はサン・キュロットの熱心な要望で始まったものだが、ジャコバン派の分派争いで粛清を受け、特にサン・キュロット直接行動主義の代表格だったエベール派の処刑以後は扇動者を失って弱体化した。さらにテルミドールのクーデタを境に一気に衰退し、テルミドール反動と、その後の総裁政府執政政府は大規模な弾圧を行ったため、サン・キュロットは革命勢力としての力を完全に失い、革命の主体はブルジョワジーのもとに戻った。

後世の評価[編集]

暴民、賤民


脚注[編集]

  1. ^ Louis-Léopold Boilly
  2. ^ 歴史家が、サン・キュロットを共和主義的革命民衆と定義しているため8月10日事件のあった1792年からとなる。フュレ, オズーフ & 1999年(3), p.122
    だたし革命的群衆自体は革命前夜からすでにパリに存在し、レヴェイヨン事件やバスティーユ襲撃や十月行進にも参加した同勢力である。異説もあるが、彼らが共和主義と人民主権に目覚めたところからが歴史学用語としての「サン・キュロット」である。ソブール, 井上幸治 & 1983年, pp.14-29
  3. ^ 歴史家ジョルジュ・ルフェーブルジョージ・リューデなどによる定義
  4. ^ 「ヴァンダリズム」という言葉は、そもそもフランス革命時のサン・キュロットの暴力を、アンリ・グレゴワール(Henri Grégoire)がローマ市に侵入して掠奪したヴァンダル族の蛮行に例えて表現したもの。グレゴワールはジロンド派の政治家で、同派はサン・キュロット勢力によって1793年6月2日に追放された。フュレ, オズーフ & 1999年(5), pp.44-48
  5. ^ 歴史家イポリット・テーヌが定義したもので、エドマンド・バークの反革命思想の影響を受けたもの。ロマン派トーマス・カーライルなども表現は違うが同様の立場をとった
  6. ^ 具体的にどのような人々が参加していたかは、下記のリューデの著書『フランス革命と群衆』に詳しく書かれているので、同著を参照
  7. ^ 「怒れる人々」という語義をもつ過激派Enragés
  8. ^ 1795年4月1日にパリ市民が国民公会議事堂を占拠した事件。経済統制の放棄によるアッシニアの暴落と物価高騰による生活苦に貧窮した市民がテルミドール反動に反発したもの。フレロンの金ぴか青年隊の暴力によって排除された。()
  9. ^ 1795年5月20日に左派を代表するサン・タントワーヌ街の市民が「パンと93年憲法」を求めて起こした武装蜂起。軍隊によって鎮圧され、この左派残党の敗北によってモンターニュ派は壊滅した。()
  10. ^ 賃金とパンの値段についての失言に端を発した労働者の大規模な暴動で、軍隊が出動し、工場長のレヴェイヨン氏と家族がバスティーユに避難する事態になった。(Reveillon riot
  11. ^ Faubourg
  12. ^ 内国関税の一種。1789年の国家関税収入の総額7,000万リーブルのうち2,800〜3,000万リーブルはパリ市からのものであった。リューデ, 前川貞次郎 & 1963年, p.16
  13. ^ リューデ, 前川貞次郎 & 1963年, pp.17-18
  14. ^ 当時のイギリス外相の名前をとってイーデン条約(合意)ともいう。双方が特定品目の関税を下げるというものであったが、産業革命が進むイギリスに有利に働き、フランス国内を不況に陥れた。1793年2月に英仏間が戦争状態になるまで効力があった。(Eden Agreement
  15. ^ 日本の徳川幕府も江戸の米価政策に苦心した。モノカルチャーであったという点など米騒動と背景に共通するところがある
  16. ^ パンの価格が政治に与える影響が大きかったので、フランスでは昔から政敵を追い落とす方法として、穀物を意図的に買占めて価格を釣り上げ、市民の生活と苦しめて騒乱を起こし、治世者を失脚させることがあると、まことしやかに信じられていた。貴族の陰謀説の一種
  17. ^ Guerre des farines
  18. ^ この時には、サン・キュロットが後に要求するパンの価格統制も行われていて、フランス革命は先鞭となる出来事がすでに複数回起こっていた
  19. ^ Comité permanent」のこと。公権力に逆らって、自主的にパリの自治政府となった。パリ・コミューンの前身
  20. ^ 現在のコンコルド広場のこと
  21. ^ グーズ家の子息で、革命前は近衛ドイツ竜騎兵連隊の連隊長だった。1791年に亡命し、オーストリア軍に勤務した。(Charles-Eugène de Lorraine
  22. ^ ピエール=ヴィクトール・ド・ブザンヴァル男爵。レヴェイヨン事件のとき工場主家族を匿って労働者を鎮圧した。(Pierre Victor de Besenval de Brünstatt
  23. ^ この修道院は拘置所として使われいたほか、穀物が貯蔵されていたので標的になったが、金品を盗む目的で侵入したものも多数いて、約60人が窃盗で逮捕された。革命後に同修道院は閉鎖され、1793年から約1世紀、女子刑務所として用いられた。(Saint-Lazare
  24. ^ Jacques de Flesselles
  25. ^ バスティーユ要塞司令官。(Bernard-René de Launay
  26. ^ 革命の発端になったネッケル罷免の後任に任命された財務総監。1週間だけその任務に当たった。失言によって市民の怒りを買い、バスティーユ襲撃事件発生後は逃亡し、卒中で死んだというウソをついて隠れようとしたが捕まった。(Joseph Foullon de Doué
  27. ^ フーロン女婿のパリ地方総監。バスティーユ襲撃後はコンピエーニュに逃走したが捕まった。なお地方総監は知事と同義。(Louis Bénigne François Berthier de Sauvigny
  28. ^ アルバート・ソブール(Albert Soboul
  29. ^ 有産と無産の違いは簡単にいうと固定資を持つか持たないかということ

参考文献[編集]

  • フュレ, フランソワ; オズーフ, モナ (1999年(3)), 『フランス革命事典 3 人物II』, みすず書房, ISBN 4-622-05036-6 
  • フュレ, フランソワ; オズーフ, モナ (1999年(5)), 『フランス革命事典 5 事件』, みすず書房, ISBN 4-622-05052-8 
  • リューデ, ジョージ; 前川貞次郎, ほか訳 (1963), 『フランス革命と群衆』, ミネルヴァ書房 
  • ソブール, アルベール; 井上幸治, 監訳 (1983), 『フランス革命と民衆』, 新評論, ISBN 978-4794822079 

関連項目[編集]