利用者:BetaU628/sandbox/羽生結弦
来歴
[編集]幼少期からジュニア時代まで
[編集]1994年12月7日、宮城県仙台市泉区に生まれる。
1999年、泉DOSCアイスアリーナ[注 1]にて佐野稔が開催した子供スケート教室に、羽生の4歳上の姉が通い始める。姉に付いてスケートリンクに遊びに来ていた羽生は、同リンクでコーチを務めていた山田真実の誘いがきっかけで4歳でスケートを始めた[5]。山田は当時の羽生の才能を感じた瞬間について次のエピソードを語っている[5]。
彼が幼稚園の年長くらいで、1回転ジャンプを跳べた時に、「シングルアクセル(1回転半)をやってごらん」って言ったんです。1回転から1回転半は早い子でも2、3カ月。たいていは半年から1年くらいかかります。なので、ちょっと面白がって言っただけだったのですが、彼は跳んだんです。着氷で転んだのですが、ちゃんと1回転半回りました。「なんだ。これは」と。教えていないから、軸はぐちゃぐちゃ。でも運動能力だけで回ってしまったんです。
4歳から小学2年生までは山田に師事し、山田が家庭の事情で故郷に帰ったのがきっかけで、以降は山田がかつて師事していた都築章一郎に師事した[6]。羽生はこの頃練習が嫌になり野球をやりたいとも言い出したが、一度始めたことを投げ出したくないと練習を続けた。すると、小学4年生になった2004年、10月の全日本ノービス選手権に初出場し、Bクラス(10歳まで出場可能)で優勝を果たす[7]。また、12月には初の国際大会となるタンペレ・サンタクロース杯に出場し、優勝を果たした[8][9]。
2004年12月、ホームリンクのコナミスポーツクラブ泉・スケートリンク(旧・泉DOSCアイスアリーナ)が経営難のために開鎖されたため、羽生は同じ仙台市内の勝山スケーティングクラブに拠点を移した[10]:2–3。都築は仙台を離れ神奈川県の神奈川スケートリンクに拠点を移したため、平日は仙台で練習し、週末は神奈川に通って都築の指導を受ける日々を送った[10]:2–3[11]。また、この時期から阿部奈々美が指導者に加わった[11]。2005年の全日本ノービス選手権Bクラスでは2位となった[12]。2006–07シーズン、全日本ノービス選手権Aクラス(12歳まで出場可能)で3位[8]、羽生にとって初のジュニアクラス出場となった全日本ジュニア選手権では7位に入った[12]。2007年3月、コナミスポーツクラブ泉・スケートリンクがアイスリンク仙台として営業を再開したため、再び同リンクに拠点を戻した。2007–08シーズン、10月の全日本ノービス選手権Aクラスで優勝し、11月の全日本ジュニア選手権では3位となる[13]。ノービスの選手が全日本ジュニア選手権でメダルを獲得するのは日本男子初の快挙であった[13]。
世界ジュニア選手権優勝
[編集]2008年夏、長野・野辺山での全日本合宿にて、浅田真央を参考に3回転アクセルジャンプを習得した[14]。羽生は2008–09シーズンからジュニアクラスに移行し、国際スケート連盟の公認大会であるジュニアグランプリシリーズのメラーノ杯に出場し5位となった。11月の東日本選手権のショートプログラムでは、自身初めて3回転アクセルを成功させた[15]。全日本ジュニア選手権では史上最年少の13歳で初優勝を飾り、初出場となったシニアの全日本選手権では最年少ながら8位に入った[16]。3月の世界ジュニア選手権は12位に終わった。
2009–10シーズン、トルン杯でジュニアグランプリシリーズ初優勝を飾った[17]。続くクロアチア杯でも優勝し、シリーズ成績上位6人が出場するジュニアグランプリファイナルへの進出が決まった[18]。全日本ジュニア選手権では連覇を果たし、ジュニアグランプリファイナルでは大会史上最年少優勝を果たした[18]。日本男子のジュニアグランプリファイナル優勝は、2005年大会の小塚崇彦以来2人目であった[18]。12月の全日本選手権ではショートプログラム13位からフリースケーティングで追い上げ、総合6位に入った。2010年3月の世界ジュニア選手権ではフリースケーティングで自己ベストを更新し、日本男子として髙橋大輔・織田信成・小塚崇彦に続く4人目の世界ジュニアチャンピオンとなった。2010年4月、東北高等学校に入学した。
ソチオリンピックまでの4年間
[編集]2010–11シーズン:シニアデビューと東日本大震災
[編集]2010–11シーズンからシニアクラスに移行し、10月から始まるグランプリシリーズに参戦した。シニアデビュー戦となったNHK杯では、フリースケーティングで自身初の4回転トウループを成功させ、4位入賞を果たした[19]。シリーズ2戦目のロステレコム杯ではショートプログラムで自己ベストを更新したものの、フリースケーティングでは転倒や3回転ジャンプの跳びすぎなどのミスで得点を伸ばせず、総合7位に終わった[20]。12月の全日本選手権ではショートプログラムで2位発進したが、フリースケーティングで順位を落とし、総合4位となった[21]。2月の四大陸選手権ではショートプログラム・フリースケーティングともに自己ベストを更新し、シニア国際大会初のメダルとなる銀メダルを獲得した。羽生は男子シングルでは史上最年少の四大陸選手権メダリストとなった[19]。
2011年3月11日、羽生が住んでいた宮城県の海岸沖を震源とする巨大地震・東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生した。地震発生当時、羽生はアイスリンク仙台で練習中であり、揺れが収まると四つん這いでスケート靴を履いたまま外へ避難したという[22]。同リンクは壁が崩れるなどの損傷が起き、営業停止となった[23]:2[注 2]。仙台市の羽生の自宅も被害を受け、電気・ガス・水道などのライフラインが断たれたため、羽生と母と姉の3人は避難所で4日間生活した[25]。地震から10日後には、かつて師事した都築章一郎がいる東神奈川スケートリンク(現・横浜銀行アイスアリーナ)にて練習を再開した。4月1日には八戸市のテクノルアイスパーク新井田に移動し合宿を行い、それが終わると再び東神奈川に戻った[25][26]。4月9日、兵庫県で行われた復興支援アイスショー『東日本大震災チャリティー演技会 〜復興の街、神戸から〜』に参加した[27]。その後も復興支援のアイスショーを練習の場にしながら全国を回り、7月下旬には営業を再開したアイスリンク仙台に拠点を戻した。羽生が10月までに出演したアイスショーは60公演にも及んだ[28]。
2011–12シーズン:初の世界選手権メダル獲得
[編集]2011–12シーズン、ショートプログラムはスクリャービンの「12の練習曲 作品8」より『悲愴』、フリースケーティングは映画『ロミオ+ジュリエット』のサウンドトラックを使用した。このシーズンから羽生はショートプログラムに4回転トウループを組み込み始めた。シーズン初戦のネーベルホルン杯では、シニアの国際大会初優勝を飾った[29]。グランプリシリーズ1戦目の中国杯ではショートプログラムで4回転トウループを成功させたものの、フリースケーティング後半のジャンプにミスが出て総合4位に終わった[19]。2戦目のロステレコム杯では2位と0.03点の僅差で初のグランプリシリーズ優勝を飾り、シリーズ成績上位6人が出場するグランプリファイナルへの進出が決定した[19][30]。グランプリファイナルでは総合得点で自己ベストを更新したものの、表彰台に1.73点の僅差で届かず4位となった。その後の全日本選手権では3位に入り、自身初の世界選手権代表に選ばれた。
3月にフランス・ニースで行われた世界選手権では、大会前日の公式練習で右足首を捻挫し、そのまま挑んだショートプログラムで7位と出遅れた[31]。フリースケーティングでは中盤のステップで転倒したものの、4回転トウループや2本の3回転アクセルを含むジャンプ8本を全て成功させ、自身初のメダルとなる銅メダルを獲得した。17歳3か月での世界選手権メダル獲得は日本男子史上最年少の記録となった[19]。また、銀メダルの髙橋大輔とのダブル表彰台は日本男子フィギュアスケート界初の快挙であった[32]。
2012年4月、バンクーバーオリンピック女子金メダリストのキム・ヨナを育てたブライアン・オーサーにコーチを変更し、5月からはカナダ・トロントにあるクリケット・クラブでの練習をスタートさせた[33]。オーサーへの師事を決めた理由として、羽生は同じくオーサーの指導を受けてジャンプの精度が向上したハビエル・フェルナンデスを挙げ、「〔自分の武器である4回転ジャンプ〕が安定すればスケーティングや表現力など他の部分もうまくなるチャンスが出てくるだろうと思い、ブライアンに習いたいと思ったんです」と語っている[34]。
2012–13シーズン:全日本選手権初優勝
[編集]2012–13シーズン、ショートプログラムはジェフリー・バトル振付の『パリの散歩道』、フリースケーティングはデヴィッド・ウィルソン振付の『ノートルダム・ド・パリ』でシーズンに臨んだ。フリースケーティングではトウループとサルコウの2本の4回転ジャンプを組み込み、ジャンプ8本中5本を演技後半に入れるという構成に挑戦した[35]。
初戦のフィンランディア杯では、フリースケーティングで4回転トウループと自身初となる4回転サルコウを成功させ、優勝を果たした。グランプリシリーズ1戦目のスケートアメリカでは、ショートプログラムで世界最高得点となる95.07点をマークしたものの、フリースケーティングで崩れ、小塚崇彦に次ぐ2位となった[注 3]。2戦目のNHK杯では再びショートプログラムで世界最高得点の95.32点をマークし、髙橋大輔を破って優勝を果たした。12月にソチで行われたグランプリファイナルでは髙橋大輔に次ぐ初の銀メダルを獲得し[36]、全日本選手権では髙橋を破って初の優勝を果たした。
2月の四大陸選手権ではショートプログラムで首位に立ったものの、フリースケーティングで順位を落とし総合2位となった。大会終了後はインフルエンザにかかり10日間氷に乗れず、練習を再開すると左膝を故障し、さらに7日間氷に乗れなかった。そこから1週間の調整で挑んだ3月の世界選手権では、ショートプログラムで2つのジャンプミスを犯し、首位と22.43点差の9位と出遅れた。さらにフリースケーティングの公式練習中、1年前に痛めた右足首の捻挫が再発してしまい、羽生は痛み止めを飲んで出場することを決意した。フリースケーティングでは片方が回転不足となったものの、2本の4回転ジャンプを着氷させ3位となり、総合4位まで追い上げた。6位の髙橋大輔との順位合計は3枠獲得条件の「13」以下を満たす「10」となり、翌年のソチオリンピックの日本男子代表枠は最大の3枠となった。帰国後の検査の結果、左膝はジャンパー膝、右足首は慢性的な捻挫と診断され、4月に出場を予定していた国別対抗戦は欠場した。2013年4月、早稲田大学に進学した。
2013–14シーズン:ソチオリンピック金メダル
[編集]2013–14シーズン、ショートプログラムは『パリの散歩道』を継続し、フリースケーティングはニーノ・ロータ作曲の『ロミオとジュリエット』を選んだ。シーズン初戦のフィンランディア杯では自己ベストを更新し2連覇を達成[37]。グランプリシリーズ1戦目のスケートカナダでは、当時世界選手権3連覇中のパトリック・チャンに27.23点差で敗れ2位となる[38]。2戦目のエリック・ボンパール杯では295.27点の世界最高得点を記録したパトリック・チャンに31.68点差をつけられ2位となった[39][40]。グランプリファイナルではショートプログラムで99.84点の世界最高得点、フリースケーティングで自己ベストを更新し、総合では世界歴代2位の293.25点でパトリック・チャンを破って初優勝を飾った[39][41]。この優勝は羽生にとってシニアの主要国際大会初のタイトルであった。全日本選手権では2連覇を果たし、自身初となるオリンピック代表に選出された[42]。
ソチオリンピックでは、新設されたフィギュアスケート団体戦のショートプログラムに出場し、97.98点で1位となる[43]。個人戦・男子シングルのショートプログラムでは、史上初の100点超えとなる101.45点をマークし、首位に立った[44]。フリースケーティングでは冒頭の4回転サルコウで転倒し、3回転フリップで着氷が乱れたものの、総合得点では当時のオリンピック記録を上回る280.09点をマークした。その後、羽生と同じく金メダル候補のパトリック・チャンもミスを連発したため、羽生はショートプログラムから逃げきって首位を守り、男子シングルではアジア人初のオリンピック金メダルを獲得した[45][46]。19歳69日での金メダル獲得は1948年サンモリッツオリンピックでのディック・バトンの18歳202日に次ぐ史上2番目の年少記録であり、10代でのオリンピック制覇もバトン以来2人目であった[47][48]。さらに、オリンピック初出場での金メダル獲得はウルリッヒ・サルコウ、イリヤ・クーリックに次いで3人目、また平成生まれのオリンピック金メダルは夏季・冬季含めて日本史上初となった[49]。
ソチオリンピックから1か月後、さいたま市で行われた世界選手権では、ショートプログラムで3位と出遅れるも、フリースケーティングでほぼミスのない演技を見せ、2位の町田樹を0.33点の僅差でかわし、初優勝を果たした[50]。同一シーズン中にグランプリファイナル・オリンピック・世界選手権の全てを制覇するのは、男女シングルではアレクセイ・ヤグディン以来2人目の快挙であった。4月26日、羽生の地元・仙台市で凱旋祝賀パレードが行われ、全国から集まった約9万2000人の観衆から祝福を受けた。6月には13日から14日にかけて凱旋アイスショー公演『Together on Ice 〜明日へつなぐ 氷上の共演〜』を開催し、地元・仙台市に集まった観客の前で演技を披露した。
平昌オリンピックまでの4年間
[編集]2014–15シーズン:グランプリファイナル2連覇
[編集]2014–15シーズン、ショートプログラムはジェフリー・バトル振付・ショパンの『バラード第1番』、フリースケーティングはシェイ=リーン・ボーン振付の『オペラ座の怪人』でシーズンに臨んだ[51]。このシーズンはショートプログラム・フリースケーティングともに後半に4回転トウループを組み込み、フリースケーティングでは3本の4回転に挑む予定だったが、度重なるアクシデントによりこれらの挑戦を見送ることとなった[52]。
初戦に予定していたフィンランディア杯は腰痛のため欠場し、グランプリシリーズの中国杯が初戦となった[53]。しかし、同大会のフリースケーティング直前の6分間練習において、中国の閻涵と衝突する事故が起きた[54]。現場ではアメリカの医師に応急処置を受け、脳震盪は起こしていないという診断のもと、出場を決めた[55]。フリースケーティングでは5度の転倒があったものの、史上初となる3回転アクセル-1回転ループ-3回転サルコウのコンビネーションジャンプを成功させ、総合2位となった。演技後には会場で顎を7針、頭を3針縫い、試合翌日に帰国した[56]。検査の結果、頭部挫創・下顎挫創・腹部挫傷・左大腿挫傷・右足関節捻挫で全治2週間から3週間と診断された[56]。次戦のNHK杯は直前まで出場の可否を検討していたが、最終的には出場し4位となり、グランプリファイナルへ進出した[57]。12月のグランプリファイナルではフリースケーティングで2本の4回転ジャンプを成功させ自己ベストの194.08点を記録し、男子シングル史上3人目、日本男子では初となる2連覇を達成した[58][59]。
全日本選手権では3連覇を果たしたものの、大会後にはグランプリファイナル中から断続的に続いていた腹痛の検査のため、エキシビションを欠場した[60]。精密検査の結果、尿膜管遺残症と診断され、翌日の12月30日に手術を受けた[60]。術後は2週間の入院と1か月の安静が必要とされたが、羽生は3週間弱ほどで氷上練習を再開した[61]。しかし、手術で腹部を切ったことで生じた違和感が原因で右足首を捻挫してしまい、さらに2週間の休養が必要となった[61]。入院中および捻挫後の休養期間中はイメージトレーニングに専念し、その後はトロントにいるブライアン・オーサーコーチにメールでアドバイスを受けながら4週間弱ほど練習を積み、世界選手権に臨んだ[62]。3月に上海で行われた世界選手権では、ショートプログラムでシーズンベストを更新し首位に立った[63]:2。しかし、フリースケーティングでは4回転ジャンプを2本とも失敗し、同門のハビエル・フェルナンデスに逆転され銀メダルとなった[64]。大会後は手術痕に炎症が起きてしまい、再び痛みに耐える日々を送った[65]。4月の世界国別対抗戦では、ショートプログラム・フリースケーティングともに男子で1位となり、日本チームの銅メダル獲得に貢献した[66]。
2015–16シーズン:史上初の300点超えを達成・世界記録を連発
[編集]2015–16シーズン、ショートプログラムは『バラード第1番』を継続し、フリースケーティングは映画『陰陽師』のサウンドトラックを使用し和のテイストを取り入れた『
シリーズ2戦目のNHK杯では、ショートプログラムでミスのない演技を披露し、ソチオリンピックで自身が出した101.45点の世界最高得点を塗り替える106.33点を記録した[73]。フリースケーティングでも後半の4回転トウループ-3回転トウループを含む3本の4回転ジャンプを全て成功させ、史上初の200点超えとなる216.07点を記録、総合得点でも史上初の300点超えとなる322.40点を記録し、優勝を果たした[74][75]。それまでの世界最高得点はパトリック・チャンが記録したフリースケーティング196.75点、総合得点295.27点であった[76]。
さらに2週間後のグランプリファイナルでは、ショートプログラム110.95点、フリースケーティング219.48点、総合得点330.43点と再び世界最高得点を更新し、男子シングルでは史上初となる3連覇を達成した[77]。2位との37.48点の点差は2004年大会のエフゲニー・プルシェンコが記録した35.10点を超え、大会史上最大となった[78]。また、この試合で記録した総合得点は2018年のルール改正まで破られることのない歴史的記録となった[注 6]。
快挙を達成したシーズン前半、羽生はトウループを跳ぶ際の左足の痛みに悩まされていた[81]。全日本選手権では4連覇を達成したものの、その後も左足の痛みは悪化していき、一時は世界選手権の棄権まで考えるほどの状態になった[82]。2月末にトロントに戻って以降は身体のケアをしながらトウループを回避した練習を積み、世界選手権に臨んだ[83]。3月にボストンで行われた世界選手権では、ショートプログラムで世界最高得点に迫る110.56点で首位発進した[84]。しかし、フリースケーティングでは4回転トウループから変更した後半の4回転サルコウで転倒し、ハビエル・フェルナンデスに逆転され2年連続の銀メダルとなった[85]。試合後は左足リスフラン関節靭帯損傷で全治2か月と診断され、治療とリハビリに専念した[86]。
2016–17シーズン:2度目の世界チャンピオンへ
[編集]2016–17シーズン、ショートプログラムはプリンスの『レッツ・ゴー・クレイジー』、フリースケーティングは久石譲の音楽を使用した『Hope & Legacy(ホープ・アンド・レガシー)』でシーズンに臨んだ[87]。このシーズン、羽生は当時まだ誰も成功させていなかった4回転ループを両方のプログラムに組み込み、フリースケーティングではループを含む4本の4回転ジャンプに挑戦することを決めた。
シーズン初戦のオータムクラシックのショートプログラム冒頭、史上初となる4回転ループを成功させた[88]。フリースケーティングでも成功させ優勝したものの、後半のジャンプではミスを連発する演技となった[88]。グランプリシリーズ1戦目のスケートカナダではショートプログラム・フリースケーティングともにミスを連発し、パトリック・チャンに次ぐ2年連続の2位となった[89]。スケートカナダの後はブライアン・オーサーコーチと話し合いの場を設け、「4回転ループだけに集中するのではなく、演技全体をトータルパッケージとしてまとめあげる」という考えを共有した[90]。2戦目のNHK杯では、フリースケーティング後半の4回転サルコウで転倒したものの他のジャンプは成功させ、総合301.47点で優勝を果たした[91]。グランプリファイナルではショートプログラムでシーズンベストの106.53点を記録し首位に立った[92]。フリースケーティングでは後半の4回転サルコウでの転倒などミスが相次ぎ3位となったものの[92]、総合では2位のネイサン・チェンを10点以上離し、男女を通して史上初となるグランプリファイナル4連覇を達成した[93]。帰国後にインフルエンザと咽頭炎を併発し、回復が間に合わず全日本選手権は欠場した[94]。
2月の四大陸選手権では、ショートプログラムで4回転サルコウが2回転になるミスが出て3位発進[95]。フリースケーティングでは演技後半の4回転サルコウ-3回転トウループが2回転-1回転となったが、その後の3回転アクセルの後に3回転トウループをつけ、3連続のコンビネーションジャンプを4回転トウループ-2回転トウループに、最後の3回転ルッツを3回転アクセルに急遽変更し、計4本の4回転ジャンプを成功させた[96]。フリースケーティングは206.67点、総合ではシーズンベストの303.71点を記録したものの、ネイサン・チェンに敗れ自身3度目の銀メダルを獲得した[97]。
3月にヘルシンキで行われた世界選手権では、ショートプログラムで4回転サルコウの着氷が乱れ5位と出遅れた[98]。しかし、フリースケーティングでは4回転ループや後半の4回転サルコウ-3回転トウループを含む4本の4回転を完璧に着氷し、世界最高得点となる223.20点を記録し、総合321.59点で自身2度目の優勝を果たした[99]。2位の宇野昌磨とのワンツーフィニッシュは日本男子初の快挙となった。
4月の世界国別対抗戦ではフリースケーティングで5本の4回転ジャンプに挑戦し、計4本を着氷させ、200.49点で1位となった[100]。フリースケーティング後半での4回転3本成功は史上初の快挙となった[100]。同大会で日本チームは3大会ぶり2度目の優勝を果たした[101]。
2017–18シーズン:オリンピック連覇・国民栄誉賞受賞
[編集]2017–18シーズン、ショートプログラムを『バラード第1番』、フリースケーティングを『
シリーズ2戦目のNHK杯の公式練習中、4回転ルッツで転倒した際に右足首を負傷し、同大会を欠場した[106]。診断名は右足関節外側靭帯損傷で3週間から4週間で回復する見込みだったが、腱と骨の炎症も併発した影響で回復が大幅に遅れ、12月の全日本選手権も欠場した[107]。羽生は2か月間氷に乗れず、氷上練習を再開したのは1月であった[108]。オリンピックが始まる3週間前に3回転アクセルが跳べるようになり、4回転ジャンプが跳べるようになったのはその後であった[108]。
平昌オリンピックでは団体戦に参加せず、個人戦・男子シングルのみ出場した[109]。ショートプログラムでは3つのジャンプを全て成功させ、オータムクラシックで記録した世界最高得点に迫る111.68点を記録し首位に立った[110]。フリースケーティング当日の朝、4回転ループを回避することを決断した[111]。本番では演技後半の4回転トウループと3回転ルッツの着氷が乱れたものの、サルコウ2本・トウループ1本・計3本の4回転ジャンプを成功させた[112]。結果、フリースケーティングでは206.17点、総合では317.85点を記録し、男子シングルでは1952年オスロオリンピックのディック・バトン以来66年ぶりとなるオリンピック連覇を達成した[113]。冬季オリンピックの個人種目での連覇は日本史上初[114]、銀メダルを獲得した宇野昌磨とのワンツーフィニッシュは日本フィギュア史上初の快挙となった[115]。また、羽生が獲得した金メダルは冬季オリンピック通算1000個目の金メダルであった[116]。
帰国後、右足関節外側靱帯損傷・腓骨筋腱損傷で2週間の安静と3か月のリハビリを要するとの診断を受けたため、3月の世界選手権は欠場した[117]。4月13日、自身初プロデュースの凱旋アイスショー公演『
北京オリンピックまでの4年間
[編集]2018–19シーズン:ルール改正後の世界記録更新
[編集]2018–19シーズン、フリースケーティングの演技時間が従来の4分30秒から4分に変更、フリースケーティングのジャンプの回数が8回から7回に変更、出来栄え点が7段階評価(マイナス3からプラス3)から11段階評価(マイナス5からプラス5)に変更されるなど、大幅なルール改正が行われた。これにより、2017–18シーズンまでの記録は歴史的記録として保存され、2018–19シーズン以降の記録は新たに新採点システム下での記録として扱われることとなった[79]。男子シングルの歴史的記録はショートプログラム・フリースケーティング・総合得点ともに羽生が記録した得点である[79]。
羽生はこのシーズン、敬愛するジョニー・ウィアーへのリスペクトを込めたショートプログラム『秋によせて』、幼少期からの憧れであったエフゲニー・プルシェンコのプログラム『ニジンスキーに捧ぐ』と同じ曲を使用したフリースケーティング『Origin』を用意し、「自分のために滑りたい」と原点回帰を新たな目標に挙げた。しかし、初戦のオータムクラシックでミスを連発すると悔しさをあらわにし、再び勝負に拘るようになった。
グランプリシリーズ1戦目のグランプリオブヘルシンキでは、ショートプログラムでルール改正後の世界最高得点となる106.69点を記録し首位に立った[119]。フリースケーティングでは世界初となる4回転トウループ-3回転アクセルのジャンプシークエンスを成功させ、世界最高得点の190.43点、総合でも世界最高得点の297.12点を記録し、自身初となるグランプリシリーズ初戦での優勝を果たした[120]。2戦目のロステレコム杯では、ショートプログラムで再び世界最高得点を更新し、110.53点で首位に立った[121]。しかし、フリースケーティング当日の公式練習中、4回転ループで転倒した際に右足首を負傷してしまう[121]。医師には3週間の安静を指示されたが痛み止めを服用して滑り切り、日本男子最多となるグランプリシリーズ10勝目を挙げた[122]。大会後には右足関節外側靱帯損傷、三角靱帯損傷、右腓骨筋腱部損傷と診断され3週間の安静と1か月のリハビリを要することが判明し[123]、グランプリファイナルと全日本選手権は欠場した[124]。
3月、さいたま市で行われた世界選手権では、ショートプログラムで4回転サルコウが2回転になってしまい、首位のネイサン・チェンと12.53点差の97.87点で3位となった[125]。フリースケーティングでは4回転ループを含む3本の4回転ジャンプを成功させ、世界最高得点を塗り替える206.10点を記録[126]。総合ではルール改正後初の300点超えとなる300.97点を記録した[127]。しかし、その直後に滑ったネイサン・チェンがさらに記録を更新したため、羽生は総合2位で銀メダルを獲得した[127]。羽生は世界選手権までの2か月間痛み止めを服用しながら練習を重ねてきており[128]、世界選手権にも痛み止めを服用して臨んでいた[129]。4月に予定していた世界国別対抗戦は右足首の加療のため欠場した[130]。
2019–20シーズン:スーパースラム達成
[編集]2019–20シーズン、ショートプログラム・フリースケーティングともに前シーズンのプログラムを継続することを決めた。10月、初戦のオータムクラシックで優勝。グランプリシリーズ1戦目のスケートカナダでは、フリースケーティングにて世界初となる4回転トウループ-1回転オイラー-3回転フリップのコンビネーションジャンプを成功させた[131]。この大会ではフリースケーティング212.99点、総合得点322.59点と自己ベストを更新し、2位に59.82点の大差をつけ優勝を果たした[132]。2戦目のNHK杯でも総合で300点を超え、2位に55.03点差をつけ3年ぶり4度目の優勝を飾った[133]。
12月のグランプリファイナルでは、帯同予定だったジスラン・ブリアンコーチがアクシデントにより一度カナダに帰国したため、羽生はコーチ不在の状態でショートプログラムを迎えた[134]。ショートプログラムでは4回転トウループでミスをしてコンビネーションジャンプにできず、首位のネイサン・チェンに12.95点差をつけられ2位となった[134]。フリースケーティングでは4回転ループに加え2年ぶりの挑戦となる4回転ルッツを成功させ、計5本の4回転ジャンプを着氷した。しかし、4回転トウループ-1回転オイラー-3回転フリップでは着氷が乱れ、最後に予定していた3回転アクセル-3回転アクセルのジャンプシークエンスは単独の1回転となってしまった[135]。結果はフリースケーティング194.00点[136]、総合得点291.43点を記録し、4回転ジャンプ5本の構成をミスなく滑ったネイサン・チェンに43.87点差をつけられ2位となった[135]。その後の全日本選手権では、ショートプログラムで110.72点を記録し首位に立ったものの、フリースケーティングではジャンプのミスがあり3位、総合では宇野昌磨に初めて敗れ2位となった。
2月の四大陸選手権を前に、ショートプログラムを『バラード第1番』、フリースケーティングを『
3月の世界選手権は新型コロナウイルス流行の影響で中止となった[137]。練習拠点のトロント・クリケット・クラブも閉鎖となり、さらに空港も閉鎖になる可能性があることから、羽生は日本に戻ることを決断した[137]。
このシーズン、羽生は「うまくなっている」という自分自身の感覚と、伸び悩む点数・評価とのギャップにより自信を失っていた[138]。四大陸選手権でプログラムを戻したのは自信を取り戻すためでもあったという[138]。しかし、四大陸選手権のショートプログラムでも2015年グランプリファイナルの評価を超えることはなかった[139]。羽生は自叙伝『蒼い炎IV -無限編-』にて、シーズンを振り返って次のように語っている[140]。
(前略)『バラード第1番』を以前よりもきれいにうまく滑っても、テクニカルな部分でもっとうまくなっていたとしても、何か「2015年以上の評価は得られないんだな」という諦めみたいなものと……。それによる迷いが吹っ切れて、(中略)自分が表現したいことを表現できるプログラムと、4回転アクセルという、確固たる道ができあがったシーズンだとは思います。
2020–21シーズン:7度目の世界選手権メダル獲得
[編集]2020–21シーズン、コロナ禍で海外への渡航が制限されたため、羽生はコーチ不在の中、1人で地元・仙台で練習を続けた。7月、国際スケート連盟が新設したISUスケーティングアワードで初代・最優秀選手賞を受賞した。8月には、自身が動くことによって人が密集し感染リスクが高まると考え、グランプリシリーズを欠場することを発表した。12月の全日本選手権も出場を迷っていたものの、世界選手権への代表権を得るため出場を決意した。全日本選手権ではショートプログラム・フリースケーティングともに新プログラムを披露し、総合319.36点で圧巻の優勝を飾った。ストックホルムで行われた世界選手権ではショートプログラムで106.98点をマークし首位発進。フリースケーティングでは体調不良の中182.20点をマークし、自身7度目の世界選手権のメダルとなる銅メダルを獲得した。世界国別対抗戦ではショートプログラム・フリースケーティングともに2位となり、日本チームの銅メダル獲得に貢献した。
2021–22シーズン:4回転アクセルへの挑戦
[編集]2021–22シーズン、右足関節靭帯損傷によりグランプリシリーズを欠場した。前シーズンと同様、全日本選手権がシーズン初戦となった。12月の全日本選手権では新ショートプログラム『序奏とロンド・カプリチオーソ』を披露し、111.31点で首位に立った。演技構成点の「音楽の解釈」の項目では自身初となる10点満点を獲得した。フリースケーティングでは冒頭4回転アクセルに初挑戦し、ダウングレード(2分の1回転以上の回転不足)で両足着氷となったものの、他のジャンプは全て成功させ、211.05点をマークした。結果は総合322.36点で自身6度目の全日本選手権優勝を果たし、自身3度目となるオリンピック代表に内定した。
2月に行われた北京オリンピックでは個人戦・男子シングルに出場した。ショートプログラムでは、冒頭の4回転サルコウを踏み切った瞬間にエッジがリンクの穴にはまり、1回転に抜けてしまう。他のジャンプは成功させたものの、95.15点で8位と出遅れた。フリースケーティング前日の公式練習中、4回転アクセルを着氷した瞬間に右足首を捻挫してしまう。フリースケーティングには痛み止めを飲んで出場した。フリースケーティングでは冒頭の4回転アクセルと4回転サルコウで転倒したものの、残りのジャンプは成功させ188.06点で3位、総合283.21点で総合4位まで順位を上げた。今大会で羽生が跳んだ4回転アクセルはアンダーローテーション(4分の1回転以上2分の1回転未満の回転不足)と判定された。当時の国際大会での4回転アクセルの挑戦はダウングレード(2分の1回転以上の回転不足)しか記録されていなかったため、この大会での羽生の挑戦はそれまでの挑戦の中で最も回ったジャンプとなった[注 7]。今大会で負傷した右足首の捻挫が完治していないため、3月の世界選手権は欠場した。
プロスケーターとして
[編集]2022年7月19日、自らが「決意表明」と題して開いた記者会見にて、プロスケーターへの転向を発表した。会見の中で羽生は、プロのアスリートとして4回転アクセルを含めた自分の理想のスケートを追究していくことを誓った。8月7日、自身のYouTubeチャンネル「HANYU YUZURU」を開設し、8月10日には「
単独公演のプロデュース
[編集]2022年11月、アイスショー史上初の単独公演『プロローグ』を開催した。自身が企画・構成を担当し、演出はPerfumeの振付で知られるMIKIKOが担当した。『プロローグ』は2022年11月4日・5日に横浜市のぴあアリーナMMにて、12月2日・3日・5日に八戸市のフラット八戸にて、計5公演が行われた。
2023年2月26日には史上初の東京ドーム公演『Yuzuru Hanyu ICE STORY 2023 “GIFT” at Tokyo Dome』を開催し、3万5000人の前で2時間半の公演を1人で滑り切った。同公演は国内外でライブビューイングが実施され計3万人を動員したほか、動画配信サービスDisney+でも生配信された。
2023年11月から2024年2月にかけて、史上初の単独アイスショーツアーとなる『Yuzuru Hanyu ICE STORY 2nd “RE_PRAY” TOUR』を開催した。
座長公演の開催
[編集]2023年3月、地元・宮城県で東日本大震災をテーマにした『羽生結弦
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 現在のアイスリンク仙台。1988年にオレンジワン泉としてオープンし、1998年に泉DOSCアイスアリーナに改称、2002年にはコナミスポーツに譲渡されコナミスポーツクラブ泉・スケートリンクになった。経営難により2004年12月に閉鎖されたが、2007年3月にアイスリンク仙台として営業を再開した。
- ^ 当初は大きな破損は無かったが、4月に起きた余震の影響で製氷管が潰れるなど大きな被害を受けた[24]。さらに電力供給体制が逼迫するなど問題もあったが、7月24日に営業を再開した[23]:2。
- ^ この大会では小塚崇彦が優勝、町田樹が3位に入り、表彰台を日本選手が独占した。
- ^ 後半の4回転トウループは2回転に抜けてしまい、規定違反で0点となった。さらにコンビネーションジャンプの2本目が2回転トウループになり、同じジャンプを2度跳んではいけないルールに接触したことでコンビネーションジャンプも0点となった[70]。
- ^ 構成を変更した理由として、羽生は「後半の4回転は後々ショートでも4回転を2回入れるための練習だと考えていた」「後半の4回転がノーミスでできたとしても、それは前季に挑戦しようとしたことにすぎないし、さほど成長したとは言えない」と話している[72]。
- ^ 2018–19シーズンに施行されたルール改正の影響で、2017–18シーズンまでの競技記録は歴史的記録として保存されることになった[79]。このルール改正では出来栄え点が7段階評価から11段階評価に変更されたほか、男子のフリースケーティングの演技時間が4分30秒から4分に、フリースケーティングのジャンプの本数が8本から7本に変更された[80]。また、後半に入れた場合に基礎点が1.1倍になっていたジャンプも、基礎点が高くなるのはショートプログラムで1本、フリースケーティングで3本までに制限された[80]。
- ^ ダウングレードと判定された場合、元のジャンプより1回転少ないジャンプの基礎点が使用される。アンダーローテーションと判定された場合、元の基礎点の80パーセントの点数が適用されるため、今大会の羽生の挑戦では4回転アクセルの基礎点が初めて計算に使われた挑戦となった。マスメディアは「4回転アクセルの基礎点が初めて使用された」という事実を「認定」という言葉で報じた。
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