利用者:Dragoniez/sandbox6
Genie | |
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ファイル:Genie immediately after rescue.jpg 齢13歳時に公的機関が救出直後、1970年に撮影され初めて公に公開されたジーニーの画像 | |
生誕 |
1957年(66 - 67歳) アメリカ合衆国 アルカディア (カリフォルニア州) |
補足 | |
ジーニー (英: Genie、1957年 - ) とは、深刻な幼児虐待、ネグレクト、および社会的隔離の被害を受けたアメリカ人少女の通り名である[1]:428[2][3]。ジーニーは、生後20か月の頃から父親に手足を拘束された状態で鍵のかかった部屋に監禁され、食事も満足に与えられなかったため深刻な栄養失調の状態にあった[4][5][6]:1–6。孤立状態が長く続いたことによりことばに触れる機会が与えられず、結果として幼少期に母語を獲得することもできなかった。1970年の11月、ジーニーはロサンゼルス郡児童福祉局に保護されたが、この時すでに13歳と7か月であった[1]:428[4][6]:5–6。
ジーニーの事例は、心理学者と言語学者をはじめとする様々な研究者からの注目を集めた。ジーニーは救出時にほとんど言葉が話せない状態であったため、「母語獲得に必要なプロセスとは何か」および「人間がことばを扱うために欠かせないとされる臨界期 (英: critical period) と呼ばれる期間が本当に存在するのか」などの問い対し、さらなる知見を得るための重要な被験者となった。研究者が観察を行った期間中にジーニーは大きな精神的・心理的成長を見せ、数か月以内に高度な非言語コミュニケーション能力を習得したほか、徐々に基本的な社会的能力も身に付けていったが、同時に社会的に隔離された人間に典型的に見られる行動特徴を多くみせている。ジーニーはこの被験者期間中に言語能力訓練も受け続けたが、母語を獲得することは叶わなかった[6][7][8]。
ジーニーは救出後にロサンゼルス子ども病院に入院し、内科医と精神科医のチームによる数か月間の治療を受けたが、その後の生活環境手配の面で様々な批判議論が起こっている。1971年の7月、ジーニーは病院を離れ、入院先の恩師とともに生活を始めたが、その1か月半後には研究チーム内の一家族に預けられ、そこで約4年の月日を過ごした。ジーニーが18歳になると実母の元に返されたが、実母は数か月後に「十分にジーニーの世話ができない」と表明している。その後ジーニーは障害者施設を転々としたが、その1つ目においてまたしても外界から隔離された環境に置かれ、極度の肉体的・精神的虐待を受けている[4][5][9]:151–155。この結果ジーニーの身辺衛生は大きく阻害され、研究者による保護期間中に習得した言語能力や社会行動能力が急速に退化した[4][5]。
1978年の1月に、実母が突如としてジーニーを対象とする一切の研究観察を禁止し、その後の動向はよく分かっていないが、現在はカルフォルニア州の保護のもと生活をしていると考えられている[4][10][11]。ジーニーの事例は今でも学術的知見およびメディアから大きな関心が向けられており、中でもジーニーと同様に遅発性心理発達と後期母語獲得の観点から研究の対象となった、19世紀のフランスにおけるアヴェロンの野生児と比較されることが多い[5][9][12]。
家族背景
ジーニーは、カリフォルニア州アルカディアに住む両親のもとに4兄弟の末っ子として生まれた、 兄弟内2番目の生存者である 。父親 (F) は第二次世界大戦中には航空機関士として働いており、オクラホマ州農家出身の20歳年下の母親 (M) は、ダストボウルに追われる形で10代の時に南カリフォルニアに移り住んだ[9]:11–14[10][13]。ジーニーの幼少期、Mは事故で頭部に重傷を負い、片目が徐々に視力を失っていく神経障害を患った。Fはアメリカ西岸部の孤児院で育ち、Fの父 (FF) は落雷で亡くなり、母 (FM) は娼館を経営していてFとは不定期に顔をあわせるのみであったほか、FMがFに女性的な名前を付けたことにより、嘲笑の的となった。その結果Fは幼少期にFMに対し極度の恨みを抱き、ジーニーを観察した研究者とジーニーの兄 (下記3B) は、これがFの情緒問題の根幹であったと考えている[13][9]:11–16[14]:305。
Fは成人を期に自身の名前を男性的な名前に変更し、それ以降FMはできる限りの時間をFと過ごすようになった。FはFMに依存するようになり、FMは幾度となくFに自由に生きるよう説得を試みたが、母子関係以外の関係を存外に扱うようになった[13][9]:11–15[6]:2–4。なお、FとMは当初は良好な関係にあると思われていたが、結婚直後からFはMが自宅から出るのを妨害し、頻繁に極度の暴力を振るうようになった[15][9]:11–14。Mの視力は事故で患った神経障害により徐々に衰えていき、身体的にFに頼らなければ生活が難しい状態へと追い込まれていった[6]:3–7[9]:11–14。
Fは子供を「ただうるさいもの」と認識し嫌っていたため自身の子を欲していなかったが、結婚の約5年後にMは妊娠した。Fは妊娠期間中もMに暴力をふるい続け、末期にはMの絞殺を試みたこともあったが、Mは健康な女児 (1D) を出産した。しかしFは1Dの泣き声を不快に思いガレージに閉じ込め、その後肺炎を患い生後10週間で亡くなってしまった[6]:3[10]。そのおよそ1年後に誕生した男児 (2B) は、 溶血性疾患と呼ばれる先天性の免疫不全により、誕生から2日後に死亡している[6]:3–4[9]:13–14。3年後には3人目となる男児 (3B) が生まれ、2Bと同様溶血性疾患を患っていたが、健康体と医者に診断されている。FはMに3Bが静寂を保つよう強要させ、結果として3Bの身体的・言語能力的成長には大きな遅れが見られた。3Bは4歳となった際、成長の遅れを心配したFMに一時引き取られ、数か月間世話を受けると順調に成長し、やがて両親のもとへ返された[10][13][6]:3–4。
若年期
ジーニーは3Bの誕生から約5年後に生まれ、これはちょうどFが自身と家族を外界から隔離し始めていた時期である[16][14]:306。ジーニーは順調な帝王切開で生まれ、体重も平均的であった。誕生の翌日、ジーニーは前兄弟と同じく免疫不全の兆候を見せたため輸血が必要となったが、後遺症はなく、その他は健康であると医師から説明を受けた[6]:4–5[16]。生後3か月の検診では、順調に体重を増やしていたものの先天性の股関節形成不全が見つかり、生後4か月半から11か月の間固定器具の装着を余儀なくされた。これによりジーニーは歩き出すまでの期間が通常より長くなり、Fはジーニーに知的障害があると思い込んだ。結果、Fはジーニーに対して気を払うことも話しかけることもせず、Mと3Bにも同様の対応を取るよう強要した[7][6]:4–5。
ジーニーの幼少期についての記録は少ないが、出生後数か月は順調に成長していたことが分かっている。後のMの話しでは、ジーニーはそっけない子であまりしゃべらず、固形食を口にするのを嫌がったようである[7][6]:4。一方、Mの話しにはブレがあり、ある時は「いくつかの単語を口にした」と言い、ある時は「どんな言葉も発したことがない」と言い、これらのどれが真実なのかはよく分かっていない[7][6]:4–5, 11。
ジーニーは生後11か月の段階では良好な健康状態を保っており、精神上も何も異常が見られなかったが、体重は平均を大きく下回る状態になっており、この頃から栄養失調の傾向にあったと考えられている[6]:4[9]:14–16。 その後、生後14か月の段階において発熱を伴う肺炎を起こし、小児科医の初診を受けた。その際、「先天的な免疫疾患の影響で断言はできないが、ジーニーは知覚障害の可能性があり、脳機能障害の1つである核黄疸を患っているかもしれない」と告げられており、これはFのジーニーに対する偏見に拍車をかけた[6]:4[8][9]:14–17。
6か月後ジーニーが20か月となった時、3Bの世話をしたFMがひき逃げ事故により亡くなった。この事態はFを失意のどん底に追い込み、怒りのあまりFは3Bにその責任をなすり付けた[10][6]:5。ひき逃げ犯は飲酒運転と過失致死で検挙されたがその判決は執行猶予付きに留まり、Fは憤慨とともにあらゆる事象の拡大解釈や根拠のない妄想を膨らませる傾向へ陥っていった。専門家の見解によると、Fはこの一連の出来事を社会からの裏切りと解釈し、外界との接点を断ち切る方向性に動いて行ったほか、責任の所在が自らにある場合もそれを認識することができなくなっていったと考えられている。Fはジーニーが障害児であると思い込んでいたため、ある種外界から娘を守るという目的で、できる限りその存在を隠そうとする傾向にも陥っていった[10][6]:5[9]:12–16。事故後Fはすぐに仕事をやめ、家族とともにFMの家へ引っ越し、ガレージ内の遺品には絶対に手を付けないように要求した。この時から、Fが自身の母子関係以外の関係を蔑ろにする傾向がさらに強まり、家族内の隔たりも深まっていった[13][6]:5[9]:14–15, 208。
子供時代
引っ越し後、家族はリビングで衣食を共にする中、ジーニーはFにより家の奥の寝室に監禁されることが増えていった[9]:16–17[14]:211。日中の約13時間は、FがMに作らせたハーネスでジーニーを幼児用トイレに縛り付けていたほか、このハーネスは拘束衣としても機能するよう設計されており、ジーニーはおむつのみを着せられた状態で指先を動かすことしかできなかった[13][6]:4–5[9]:131–134, 208。夜には寝袋に拘束された状態で金属製の格子のあるベビーベッドに入れられ、腕も足も動かすことができなかった。引っ越し直後は、Fはジーニーが裏庭のベビーサークルにいさせることもあったが、ある時ここから出ようとして壊してしまい、Fを激怒させた。この一件後、Fがジーニーを外に出させないようにするまでに時間は掛からなかった[6]:4–5[9]:185–186[17]。
監禁生活中、Fはジーニーが声を発するか何かしらの音を立てた際、部屋に常備していた大きな板で殴りつけたほか、獣のように歯をむき出しにして唸ることで威嚇し、引っ掻くことができるように爪を長く伸ばしていた[8][6]:5–6。Fが部屋の外にいる際に部屋の中でジーニーが何か気に入らないことをしていると思った時には、ドアの向こうから同じ音を立てて牽制し、行動がやまないと思えば部屋に入り殴打した。これが引き金となり、ジーニーは犬や猫をひどく怖がるようになった。Fが獣の鳴きまねをした明確な理由は分かっていないが、一部の専門家の見解によると、自身を番犬と思い込んでいた可能性があるという[6]:5–6, 25[9]:96–97, 130。Fのこの行動の結果、ジーニーは周りに聞こえるあらゆる音を立てないようになっていったほか、表情を顔に出すこともなくなった。さらに、ジーニーには不適切な場所で自慰行為を行う癖があり、考えられる理由としてはFがジーニーに対して性的虐待も行っていた、または3Bに代わりにやらせたということが可能性として挙げられるが、明確な証拠は得られておらず、なおも真相は分かっていない[6]:5–6, 25[9]:95–98[18]。
Fはジーニーに極力固形食を与えず、食べ物を与えるとしてもベビーフード、シリアル、半熟卵、および飲料のみであった。これらを与える際も、F自身または3Bに強要し素早くジーニーの口内にスプーンで詰め込むようにしていたほか、ジーニーが喉を詰まらせたり飲み込むのが遅かった時には、皿の上の食事に顔をなぶりつけた[10][6]:6–7[14]:215。Fはジーニーの食事中のみMが顔を合わせることを許したが、Mが食事を与えることはできなかった。MはFが1日に3回ジーニーに食事を与えていたと述べているが、ジーニーが極度の空腹に陥った際には殴られることを覚悟して音を立てたこともあったとも述べており、実際は食事をほとんど与えられていなかったと考えられている[7][6]:6–7。救出後の1972年にMから得た情報によると、可能な場合は夜の11時頃にMがジーニーに追加の食べ物を与えていたが、夜の7時頃から11時まで眠った後数分間起き、そこからまた6時間半ほどの眠るという不規則な睡眠パターンが続いた。これは救出後も数か月続き、正常化にはかなりの時間を要した[17]。
Fには音を極端に嫌悪する兆候があり、家の中でテレビやラジオを使うことを拒絶していたほか、(特にジーニーに対して) Mと3Bが声を発することをほとんど許さず、許可なく口を開いた場合は激しく殴打した。よって、家族間の会話はするとしてもごく小さな声で行われ、ジーニーの耳にこれが届くことはなかったため、ことばに触れることができなかった[4][10][6]:5–6。Fがジーニーを監禁した部屋はとてつもなく暗く、物理的な刺激はベビーベッド、椅子、両窓のカーテン、3つの家具、および壁に掛けられた二組の雨合羽から得られるもののみであった。一方、極稀に、プラスチックタッパー、古いボビン、絵が多数切り抜かれた雑誌などでジーニーを遊ばせることはあった[6]:5–6[15][9]:91, 185–186, 209–210。ジーニーが過ごした部屋には真っ黒の窓が2つあり、そのうちの1つはFによりほんの少しだけ開いた状態にされていたが、家自体が通りや他の家から遠い場所に位置しており、ジーニーが見ることができたのは隣家のほんの一部と数インチの空のみであり、耳にする音も環境音や近所の子供が練習するピアノの音のみであった[6]:5–6[9]:185–186[7]。
この間、Fは家族の誰一人として外出することを許さず、息子の登下校のみは許可し、帰宅時はさまざまな手段を用いて家に入る前に身分証明を求めたほか、Fの方針に対して家族を従順にするために、リビングにいる際はショットガンを膝の上に置いていることがしばしばあった。さらに、外部の人間の家への立ち入りはおろか接近も許さず、この目的のために夜間を通して電気が点けられたままであったほか、仮に家に接近するものがいた場合は必ず銃を携えていた[10][14]:211。さらに、近所の人々はジーニーの虐待の事実を認知していなかったほか、根本的に3B以外に子供がいることも把握していなかった[15]。 Fは、自身が日常的に家族に対して行っていた不当な行いおよびそれを隠そうとしたことを、詳細にノートに記録していた[注釈 1][10][15]。
この頃既にMは完全に視力を失っており、Fにされるがままになっていたほか、「親や友人、警察と連絡を取ろうとすれば殺す」とFに暴力を振るわれたうえで脅されていた[7][6]:7[9]:11–12。3Bは何度も外に助けを求めようとしたが、Fが暴力をもってこれを妨害しており、大きくなるにつれてジーニーの虐待をさせることも増えていた[4][10][6]:6[13]。Fは「ジーニーは12歳までに死ぬ」と断言もしており、仮にこの年齢になっても生き延びていればMが外部に救いの手を求めることを許可すると約束していたが、ジーニーが実際に12歳になった時これを反故にした。最終的にはMが外部機関に助けを求めることになるが、約1年半の間これは叶わなかった[14]:211[6]:7。
救出
1970年の10月、ジーニーが13歳と6か月の時FとMは激しい口論になり、MがMの両親に連絡をするのを許可しなければ、家から出ていくとFに対して迫った。最終的にFは折れ、Mはジーニーを連れてカリフォルニア州モントレーパークにある両親の元へ向かい家を出た。3Bは当時18歳だったが、既に家から逃げ友人と共に生活していた[10][15][6]:7。この約3週間後の11月4日、Mは視覚障害者の生活保護申請をするためにジーニーと共にテンプルシティーへ足を運んだが、役所で誤って社会福祉課に立ち入った[4][6]:7。それに気付いた職員が2人に声をかけると、ジーニーを見た瞬間直ちに異変に気付き、外見や振る舞いから6、7歳くらいの自閉症持ちの子どもだろうと推測していたところ、Mに対する問いかけにより判明した実年齢を聞き吃驚仰天し、直ちに警察へ連絡した。結果、FとMは逮捕されジーニーは保護されたが、健康状態が著しく悪く、社会的知識がほぼ皆無であったことから、直ちに裁判所がジーニーをロサンゼルス子ども病院へ搬送するよう通告した[6]:7[19][20]。
病院での受け入れ時、当時の主任精神科医であった南カリフォルニア大学の心理学教授デイビット・リグラー (英: David Rigler)、およびのちの精神科長かつ幼児虐待に関する若手の権威であったハワード・ハンセン (英: Howard Hansen) が、ジーニーの治療を直接担当することになった。入院翌日には、幼児虐待に関して同様に専門知識があった内科医ジェームズ・ケント(英: James Kent) が、ジーニーを最初に診断することが決まった[14]:214[9]:39–41。医師たちが得たジーニーの生い立ちに関する情報のほとんどは、警察がFとMから又聞きしたものであった。警察の情報収集にある程度の結論が出た後も、ジーニーの幼少期に関する情報には多くの不明な点が残っており、専門家によるその後の調査でも、これらは解明されていない[6]:24–25[9]:10, 96–98。
11月17日、ジーニーのニュースがメディアに報道され、アメリカ全域から大きな注目を集めたほか、機関が公開した一枚の肖像写真がさらにこれを加速させた[5][21][9]:7–9, 21, 38。Fは警察やメディアに対して口を開くことを拒否したが、Fがどのような人物なのかを一目見ようと群衆が押し寄せ、Fを困惑させた。その後の11月20日、この日は幼児虐待罪に問われたFが裁判所へ出廷する予定だったが、午前中に銃で自らを撃ち自殺した[15][9]:20–21[21]。Fの遺書が2通警察により発見されており、そのうち1通は3Bにあてたもので、「良い子でいてくれ。愛している。」[注釈 2]と書かれていた。「私を真に理解できるものはいない。」[注釈 3]という一文もあったことが分かっているが、2通のうちどちらにこの記述があったかについては、情報錯誤がある[10][9]:20–21, 133–134[21]。
Fの自殺後、州の機関および病院スタッフはジーニーとMの献身的なケアを行った。数年後の3Bの話しによると、Mはこの頃自身の持ちうる愛情や時間などの全てをジーニーに向けていたとされており、3Bはこれを受けてロサンゼルス地区を離れている[10][13]。Mの罪状については、ジーニーの主治医だったハンセンの依頼で、ハンセンが面識のあった弁護士のジョン・マイナーが代理で法廷に立った。Mはマイナーを通して「Fによる暴力と自身の視力障害により、子どもたちを守ることができなかった」と証言し、Mの容疑は放免となり、その後ロサンゼルス子ども病院でカウンセリングを受けた。この時、ハンセンがMのセラピストの直属上司であった[9]:21, 133–134。
特徴と性格
初診を行ったジェイムズ・ケントの話しによると、ジーニーの事例は過去に例を見ないほど深刻な幼児虐待案件であることが分かり、予後の回復度合いなどについて、非常に悲観的にならざるを得なかったという[9]:39–41。ジーニーは深刻な栄養失調状態にあり極端に顔色が悪かったほか、13歳という年齢にも関わらず身長が137センチ、体重も27キロしかなく、口腔内の異常で歯が通常の2倍ほどあったほか、腹部も大きく膨れ上がっていた[7][6]:9[22]。また、Fがジーニーを拘束するのに使用していたハーネスのせいで、臀部に厚いタコとあざがあり、完治まで数週間を要した[9]:9–10, 45。数回にわたるレントゲン検査も行われ、生後3か月の時点でも判明していた先天性の股関節形成不全が見つかったほか、肋骨の外郭も通常より小さく、骨年齢は11歳ほどと診断されたほか[7]、初期の検査では視覚の異常は観察されなかったが、監禁されていた部屋の間取りに相当する3メートル以上距離が離れた物体に意識を集中させることができないことものちに判明した[6]:9, 12。
ジーニーの粗大運動スキル (英: gross motor skill) は著しく低く、真っ直ぐ立つことも手足を完全に伸ばすこともできず、持久力もほぼない状態であった[6]:9–14[9]:9–10, 40, 45, 63。歩行も非常に不安定であり、バランスを取るような形で両手を前に出して歩く特徴的な「バニーウォーク」は、感覚処理能力に問題があり、視覚情報と触覚情報を同時処理できないことを示唆していた[14]:214[6]:10–14。一方、微細運動スキル (英: fine motor skill) は2歳児レベルであったと推定されているが、これはジーニーの粗大運動スキルと比べると格段に高い数値であった[23]。ジーニーは咀嚼能力に問題があったほか、重度の嚥下障害もあり、柔らかいものであってもあらゆる固体を飲み込むことが全くできず、液体もかろうじて飲み込めるかどうかという状態であった[6]:9, 12[9]:9–10, 45。食事の際に飲み込むことができないものは唾液により柔らかくなるまで口に頬張り、時間が掛かりすぎる場合は一度吐き出し、指ですり潰した[14]:215。また、排泄能力にも問題があり尿失禁および便失禁状態であったほか、温度感覚も有していなかった[6]:25[9]:9–10, 41, 63, 101。
医師たちは当初、ジーニーの精神年齢および認知能力の計算は極めて難しいという見解を示していたが、2度の試行の末、およそ生後13か月程度であることが分かった[6]:9–13, 34–36, 185–186[9]:39–41。ジーニーは新しい生活環境における外部刺激に多大な興味を示したが、概ね人よりも物に興味を示す傾向にあった。特に聞き慣れない音に対して強い関心を示し、その音源を熱心に探す様子が見られたことをケントが報告している[7][9]:41。ジーニーが犬と猫に強い恐怖心を抱いていることは早期の段階で医師たちが観察しており、当初は思考上の問題に起因するものであると考えられていた。実際は、Fの振る舞いが根本的な原因だと分かったのは、数年後のことである[6]:9–10, 20, 25[9]:9–10, 40–41, 48–49, 63, 101。
ジーニーは、入院直後から様々な病院スタッフに興味を示し、面識のない人物に自分から近づいたり傍を歩いたりしていたものの、ケントの話しでは個人を区別しているようには見えず、Mと3Bも含めて誰に対しても愛着を示さなかった[6]:9, 20[9]:42, 132[14]:215。初めのうちは誰かが自身に触れようとすることを拒絶したほか、頼まれてMの膝の上に座っている時も終始緊張状態にあり、できるだけ早くそこを離れようとしたが、このような反応をジーニーが見せてもMがその裏にあるジーニーの感情や行動に気を止める様子はなかった。また、ジーニーは所かまわず唾を吐き、近くにあるものの匂いを嗅いではそれで鼻をかむという行動も見られた[6]:9–13, 268–269[9]:40, 51, 132。ジーニーには個人の所有物という概念がなく、自分が欲しいものを指さし、それが他人のものでも奪い取ってしまうことがしばしばあった。医師たちの話しによると、ジーニーは状況に関係なく衝動的な行動をする傾向にあり、特に他人の目がある状態で自慰行為を始めることも多々あったほか、時より年上の男性をそれに巻き込もうとすることもあった[6]:24–25[14]:215[9]:97–99。
ジーニーは言葉がほとんどしゃべれなかったが、他人のジェスチャーや表情などの非言語情報にわずかながら反応を示し、適度にアイコンタクトを取っていた[6]:9–13[9]:9–10, 39–41。一方、自身が表情を変えたりボディーランゲージを使うことは全くなく、何かが必要になった際は、ことばを用いない非言語的な手段でどうにか伝えていた[6]:9–13, 267–269[14]:214。ジーニーは人の発する言葉とそれ以外の音を聞き分けることはできたが、全くしゃべることをしなかったほか人の声に反応することもなく、反応が得られるのはジェスチャーなどの非言語シグナルを伴う声に対してのみであった[7][6]:9–13。また、ジーニーは動揺すると自傷行為に走り、これを行っている間は完全に無表情であったほか、泣くことも声を出すこともなかった[6]:9–10[9]:9–10, 40, 48–49。はじめのうちは、特段な理由なくこの状態に陥ることがしばしばあり、誰かがジーニーの気を逸らすか、自身が疲れ果てるまでこれは続いた。ケントの話しによると、ジーニーが怒りの理由を示そうとしたことは一度もなかったという[6]:267–269。
入院から2か月ほど経った1971年の1月、言語学者の調査により、ジーニーは自分の名前と面識のある人の名前数人、および15~20語程度を理解できることが分かったが、自身が使える表現は "Stop it" と "No more" のみであった。なお、この時点までにジーニーの語彙能力を測ることはできなかったため、保護前にこれらを覚えたのか、入院生活の中で覚えたのかは分かっていない[7][9]:9–10[6]:9–13。一連の観察後、ジーニーは場面緘黙症を患ってはいないことが分かり、ことばを話すことができないのも生理的・心理的原因によるものではないと結論付けられた[7][24]。現存する医療記録からも精神障害の兆候は観察できないことから、ジーニーが言葉を話すことができないのは、極度の孤立状態に置かれていたことで幼少期にことばに触れる機会を得られず、母語を獲得できなかったためであるという見解が専門家により示されている[7][6]:10–13。
初期診断
ジーニーがロサンゼルス子ども病院へ入院後1か月と経たないうちに、オクラホマ大学精神医学および行動科学の教授であり、社会的孤立の専門家のジェイ・シャーリー (英: Jay Shurley) が本事例に関心を示した。シャーリーは当初より、ジーニーの事例は過去に前例がないレベルの社会的孤立であるという見解を示しており、その後新たな事例を研究した20年後も同様の見解を保持している[17][14]:214[9]:46–47, 198, 210。シャーリーはジーニーの入院から1年半の間に3回病院を訪れ睡眠時の検査を行い、これはジーニーが自閉症持ちであるか、脳になんらかのダメージを負っていないか、および先天的な知的障害を有しているのかを明らかにすることを目的としていた[7][17][9]:42–47。この結果、ジーニーは情緒障害こそ持っているが、新しい刺激に興味を示したり、防衛機制を示さないという点が自閉症患者にみられる特徴とは異なることから、ジーニーは自閉症ではないと結論付けており、これには他の研究者も同意している[注釈 4][7][17]。
同検査において、ジーニーの脳にダメージは見られなかったが、レム睡眠の量が極度に少なく、これが睡眠の不安定さの原因になっていたと思われるほか、睡眠紡錘波が異常に多かった[7][17]。なお、この脳波パターンは知的障害を有する人物に特徴的にみられることもあり、「ジーニーは先天的に知的障害だった」とシャーリーは結論付けている[5][9]:46–49[25]。しかし、この結論については専門家内で意見の相違があり、例としてスーザン・カーティスは「ジーニーが情緒不全を患っていたことに間違いはないが、知的障害だったとは考えられない」と述べている。この主張の中で、ジーニーは救出後は順調に諸能力を回復していった事実を指摘しており、先天性の疾患があればこのような回復は望めないと思われること、および言語能力の回復訓練の中で知的障害を持つ人には見られない傾向も観察されている[5][15][9]:126–127。これを受けカーティスは、ジーニーは出生時は知能も健康体であったが、幼少期の虐待と孤立が知力の成長を阻害したという立場を取っている[5][9]:126–127。
入院生活
ジーニーがケントと対面した際、当初はいかなる反応も示さなかったが、ケントが小さな人形を使ってジーニーに接したのをきっかけとして少しずつ反応が見られるようになり、お気に入りとなった人形遊びをしている際は、(癇癪を起こす場合を除いて)ジーニーが初期の入院生活で唯一感情をあらわにした貴重な時間であった[7][9]:40–49。数日のうちに自分で着替えができるようになり、排泄も自律的に行えるようになった一方、日中の失禁と夜間の睡眠中に見る悪夢はなかなか改善せず、回復までかなりの時間を要した[17][9]:39, 47–48, 151。ケントはジーニーがこの入院生活中に多くの人々と接することになることを悟っていたが、かわるがわる人が出入りする環境の中に「常に身近にいる人物」がいなければ人間関係の構築の仕方を身に付けられないのではないかと懸念し、散歩時や面会時など、常にジーニーの傍にいるよう努めた[5][9]:40–44。
ジーニーはすぐに身体的な成長が見られ体重も増えたほか、歩行時の安定性も増していき、12月までには自身の手の動きに合わせて目を動かす能力も向上し、視線もかなり定められるようになった[7][9]:39, 45–51, 140。「個人の所有物」の概念の理解も急速に深めた一方、少々行き過ぎた面もあり、気に入ったものをため込んだり、ジーニーが集めたものを他人が触ったり動かしたりした際には極端な動揺を示すことがあった[5][9]:47, 49。収集物は多種にわたったが、特にカラフルなプラスチック製品を好み、おもちゃか容器かなどは問わなかった。医師の見解によると、幼少期に身近にあり、監禁中も手にすることができた物である可能性があるとされている。なお、癇癪を起こした際にこの種のプラスチック製品を与えると、治まることもあった[6]:7, 267–269[26]。
ジーニーは、数週間後にはケント以外の他者にも反応を示すようになり、会話にも興味を持つようになったが、当初はほぼ全く表情に現れる反応はなく、問いかけなどに対して本当に「反応」を示しているのかよく分からない状態であった[7][9]:9–10, 42–47[6]:9–15, 267–270。一方、ジェスチャーなどの非言語刺激に対してはすぐに明確な反応を示すようになり、ジーニー自身の非言語コミュニケーション能力も急速に成長した[5][24][9]:92–94。入院から1か月が過ぎたころには日頃から周りにいる人物に対して自分から接するようになっていき、ケントが先頭を切った後、他の病院スタッフとも交流をするようになっていった[14]:225[9]:49–51, 55–60。顔見知りの人物が病室に足を運ぶとジーニーは明確に「嬉しい」という感情を見せ始め、より長い時間一緒にいたいと思ったときには熱心にその場に留まらせようとしたこともあり、何らかの理由でこれが叶わない場合は、「落ち込み」の感情も表現するようになった[6]:268–269。司法がMを不起訴にすると決定した後は、Mも1週間に2回ほどジーニーの元を訪れるようになり、その数か月間に着実に関係を取り戻していった[9]:132–133。
同時期、ジーニーはわざと物を落としたり壊したりすることが増え、自分が遊んでいたものを誰かが同様に落としたり壊したりするのを見ると、それを楽しむようにもなっていた[9]:48–49, 55, 57。ケントによると、ジーニーはこの行動を何度も繰り返しており、なんらかの緊張を和らげるための行動にも見えたことから、幼少時のトラウマを克服するための自己防衛手段だったのではないかと考えられている[6]:267。また、ジーニーにピアノでクラシック音楽を弾いてあげた際には深い関心を示し、これは監禁時に隣家から聞こえるピアノの音を耳にしていたからであると考えられている。なお、録音音声に対して同様の反応は示さず、弾くのクラシック音楽以外だった場合、譜面を自分の好きなものと取り換えることもよくあった[9]:47–49, 55, 57, 60, 103–105, 116[14]:225。
12月までに、ケントと病院の各スタッフがジーニーを被験者とする事例研究の準備を進めていき、デイビッド・リグラーがアメリカ国立精神衛生研究所 (英: National Institute of Mental Health) から初期研究に必要な少額の補助金援助を受け、研究チームを発足させた[9]:39, 51, 140。翌年の1月、ゲゼル発達評価に基づく発達度検査を行ったところ、ジーニーは1歳から3歳児相当の発達度合いであると診断され、深刻な発達の遅れが見られることが明らかであった[7]。その後も心理学者のジャック・ブロックとジンヌ・ブロックにより評定が行われた際には、ジーニーの発達度合いは2歳児から3歳児のレベルを下回る数値であるという評価もあったほか、評定ポイントのいくつかでは実年齢相当の12歳から13歳レベルの項目もあった。なお、この時期のジーニーは会話をしている人間に対し大きな興味を示し、耳にする言語音を真似て自ら口にしようとしていた[24][6]:14–15, 200[27]。
入院中のジーニーはその後さまざまな回復訓練を受け、保護から約半年後の1971年5月までに発達度指数は大幅に向上し、精神年齢が4歳9か月ほどにまで成長した(一方、検査項目のそれぞれの指数にはかなりのばらつきが見られた)[24][6]:12[28]。この期間中に言語能力も順調に伸び、使えるようになった単語からは事物や状況等の分類に才があることが伺えたほか、通常子どもにはなかなか見られない、客観的な思考能力にも長けていた[24][6]:200[27]。また、この頃ロサンゼルスで小さな地震があり、ジーニーは恐怖感とともにキッチンへ逃げ込み、仲の良かった病院の調理師に即座に助けを求めたという出来事があった。これは実に、ジーニーがスムーズに言葉を発した初めての日であった。一方、なおも大勢の人に囲まれた環境には慣れておらず、ジーニーの誕生日会が催された時には、人の多さに耐えきれずリグラーと共に外に行き休息を取る必要があった[14]:225[9]:50, 132–133。
入院生活の後半には身体を使う遊びもするようになり、臆することなくハグもするようになった[9]:51, 56–59, 140, 187。時おり不満や癇癪を起こす傾向はなおもあり、何かお気に入りのものをもらっても長時間拗ねていることがあった[6]:268–270。なかでも医師たちが手を焼いたのが、1971年の4月頃から、他の女児が来ている病院着を自分のものと思い込み、手をあげるようになったことである。これが「所有物」の概念を理解し始めたことが分かった初めての出来事であったかつ、自身ではなく他人に怒りの矛先を向けた初めての出来事であった。ただし、困惑した際に自傷行為に走る傾向を完全に払拭できていたわけではない[6]:269–271[9]:51, 56–59。
脳検査
Beginning in January 1971, scientists conducted a series of neurolinguistic tests on Genie to determine and monitor the course and extent of her mental development, making her the first language-deprived child to undergo any detailed study of her brain.[7][24][29] Not so long before this time, namely in 1967, Eric Lenneberg put forth the critical period hypothesis for language acquisition, according to which there is a crucial time period for a person to acquire language, and further language acquisition becomes much more difficult and effortful once this period ends, arguably at around the onset of puberty.[30][5][31] Based on clinical evidence, Lenneberg attributed this loss of brain plasticity to the completion of lateralization (the localization of language to one hemisphere of the brain), which he assumed to coincide with the end of the critical period, although some subsequent studies argued against this view, showing that lateralization of language is complete long before puberty, purportedly by the age of 6 or before. Nevertheless, the relationship between language lateralization and language acquisition was (and is) an interesting topic to explore, into which the relevant study was hoped to provide some new insights, because Genie had a mature brain but did not possess language.[29] It was thus important to figure out whether Genie manifested lateralization, and if she did, to which hemisphere her language was lateralized; then the scientists undertook investigations into Genie's cerebral organization by utilizing experimental techniques such as dichotic listening, tachistoscopic, and evoked response.[29]
Shurley's sleep-studies that started shortly after Genie's hospitalization initially found sleep patterns typical of a left-hemisphere dominant person, leading scientists to believe that her language would be lateralized to the left hemisphere and that she was right-handed (because this is what is observed in normal right-handers). Over the following years multiple tests supported this conclusion of her handedness, as did observations of her in everyday situations.[17][32][29] Based on their early tests, doctors had suspected her brain was extremely right-hemisphere dominant.[24][32][29]
In early March of that year, neuroscientists Ursula Bellugi and Edward Klima came from the Salk Institute for Biological Studies to administer their own series of brain exams on Genie. Audiometry tests confirmed that she had normal hearing in both ears, but on a series of dichotic listening tests Bellugi and Klima found that she identified language sounds with 100% accuracy in her left one while correctly answering at only a chance level in her right one. Such an extreme level of asymmetry on these tests had previously only been documented in patients with either split-brain or who had undergone a hemispherectomy as an adult.[32][29] When they gave her monaural tests for both language and non-language sounds she answered with 100% accuracy in both ears, which was normal. On non-language dichotic listening tests she showed a slight preference for identifying non-language sounds in her left one, which was typical for a right-handed person and helped rule out the possibility of her brain only being reversed in dominance for language.[7][32][33]
Based on these results, Bellugi and Klima believed that Genie had been developing as a typical right-handed person until the time her father began isolating her. They attributed the imbalance between her hemispheres to the fact that her sensory input as a child was almost exclusively visual and tactile, stimulating functions which are predominantly controlled in the right hemisphere of a right-handed person, and although this input had been extremely minimal it was sufficient to cause their lateralization to the right hemisphere.[7][8] Because she did not have significant linguistic input during her childhood, they concluded her left hemisphere underwent no specialization whatsoever so her language functions never lateralized to it. Since she accurately distinguished speech sounds with her right hemisphere, they thought her language functions had lateralized there instead.[7][34]
1971年の1月から、ジーニーの精神発達の度合い及びその過程を見定めるための神経言語学研究が行われ、これは母語を持たない子供を対象として行われた、初めての脳科学研究であった[7][24][6]:214–218。ロサンゼルス子ども病院での初期措置において、睡眠時の脳波検査がシャーリーにより行われ、この結果ジーニーには左脳優位型の人物に典型的な特徴が観察されたことから、右利きである可能性が高いと考えられていた[24][32][6]:214–218。その後、入院生活におけるジーニーの振る舞い、および数年に渡る科学的研究により、この脳波傾向による聞き手の予測は正しいものであると結論付けられている[17][32][6]:214–218。
同年の3月、ソーク研究所から脳神経科学者のウルスラ・ベルージとエドワード・クリマが病院を訪れ、諸診断とは別途にジーニーの脳検査を行った。聴力関連の検査により、ジーニーは両耳とも正常な聴力を持っていることが確認された一方、両耳分離聴検査により、ジーニーは左耳では100%正確に言語音を識別できることが分かったが、右耳ではほぼ全くこれを識別できないことが分かった。このような極端な非対称性は、分離脳患者または大脳半球切除を受けた患者にのみ見られる症状である[32][6]:214–218。言語音と非言語音を識別できるか否かも片耳ごとにテストされ、これは全く問題なく、両耳とも二種を聞き分けられることが分かった。なお、非言語音の識別検査において、ジーニーはこの種の音を左耳で識別するのを多少好む傾向にあることも分かり、これは典型的な右利きの特徴であったため、脳神経科学的な可能性としてありえた「言語能力を司る部分が右脳と左脳で逆転している」という可能性を排除するのに役立った[7][32][6]:217。
これらの結果から、ベルージとクリマは、Fがジーニーを監禁し孤立状態にするまで、典型的な右利きとして成長していたと考えた。脳半球の機能が不均衡であることについては、幼児期の感覚入力がほぼ視覚と触覚のみであったことにより、
They attributed the imbalance between Genie's hemispheres to the fact that Genie's sensory input as a child was almost exclusively visual and tactile, stimulating functions which are predominantly controlled in the right hemisphere of a right-handed person, and although this input had been extremely minimal it was sufficient to cause their lateralization to the right hemisphere.[7][8] Because Genie did not have significant linguistic input during her childhood, they concluded her left hemisphere underwent no specialization whatsoever so her language functions never lateralized to it. Since Genie accurately distinguished speech sounds with her right hemisphere, they thought her language functions had lateralized there instead.[7][6]:216
事例研究と資金補助
ジーニーの病院への受け入れ態勢が整った時期に、一般的観点および専門的観点の両方から、「ことばは人間という種に固有であり、生得的に備わった能力である」とするノーム・チョムスキーの生得性仮説と、「人間が母語を獲得するには臨界期 (英: critical period) と呼ばれる適切な期間があり、(およそ思春期までと考えられている)この期間を過ぎると脳の機能上ことばを得ることが著しく困難になる」とする、エリック・レネバーグの臨界期仮説に関連する議論が巻き起こった[5][9]:26–38。これらは言語学界隈で多大な注目を集めた仮説であったが、ジーニーの事例が明るみに出るまでは、検証する方法がないという大きなネックがあり、意図的に検証を行う場合は古代や中世の文献の中で「言語剥奪実験」という名で引用されることもある、非人道的な「禁じられた実験」を行わなければならないことが深く関係している[24][9]:3–7[35]。また、発見直後のアヴェロンの野生児に言葉と社会での生き方を教えるために奮闘した、ジャン・イタールの生涯を描いたフランソワ・トリュフォーの映画『野性の少年』も、偶然ではあるがジーニーの救出から一週間後に公開された。この映画は大きな成功を収め、過度の虐待や隔離の被害を受けた子供たちおよび事件に関する世間の関心が高まった[5][9]:52–53[35]。
この偶然にも促され、リグラーはアメリカ国立精神衛生研究所 (英: National Institute of Mental Health; NIMH) から3年間の助成金を得て、1971年5月に研究者チームを招集した。入院先の病院でジーニーの教育係であったジーン・バトラー (英: Jean Butler) の提案により、初めの会合の際に『野性の少年』を参照したことが、ジーニーの事例に対し即座に注目するきっかけとなったと招集された研究者は語っている[5][9]:56–58[36]。研究の方向性について、チーム内から様々な意見が出たため、一貫したプログラムを組むのが非常に困難であったが、リグラーは研究の主目的をチョムスキーおよびレネバーグの仮説を検証することに設定し、UCLAの言語学教授ヴィクトリア・フロムキンをチームリーダーに抜擢した[注釈 5][5][9]:52–61, 121[14]:217。研究チームは、定期的にさまざまな側面からジーニーの心理的発達を測定するという計画も立てた。子ども病院への入院時からジーニーの身元は秘匿状態にあったが、「ジーニー」の通り名が採用されたのは本研究に際してであり、ランプの精霊ジーニーが子供時代を持たないことと、本事例におけるジーニーが幼少期の詳細が不明の状態で突如として社会に現れたことが由来となっている[5][37][14]:214。
初期研究
NIMHが助成金申請を受理した直後に、当時ヴィクトリア・フランキン指導下の大学院生であったスーザン・カーティスが本事例の研究を始め、ジーニーの入院中はほぼ毎日病院へ足を運んだ[6]:19[9]:23, 38, 86[38]。カーティスは即座にジーニーに並々ならぬ非言語コミュニケーション能力があることを認識し、ジーニーが何を欲しているのか周りが容易に認識可能であったこと、および欲しいものを手にすると非常に喜ぶ傾向にあったことから、全く初対面の人物が物を買い与えることも頻繁にあったと綴っている[5][9]:92–94。足しげく病院を訪ねる中、カーティスはジーニーには相応の言語能力があるものの、当初の状態は実験可能なレベルに達していないと結論付け、数か月の間はジーニーと触れ合うことにより信頼関係を築くことを優先することを決め、2人はすぐに互いに打ち解けていった[6]:15, 24–28, 93–110[9]:38–39, 86, 90。
カーティスが研究を開始したのと同時期に、医師たちはライター尺度とスタンフォード・ビネー知能尺度に基づきジーニーの知能検査を再度行った結果、5歳から8歳程度の推定精神年齢が産出され、振れ幅が非常に大きかった[7]。この結果は当時のジーニーの実年齢を下回る数値であった一方、ジーニーには突出したゲシュタルト認知能力があったことも報告されており、例として、物の束から特定の個数を取り出す、またはその束全体が何個の物から成っているかを尋ねられた際、7個までであれば、周りの人々が数える暇もなく即座に正しい個数を回答することができた[6]:222。助成金会議に参加していた児童心理学者のデイビッド・エルキンドも1971年の5月にジーニーの診断を行った結果、ピアジェの認知発達理論における具体的操作期 (英: concrete operational stage) 相当であることが分かり、モノの永続性[注釈 6]を理解していたほか、延滞模倣[注釈 7]も可能であった[6]:15[9]:89–94, 101。身体面では、肉体健康度が上昇しこの頃までに持久力が飛躍的に向上していた[6]:14, 23。一方、ジーニーの社会的振る舞いにはなおもかなり特異な点がみられ、特に医師たちは同年代の子供たちと全く接しようとしない点を危惧していたが、数か月で劇的な回復を見せていたことから予後自体への大きな懸念は見られなかった[41][24]。
第一の里親
1971年の6月、バトラーはジーニーを外出させる許可を得て、ロサンゼルス近郊カントリークラブパークにある彼女の実家へ一時帰宅した。この月の終わりごろ、バトラーは自身が風疹に掛かった可能性があると病院へ報告した。これが事実であれば、バトラーとともに行動していたジーニーも同じ感染症に晒されている可能性があることになるが、病院スタッフはこの報告がバトラーがジーニーの保護者となり、身辺に居続けるための嘘なのではないかと強く疑った。病院側は当初バトラーをジーニーの里親にすることに否定的であったが、ジーニーを隔離病棟に移した場合社会的・身体的な成長を大きく阻害してしまう懸念があったことから、最終的にはバトラーの自宅でジーニーの病理的隔離を行うことに同意した[5][14]:222[42]。バトラーは未婚で子供もなく、当時は一人暮らしであったが、その後ジーニーの里親となることを申請し、病院側はこれに反対したが、申請を検討する期間中ジーニーはバトラーの家に滞在した[6]:25[9]:50, 95–96, 98–99[14]:222。
バトラーの観察
バトラーの家へ移ってすぐの頃に、ジーニーは思春期の兆候を見せ始め、身体的健康度全般に大きな向上が見られたほか、レネバーグの提唱する言語獲得の臨界期を過ぎたことが明確となった[24][9]:97–98。バトラーはジーニーの物を溜め込む癖の観察と記録を続け、特に液体容器を何十個も自身の部屋に収集していたことについて綴っている[5]。バトラーの家に滞在している期間中もジーニーがなぜ犬や猫に極度の恐怖心を抱いているのかは分からなかったが、バトラーは交際していた男性 (南カルフォルニア大学心理学教授) と共に、ジーニーに名犬ラッシーのテレビドラマを見せたり、電池式の犬のおもちゃを与えたりすることで克服させようと奮闘した。やがてジーニーは柵越しであれば犬と接することができるようになったが、猫に対する恐怖心は改善されなかった[5][9]:100–101。
バトラーの自著の中では、ジーニーが怒りの感情で興奮した際に自傷するをやめさせ、代わりに言葉を用いるまたは物を叩くことにより怒りを表現する方法を教えたと語っているほか、同居後すぐにジーニーは以前よりもよく話すようになり、言語能力にも大きな進展が見られたとされている[9]:100–103。8月上旬にジェイ・シャーリーへ送られた手紙では、交際中であった男性もジーニーの言語能力の向上を感じ自身で言及していたと綴られている。ジーニーの便失禁も徐々に改善し、バトラーの家での滞在が終わる頃までにはほぼ完治していた[9]:100–101, 151。
親権論争
ジーニーの入院後もMはジーニーの元に顔を出し続け、バトラーの元へ転居した頃には白内障の矯正手術を受けたことにより視力が大幅に回復した。一方のバトラーは、母替わりとなる人物だけでなく父替わりとなる人物がいたほうが里親申請に有利になると考え、交際中であった男性も自身とジーニーのもとに同居させた[9]:96–97, 101, 104–106, 136–137, 211。バトラー宅での生活中も研究者チームの訪問は続いたが、ジーニーを「酷使」しているとしてバトラーは次第に不快感を表すようになり、蔑みを込めて「ジーニー・チーム」という呼称を用い始め、これが定着していった[5][14]:222[9]:96–99。バトラーは特にジェームズ・ケントとスーザン・カーティスを嫌っていたのか、しばらく経つと2人の訪問を拒むようになり、リグラーとも意見を違えることがあったが、「不毛な白熱や個人的な言い争いに陥ったことはない」と後にリグラー自身が述べている[14]:222[9]:96–100。
研究者チームはバトラーの行いは善意であると捉えていた一方、非協力的な姿勢は批判しており、これはジーニーのケアおよび事例研究に悪影響を与えるものであると考えていたほか、「ジーニーに無理をさせすぎている」というバトラーの主張についても、「自由に休憩ができるのに加え、ジーニー自身も我々の実験研究を楽しんでいる」とし強く反論した[43][9]:187–188, 193, 199。なお、バトラーは「好戦的」であることが同僚や上司の間で広く知られており、個人的な問題を抱えているものと研究者チーム側は考えていた[9]:96–103。カーティスやハワード・ハンセンの話しによると、バトラーは「私はジーニーに有名にしてもらう」および「次世代のアン・サリヴァンになる」とも公言していたようである[5][9]:96–97。
その後8月中旬、カルフォルニア州はバトラーの里親申請を却下した[5][9]:96–106。病院側がこの決定に関与したかは分かっていないが、リグラーは病院およびそのスタッフによる一切の関与を否定している[43][9]:105–106。一方、アメリカのドキュメンタリー番組『ノヴァ』では、里親申請の却下は病院側の助言が絡んでおり、ハンセンを含む多くの病院関係者がバトラーはジーニーの世話役としての能力が不十分であると考えていたこと、および病院スタッフが患者の里親になることが病院の方針上禁じられていたという証拠があると報じられている[5][9]:99, 104–106。バトラー自身は、病院側がこの決定に関与しておりより研究が進めやすい場所へジーニーを移そうとしていると考えていたほか、ジーニーにこのことを伝えた際には"No, no, no."と激しく動揺していたと書き綴っている[9]:99, 104–106。
第二の里親
1971年の8月上旬、ハンセンは「バトラーの里親申請が却下された場合は(デイビッド)リグラーがジーニーの世話をするのはどうか」と本人に提案し、デイビッドは初めこそ乗り気でなかったものの、妻であるマリリンにこの話しについて相談した。マリリンは大学院でソーシャルワークを専攻し人間開発の学位を持っていたほか、保育園やヘッドスタートでの実務経験のある人物であった。リグラー夫妻には思春期の子供が3人がいたため、自分たちの方がバトラーよりも里親に適していると考えたようだ、とジェイ・シャーリーが後に語っている[43][9]:107–108, 208–213。デイビッドは研究チームを主導した人物であったこともあり自身らにとってもジーニーにとってもこの提案を受けることは良い選択肢であると考え、夫妻は最終的に、正式な里親が見つかるまでの間はジーニーの世話をする意志を示した。これを受け病院側も、より適切と思われる里親が見つからない場合は、リグラー夫妻を暫定的な里親に任命することに同意した[5][43][9]:107–108。
バトラーの里親申請の却下に伴いジーニーが病院に戻った同日、リグラー夫妻はロサンゼルス市ロスフェイリスにある自宅へジーニーをそのまま招き入れた。当初夫妻は、最長でも3か月程度の同居生活を考えていたが、ジーニーは最終的に4年あまりを夫妻の元で過ごした[5][9]:107–108[14]:226。引き取り後はマリリンがジーニーの先生役を務め、デイビッドもジェーズム・ケントからセラピストの立ち位置を引き継ぎ、研究チームの直ちに経過観察や評価実験を再開した[5][6]:25[9]:112, 116–117, 133–134[14]:326。この同居期間中はリグラー夫妻がジーニーの保護者を務めたものの、法的には転居の翌年の1972年に、Mの弁護を務めたジョン・マイナーが(無報酬の)法廷後見人として指名されている[9]:133–134。
母子関係
リグラー家での生活中もMは週に一度公園やレストランでジーニーと顔を合わせ、二人の関係性はより強固なものとなっていった[43][9]:135–139。夫妻がMに対し反感を持つことはなかったが、丁寧に接しようとするあまり、逆によそよそしさが出てしまったことがあったという。(数年後にマリリンは、実の母親の前でジーニーの母親として振る舞うことには抵抗があったとも語っている。)Mと研究者たちの関係も良好とは言い難く、中にはMが幼少期のジーニーを十分にケアできていなかったことを理由に明確に嫌っていた者もいたが、ジェイ・シャーリーのみはMとも良好な関係を築いており、自身でも「自分以外の研究者はMを対等な存在として扱っていなかった」と不満の意を口にしている[9]:43, 131, 135–140。ただし科学者たちが一方的にMを嫌っていたという訳でもなく、M自身も科学者たちには冷たい態度を取っており、これについて彼らは「我々がジーニーのために大したことをしてあげられないことを、過去の自分と重ねているのだろう」と考えていた。これについてはデイビッドも同様の考えを持っており、Mは「現状のジーニーの状態の引き金となったのは私が理由ではない」と思いたかったのだろう、と後に語っている[9]:138–140。ジーニーの生涯について博士論文を執筆したスーザン・カーティスも、Mがジーニーの幼少期の話しをする際には一貫性がなかったことを指摘しており、真実を告げることで非難や排斥を受けるのを恐れるあまり、聞こえの良い部分ををいわば虚構的に話していたのだろうと綴っている[6]:45。
カルフォルニア州当局がジーニーを転居させてからしばらくするとバトラーは結婚し、姓がルック (英: Ruch) に変わったが、その後もMとの交流があった。Mの話しによると、2人の会話は思い返してみれば他愛もないものが多かったものの、関係性自体は非常に良好だったという[9]:139–140。ジーニーがリグラー家に滞在している間も、研究チームは害のある実験を行い、Mをジーニーから遠ざけ、助成金を悪用していると執拗に責め立てたが、研究者側は一貫してこの捉え方に強い異議を唱えている[9]:138–142。これに伴いMはよりルックの話しに耳を傾けるようになり、研究チームがMを軽視していると感じるまでにも至った[43][9]:107, 138–142。
研究チームの知見
行動
明確な原因は不明だが、転居後すぐにジーニーの失禁症状が再発し、初めの数週は酷い状態であったが、その後は少々落ち着き、軽い症状が数か月続いた[6]:36, 42[9]:112–117。精神面ではラックの手記にあった内容に反し、ジーニーが依然として癇癪の矛先を自身に向ける傾向にあることにリグラー夫妻が気付き、特に容器に入った液体をこぼしてしまうなどの特定の状況で感情をコントロールすることができなかった。これについて医師たちは、子ども時代の虐待が根本的な原因であると推察している。また、夫妻の飼っていた犬にも極度の恐怖を示し、初めて顔を合わせた際にはすぐに逃げ、隠れてしまったという。研究チームは当時のジーニーの発話の録音も行ったが、ルックの証言に沿わず非常にたどたどしかったほか、ジーニーは自主的にしゃべることもほとんどなく、初めの3か月ほどは言葉を口にするとしてもほぼ一語発話のみであった[6]:36, 42[9]:112–117。恐怖などが喫緊に差し迫った状況を除けば、ジーニーの発話と行動には原因不明の大きな時差があり、しばしば数分間に渡るラグがあったほか、温度に対する反応もなかった。自身の感情のコントロールがなおも難しく、反社会的かつ破壊的な行動に陥ってしまうことも頻繁にあった[5][6]:23–27, 33–36[9]:112–117。
ジーニーを受け入れるにあたり、マリリンは運動によるストレスの解消方法を教えたほか[5][9]:117–118、ジーニーは外見を褒められることを喜ぶ傾向にあったため、ネイルをさせて「自分を引っ掻くと外見を損なう」とも伝え、制御が困難な精神状態に陥った場合は、ことばを使って落ち着かせた[6]:40[9]:117–118。その結果、癇癪や自傷行為を完全にやめさせるのは困難であったものの、ジーニーは徐々に自身のストレスを口頭で示せるようになり、感情をコントロールする能力も向上していった。時には自身の怒りの度合いを示すこともできるようになり、指を激しく振るか、手をゆっくりと振るかでこれを区別した[5][6]:230–233[9]:113, 117–119, 151。
当時もまだ犬と猫に対する恐怖心は拭えていなかったが、夫妻が子犬を使い慣れさせようとしたところ、見知らぬ犬や猫はなおも酷く怖がる傾向にあったが、およそ2週間後にはこの子犬への恐怖心は完全に克服した。マリリンはジーニーの嚥下障害の改善にも尽力し、およそ4か月後には症状がかなり緩和された。一方、ジーニーは物を噛むことに労力を割くのを嫌っていたため、硬い物よりも柔らかい物をなおも好んだ。他にも、ジーニーが自身の身体の感覚をより敏感に知覚できるよう手助けをし、1973年の後半には温度に対して反応を示したとカーティスが記録している[5][6]:25, 28, 40[9]:113, 117–119。カーティスとリグラー夫妻から見ると、ジーニーは自身ができる最低限のことをこなしたのみであったものの、同家の滞在中に彼女の肉体的健康状態には飛躍的な向上が見られた[15][44][45]。
当初のジーニーは他人に対して無関心で、話しかけられてもその存在を認めずそのまま立ち去ってしまうことも少なくなかった[6]:23–27, 33–36[9]:112–117。この状態を改善させるため、カーティスはジーニーに童話の読み聞かせをしたところ、初めのうちは意に介さない状態であったが、1971年10月中旬のある日、初めてジーニーは明らかな反応を示した。この頃から、直接話しかけられた際や自分の話しを周りがしている際、きちんとそちらに意識を向けるようになり、より社会的な振る舞いを見せるようになった[24][6]:27–28, 33, 232–233[9]:112–116。一方、音などの外的刺激に対するジーニーの反応力には向上が見られたが、他者による問いかけ等への返答には数分を要することがなおもあった[6]:27–28, 232–233[9]:112–115。
リグラー夫妻との同居開始から数か月後、ジーニーの社会的振る舞いに改善が見られるにつれ、一定期間の保育園への通園を経て、知覚障害児用の特別支援学校へも通い始めた[7][46]。夫妻はさらに、ジーニーの自立的生活力の向上を目的として、アイロンの掛け方、ミシンの使い方、簡単な食事の作り方なども教えた[6]:30[47][46]。このような尽力もあり、公の場とプライベートの場の両方においてジーニーは自身の振る舞いをコントロールできるようになっていき、その中でも公の場で自慰行為を行うのをやめさせるのは困難を極めたが、同家での滞在期間が終了する頃にはこれもほぼ完全に改善されていた[6]:24–25。1973年の2月には、ジーニーが初めてカーティスに自分の物をシェアしたという記録が残っており、この頃も他人のものを取ってしまう行動は散見されたが、これに対し他者が視線を向けるとジーニーは自省的な反応を示したことから、以前までとは異なりそれが許容されない行為であることをジーニー自身が理解していたと考えられている[6]:35–44, 230–233[9]:122–126, 149。
リグラー家に滞在中の期間ジーニーと関わることがあった人物は、皆口を揃えて「ジーニーには大幅な機嫌の向上がみられ、自身の生涯を楽しんでいるように見受けられる」と述べている[5][43][9]:117–118, 151–156。1975年6月頃には、デイビッド・リグラーが「ジーニーは科学者たちが観察を行っているあらゆる分野で飛躍的な進歩を継続的に見せ続けている」と綴っていたほか、同時期にとられたカーティスの記録では、「ジーニーの社会的行動能力の発達は問題ないだろう」という旨の記述も残っている[38][6]:230–233[9]:122–126。このようにジーニーの社会的振る舞いは劇的な改善を見せていた一方、健常者の目には異常に映るものが1975年の中盤に至っても多かったほか、ジーニーの行動には社交性に問題のある者に典型的に観察される振る舞いも多かった[6]:27–28, 35–44, 230–233[9]:115–117。
言語
Curtiss began thorough, active testing of Genie's language in October 1971, when she and Fromkin decided that her linguistic abilities were sufficient to yield usable results. Linguists designed their tests to measure both Genie's vocabulary and her acquisition of various aspects of grammar, including syntax, phonology, and morphology. They also continued to observe her in everyday conversations to gauge what pragmatics of language she acquired. The research team considered her language acquisition to be a substantial part of their larger goal of helping her to integrate herself into society, so although they wanted to observe what vocabulary and grammar Genie could learn on her own, out of a sense of obligation they sometimes stepped in to assist her.[7][24][48]
Throughout linguists' testing, the size of Genie's vocabulary and the speed with which she expanded it continued to outstrip all anticipations. By mid-1975 she could accurately name most objects she encountered, and clearly knew more words than she regularly used.[8][6]:182, 185–186[48] By contrast, Genie had far more difficulty with learning and using basic grammar. She clearly mastered certain principles of grammar, and her receptive comprehension consistently remained significantly ahead of her production, but the rate of her grammar acquisition was far slower than normal and resulted in an unusually large disparity between her vocabulary and grammar.[24][49][50] In everyday conversations Genie typically spoke only in short utterances and inconsistently used what grammar she knew, although her use of grammar remained significantly better in imitation, and her conversational competence markedly improved during her stay but remained very low, which the scientists found unsurprising and suggested was evidence that the ability to engage in conversation was a separate skill from knowing language.[24][6]:30, 162, 231–234
In many cases, the scientists used Genie's language development to help them gauge her overall psychological state. For instance, Genie consistently confused the pronouns you and me, often saying, "Mama love you" while pointing to herself, which Curtiss attributed to a manifestation of Genie's inability to distinguish who she was from who someone else was.[24][6]:121–122[51] The scientists especially noted that she often understood conceptual information even if she lacked the grammar to express it, which they wrote demonstrated that she had greater cognitive abilities than most children in congruous phases of language acquisition.[52] In some instances, learning a new aspect of language played a direct role in furthering her development. At the time Genie learned to say "May I have [example]" as a ritual phrase she was also learning how to use money, and Curtiss wrote that this phrase gave Genie the ability to ask for payment and fueled her desire to make money, causing her to take a more active role in performing activities which would lead to a reward.[6]:30[9]:127–130
At the start of testing Genie's voice was still extremely high-pitched and soft, which linguists believed accounted for some of her abnormal expressive language, and the scientists worked very hard to improve it.[6]:52, 62, 83–87[53] Her voice gradually became moderately lower and louder, although it remained unusually high and soft, and she began to better articulate words. Despite this she consistently deleted or substituted sounds, making her extremely difficult to understand. The scientists believed Genie was often unaware of her pronunciation, but on other occasions she produced haplologies which were clearly intentional and would only speak more clearly if firmly, explicitly requested to; Curtiss attributed the latter to Genie trying to say as little as possible and still be understood.[6]:29, 67, 180, 230–234[24] Eventually Curtiss and Marilyn convinced Genie to stop attempting her most extreme haplologies, but she continued to delete sounds when possible, causing linguists following the case to refer to Genie as "the Great Abbreviator".[6]:29, 52, 62, 83–87[9]:115–116[53]
Papers contemporaneous with the case study indicated that Genie was learning new vocabulary and grammar throughout her entire stay with the Riglers, and were optimistic about her potential to varying degrees.[7][24] Nonetheless, even by mid-1975, there were still many pieces of language that she had not acquired. Furthermore, although she could understand and produce longer utterances, she still primarily spoke in short phrases such as "Ball belong hospital".[38][54][6]:230–233 Despite the clear increase in Genie's conversational competence, the scientists wrote that it remained very low compared to normal people. Curtiss and Fromkin ultimately concluded that because Genie had not learned a first language before the critical period had ended, she was unable to fully acquire a language.[6]:208–209, 230–234[54]
回顧
Sometime during early to mid-1972, the Riglers overheard Genie saying, "Father hit big stick. Father is angry." to herself, demonstrating that she could talk about her life from before she had started to learn language.[49][14]:223[9]:124–125, 127–130 During the rest of her stay with the Riglers she would constantly repeat, "Father hit" to herself, and before the Riglers worked with Genie to understand the concept of death she often asked them where her father was, afraid that he would come to get her.[5][9]:124–125, 127–130 Although she did not speak to others about her childhood, she often gave researchers valuable new information when she did, and the scientists tried to get Genie to tell them as much as possible.[24][49][6]:186 As she learned more language, she gradually began to speak about her father and his treatment of her in greater detail.[5][9]:127–130
Father hit arm. Big wood. Genie cry ... Not spit. Father. Hit face—spit. Father hit big stick. Father is angry. Father hit Genie big stick. Father take piece wood hit. Cry. Father make me cry. Father is dead.[14]:223
非言語的コミュニケーション
In contrast to her linguistic abilities, Genie's nonverbal communication continued to excel. She invented her own system of gestures and pantomimed certain words as she said them, and also acted out events which she could not express in language.[24][6]:34, 37–38, 61[9]:117, 124–125 Initially she would only draw pictures if someone asked her to, but during her stay with the Riglers she began to use drawings to communicate if she could not explain something in words.[49][6]:vi, 37–38, 267, 272[55] In addition to her own drawings she often used pictures from magazines to relate to daily experiences, and for reasons the scientists never determined especially did so after encountering things that frightened her.[9]:124, 128 Sometime during mid-1972, Marilyn observed that a magazine picture of a wolf sent Genie into a terror, after which the Riglers asked Genie's mother if she knew a possible cause for this reaction; she then informed them that her husband had acted like a dog to intimidate Genie, making the underlying reason for her fear apparent to the scientists for the first time.[6]:25[9]:128, 130
Throughout Genie's stay the scientists saw how frequently and effectively she used her nonverbal skills, and never determined what she did to elicit such strong reactions from other people.[9]:92–94, 117, 125 David Rigler vividly remembered an occasion when he and Genie passed a father and a young boy carrying a toy firetruck without speaking to each other and said the boy suddenly turned around and gave the firetruck to Genie. Curtiss also recalled one time when, while she and Genie were walking and had stopped at a busy intersection, she unexpectedly heard a purse emptying; she turned to see a woman stop at the intersection and exit her car to give Genie a plastic purse, even though Genie had not said anything.[5][9]:92–94, 117, 125 To take full advantage of her nonverbal communication abilities, in 1974 the Riglers arranged for her to learn a form of sign language.[5][6]:37–38, 51, 171[9]:117, 125, 128–130
Continued brain exams
Language tests
Starting in the fall of 1971, under the direction of Curtiss, Victoria Fromkin, and Stephen Krashen—who was then also one of Fromkin's graduate students—linguists administered regular dichotic listening tests to Genie until 1973. Their results consistently corroborated the initial findings of Ursula Bellugi and Edward Klima.[32][49][56] Researchers therefore concluded that Genie was acquiring language in the right hemisphere of her brain, and definitively ruled out the possibility that Genie's language lateralization was only reversed.[24][32][57] Since Genie had no noted physiological problems with her left hemisphere, they believed abnormal neurological activity in her left hemisphere—which they speculated came from her atrophied language center—blocked all language reception in her right ear but did not obstruct non-language sounds.[8][58][6]:217–218
Linguists also administered several brain exams specifically intended to measure Genie's language comprehension. On one such test, she had no difficulty giving the correct meaning of sentences containing familiar homophones, demonstrating that her receptive comprehension was significantly better than her expressive language. Genie also did very well at identifying rhymes, both tasks that adult split-brain and left hemispherectomy patients had previously been recorded performing well on.[8][59][6]:56, 212, 220–221 During these tests an EEG consistently picked up more activity from the two electrodes over the right hemisphere of her brain than from those over the normal locations of the Broca's area and Wernicke's area in the left hemisphere of a right-handed person, and found especially high involvement from her right anterior cerebral cortex, lending further support to the researchers' conclusion that Genie was using her right hemisphere to acquire language.[8][6]:218–221[60]
Additional tests
Curtiss, Fromkin, and Krashen continued to measure Genie's mental age through a variety of measures, and she consistently showed an extremely high degree of scatter. She measured significantly higher on tests which did not require language, such as the Leiter Scale, than on tests with any kind of language component, such as the verbal section of the Wechsler Intelligence Scale for Children and the Peabody Picture Vocabulary Test.[61] In addition, throughout Genie's stay with the Riglers, they tested a variety of her brain functions and her performance on different tasks. For these they primarily used tachistoscopic tests, and during 1974 and 1975 they also gave her a series of evoked response tests.[32][6]:220[60]
As early as 1972, Genie scored between the level of an 8-year-old and an adult on all right-hemisphere tasks the scientists tested her on, and showed extraordinarily rapid improvement on them. Her ability to piece together objects solely from tactile information was exceptionally good, and on spatial awareness tests her scores were reportedly the highest ever recorded.[32][6]:214, 220–228[58] Similarly, on a Mooney Face Test in May 1975 she had the highest score in medical literature at that time, and on a separate gestalt perception test her extrapolated score was in the 95th percentile for adults.[注釈 8][6]:222–224[62] On several other tests involving right-hemisphere tasks, her results were markedly better than other people in equivalent phases of mental development; in 1977 the scientists measured her capacity for stereognosis at approximately the level of a typical 10-year-old, significantly higher than her estimated mental age.[7][54] The scientists also noted in 1974 that Genie seemed to be able to recognize the location she was in and was good at getting from one place to another, an ability which primarily involves the right hemisphere.[7]
Genie's performance on these tests led the scientists to believe that her brain had lateralized and that her right hemisphere had undergone specialization. Because Genie's performance was so high on such a wide variety of tasks predominantly utilizing the right hemisphere of her brain, they concluded her exceptional abilities extended to typical right-hemisphere functions in general and were not specific to any individual task.[8] They attributed her extreme right hemisphere dominance to the fact that what very little cognitive stimulation she had received was almost entirely visual and tactile. While even this had been extremely minimal it had been enough to commence lateralization in her right hemisphere, and the severe imbalance in stimulation caused her right hemisphere to become extraordinarily developed.[8][6]:220–224[62]
By contrast, Genie performed significantly below average and showed much slower progress on all tests measuring predominantly left-hemisphere tasks. Stephen Krashen wrote that by 2 years after the first examinations on her mental age Genie's scores on left-hemisphere tasks consistently fell into the 21⁄2- to 3-year-old range, only showing an improvement of 11⁄2 years.[32] On sequential order tests she consistently scored well below average for someone with a fully intact brain, although she did somewhat better on visual than on auditory tests.[49][6]:214, 227–228 The scientists especially noted that she did not start to count until late 1972, and then only in an extremely deliberate and laborious manner.[24][60] In January 1972 the scientists measured her in the 50th percentile for an 81⁄2- to 9-year-old on Raven's Progressive Matrices, although they noted she was outside of the age range of the test's design.[注釈 9][6]:230 Similarly, when the scientists administered Knox Cubes tests in 1973 and 1975 Genie's score improved from the level of a 6-year-old to a 71⁄2-year-old, more rapid than her progress with language but significantly slower than that of right hemisphere tasks.[6]:225–228
There were a few primarily right hemisphere tasks Genie did not perform well on. On one memory for design test, she scored at a "borderline" level in October 1975, although she did not make the mistakes typical of patients with brain damage. In addition, on a Benton Visual Retention Test and an associated facial recognition test Genie's scores were far lower than any average scores for people without brain damage.[8][6]:214, 227–228 Although these contrasted with observations of Genie in everyday situations, researchers wrote that they anticipated these results.[8][49][63] Curtiss's explanation was that these tasks likely require use of both hemispheres, noting that previous results on the memory for design test found a negative impact from abnormal brain function in either hemisphere and that these would, therefore, be very difficult for Genie since she exclusively used her right hemisphere.[8][49][6]:214, 227–228
Loss of funding and research interest
On several occasions during the course of the case study, the NIMH voiced misgivings about the lack of scientific data researchers generated from the case study and the disorganized state of project records. Outside of the linguistics aspect of research David Rigler did not clearly define any parameters for the scope of the study, and both the extremely high volume and incoherence of the research team's data left the scientists unable to determine the importance of much of the information they collected.[5][9]:140–141 After the initial grant and a one-year extension Rigler proposed an additional three-year extension, and the NIMH's grants committee acknowledged that the study had clearly benefited Genie but concluded that the research team had not adequately addressed their concerns. In a unanimous decision, the committee denied the extension request.[5][38][9]:144–145, 149–150
Early adulthood
In 1975, when Genie turned 18, her mother stated that she wanted to care for her, and in mid-1975 the Riglers decided to end their foster parenting and agreed to let Genie move back in with her mother at her childhood home.[43][9]:149–150 John Miner remained Genie's legal guardian and the Riglers offered to continue assisting with Genie's care, and despite the NIMH grant ending Curtiss continued to conduct regular testing and observations.[8][38][9]:144–145, 155 While living together Genie's mother found many of Genie's behaviors, especially her lack of self-control, very distressing, and within a few months the task of caring for Genie by herself overwhelmed her. She then contacted the California Department of Health to find care for Genie, which David Rigler said she did without his or Marilyn's knowledge, and in the latter part of 1975 authorities transferred Genie to the first of what would become a succession of foster homes.[43][9]:149–155[64]
The environment in Genie's new placement was extremely rigid and gave her far less access to her favorite objects and activities, and her caretakers rarely allowed her mother to visit. Soon after she moved in they began to subject her to extreme physical and emotional abuse, resulting in both incontinence and constipation resurfacing and causing her to revert to her coping mechanism of silence.[9]:150–155[64] The incident with the strongest impact occurred when they severely beat Genie for vomiting and told her that if she did it again, they would never let her see her mother, making her terrified of opening her mouth for fear of vomiting and facing more beatings. As a result, she was extremely frightened of eating or speaking, and she became extremely withdrawn and almost exclusively relied on sign language for communication.[5][38][9]:150–155 During this time Curtiss was the only person who had worked with Genie to have regular contact with her, continuing to conduct weekly meetings to continue her testing, and she noted the extreme deterioration in Genie's condition. She quickly started petitioning to have Genie taken out of the home, but Curtiss said that both she and social services had a difficult time contacting John Miner, only succeeding after several months. In late April 1977, with assistance from David Rigler, Miner removed her from this location.[9]:153–155
Because of Genie's previous treatment, Miner and David Rigler arranged for her to stay at Children's Hospital for two weeks, where her condition moderately improved.[65] Authorities then placed Genie in another foster home, where she did fairly well, but in mid-December 1977 the arrangement very suddenly ended. Through the end of that month into early January Genie lived in a temporary setting, after which authorities put her in another foster home.[38][9]:155–159 During this time Curtiss wrote to Miner that Genie did not understand the reasons she was moving and believed it was her fault for not being a good enough person, and said the frequency with which her living arrangements changed further traumatized her and caused continued developmental regression.[9]:155–159
Lawsuit
In 1976, Curtiss finished and presented her dissertation, entitled Genie: A Psycholinguistic Study of a Modern-Day "Wild Child", and Academic Press published it the following year.[6] Prior to this time, Genie's mother had reportedly thought of Genie and Curtiss as friends, but in early 1978 she wrote that she was very offended at the title and some of the contents of Curtiss's dissertation. She decided to sue Children's Hospital, her therapists, their supervisors, and several of the researchers, including Curtiss, Rigler, James Kent, and Howard Hansen.[5][9]:184–187, 190–191 Privately she disputed some of the details in Curtiss's dissertation of her husband's treatment of the family during Genie's childhood, but her official complaint did not; instead she asserted a violation of patient confidentiality, and accused the research team of giving testing priority over Genie's welfare, invading Genie's privacy, and severely overworking Genie.[9]:184–186
Regional media immediately picked up the lawsuit, and members of the research team were shocked when they found out about it. All of the scientists named in the suit were adamant that they never coerced Genie, maintaining that Genie's mother and her lawyers grossly exaggerated the length and nature of their testing, and denied any breach of confidentiality.[5][43][9]:184–191, 199 While David Rigler was giving his deposition he discovered that Jean Butler Ruch had goaded Genie's mother into suing, and in an interview several years later the lawyers who worked with Genie's mother confirmed Ruch heavily influenced the actions of Genie's mother throughout the course of the lawsuit.[9]:187–189 According to author Russ Rymer, the suit was settled in 1984.[4][9]:188–194 However, in 1993 David Rigler wrote, "[T]he case never came to trial. It was dismissed by the Superior Court of the State of California 'with prejudice,' meaning that because it was without substance it can never again be refiled."[43]
1978–present
Susan Curtiss said that in late December 1977 she had been asked if she could be Genie's legal guardian but that, after she met with Genie on January 3, 1978, Genie's mother suddenly stopped allowing her and the rest of the research team to see Genie again, which immediately ended all testing and observations.[15][9]:192–194 State authorities had an increasingly contentious relationship with John Miner since at least 1975, and in early 1978 they discovered that after Genie turned 18 he had failed to update his status as Genie's legal guardian as a minor to that of her legal guardian as an adult incapable of caring for herself. Without consulting him, on March 30 of that year state authorities officially transferred guardianship to her mother, who subsequently forbade all of the scientists except Jay Shurley from seeing her or Genie.[38][9]:185–194, 208–210 Jean Butler Ruch remained in contact with Genie's mother and continued to spread negative rumors about Genie's condition, especially targeting Curtiss, until 1986, when a stroke left Ruch with aphasia. Ruch died in 1988 following another stroke.[5][9]:191, 200–202
From January 1978 until the early 1990s, Genie moved through a series of at least four additional foster homes and institutions, some of which subjected her to extreme physical abuse and harassment.[5][64][9]:208–213 Shurley saw her at her 27th birthday party in 1984, and again two years later, and in an interview years later he said that both times she was very depressed and almost entirely uncommunicative.[9]:208–213 In 1992, Curtiss told Russ Rymer that the only two updates she had heard on Genie indicated she barely spoke and was depressed and withdrawn. When Rymer published a two-part magazine article on Genie in The New Yorker in April of that year he wrote that she lived in an institution and only saw her mother one weekend every month, with the first edition of his 1993 book, entitled Genie: A Scientific Tragedy, stating this as well.[注釈 10][66][67] The afterword of the 1994 edition of Rymer's book on Genie, written in November 1993, detailed conversations he had with Genie's mother—who had since gone blind again due to glaucoma—just before and after the publication of his magazine articles. At that time she told him that Genie had recently moved into a more supportive foster home which permitted regular visits, and said that Genie was happy and, although hard to understand, was significantly more verbal.[9]:228–231
Several people who worked with Genie, including Curtiss and James Kent, harshly criticized Rymer's works.[4] A late April 1993 New York Times review of Rymer's book from scientific reporter Natalie Angier, which took an extremely negative view of the research team, prompted David Rigler to write a letter to the Times. In this letter, published in the Times in mid-June 1993, he responded to what he said were major factual errors in Angier's review and gave his first public account of his involvement in Genie's case. Rigler wrote that, as of his writing, Genie was doing well living in a small, private facility where her mother regularly visited her.[43][68] He also stated that he and Marilyn were in contact with Genie's mother and had recently reestablished contact with Genie, who he said had immediately recognized and greeted him and Marilyn by name, and said that "my wife and I have resumed our (now infrequent) visits with Genie and her mother."[43][69]
As of 2016, Genie is a ward of the state of California living in an undisclosed location in Los Angeles.[4][15] In two articles published in May 2008, ABC News reported that someone who spoke to them under condition of anonymity had hired a private investigator who located Genie in 2000. According to the investigator, she was living a simple lifestyle in a small private facility for mentally underdeveloped adults and appeared to be happy, and reportedly only spoke a few words but could still communicate fairly well in sign language.[4] The news stories noted that Genie's mother had died of natural causes at the age of 87 in 2003. They also included the only public interview with Genie's brother, who was then living in Ohio; he said that since leaving the Los Angeles area, he had visited Genie and their mother only once, in 1982, and had refused to watch or read anything about Genie's life until just prior to the interview, but had heard Genie was doing well.[4][10][13] A story by journalist Rory Carroll in The Guardian, published in July 2016, reported that Genie still lived in state care and that her brother died in 2011, and said that despite repeated efforts Susan Curtiss had been unable to renew contact with Genie.[11]
Impact
Genie is one of the best-known case studies of language acquisition in a child with delayed linguistic development outside of studies on deaf children.[2][9][12] Susan Curtiss argued that, even if humans possess the innate ability to acquire language, Genie demonstrated the necessity of early language stimulation in the left hemisphere of the brain to start.[7][70][54] Since Genie never fully acquired grammar, Curtiss submitted that Genie provided evidence for a weaker variation of the critical period hypothesis.[49][6]:208–209, 234 Genie's nonverbal skills were exceptionally good, which demonstrated that even nonverbal communication was fundamentally different from language.[1]:428[3] Because Genie's language acquisition occurred in the right hemisphere of her brain, its course also aided linguists in refining existing hypotheses on the capacity for right-hemisphere language acquisition in people after the critical period.[54][71][3]
Since the publication of Curtiss's findings, her arguments have become widely accepted in the field of linguistics. Many linguistics books have used Genie's case study as an example to illustrate principles of language acquisition, frequently citing it as support of Chomsky's hypothesis of language being innate to humans and of a modified version of Lenneberg's critical period hypothesis, and her work with Genie provided the impetus for several additional case studies.[49][72][3] In addition, the disparity between Curtiss's pre- and post-1977 analyses of Genie's language has sparked debate among other linguists regarding how much grammar Genie acquired and whether she could have acquired more. As of 2015, no one directly involved in Genie's case has responded to this controversy.[38][73][74]
The study of Genie's brain aided scientists in refining several existing hypotheses regarding brain lateralization, especially its effect on language development. In particular, the disparity between Genie's linguistic abilities and her competence in other aspects of human development strongly suggested there was a separation of cognition and language acquisition, a new concept at the time.[6][54][3] The unevenness of her ability to learn right-hemisphere versus left-hemisphere tasks gave the scientists valuable information about the manner in which certain brain functions develop, as well as the way lateralization affects a person's ability to improve upon them.[8][32][6]:214, 227–228 Genie's difficulty with certain tasks which had been described as predominantly controlled in the right hemisphere also gave neuroscientists more insight into the processes controlling these functions.[6]:214, 227–228[8][49]
Comparisons to other cases
In several of their publications, the scientists acknowledged the influence that Jean Marc Gaspard Itard's study of Victor of Aveyron had on their research and testing.[7][6]:xi–xii Genie's development has also influenced perceptions of Victor and the case study on him.[12][75][9]:209–215 Both researchers working with Genie and outside writers noted the influence of the historical reports of language deprivation experiments, including accounts of the language deprivation experiments of Psamtik I, King James IV of Scotland, and Holy Roman Emperor Frederick II.[7][24][9]:3–7 The two ABC News stories on Genie compared her case to the Fritzl case, which had recently come to public attention, especially pointing out similarities between Genie's father and Josef Fritzl and comparing the mental states of Genie and Fritzl's captive three grandchildren upon entering into society.[4][10][13] The research team and outside scientists also contrasted Genie with a case in the 1950s of a girl, known by the name Isabella, whose first exposure to anyone besides her deaf non-speaking mother came at the age of 6 but who successfully acquired language and developed fully normal social skills within a year.[7][74]
Ethical dispute
During the grant meetings in May 1971 some of the scientists, including Jay Shurley and David Elkind, voiced concern that the prevailing methods of research pursued scientific study at the expense of Genie's well-being and could cause love and attention to be contingent on her language acquisition.[9]:59, 188, 200–204[14]:225 Shurley said that there was strong disagreement during the initial grant meetings and the atmosphere grew increasingly tense and bitter, especially noting that the later meetings excluded all non-scientists and thereby shunned valuable input from some of the hospital staff who had worked most closely with Genie.[5][14]:225[9]:46–47, 59, 62–63 After May 1971 Elkind declined to participate in the study further, despite having personally known both the Riglers for several years, and in an interview years later he cited a desire not to be involved in a case which, in his view, prioritized scientific research over Genie's care.[9]:199–201 While Shurley acknowledged that the scientists at the center of the case were in a completely unprecedented situation, he also decided to minimize his involvement over these concerns and later said that by the conclusion of the study all of the scientists, including himself, had been guilty to varying degrees of using Genie as an object and putting themselves and their goals ahead of her and her mother's best interests.[9]:59, 188, 200–204, 211–213[76]
Kent, Howard Hansen, the Riglers, and Curtiss readily acknowledged that it had been extremely difficult to determine the course of the study, but maintained that all disputes during the meetings were impersonal and typical of scientific discourse.[5][43] After the case study ended David Rigler said that Shurley's early recommendations were the only useful advice he received on handling Genie and that, despite their later disagreements, he had attempted to follow them as much as possible.[9]:46–47, 198–199, 210–212[5][43] The Riglers and Curtiss further stated that everyone involved in Genie's life, with the exception of Jean Butler Ruch, worked together as best they could to rehabilitate Genie and never fought with each other, and independently denied allegations of factionalism. Ruch never stated a motive for her actions, but members of the research team believed they were due to her anger over her foster custody rejection and her perception that Children's Hospital staff influenced the decision.[43][9]:133–137, 199–200[77] The role of the scientists in Genie's case has become the source of debate within the scientific community.[1]:428[12][78]
Several people have also emphasized the lack of distinction between Genie's caretakers and her therapists. Shurley thought that Ruch would have been the best guardian for Genie, and felt the Riglers gave her adequate care but viewed her as a test subject first.[9]:121, 198–200, 202–204[14]:225 Russ Rymer contended that the roles of everyone involved in Genie's life became progressively clear, citing the starting point as the appointment of John Miner as legal counsel for Genie's mother, and that personal friendships prevented them from recognizing it. He argued that this interfered with providing Genie the best possible care and compromised their objectivity, which in turn contributed to the case study's lack of coherence, and both he and Harlan Lane emphasized that making David Rigler a foster parent accelerated this breakdown.[5][9]:131–136[79] Several independent reviews of Genie's case also accused the Riglers and the other scientists of abandoning Genie after the case study concluded.[4][14]:225
On several occasions, the Riglers maintained that their home had been the best available option for Genie at the time, and said that both they and everyone who worked with her thought she was doing well.[5][43][9]:131–136 They also said they genuinely loved Genie and always provided her the best care possible, pointing out that she had made substantial progress in every aspect of her development while living with them, and they and Curtiss both said Genie's mother had prevented them from continuing to work with Genie as they had wanted.[4][12][9]:192–194 While representing the Riglers in court in 1977 and 1978 John Miner went out of his way to give them credit for acting as foster parents to Genie for four years, and when Curtiss spoke to Rymer in the early 1990s she praised their work with Genie and their willingness to take her into their home, although she also said she felt they had not done enough when she told them about Genie's abuse in foster care.[9]:139–144, 153–156, 187, 202–206 Justin Leiber argued that the scientists' inability to do more for Genie was largely out of their control, and primarily the result of legal and institutional processes surrounding her placement.[12]
Media
Several books about feral or abused children contain chapters on Genie, and many books on linguistics and psychology also discuss Genie's case at length.[78][80][81] In 1994, Nova made a documentary about Genie titled Secret of the Wild Child, based on Russ Rymer's book, which won multiple Emmy Awards.[注釈 11][5][82] The scientists' footage Nova used from the case study archives had significantly deteriorated, and required restoration for use in the documentary.[38] In 2002, an episode of the television series Body Shock on feral children entitled "Wild Child" included a segment on Genie.[注釈 12][15] In addition to Rymer's magazine articles and book about Genie, he said that he drew on Genie's life for the theme of his 2013 novel Paris Twilight.[11]
The independent film Mockingbird Don't Sing, released in 2001, is about Genie's case, primarily from the perspective of Susan Curtiss. For legal reasons, all of the names in the film were changed.[83]
脚注
注釈
- ^ Curtiss (1977) はジーニーの子ども時代についてより詳細な情報を持っていると論文内で述べているが、その内容は記されていない[6]:6–8。
- ^ 原文: "Be a good boy, I love you"
- ^ 原文: "The world will never understand."
- ^ 自閉症の専門家である、心理学者のミッツィ・ウォルツは、2013年に「心理学者のオレ・イヴァー・ロウヴァースが同時期にUCLAで自閉症の研究を行っていたが、ジーニーの研究チームがロウヴァースに意見を求めることはなかった」と述べている。ジーニーの事例研究が終わった数年後、『Genie: A Psycholinguistic Study of a Modern-day "Wild Child"』[6]の著者であるスーザン・カーティスはこの理由について質問を受けており、「ロウヴァースの嫌悪療法 (英: aversion therapy) はジーニーの自由を制限してしまう可能性があり、行動研究などの他の方面に支障をきたしてしまう恐れがあったたためだ」と述べている[2]。
- ^ レネバーグは、ジーニーの幼少期に起因するトラウマの詳細が不明であることに懸念を示し、これが分からない限り明確な結論を得ることはできないと考えていたため、研究への参加を辞退した。
- ^ 物体が個人の視野から外れてもその場に存在し続けることを指す概念[39]。
- ^ 児童発達心理学において、観察した他人の行動を後に思い出し真似ること[40]。
- ^ As all of Genie's incorrect answers on the Mooney Face Test were pictures of either masks or caricatures of faces, Curtiss thought Genie may not have understood that she was only supposed to select the realistic looking faces and therefore may have been able to score even higher.
- ^ Since she did very well on some individual parts of the test, and because previous results had shown indications of utilizing both hemispheres, Curtiss believed Genie could have used her gestalt perception for some elements and was forced to use her analytic skills on others.
- ^ Also published as Genie: An Abused Child's Flight From Silence and Genie: Escape From A Silent Childhood.
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関連項目
- A Man Without Words
- Marcos Rodríguez Pantoja
- Marie-Angélique Memmie Le Blanc
- Oxana Malaya
- Blanche Monnier
- Kaspar Hauser
- Anna (feral child)
外部リンク
- Collection of documents and film footage pertaining to Genie's case – UCLA Library Special Collections Department