コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:Eugene Ormandy/sandbox93-1 (秀逸選考指摘反映)オトマール・スウィトナー

オトマール・スウィトナー
基本情報
出生名 Otmar Suitner
生誕 1922年5月16日
出身地 オーストリアの旗 オーストリアインスブルック
死没 (2010-01-08) 2010年1月8日(87歳没)ドイツの旗 ドイツベルリン
学歴
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
担当楽器 ピアノ
活動期間 1942年 - 1990年
クレメンス・クラウス

オトマール・スウィトナー (Otmar Suitner, 1922年5月16日-2010年1月8日) は、オーストリア出身の指揮者である[1][2]シュターツカペレ・ドレスデン[3]シュターツカペレ・ベルリン[4]NHK交響楽団などで活躍したほか[5][6][7]ウィーン国立音楽大学で教鞭をとった[8]。日本語ではオットマール・スウィトナーと表記されることもある[9]

モーツァルトベートーヴェンワーグナーブルックナーリヒャルト・シュトラウスの作品や、イタリアの作品の指揮に定評があり[10][11]カペルマイスターの伝統を受け継ぐ指揮者として評価された[12]

生涯

[編集]

幼年期・学生時代

[編集]
師のクレメンス・クラウス

1922年5月16日、ドイツ人の父とイタリア人の母のもと、オーストリアの景勝地インスブルックに生まれる[1][5][注 1]。インスブルックの市立音楽院でフリッツ・ヴィートリヒにピアノを学んだのち、ザルツブルクモーツァルテウム音楽院に入学し、フランツ・レドヴィンカドイツ語版にピアノを、クレメンス・クラウスに指揮を師事した[14][10][2][15][16][17]。また、指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーの知己を得て、親しく付き合った[18]

スウィトナーはインタビューにて、師のクラウスについて以下のように語っている[18]

その当時クラウスはまだミュンヘンの国立歌劇場の総監督で、彼はまたリヒャルト・シュトラウスの影響を強く受けていましたので、私もクラウスを通じて、シュトラウスの息吹きを継承してきたことになります。ですから、私は彼を尊敬していたし、彼も私をよく可愛がってくれました。彼から得た知識、経験は大きいし、実習面でも、私はミュンヘンの舞台を十分に研究するチャンスを与えられました[18]

キャリア初期

[編集]

クラウスの勧めでインスブルックやレックリングハウゼンなどの教会で合唱団の指揮者を務めたのち[19][2]、1942年にインスブルックのチロル州立劇場英語版の指揮者となり、スウィトナー自身が小編成のオーケストラ用に編曲したリヒャルト・シュトラウスの『薔薇の騎士』を指揮してデビューを飾った[14][20][注 2]。なお、作曲家のシュトラウスは客席でこの演奏を聴いており、スウィトナーを賞賛している[14]

その後スウィトナーはピアノでバレエの下稽古を行ったりしつつ、指揮者として定期的に活動していたが、1944年にチロル州立劇場の指揮者を辞任してからはポストを得ることができなかったため、1952年まではピアニストとして活動しており、ウィーンローマミュンヘンスイスなどでコンサートを行った[14][21][17][12]。その後1952年にレムシャイト市の音楽監督に迎えられて指揮者に復帰し、1957年にはルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインを本拠地とするプファルツ管弦楽団の音楽監督となった[14][22]。その傍らで、ウィーン、ハンブルク、ミュンヘンなど、オーストリア、ドイツの各地で客演活動を行い[14]ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団などを指揮した[23][15]

ドレスデン国立歌劇場時代

[編集]

何度かシュターツカペレ・ドレスデンのコンサートを指揮したスウィトナーは、オーケストラから高い評価を得て、1960年にドレスデン国立歌劇場およびそのオーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデンの音楽総監督兼首席指揮者に就任した[24][3][25][26]。スウィトナーとシュターツカペレ・ドレスデンによる演奏の評価は高く、特にモーツァルトの演奏については「東ドイツに並ぶものはいない」とまで言われたが[27]、両者はモーツァルトのような伝統的な演目の他にもハンス・アイスラールイジ・ダラピッコラといった同時代の作曲家の作品を取り上げており、こちらも高い評価を得た[24]。また、両者は東欧諸国やソ連への演奏旅行を行なったほか[10]、1961年には『薔薇の騎士』の初演50周年公演を行った[17]。しかし1964年には、前任のフランツ・コンヴィチュニーと同じく、ベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任したスウィトナーはドレスデンを去ることになった[24][28]。ただし、スウィトナーとシュターツカペレ・ドレスデンとのレコーディングは続けられた[28]

スウィトナーはシュターツカペレ・ドレスデンについて「時代や混乱を通じても自らに誠実であり続けた理想的かつ完璧な楽器」と賞賛している[29]。また、80歳の誕生日である2002年5月16日には、ドレスデンの旧友たちとともにゼンパー・オーパーに姿を見せた[28][注 3]

ベルリン国立歌劇場時代

[編集]
ベルリン国立歌劇場で指揮をするスウィトナー (1970年)

1964年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任し、1990年まで務めた[22][4]。スウィトナー時代のシュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場のオーケストラ)は、音楽監督の在任期間(26シーズン)、演奏旅行の数、録音の点数、聴衆の動員率などで過去の記録を大幅に上回ったうえ、ディスクの売れ行きも好調であった[30]。さらに、スウィトナーは前任のコンヴィチュニーの路線を踏襲しつつ、新たなレパートリーを開拓したほか、西側の人材も登用した[31][30]。インタビューにおいて、スウィトナーはシュターツカペレ・ベルリンのレパートリーについて以下のように述べている[32]

劇場ではドイツ・オペラを全般にわたって掘り下げることを優先させていますが、私は母がイタリア人ですから血の半分はイタリアで、イタリア・オペラは大変好きです。で、上演したい作品は沢山あります。が、ドイツ物はある程度アンサンブルでもってゆけますが、イタリア物は声が第一のいい歌手が絶対必要です。それには経済面がネックになる。また自国語上演が前提なので、その難しさも。イタリア語は言葉自体が歌に適し、とても声楽的な言語です。だから原語上演が最良ですが、その点でも現状ではちょっと難しいところがあります。私は日本語訳でのイタリア・オペラを観ていますが、語感はドイツ語よりも旋律にのっています。字幕も一つの解決策で、日本で試みられているこの方法もいっそう研究したいですね[32]

スウィトナー体制下のシュターツカペレ・ベルリンは、同じ都市で活動するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に比肩する存在としてみなされるようになったと言われている[30]。音楽評論家の小石忠男は「シュターツカペレ・ベルリンもスウィトナーの時代に入ってから、従来の強固で重厚なアンサンブルに、透明度と柔軟性を加えた。彼らはおびただしいオペラ上演で交響的ともいえる見事な演奏を披露すると同時に、年間8回(各2夜)のシンフォニー・コンサートを国立歌劇場で開催した。その成果は数多くの録音に残されている」と評している[31]

ベルリンの壁が設けられたこともあって、この時代のシュターツカペレ・ベルリンは東側を代表するオーケストラとみなされるようになり、人事面などで国家からの介入が多くあったと言われている[33][30]。また、スウィトナーは当時半ば禁止されていた現代音楽をプログラムに組み込んだため、当局と揉めることもあったという[34]。ただしスウィトナーは東ドイツ財政を支える存在でもあり、1年で36000ポンドを稼いだとも言われている[35]。なお、1988年のインタビューでスウィトナーは「1964年以来ですから、そろそろ離れようかと考えましたが、慰留されています」と述べている。[32]

世界各地での活躍

[編集]

バイロイト音楽祭

[編集]

1964年から1967年にかけてスウィトナーはバイロイト音楽祭に登場し『タンホイザー』、『さまよえるオランダ人』、『ニーベルングの指環』を指揮した[18][36][8][37]。なお、『ニーベルングの指環』については本来カール・ベームが4作全て(『ラインの黄金』、『ワルキューレ』、『ジークフリート』、『神々の黄昏』)を指揮する予定であったが、体調不良のためスウィトナーが代理で指揮した[38][39]。なお、バイロイト音楽祭の中心的な人物であり、リヒャルト・ワーグナーの孫であった演出家のヴィーラント・ワーグナーについてスウィトナーは以下のように述べている[36]

私のワーグナー作品観とヴィーラント・ワーグナーのそれとはかなり一致していると思います。彼は、彼のお祖父さんの芸術を非常に本質的に理解しているからです。彼の実験的精神は、ワーグナー作品に対する彼の深い理解をそこなってはいません。なぜなら、彼はオペラ・スコアの隅々までを実によく知っている。ちょうど、あらゆるカペルマイスターがスコアを熟知しているように......[36]

NHK交響楽団

[編集]

1971年に初めて指揮したNHK交響楽団では、聴衆、楽団員から高い評価を得ており[5][6][7]、1973年に再びNHK交響楽団を指揮した際には「名誉指揮者」の称号を贈られた[7][注 4]。音楽評論家の宇野功芳は「彼が振るN響の弦が時にウィーン・フィルのような響きを出すのを聴いた方は多いと思う」と記している[43]。なお、NHK交響楽団および日本の聴衆についてスウィトナー自身は以下のように述べている[9]

私が思うには、N響は世界でも第一級のオーケストラだと思います。ドイツ、オーストリアへの留学経験がある楽員も多いので、音楽するうえで私の意向をよく理解してもらえます。ヨーロッパのオーケストラと同等の音楽性をもっていますよ。オーケストラがそうであるように、日本の聴衆も、非常に音楽の享受のしかたが秀れ、自分は幸福です。先日は小田原でコンサートをもちましたが、東京のファンばかりでなく、地方の愛好家も聴き手としてのレベルが高いと思いました。私はモーツァルトの音楽をとても愛していますが、日本のファンがモーツァルトに抱いている愛情も、大変に嬉しいことです[9]

その他のオーケストラ

[編集]

他にも1969年から定期的にサンフランシスコ・オペラに登場してドイツの作品を指揮したほか[10][44]ウィーン国立歌劇場ボリショイ劇場ボストン交響楽団などにも登場した[15][45]。また、ドイツ民主共和国は自国のイデオロギーを普及させるために中東諸国での音楽活動を支援していたが、その一環としてスウィトナーもカイロでコンサートを行っており、「とても大きな反響があるので、カイロで演奏するのは私たちにとって喜びだ」というコメントを残している[46]

晩年

[編集]

1980年代後半から体調不良を訴えることが多くなり、1990年にはパーキンソン病が原因で事実上の引退状態となった[47][48][注 5]。音楽評論家の國土潤一は、引退する以前よりスウィトナーの演奏は往時の精彩を欠いていたと述べており、「円熟よりは『老い』を強く感じさせる演奏が多くなっていたように記憶している」とも述べている[2]。なお、シュターツカペレ・ベルリンは1990年代に一度スウィトナーを舞台に呼び戻そうとしたことがあったが、それが不可能なことであるのは初回のリハーサルから明白であったと言われている[34]

2010年1月8日、オトマール・スウィトナーは87歳で死去した[2]。スウィトナー死去のニュースは、ベルリンの3大地方紙『ターゲス・シュピーゲル』『ベルリナー・モルゲンポストドイツ語版』『ベルリナー・ツァイトゥングドイツ語版』をはじめとして、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』『ディ・ヴェルト』などの全国紙や、オーストリアの新聞などでも取り上げられた[48]。他にも、『タイムズ[17]朝日新聞[50]インデペンデント[12]などが取り上げた。

スウィトナーの葬儀は、1月24日にベルリン国立歌劇場の裏にあるベルリンのカトリック司教座、聖ヘドヴィヒ大聖堂で行われた[34]。この葬儀は新聞でも告知された公開のものであり、シュターツカペレ・ベルリンがレクイエムを演奏した[34]。また、シュターツカペレ・ベルリンは1月24日と25日に、バレンボイムが指揮する演奏会をスウィトナーに捧げた[34]。他にも、スウィトナーの追悼盤として、シュターツカペレ・ベルリンを指揮したモーツァルトの『魔笛』、NHK交響楽団を指揮したリヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』がリリースされた[34]

演奏スタイル

[編集]

レパートリー

[編集]

モーツァルトベートーヴェンワーグナーブルックナーリヒャルト・シュトラウスの作品や、イタリアの作品の指揮に定評があった[10][11][注 6]。同時代の作曲家の作品も取り上げており、ハンス・アイスラールイジ・ダラピッコラらの作品を指揮したほか[24]パウル・デッサウの『プンティラ (1966年)』、『アインシュタイン (1974年)』、『レオンスとレナ (1979年)』などの初演を行なっている[10]。なお、『アインシュタイン』と『レオンスとレナ』は録音を遺した[12]

リハーサル

[編集]

スウィトナーのもとで演奏したオーケストラ団員は、スウィトナーはリハーサルでは優しいことしか言わず、声も小さかったと述べている[52]。また、オーケストラに注文をする際も「みなさんよくお弾きになっているんですが、どうしてもお一人だけお分かりじゃない方がいらっしゃる」と言って、その団員を見つめながら指揮をしていたという[52]。なお、スウィトナーの視線の先にいた団員たちは「自分のことではないはずだ」と体を避けながら演奏していたという[52][53]

また、NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた堀正文は、普段おっとりしているぶん、スウィトナーが強い言葉で指示をしたときはとても迫力があったと述べている[51]。堀はスウィトナーの指揮でアルバン・ベルクの『ヴァイオリン協奏曲』を演奏した際、第2楽章のあるパッセージについて「ライオンに肉をガッと抉られるような激しさで」と指示されたと回想している[51]。また、堀はスウィトナーのリハーサルについて以下のようにも述べている[51]

なんとなく威圧感とか存在感があるマエストロですが、練習のときも言葉数は少なくて、やりたいことは、ひと言ふた言、的確な表現でおっしゃるんです。でもそれを聞いて、自分の中でこういう意味なんだとうまく消化して演奏しないといけない。速いとか遅いとか、強いとか弱いとかいう具体的な表現でなく、味わい深い表現なんです[51]

指揮姿

[編集]

NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた堀正文は、スウィトナーの指揮について「けっしてパワーで指揮なさるタイプではないんですけれども、身体の内からググーっとでてくるエネルギーの迫力はすごかったですね」と述べている[51]。同じくNHK交響楽団のクラリネット奏者である西村初夫は「スウィトナーは一見、田舎のおっさんでしたが、ひとたび棒を振ると人間がまったく変わる。ひと回りもふた回りも大きく見えてきて、“こりゃいかん”と緊張させられるのです」と述べている[6]

また、音楽評論家の小石忠男はスウィトナーの指揮姿について以下のように述べている[54]

スウィトナーの指揮ぶりは、決して器用なものとはいえない。カラヤンのように指揮台の上の姿を見ているだけで、何か優美な運動の姿態を連想させるようなものではない。そのような見てくれはおそらくスウィトナー自身にとっても問題になるような要素ではなさそうだし、器用に、スムーズにオーケストラをドライヴするのも、また彼の音楽の目的とはなり得ないように思う。しかし彼の指揮棒には、必要なことはことごとく指示する的確さがあり、すべてが誠実に音楽をつくることを志向している。いわば古い時代の楽長タイプの名残をそこに見ることができるのだが、その拍子をとる手の動きは、なめらかでなくとも明快であり、音楽が白熱してきたときは上半身を大きく動かして腕を前に突き出すなど、一種独特の集中性の強さを感じさせる[54]

人物

[編集]

チェーンスモーカーであり、酒も好んだ[51]。オーケストラの団員と交流することもあり、日本を訪れた際には、NHK交響楽団ホルン奏者千葉馨の自宅で団員たちと食事会を行っており、オーケストラジョークや舞台上のハプニングの話などで場を和ませた[51]。同団コンサートマスターの堀正文は「人間味にあふれた人で、茶目っ気もあるんですがジェントルで、みんなとの和を大切にされていました」と述べている[51]。また、エーバーハルト・シュタインドルフは「スウィトナーの仕事は猛烈そのもの。礼儀正しい人で、自己の信念を曲げず、目標に向かって邁進するタイプだったが、巧まざるユーモアのセンスも持ちあわせていた」と述べている[24]

また、スウィトナーは東ベルリンに妻がいたが、西ベルリンに愛人レナーテがおり、レナーテとの間には子供もいた[48]。スウィトナーとレナーテの出会いはバイロイト音楽祭であり、スウィトナーはベルリンの壁を超えて彼女の家に通っていた[48]。ベルリン国立歌劇場、および妻マルティナもこの三角関係については了解しており、ベルリンの壁が崩壊したのちは、妻と愛人で食事に行くこともあった[48][12]。2007年には、レナーテとの間に生まれた子供であるイゴール・ハイツマンがこの関係をドキュメンタリー『父の音楽〜指揮者スウィトナーの人生 (原題: Nach der Musik)』で描いた[48][12]。音楽評論家の城所孝吉はこのドキュメンタリーについて「引退後のスウィトナーが重病を負いながらも精神的にはまったく衰えていなかったことを伝えている」「晩年の彼の様子や、チャーミングな人柄を知る上でも興味深い」と述べている[48]。なお、このドキュメンタリーはいくつかの賞を獲得したほか[12]、日本でもテレビで放送された[48]

顕彰歴

[編集]

スウィトナーは様々な賞を受賞した[30]。1965年には東ドイツの国家芸術賞を授与されたが[14]、スウィトナーはその賞金をカトリック教会に寄付し、教皇パウロ6世から勲章を受けた[34]。ただし、共産主義において宗教は禁止されていたため、スウィトナーはこのことにより体制と反目したと見る向きもある[34]

レコーディング

[編集]

スウィトナーはドイツ・グラモフォンオイロディスクドイツ・シャルプラッテンDENONなどのレーベルでレコーディングを行った[55]。特にドイツ・グラモフォンは第二次世界大戦後リヒャルト・シュトラウスハンス・プフィッツナーマックス・フォン・シリングスレオ・ブレッヒなどの、作曲家としても活躍していた19世紀生まれのスター指揮者たちを失ったため、新たに20世紀生まれの中堅指揮者たちを売り出すことを決意し、フェレンツ・フリッチャイイーゴリ・マルケヴィチフェルディナント・ライトナーフリッツ・レーマンフリッツ・リーガーらと並んでスウィトナーの録音を作成した[55]

また、シュターツカペレ・ドレスデンとも録音を遺したが、音楽評論家の小石忠男は「(スウィトナー同様シュターツカペレ・ドレスデンで音楽監督などの地位にあった)ベームや後述のケンペザンデルリンクの場合にも同じことがいえるが、彼らの在任とレコード録音の時期にかなりの差異があるのは興味深い」と述べており、その原因として「レコード録音の体制やスタジオ、機材の整備が遅れたためであろう。当時のドイツ民主共和国は食糧すら不足し、経済的に困窮していたからである」と記している[26]

なお、スウィトナーは1980年から1983年にかけて、シュターツカペレ・ベルリンとベートーヴェンの交響曲全集を完成させている[14][56][57]。他にも、シューベルトシューマンブラームスドヴォルザークなどの交響曲全集を完成させた[58]

スウィトナーはインタビューにおいて、レコーディングについて以下のように述べている[59]

レコードにはふたつの面があると思います。いい面とよくない面とですが、まずいい面から申しますと、レコードを録音する際には、自分自身に対して、正確にコントロールできるということです。演奏家が自分自身を十全にコントロールできるというのは大切なことだと思います。レコード録音では、演奏家として、冷静さがたもちやすいといってもいいでしょう。では、よくないところはどこかと申しますと、まず第一に、実際にあったものとはすくなからず違っている、あるいは実際にありえなかったものが、レコードにあらわれてきてしまうというところです。それはやはりよくないといわざるをえないでしょう[59]

教育活動

[編集]
スウィトナーの教え子の1人ベアート・フラー (2014年)

1988年からはウィーン国立音楽大学の指揮科主任教授として後進を指導した[8][14][23]。ウィーンでの教え子にオリヴァー・フォン・ドホナーニ英語版[60]ベアート・フラー[61]タマジュ・スヴェテ[62]アフマド・エルサエディ[63]がいる。また、ヴァイマルではバイロン・フィデツィス英語版[64]を、ザルツブルク夏季アカデミーでマリー=ジャンヌ・デュフールを[65]教えた。他にもトルビヨーン・イワン・ルンドクヴィストスウェーデン語版[66][67][68]梅田俊明[69]スチュアート・ロバートソン英語版[70][71]アルベルト・カプリオリフィンランド語版[72]ジョエル・エリック・スーベン英語版[73]らを教えた。なお、スウィトナーのアシスタントを務めた指揮者としてはオレグ・カエターニがいる[74][75]

スウィトナーは西ベルリンにあるベルリン芸術大学の教授職をオファーされたこともあったが、東ドイツの高級官僚たちから「他の場所ならどこでもいいが、お願いだから西ベルリンだけはやめてほしい」と言われ就任できなかった[34]。また、児玉宏は東ドイツのドレスデンへの留学を熱望していたが、NHK交響楽団を指揮しに来日したスウィトナーに「東はやめろ」と忠告されたという[76][77][注 7]

なお、スウィトナーは指揮者のキャリア形成について以下のように述べている[9][32]

ドイツ、オーストリア、イタリアなどを見てのことですが、劇場でまず歌の伴奏などから出発して、コレペティトルの経験をする。それから、オペレッタオペラバレエをふって、次第に演奏会指揮へと進んでゆくのが望ましいと思うのですよ。というのは、総合的なものが要求されるこうした舞台音楽芸術をマスターするのは非常に難しいです。大変です。指揮者は、自身が広い見識や人間性をもち、音楽表現に弾力性を具えていなければならないと思っています。オペラやオペレッタを指揮することで、そうした広範囲のフレキシブルさを培えるのです。歌手の動きやその日のコンディションをみながら、臨機応変に合わせてゆくことや、アンサンブルをまとめてゆくすべを身につけられますね。これが初めからコンサート指揮者で立つと、その時点から指揮者はある種のスターですし、オーケストラも一応完成していて苦労が少ない。ために音楽が硬直性を帯びてこないとも限らない[9][32]

若い時に地方の小さな劇場で修行をしたのち、大劇場やコンサートホールで活躍するようになった先輩指揮者として、スウィトナーはヴィルヘルム・フルトヴェングラーオットー・クレンペラーブルーノ・ワルターアルトゥーロ・トスカニーニエーリヒ・クライバーの名前をあげており、彼らについて「歌とファンタジーがふんだんにありました」と述べている[32]。また、ウィーン国立音楽大学でも、このようにキャリアを形成するよう学生たちに教えているとも述べている[32]

評価

[編集]

『インデペンデント』紙はスウィトナーについて「カペルマイスターの伝統を受け継ぐ最後の1人」と記した[12]。また、音楽評論家の歌崎和彦はスウィトナーの演奏について「自分の個性を強く押し付けることはないが、確かな様式感と良い意味での職人性がひとつになった真摯な演奏は、いきいきと格調が高い」と述べている[23]。同じく音楽評論家の小石忠男は「スウィトナーの芸術の本質と様式は、オペラ劇場志向にあると思う。それは彼が決してシンフォニー・コンサートに適当ではないという意味ではなく、常に激情的な音楽、声楽的な様式をその演奏のうちに内在させているということである」「テンポが音楽の内容と完全に密着して、はやすぎず、おそすぎず、実に中庸・妥当でありながら、決して推進力や緊張感を失わない」と述べている[78][79]

また、NHK交響楽団の楽団員たちはスウィトナーについて以下のように述べている。

わりと茫洋としていて、サヴァリッシュのように”規制"を感じさせない。オーケストラに色彩を加えていくというタイプではなく、大きな入れ物を持っていて、そのなかから私たちに音楽的センスを分け与えてくれたような指揮者でした。ーーNHK交響楽団チェロ奏者 斉藤鶴吉[7][80]
N響とはあっという間に親しくなりました。また、お客さんにとても人気があった。オケが引っ込んで、指揮者が呼び出されるということは、それまで日本では習慣になっていなかった。彼が初めてじゃなかったかな。それぐらい親近感があって、聴衆にも伝わったのでしょう。だから、お互いを知り尽くしたレパートリーで、スウィトナーさんとはぶっつけ本番でやってみたいね、という話をよくしていました。ーーNHK交響楽団フルート奏者 植村泰一[7][81]

一方で、ウィーン国立歌劇場に登場してヴィーラント・ワーグナーの演出による『さまよえるオランダ人』を指揮した際にはブーイングを受けた[82]。また、サンフランシスコ・オペラにおけるスウィトナーの『ニーベルングの指環』公演は、『タイム』紙において「興奮するような瞬間はほとんどなく、サウンドは全てひどかった」と書かれた[17]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ なお、スウィトナーという名字はフランス語の “suite” に由来するとされる[13]
  2. ^ 1941年にモーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビューしたとする文献もある[15]
  3. ^ 同日、シュターツカペレ・ベルリンでもダニエル・バレンボイムの主催で、スウィトナー80歳の誕生日が祝われた[28]
  4. ^ なお、1983年にシュターツカペレ・ベルリンと来日した際、スウィトナーはワーグナーの『タンホイザー』『さまよえるオランダ人』とともに、日本での『第九』人気を考慮してベートーヴェンの『フィデリオ』をプログラムに入れたが、音楽評論家の諸井誠は「これでは日本通の名が泣くというもの。日本のオペラ通は、凡演の「フィデリオ」の退屈を百も承知しているのだから。それを承知で、舞台を「観に」ではなく、「音楽」そのものの素晴らしさを「聴きに」オペラ鑑賞に出かけていく所までは、我々の音楽文化の一般的水準はまだ上がっていないし、そうした楽しみ方にしては入場料が余りにも高すぎる。我が国での外来オペラ団の鑑賞は相当な贅沢の部類に入るのである。指揮者とオーケストラと合唱を聴けというのだったら、『フィデリオ』は、コンサート形式で充分鑑賞に耐える音楽内容を備えているのだ。オペラとして観せるのなら、納得のいく主役を揃えてくれないと、この特異なオペラ作品ではまず無理だろう」と述べている[40][41][42]
  5. ^ 1990年に予定されていたシュターツカペレ・ベルリンとの来日公演も病気でキャンセルし、ジークフリート・クルツハインツ・フリッケが代わりに指揮をした[49]
  6. ^ NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた堀正文は、自分たちのオーケストラとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のモーツァルト演奏の違いをスウィトナーに尋ねたところ「演奏上の技術的なものはぜんぜん変わらない、ただ気構えが違う。モーツァルトの音楽に対して構えすぎないように」と言われたと回想している[51]。また、堀はスウィトナーのモーツァルト演奏について「N響でモーツァルトを振るときも、流れを重視して、けっして構えていなかったですね。あまり細かいことはおっしゃいませんが、顔の表現や動きひとつでテンポ感もウエイトの置き方もわかりました」と述べている[51]
  7. ^ 結局児玉はスウィトナーには師事することができた[76][77]

出典

[編集]
  1. ^ a b 森 1982, p. 486.
  2. ^ a b c d e 國土 2010, p. 162.
  3. ^ a b 上地 2017, p. 101.
  4. ^ a b 上地 2017, p. 78.
  5. ^ a b c 佐野 2007, p. 273.
  6. ^ a b c 佐野 2007, p. 274.
  7. ^ a b c d e 佐野 2007, p. 275.
  8. ^ a b c 音楽の友 & レコード芸術 2020, p. 81.
  9. ^ a b c d e 小山 1988, p. 100.
  10. ^ a b c d e f Oxford University Press 2010.
  11. ^ a b 野崎 2010, p. 119.
  12. ^ a b c d e f g h Independent 2010, p. 42.
  13. ^ 小石 1980, p. 155.
  14. ^ a b c d e f g h i 森 1982, p. 487.
  15. ^ a b c d 村田 1982, p. 568.
  16. ^ 藤田 1982, p. 1278.
  17. ^ a b c d e Times 2010, p. 61.
  18. ^ a b c d 音楽の友 & レコード芸術 2020, p. 78.
  19. ^ 野崎 2010, p. 118.
  20. ^ 小石 1980, p. 156.
  21. ^ 音楽之友社 1996, p. 937.
  22. ^ a b Slonimsky & Kuhn 2001b, p. 3530-3531.
  23. ^ a b c 歌崎 1996, p. 90.
  24. ^ a b c d e シュタインドルフ 2009, p. 170.
  25. ^ 小石 1993, p. 72.
  26. ^ a b 小石 1999a, p. 13.
  27. ^ 小石 1980, p. 157.
  28. ^ a b c d シュタインドルフ 2009, p. 171.
  29. ^ シュタインドルフ 2009, p. 6.
  30. ^ a b c d e 上地 2017, p. 80.
  31. ^ a b 小石 1999b, p. 30.
  32. ^ a b c d e f g 小山 1988, p. 101.
  33. ^ 上地 2017, p. 79.
  34. ^ a b c d e f g h i 城所 2010, p. 165.
  35. ^ Ratcliffe 1970, p. 4.
  36. ^ a b c 音楽の友 & レコード芸術 2020, p. 79.
  37. ^ Times 1964, p. 16.
  38. ^ 柴田 2015, p. 18.
  39. ^ 柴田 2015, p. 392.
  40. ^ 諸井 1983, p. 64.
  41. ^ 諸井 1988, p. 75.
  42. ^ 諸井 1988, p. 76.
  43. ^ 宇野 1984, p. 96.
  44. ^ Rosenthal 1972, p. 11.
  45. ^ United Press International 1982.
  46. ^ Kelly 2019.
  47. ^ 佐野 2007, p. 276.
  48. ^ a b c d e f g h 城所 2010, p. 164.
  49. ^ 朝日新聞 1990, p. 15.
  50. ^ 朝日新聞 2010, p. 13.
  51. ^ a b c d e f g h i j 堀 2010, p. 166.
  52. ^ a b c 近藤 2006, p. 156.
  53. ^ 近藤 2006, p. 157.
  54. ^ a b 小石 1980, p. 158.
  55. ^ a b 歌崎 2000, p. 186.
  56. ^ Moroishi 2001.
  57. ^ 近藤 2010, p. 90.
  58. ^ 國土 2010, p. 163.
  59. ^ a b 小石 1980, p. 160.
  60. ^ Duchen 2001.
  61. ^ Wiesmann 2010.
  62. ^ Barbo 2001.
  63. ^ Kerim 2001.
  64. ^ Fulias 2014.
  65. ^ レルケ 2007, p. 111.
  66. ^ 戸羽 2008, p. 317.
  67. ^ Haglund 2001.
  68. ^ Slonimsky & Kuhn 2001a, p. 2206.
  69. ^ 朝日新聞 2000, p. 27.
  70. ^ Slonimsky, Kuhn & McIntire 2001b, p. 3006.
  71. ^ Mcdaniel 2006, p. 54.
  72. ^ Slonimsky, Kuhn & McIntire 2001a, p. 568.
  73. ^ McKenney 1982, p. 10.
  74. ^ 青澤 2004, p. 190.
  75. ^ 出谷 2010, p. 179.
  76. ^ a b 東条 2010, p. 230.
  77. ^ a b 吉田 2010, p. 4.
  78. ^ 小石 1980, p. 159.
  79. ^ 小石 1980, p. 161.
  80. ^ 佐野 2007, p. 210.
  81. ^ 佐野 2007, p. 242.
  82. ^ Wechsberg 1973, p. 19.

参考文献

[編集]

英語文献

[編集]
  • Barbo, Matjaž (2001). "Svete, Tomaž". Grove Music Online. Oxford University Press. doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.48065. 2021年11月26日閲覧 {{cite encyclopedia}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
  • Slonimsky, Nicolas; Kuhn, Laura; McIntire, Dennis (2001a). "Caprioli, Alberto". Baker’s Biographical Dictionary of Musicians. Vol. 1. Schirmer. p. 568. 2021年12月1日閲覧 {{cite encyclopedia}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
  • Slonimsky, Nicolas; Kuhn, Laura; McIntire, Dennis (2001b). "Robertson, Stewart (John)". Baker’s Biographical Dictionary of Musicians. Vol. 5. Schirmer. p. 3006. 2021年12月1日閲覧 {{cite encyclopedia}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)
  • Slonimsky, Nicolas; Kuhn, Laura, eds. (2001b). "Suitner, Otmar". Baker’s Biographical Dictionary of Musicians. Vol. 6. Schirmer. pp. 3530–3531. 2021年11月26日閲覧 {{cite encyclopedia}}: 引数|ref=harvは不正です。 (説明)

日本語文献

[編集]
  • 浅香淳 編「スウィトナー, オトマール」『標準音楽辞典』 ア – テ、音楽之友社、1966年。ISBN 4-276-00002-5 
  • 青澤唯夫『名指揮者との会話』春秋社、2004年。ISBN 4-393-93480-6 
  • 上地隆裕『世界のオーケストラ』 2下(英、露、パン・ヨーロピアン編)、芸術現代社、2017年。ISBN 978-4-87463-207-9 
  • 歌崎和彦「スウィトナー, オトマール」『最新 世界の指揮者名鑑866』音楽之友社〈ONTOMO MOOK〉、1996年。ISBN 4-276-96022-3 
  • 宇野功芳「ドレスデン・シュターツカペレ」『世界のオーケストラ辞典』、芸術現代社、1984年、94-97頁、ISBN 4-87463-055-3 
  • 音楽の友、レコード芸術 編「オトマール・スウィトナー」『至高の指揮者たち — 20〜21世紀の名指揮者が語る音楽と指揮芸術』音楽之友社、2020年。ISBN 978-4-276-96316-0 
  • 「オトマール・スウィトナーさん死去 N響の名誉指揮者」『朝日新聞』(時事通信)2010年1月12日、夕刊、13面(社会面)。
  • 城所孝吉「スウィトナーの死についてのドイツでの反応」『レコード芸術』第59巻第3号、音楽之友社、2010年3月1日、164-165頁。 
  • 小石忠男『続々 世界の名指揮者』音楽之友社、1980年。 
  • 小石忠男「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」『世界のオーケストラ123』音楽之友社〈ONTOMO MOOK〉、1993年。 
  • 小石忠男「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」『名門オーケストラを聴く! CDでたどるその栄光の歴史と名盤』、音楽之友社、1999年、8-20頁、ISBN 4-276-21045-3 
  • 小石忠男「ベルリン国立歌劇場管弦楽団」『名門オーケストラを聴く! CDでたどるその栄光の歴史と名盤』、音楽之友社、1999年、21-31頁、ISBN 4-276-21045-3 
  • 國土潤一「追悼 オトマール・スウィトナー」『レコード芸術』第59巻第3号、音楽之友社、2010年3月1日、162-163頁。 
  • 小山晃「オットマール・スウィトナー 東ドイツの重鎮 第2のホームグラウンドでも活躍中」『音楽の友』、音楽之友社、1988年5月、100-101頁。 
  • 近藤憲一『知っているようで知らない 指揮者おもしろ雑学事典』ヤマハミュージックメディア、2006年。ISBN 4-636-80738-3 
  • 近藤憲一「スウィトナー, オトマール」『最新 世界の指揮者名鑑866』音楽之友社〈ONTOMO MOOK〉、2010年。ISBN 978-4-276-96193-7 
  • エックハルト・レルケ 編『指揮棒は魔法の杖? マエストロが語る「指揮棒」考』音楽之友社、2007年。ISBN 978-4-276-21787-4 
  • エーバーハルト・シュタインドルフ 著、識名章喜 訳『シュターツカペレ・ドレスデン 奏でられる楽団史』慶應義塾大学出版会、2009年。ISBN 978-4-7664-1616-9 
  • 歌崎和彦 編『証言 日本洋楽レコード史』 戦後編・、音楽之友社、2000年。ISBN 4-276-21254-5 
  • 出谷啓「カエターニ, オレグ」『最新 世界の指揮者名鑑866』音楽之友社〈ONTOMO MOOK〉、2010年。ISBN 978-4-276-96193-7 
  • 「伝統重視の演目でベルリン国立歌劇場公演 ドイツ統一後初の来日へ」『朝日新聞』1990年10月9日、夕刊、15面(娯楽面)。
  • 東条碩夫「児玉 宏」『最新 世界の指揮者名鑑866』音楽之友社〈ONTOMO MOOK〉、2010年。ISBN 978-4-276-96193-7 
  • 戸羽晟『歌の国スウェーデン クラシック音楽ガイド』新評論、2008年。ISBN 978-4-7948-0777-9 
  • 野崎正俊『日本のオーケストラを指揮した 世界のマエストロ列伝』芸術現代社、2010年。ISBN 978-4-87463-189-8 
  • 藤田由之 著「スヴィトナー」、下中邦彦 編『音楽大事典』 シ – テ、平凡社、1982年。 
  • 堀正文「ゲミューリヒカイトなマエストロ」『レコード芸術』第59巻第3号、音楽之友社、2010年3月1日、166頁。 
  • 村田武雄(編)「Suitner, Otmar オットマール・スウィトナー」『演奏家大事典』II、音楽鑑賞教育振興会、1982年。 
  • 森澄人「スウィトナー、オトマール」『名演奏家事典』 中(シミ〜フレイレ)、音楽之友社、1982年。ISBN 4-276-00132-3 
  • 諸井誠「感動と疑問と ベルリン国立歌劇場日本公演を観て」『音楽芸術』第41巻第7号、音楽之友社、1983年7月、64-66頁。 
  • 諸井誠『オペラの時間』中央公論社、1988年。ISBN 4-12-001726-5 
  • 吉田純子「聴衆の好奇心、育てたい 指揮者・児玉宏、東京で20日に公演」『朝日新聞』2010年3月5日、3面。
  • 「若手起用し仙台フィル再出発 梅田氏、春から常任指揮者に」『朝日新聞』2000年1月21日、朝刊、27面(宮城面)。

外部リンク

[編集]