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利用者:Haydar/下書き3

ダヤン・ハーンの加筆部分


生い立ち

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のちにダヤン・ハーンとなるバト・モンケは、チンギス・ハーンの末裔として15世紀当時のモンゴル高原においてハーンになる資格を唯一有する家系とみなされたボルジギン氏に生まれた。しかし、彼以前の時代には、後述する政治的混乱のためにチンギス・ハーン一族の記録や伝承が混乱しており、バト・モンケからチンギスに至る系譜は確実ではない。ただ、傍証やのちの時代の系譜書から、歴史家は彼がフビライの後裔にあたると考えている。

チンギス・ハーン以来、モンゴルではボルジギン氏、特にチンギス・ハーンの末裔を君主に建てるチンギス統原理に基づき、代々、チンギスの末裔がハーン位についていた。しかし、16世紀に砂北で勢力を強めていたオイラト部のエセン・タイシがモンゴル王族を皆殺しにし、ハーン位につくなど、一時期、チンギス統原理は崩れた。

しかし、チンギス・ハーンの末裔の生き残りであるバヤン・モンケが、1452年オイラトエセン・ハーンが義兄であるモンゴルのトクトア・ブハ・ハーンを殺害してモンゴルの王族を皆殺しにしたとき、母がエセンの娘であったために殺害を免れ、バト・モンケはその王子として生まれた。かくして、ダヤン・ハーンはチンギス・ハーンの血をひくほとんど唯一の王族となった。しかし、幼くして里子に出されたともいわれ、そのため王族ではあったが政治的には全く注目されていなかったとされる。

17世紀半ばにサガン・セチェンが著した『蒙古源流』によると、バト・モンケは、上述のトクトア・ブハ・ハーンの次男であったアクバルジ晋王の嫡子ハルグチャクの息子バヤン・モンケ・ボルフ晋王(ジノン)と、ウルウト部出身のシキル太后(ハトン)の息子と伝えられる。

父のボルフ晋王は、エセン・ハーンの娘セチェクであり、祖父ハルグチャクがエセンの即位の後に謀殺されると、エセンは妊娠中のセチェクに出産したハルグチャクとの子が男児だった場合、殺すように命じた。しかしセチェクはこれを女児と偽り、曾祖母でエルベク・ハーンの娘サムル公主のオルドで匿ってもらったという。サムルはこの曾孫をバヤン・モンケと名付けたが、孫のエセンの執拗なモンゴル王族の殺害を避けるため、麾下の諸将とはかって秘かにモンゴルの残余勢力に身柄を引き渡すことにした。この逃避行の間にウルウト部の首長オロチュは娘のシキルをバヤン・モンケに嫁がせたという。エセンが滅ぼされた後、1475年に大叔父のマンドールン・ハーンが即位したが、


モンケの宗室表下書き。

宗室

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系譜情報については『元史』および『集史』などイルハン朝ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。

妻妾

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基本的に『元史』「后妃表」による。

皇后

  • 火里差 皇后[1]
  • 忽都台 皇后[2]
  • 也速兒 皇后[3]
  • 出卑 三皇后[4]
  • 明里忽都魯 皇后

その他の皇后

  • オグル・ガイミシュ[5]
  • バヤウチン[6]

子息

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『集史』『高貴系譜』などのペルシア語文献では男子4名・女子3名が確認されるが、『元史』では男児は5人としている。モンケの子孫の情報については『集史』系の情報と『元史』系の情報とではいくつか異同が見られる。
(『元史』「宗室世系表」では「長 班禿 大王 ; 次二 阿速歹 大王 ; 次三 玉龍答失 大王 ; 次 四 河平王 昔里吉 ; 次五辯都、早卒無嗣。」とあり、本節では『元史』の記述に準拠する。)

・男子

  • 長男 バルトゥ(班禿大王)[7]
  • 次男 アスタイ(阿速歹 大王)[8]
  • 三男 ウルン・タシュ(玉龍答失大王)[9]
  • 四男 シリギ(河平王 昔里吉)[10]
  • 五男 辯都[11]

・女子

『集史』『高貴系譜』などのペルシア語文献ではモンケには女子が3名が確認される。
  • 長女 バヤルン 母 クトクタイ・ハトゥン
  • 次女 シーリーン 母 オグル・ガイミシュ
  • 三女 ビチケン 母 同上

脚注

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  1. ^ コンギラト部族の一派コルラス部族出身。フランスの東洋学者 E. Blochet の説によれば「火里差」とは
  2. ^ コンギラト部族出身。『元史』卷一百一十四 憲宗后忽都台伝および卷一百一十八 特薛禪伝によれば、ボルテの弟アルチ・ノヤン(按陳)の息子ムカチン(忙哥陳)の娘であるという。しかし、『集史』「モンケ・カアン紀」および「コンギラト部族誌」のイキレス部族条よると、同一人物と思われるモンケの筆頭大皇后(khātūn-i buzurug-tarīn)、クトクタイ・ハトゥンはイキレス部族出身であり、チンギスの母ホエルンの兄弟で、チンギスの最年長の娘コジン・ベキの婿となったブトゥ・キュレゲンの孫娘であり、このブトゥの息子フウルダイ・キュレゲンの娘であるといい、『元史』と『集史』では記述に食い違いがある。『集史』「モンケ・カアン紀」によると、このクトクタイ・ハトゥンはバルトゥとオルン・タシュの男子二人とバヤルンという女子を儲け、このうちオルン・タシュの息子にはサルバン、クンチャク兄弟がいたという。
  3. ^ 忽都台の妹。
  4. ^ 1259年にモンケの南宋遠征に従い南下したが、同年8月にモンケが陣没。彼女も翌9月25日六盤山で死去したという。
  5. ^ オイラト部族長のクドカ・ベキの娘。モンケとの間には男子はいなかったものの、シーリーン、ビチケンという女子二人を生んだ。
  6. ^ バヤウト部族出身。シリギの母。
  7. ^ 集史』「モンケ・カアン紀」によると、モンケの筆頭大皇后クトクタイ・ハトゥンとの長男で、同母弟にウルン・タシュがいたという。
  8. ^ 『集史』「モンケ・カアン紀」によると、母はモンケの側室(クマ)のひとりクイ・イェベ(クイ・タニ)との息子。彼にはオルジェイ、フラチュ、ハントゥム、オルジェイ・ブカの4人の子息がいたといい、みなクビライに仕えたという。
  9. ^ 『集史』「モンケ・カアン紀」によると、母はモンケの筆頭大皇后クトクタイ・ハトゥンで、バルトゥの同母弟。また「モンケ・カアン紀」によればこのウルン・タシュにはサルバンとクンチェクという息子がおり、サルバンは「シリギの乱」に加わり、捕縛された皇子ノムガンをジョチ・ウルスの当主モンケ・テムルに引き渡したという。また、両人は若年で没したため子孫が居なかったとも。一方、『元史』「宗室世系表」では玉龍答失には撒里蠻 王と衞王 完澤がいたといい、衞王 完澤にはさらに郯王 徹徹禿がいたとあって両文献間の記述に食い違いがある。
  10. ^ 対カイドゥ遠征に派遣されたクビライの皇子ノムガンらが捕縛された、いわゆる「シリギの乱」の首班。『集史』「モンケ・カアン紀」によると、母はモンケの側室(クマ)のひとりでバヤウト部族出身のバヤウチン。「モンケ・カアン紀」によるとシリギにはトレ・テムルとトガン・テムルという息子がおり、トガン・テムルにはウルス・ブカという息子がいたという。一方『元史』「宗室世系表」でもシリギには二人の男児がいたことが記されているが、ウルス・ブカ(兀魯思不花 王)はシリギの息子のひとりとされ、その兄弟はホンホ・テムル(并王 晃火帖木兒)であるとする。またこのホンホ・テムルにはホングウ(嘉王 火兒忽)という息子がいたといい、ここでも『集史』との記述と食い違いを見せている。
  11. ^ 『元史』「宗室世系表」では世嗣を儲けぬうちに早世したという。また現在のところ『集史』にはこの人物に該当すると思われる人物は確認されていないようで、