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利用者:Koshinami/sandbox

利賀谷組とは、加賀藩越中国礪波郡に置かれた十村組の一つ。いわゆる五箇山地域の東半分を統括し、その領域は利賀谷小谷地域の諸集落で構成され、現代における旧利賀村の全域と旧平村の東部に相当する。

初期は名称が一定しておらず、十村役の名前を取って「金屋岩黒村九左衛門組」「岩渕村伊右衛門組」「祖山村太郎助組」などと呼ばれていたが、18世紀以後は「利賀谷組」の名称で固定する。本稿では便宜上「利賀谷組」の名称で統一する。

歴史

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加賀藩による五箇山支配は、(1)五ヶ山市助が4代にわたって五箇山全体70村の十村を務めた時期(1585~1651)、(2)五箇山が二つの組に分けられ、それぞれに五箇山出身の十村が任命された時期(1651~1759)、(3)平野部在住の十村が五箇山両組を一人ないし二人で才許した時期 (1759~1867)の三期に大きく分けられる[1]

五ヶ山市助

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「井波瑞泉寺記録」などによると、「元亀11年(1571年)に上杉謙信と和睦が結ばれた時、上杉方より上田隼人という者が人質に来て、その息子が五ヶ山に居住して梨の市助と名乗った」とされる[2]。一方、瑞願寺の寺伝では上杉謙信の末子、長尾小兵衛が養子に入って五ケ山梨市介と改名したとするが、いずれにせよ初代市助は五ヶ山の外から下梨道場に入った人物と伝えられている[2][3]

天正13年(1585年)に富山の役を経て佐々成政が越中を離れ、前田家による越中支配が始まると、初代市助が五箇山の取り纏め役として登場するようになる。天正16年(1588年)8月15日付けで「五ヶ山」に対して1年に1度の納所銭50貫文と、3年に1度の臨時納所銭50貫文の納入を命じる申渡状が瑞願寺に残されている[4]。この計100貫文は申渡状の伝達からすぐに納入されたようで、同年12月1日付けで前田利長から「五ヶ山市介」に対して出された確かに納所銭を受け取ったという請取書も現存しており、これが「市介(市助)」の初見となる[4]。この頃はまだ藩政の基礎も固まっておらず、支配も行き届いていない時期のため、加賀藩は市助という有力者を介することで税の徴収を図ったものとみられる[5]

続いて、文禄2年(1593年)10月21日には前田利長より諸役を免除することを申しつけた文書が下され、代官としての市助の立場は強化された[6]。ここからしばらく市助文書は途切れるが、慶長8年(1603年)分から税納の記録が残り始め、慶長10年(1605年)には天正年間の8倍近い金子30枚及び塩硝1,500斤が納入されたと記される[7]。慶長9年(1604年)には越中における検地が始まっており、加賀藩の地方支配も末端まで行き届くようになったため、この頃急激な税額の増大がなされたようである[8]

また慶長10年(1605年)付けの市助宛申付状で「代官を申付けないので、市助が策配するように」という旨の記述があり、この頃には公的に市助が五ヶ山納所の責任者に任じられていたことが分かる[4]

二代目市助

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二代目市助は初代市助の息子で、慶長11年(1606年)より父の地位を継いで代官職を務めたとされる[2][9]

慶長12年(1607年)には、見座村九郎左衛門が五箇山の年貢を金子30枚から40枚に引き上げる申出(手上げ)を行うという問題が起こった[7][10]。後に明暦3年(1657年)にも見座村は同様の申出をしているが、その時は「納入する金子を増加する代わりに、私にも代官職(十村)を申しつけていただきたい」旨を申し出ている。このため、慶長12年の時も見座村九郎左衛門は五箇山の代官職を得るために行動を起こしたようである[11]

これを受けて、市助も見座村九郎左衛門と同様に金子30枚から40枚に増額する事を申し出、慶長12年4月2日付けで加賀藩からこれを公認された[12]。これと同時に、連判状に署名した百姓たちに耕作地を渡すという措置がなされている[13][12]。結局見座村九郎左衛門が代官職を得ることなく、市助の代官職はそのままとされたため、この1件は五箇山全体の納税額が上がるだけの結果に終わった[14]

これ以後、三代目市助に代替わりするまで「金子40枚・塩硝2千斤」の納入が続けられている[13]

三代目市助

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三代目市助は二代市助の息子で、元和3年(1617年)より父の地位を継いで代官職を務めたとされる[2][9]

二代目から三代目の代替わり直後、元和4年(1618年)には坂上西勝寺が5枚、元和5年(1619年)には三代目市助が20枚の手上げを申し出た[10]。これも慶長12年の手上げと同じく、市助の代替わりを好機と見た坂上西勝寺が代官職を得ようと増税を申し出たが、市助側もそれ以上の増額を申し出てこれを防いだという1件であったようである[15]

元和7年(1621年)からは納入の宛名が「市助」ではなく「宮崎蔵人・生田四郎兵衛」と記されるようになり、宮崎・生田の両名が新たに五箇山の代官に任命されている[13]。もっとも、加賀藩への納入文書はこれ以後も瑞願寺に残されているため、引き続き代官職の実務は市助が務めていたようである[16][13]

四代目市助

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四代目市助は三代市助の息子で、寛永11年(1634年)より父の地位を継いで代官職を務めたとされる[2][9]

四代日市助の時代には五箇山の環境を大きく変える事件が起こっており、その一つは慶安2年(1649年)の井波瑞泉寺の西本願寺派から東本願寺派への転向である[17]。『瑞泉寺由来記』によると、瑞泉寺は勝興寺と同格に扱うよう京都の西本願寺本山に願い出、この時瑞泉寺住持の良宣は高岡板屋六兵衛と梨子之市助(=四代目市助)を同道していたという[17]。しかし勝興寺の工作によって良宣らは座敷牢に入れられてしまったため、なんとか牢から脱出した良宣は東本願寺に逃げ込み、この事件を切っ掛けに瑞泉寺及びその末寺は揃って東本願寺に転向することとなった[18]。なお、東本願寺に入る際、市助は瑞泉寺ほどの大坊が台所門から入れられるのを無念とし、大声で式台門を開くよう呼びかけたため、良宣らは堂々と式台門から入ることができた、という逸話が伝えられている[18]

もう一つの大きな変革は、慶安4年(1651年)より市助と同格の代官職が新たに任命されたことである。これより先、寛永19年(1642年) – 寛永20年(1643年)には寛永の大飢饉が起こっており、恐らくは飢饉対策で代官職が多忙となったこと、また飢饉を切っ掛けに改作法が導入されたことにより五箇山でも新たな統治体制が模索されていた[19]。このような背景をもとに、慶安4年に五箇山は西半の赤尾谷・上梨谷・下梨谷、東半の小谷・利賀谷に分けられ、西半は引き続き市助が、東半は新たに細嶋村源太郎が代官職を務める体制が始まった[19]

五ヶ山の諸村を二つの組に分け、それぞれ代官職(十村)を置くという形式は江戸時代を通じて定着し、後に西半の組は「赤尾谷組」、東半の組は「利賀谷組」と呼ばれるようになった[1]

五代目市助

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五代目市助は四代市助の息子で、寛文3年(1663年)より父の地位を継いで代官職を務めたとされる[9]

寛文10年(1670年)、加賀藩が城端町・井波町商人が五ヶ山農民に前貸しを行うことを許可した文書があるが、これこそ江戸時代の五ヶ山統治に多大な影響を与えた「判方制度」の始まりであると指摘されている[20]。これ以後、貸米・作食米・塩代銀にかかる文書が残るようになり、寛文11年(1671年)から延宝7年(1679年)までの文書が瑞願寺に所蔵されている[21]。このほかにも、寛文年間の五ヶ山材木の川流し請負などにかかる文書も残されている[21]

五代目市助は元禄元年(1688年)まで代官職を務めたが、代替わりの時点で後継者が幼少であったため六代目市助に任命されなかった[2]。そこで松尾村与次兵衛が後任とされ、ここに五代百年にわたる市助の五ヶ山支配は終わりを迎えた[19]

五ヶ山市助

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源太郎の十村役就任について、宝暦年間(1751年-1764年)ころの成立とみられる 「宅左衛門覚書」では、「四代の市助より、五ヶ山の内利賀谷・小谷村役細嶋村顕太郎に仰せつけられ、両人にて五ヶ山村役相勤候」と記されている[22]。これに合わせ、それまで市助一人に与えられていた十村扶持銀1500目が、4代目市助と源太郎で等しく分割されている[23]。また、承応3年(1654年)に藩主が召し上げた五ケ山紙の値段に関する文書でも「十村下梨村市助、十村細嶋村源太郎、与頭小谷 宗右衛門」として市助と同格の立場で署名している[24]。後述する源太郎の息子四郎右衛門が残した文書では「四郎右衛門は享保8年(1723年) 時点で82歳」旨の記述があり、逆算すると源太郎は1620年ころの生まれで、十村役に就いたころは30歳過ぎであったと推定される [25]

この頃の細嶋村源太郎の立ち位置をうかがい知れる史料として、寛文元年(1661年)付けで城端町肝煎に宛てた文書の署名欄に次のように記載される。

(本文略) 寛文元年十二月十日 城ヶ端門殿

五ヶ山十村下梨村市助
同与合頭皆葎村 太郎左衛門 印
同   新屋村 太郎右衛門 印
同   見座村 市右衛門  印
同   入谷村 甚助   判印

十村組 細島村 源太郎  判印 — 城ヶ端町肝煎 助左衡門殿宛文書

この文書の署名により、源太郎が市助と同格の「十村」役であったことが確認される [22]。なお、同文書中の 「与合頭(くみあいがしら)」は「五ヶ谷(赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷)」に置かれたものであるが、「利賀谷」のみ与合頭名がない[26]。そのため、細嶋村源太郎が利賀谷の与合頭を兼ねていたと想定し、源太郎が市助より格下の「十村加人のようなもの」であったと考える説もある[27]。これに対し、『利賀村史2 近世編』では万治2年(1659年)の文書に「与頭(上利賀村)太右衛門」の名が見られることを紹介し、細嶋村源太郎が利賀谷の与合頭を兼ねていたという説は成り立たないと指摘している[28]。あわせて、寛文元年付け文書に利賀谷の与合頭が署名しないのは、利賀谷が井波町の商圏であって城端町とは関係が薄かかっためで、むしろ利賀谷組と赤尾谷組の担当区域が明確に分かれていた証左であると考証している[28]

万治3年(1660年)には、5代藩主前田綱紀の婚礼祝賀のために加州(加賀)・能州(能登)・越中3か国よりそれぞれ4人ずつ十村が江戸まで出向くこととなったが、五ヶ山は特別な地域であるとして、源太郎もこれに加わるよう命じられた[25]。同年7月に江戸に就いた源太郎は、鶴の料理を馳走され、玉子色の唯子一枚と白銀一枚を賜ったと記録されている[29]。更に寛文元年(1661年)7月に5代藩主前田綱紀が初めて越中に入国した際には、源太郎・四郎右衛門父子は今行動でこれを出迎え、金沢までお供したという[30]

しかし寛文10年に源太郎が引退した時、役職は息子に受け継がれることなく、金屋岩黒村九左衛門が跡を継いでいる[31]。享保8年(1723年)に源太郎の息子四郎右衛門が藩から下賜された物品について記載した文書が残っており、この文書から上述の源太郎が江戸に出向した経緯や、その間四郎右衛門が名代を務めていたことなどが明らかになっている[23]

源太郎の子孫は、以後代々の当主が四郎右衛門を名乗り、江戸時代末期まで細嶋村念仏道場の道場坊を勤めた[30]。明治維新後は前川の姓を名乗るようになっている[30]。また、現在細島熊野社が所蔵する旧御神体は、「十村の四郎右衛門(源太郎と息子の四郎右衛門を混同しているが、実際には源太郎を指す)」が手ずから彫ったものと伝えられている[30]。旧御神体の背面には「慶安五年九月吉日 源太郎 献仏」と彫られており、源太郎が十村となって1年目に作成されたものであったと分かる[30]

前田家加賀藩による五箇山統治が始まった時、加賀藩は瑞泉寺下梨道場(後の瑞願寺)の五ヶ山市助を代官(十村)として支配する形式を取った[4]。天正13年(1585年)の初代五箇山市助の任命後、5代100年に渡って市助家は代官職を世襲したが、慶安4年(1651年)からは同格の十村として細嶋村源太郎が任命された[19]。源太郎は五箇山東半(小谷・利賀谷,「利賀谷組」と呼ばれる)を、市助は五山西半(赤尾谷・上梨谷・下梨谷,「赤尾谷組」と呼ばれる)をそれぞれ統括し、これ以後五箇山を二分割して統治する体制が確立する[1]

細嶋村源太郎の引退後、寛文2年(1662年)から寛文10年(1670年)にかけては金屋岩黒村九左衛門(細嶋村九左衛門)が後任として十村組を務めた[31]。九左衛門は組外から十村役に任命される「引越十村」であったが、名義のみで実際には金屋岩黒村に在住したまま役目をこなしていたようである[32]

寛文10年に九左衛門が引退した後、後任となって延宝5年(1677年)まで十村役を務めたのが坂上村太兵衛であった[33]。坂上村太兵衛の引退後は祖山村太郎助が跡を継ぎ、口伝によると太兵衛の子孫は井波町に移住して小西家を称したという[33]

細嶋村源太郎が延宝5年(1677年)8月に役目を退いたとき、その地位を継いだのが祖山村太郎助である。赤尾谷組の方でも市助から松尾村与次兵衛に代替わしていたため、太郎助は主に与次兵衛と連携して十村職を務めた[33]

初代太郎助の時代の元禄3年(1690年)、池田田七らが祖山村に流刑となっているが、これは記録に残る最初の五箇山への流刑であった[34]

元禄4年(1691年)と同7年(1694年)には加賀藩が領内全域の物産調査を行い、調査結果を「元禄中農隙所作村々寄帳」にまとめている[35]。五箇山東半は「祖山村太郎助与」として言及され、中折紙・塩硝・塩付ぜんまい・堅炭などが物産として挙げられるほか、大牧村の温泉についても言及されている[35]

二代目太郎助

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正徳3年(1713年)12月に初代太郎助が引退した後、翌年の正徳4年(1714年)5月28日より地位を継いだのがその息子二代目太郎助であった[36]

正徳4年時点では太郎助家の持ち高は86石5勺であったと記録されている[37]。また、享保15年と享保19年の戸数を比較した古文書が残っており、これによると15年時点では利賀谷組に410軒あったが、同19年時点では357軒となっている[38]。戸数減少の内訳についても記載があり、走り百姓(逃亡)が5軒、死絶が7軒、41軒は奉公などで家を出たものと記録されている[38]

享保16年(1731年)4月4日に二代目太郎助は引退したが、なんらかの理由で約1年に渡って赤尾谷組の十村であった下梨村宅左衛門が一時的に利賀谷組の十村を兼任した[36]。下梨村宅左衛門のように次の十村が決まるまで暫定的に十村役を担う者は「当分才許」と呼ばれていた[39]

三代目太郎助

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下梨村宅左衛門の当分才許を経て、享保17年(1732年)6月16日より三代目太郎助が利賀谷組の十村となった。

享保17年中には下梨村宅左衛門とともに五箇山の地すべりに関する記録を郡奉行に提出しており、当時の五箇山では地すべりのことを「蛇喰」や「貝喰」と呼んでいたことが記されている[40]

享保19年(1734年)には「祖山村太郎助出来雑穀図り書」が作成されている[41]。また、同年中には利賀谷組の蚕糸の年間生産高についても記録が残されている[42]

享保19年12月16日に三代目太郎助が引退した後、同年12月からは再び下梨村宅左衛門が「当分才許」を務めている[43]。 その後、元文5年(1740年)7月13日からは岩渕村伊右衛門が利賀谷組の十村となったが、祖山村の大槻騒動によって失脚し、これ以後利賀谷には五箇山出身の十村は任命されなくなる[39]




赤尾谷組とは、加賀藩越中国礪波郡に置かれた十村組の一つ。いわゆる五箇山地域の西半分を統括し、その領域は赤尾谷上梨谷下梨谷地域の諸集落、旧上平村の全域と旧平村の中西部に相当する。

初期は名称が一定しておらず、 十村役の名前を取って「下梨村市助組」「下梨村宅左衛門組」「大牧村六郎右衛門組」などと呼ばれていたが、18世紀以後は「赤尾谷組」の名称で固定する。本稿では便宜上「赤尾谷組」の名称で統一する。

総代[44]

明和8年(1772年) 文化9年(1811年) 嘉永4年(1851年) 文久3年(1864年)の文書で意屋と確認できる[45]

明和元年(1765年)、塩硝の値上げを要求[46]

天保13年(1842年)、25株を保有[47]

天保の改革後、従来通りの上煮株の維持を願い出たが、文久3年(1863年)に「株仲間」の廃止{{sfn|平村史編纂委員会|1985|p=437)。


天保年間には日本全域で大飢饉が発生し(天保の飢饉)、 越中国においては天保7年(1836年)末から翌天保8年(1837年)夏にかけて餓死者が続出した[48]。これを受けて、加賀藩では宿老奥村栄実を中心とする改革が進められ(天保の改革)、五箇山地域では天保8年に制定された借財方仕法と高方仕法が多大な影響を与えた[48]。高方仕法の趣旨は質入高町人持高の没収、 掛作高の買戻しを通じて五箇山百姓の生活を安定化させることにあったが、一方で多数の掛作高を有していた豪農の没落ももたらした [49]

利賀谷組では岩渕村伊右衛門が五箇山屈指の豪農として知られていたが、多数の掛作高の没収、当主の散財により急速に没落してしまった。 江戸時代中期には、利賀谷の岩渕村伊右衛門、赤尾谷の中田村助九郎西赤尾町村長右衛門の三名が五箇山を代表する豪農に成長し、多くの百姓から借財のかたとして得た掛作高を保有していた[50]。小谷・下梨谷・上梨谷には上記三名に匹敵する豪農が存在せず、多くの村人は豪農たちや城端町人からの借財によって生計を立てていた[50]。しかし、天保の飢饉をきっかけとして天保8年(1837年)に高方仕法が施行されると、豪農たちは掛作高を没収され、西赤尾町村長右衛門などは当主の散財もあいまって急速に没落した[51]。一方で、このころに小谷の下出村仁兵衛、下梨谷の籠渡五兵衛らが飛躍的に持ち高を増やすという事例もあった[52]

安政5年(1858年)に長崎村茂右衛門騒動が勃発。 宝暦9年(1759年) 三清村仁九郎・大西村加伝次 安永3年(1774年) 9月18日 : 大牧村六郎右衛門 安永8年(1779年)8月:大西村加伝次・金屋本江村鐘右衛門 天明3年(1783年) 2月24日 : 三清村与五右衛門・大西村加兵衛 寛政11年(1799年) 和泉村市右衛門・宮丸村次左衛門 文化5年(1808年) 宮丸村次左衛門・和泉村彦三郎 文化8年(1811年): 和泉村彦三郎 文化9年(1812年): 和泉村彦三郎 宮丸村次郎四郎し 文政2年(1819年)2月21日 : 大西村加左衛門 指加


天保の高方仕法 阿弥陀如来来迎図 入谷の不動明王坐像・ 栗当の不動明王磨崖像・ 南大豆谷村土地文書: 五箇山民謡: 五箇山塩硝:単独記事作成。 五箇山生糸: 河上糸で作成? 三笑楽: 単独記事作成。 旧五箇山街道峠道:単独記事 作成。渡原の大栃: 単独記事作成。 坂上のカツラ:単独記事作成。 越中五箇山相倉集落 : 単独記事作成。 越中五箇山菅沼集落: 単独記事作成。

富山県 (旧越中国) 南西部の山岳地帯に位置する五箇山地域では、古来より平野部に出るための峠道が複数整備されていた。その中でも、最も往来の多かった朴峠道が「旧五箇山街道峠道」として南砺市の指定文化財とされている。 (文化財)。 ○概要:〇旧五箇山街道峠道.所在地 南砺市若杉梨谷・相倉・上梨・高草嶺・杉尾 指定年月日 昭和58年10月14日 平成13年12月18日 (平成18年11月28日に統合)五箇山と城端を結ぶ峠道は小瀬峠道・細尾峠道・杉尾峠道などがあるが、朴峠道は古来より最も往来の多かった峠道である。人や牛の背によって、五箇山で生産された塩硝紙生糸などを搬出し、桑や楮などの原料米や生活物資はすべて搬入された。また、加賀藩から五箇山へ送られる流刑人の通る道でもあった。 起点である城端町東新田から打尾谷口までの道は、ほ場整備のため全く残っていない。若杉集落跡の上部を通る林道から唐木峠(682メートル)までの登り道は、自然石を敷いた石畳が残っており往時がしのばれる。唐木峠よ人食い谷を迂回する 「横わたり」をこすと朴峠 (849メートル)に着く。ここが平地区との境界になる。峠道としてはここが唯一冬期間も利用されたので、峠には明治35年([[1902}} まで常住のお助け小屋があった。明治時代には梨谷川岸で採集された石灰石が農薬として利用されたので、この峠道は歩荷衆で賑わった。



集落名 旧表記 十村組 市町村 寺院 神社
成出 - 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 - 成出八幡社
かうす 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 聖光寺 楮八幡宮
真木 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 - 東赤尾八幡宮
東赤尾 上野 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 -
新屋 - 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 道善寺
上中田 中田 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 上中田道場 少彦名社
田下 田ノ下 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 -
菅沼 - 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 - 菅沼神明社
小瀬 - 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 - 小瀬神明社
漆谷 - 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 漆谷道場 漆谷住吉社
赤尾谷 赤尾谷組 上平村 - 桂八幡宮
打越 - 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 - 氏神無之村
下島 下嶋 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 下島道場 西赤尾八幡社
西赤尾町 赤尾 赤尾谷 赤尾谷組 上平村 行徳寺
細島 - 上梨谷 赤尾谷組 上平村 鳥羽野万法寺下 細島道場 細島熊野社
葎島 - 上梨谷 赤尾谷組 上平村 葎島道場 素戔嗚男社
小原 - 上梨谷 赤尾谷組 上平村 鳥羽野万法寺下 小原道場 乙劍社
猪谷 - 上梨谷 赤尾谷組 上平村 猪谷熊野社
皆葎 - 上梨谷 赤尾谷組 上平村 皆蓮寺 皆葎住吉神社
上梨 - 上梨谷 赤尾谷組 平村 円浄寺 上梨白山宮
田向 - 上梨谷 赤尾谷組 平村 光明寺 田向住吉社
下梨 - 下梨谷 赤尾谷組 平村 瑞願寺 下梨地主神社
大島 下梨谷 赤尾谷組 平村 称名寺 竈神社
籠渡 - 下梨谷 赤尾谷組 平村 城端瑞泉寺下 籠渡道場 籠渡白山社
上松尾 松尾 下梨谷 赤尾谷組 平村 井波誓立寺下 松尾道場 松尾薬師社
小来栖 小来数 下梨谷 赤尾谷組 平村 井波誓立寺下 小来栖道場 小来栖神明宮
来栖 来数 下梨谷 赤尾谷組 平村 見覚寺 来栖春日社
中畑 中畠 下梨谷 赤尾谷組 平村 本教寺 氏神無之村
見座 - 下梨谷 赤尾谷組 平村 見覚寺 見座愛宕社
相倉 - 下梨谷 赤尾谷組 平村 相念寺 相倉観音堂
梨谷 - 下梨谷 赤尾谷組 平村 井波誓立寺下 梨谷道場 梨谷神明宮
田代 - 下梨谷 赤尾谷組 平村 - 氏神無之村
杉尾 - 下梨谷 赤尾谷組 平村 金戸専徳寺下 杉尾道場 杉尾神明社
下出 - 小谷 利賀谷組 平村 古国府勝興寺預 下出道場 小谷神社
東中江 中江 小谷 利賀谷組 平村 出町真光寺下 中江道場 東中江神明社
高草嶺 - 小谷 利賀谷組 平村 坂上西勝寺下 高草嶺道場 高草嶺熊野社
夏焼 - 小谷 利賀谷組 平村 坂上西勝寺下 夏焼道場 夏焼神明社
入谷 - 小谷 利賀谷組 平村 出町真光寺下 入谷道場 入谷神明社
寿川 須川 小谷 利賀谷組 平村 古国府勝興寺預 寿川道場 寿川愛宕社
大崩島 - 小谷 利賀谷組 平村 池尻真光寺下 大崩島道場 大崩島愛宕社
祖山 惣山 小谷 利賀谷組 平村 井波光教寺下 祖山道場 祖山熊野社
障子倉 - 小谷 利賀谷組 平村 - 障子倉神明社
- 小谷 利賀谷組 平村 - 城熊野社
渡原 - 小谷 利賀谷組 平村 池尻真光寺下 渡原道場 渡原神明社
大牧 - 小谷 利賀谷組 利賀村 - 大牧熊野社
重倉 - 小谷 利賀谷組 利賀村 - 氏神無之村
長崎 - 小谷 利賀谷組 利賀村 - 蔦崎社
北原 - 小谷 利賀谷組 利賀村 - 北原八幡社
仙野原 仙原 小谷 利賀谷組 利賀村 - 仙野原愛宕社
新山 荒山 小谷 利賀谷組 利賀村 - 新山八幡社
栃原 - 小谷 利賀谷組 利賀村 井波瑞泉寺下 栃原道場 鳥屋神社
下原 - 小谷 利賀谷組 利賀村 - 下原八幡宮
水無 水並 利賀谷 利賀谷組 利賀村 - 水無八幡宮
大勘場 鷹見場 利賀谷 利賀谷組 利賀村 祖谷本敬寺下 大勘場道場 大勘場八幡宮
阿別当 あへつたう 利賀谷 利賀谷組 利賀村 祖谷本敬寺下 阿別当道場 阿別当神明宮
坂上 - 利賀谷 利賀谷組 利賀村 西勝寺 坂上八幡宮
上畠 上畑 利賀谷 利賀谷組 利賀村 坂上西勝寺下 上畠道場 上畠神明宮
細島 細嶋 利賀谷 利賀谷組 利賀村 坂上西勝寺下 細島道場 細島熊野社
北島 - 利賀谷 利賀谷組 利賀村 - 北島神明社
岩淵 岩渕 利賀谷 利賀谷組 利賀村 坂上西勝寺下 岩渕道場 岩淵蛭子社
利賀 下栂 利賀谷 利賀谷組 利賀村 興真寺 利賀神明宮
下島 下嶋 利賀谷 利賀谷組 利賀村 - 下島神明宮
大豆谷 南大豆谷 利賀谷 利賀谷組 利賀村 真聞寺 大豆谷八幡宮
北豆谷 北大豆谷 利賀谷 利賀谷組 利賀村 斎光寺 北豆谷神明社
押場 小柴 利賀谷 利賀谷組 利賀村 誠願寺 押場神明宮
草嶺 草嶺倉 利賀谷 利賀谷組 利賀村 - 草嶺八幡宮
高沼 宮沼 利賀谷 利賀谷組 利賀村 - 高沼八幡宮
栗当 九里ケ当 利賀谷 利賀谷組 利賀村 井波光教寺下 栗当道場 栗当神明社
上百瀬 上百瀬川 利賀谷 利賀谷組 利賀村 坂上西勝寺下 上百瀬道場 上百瀬神明宮
百瀬川 下百瀬川 利賀谷 利賀谷組 利賀村 - 百瀬川加茂社



道宗(どうしゅう、生年不詳 - 1516年)は、室町時代後期の浄土真宗信徒。俗名は弥七または弥七郎越中国五箇山赤尾谷の出身であることから赤尾の道宗とも称される。

蓮如の教化を受け、浄土真宗の教えに傾倒し、自ら道場を開いて信仰の宣揚を図った。蓮如の御文を書写するとともに「道宗二十一箇条」を定め、真宗の信徒としてあるべき道を極めることを試みた。行徳寺南砺市西赤尾)や道善寺(南砺市新屋)の開基となったと伝えられている。早くから往生人の一人に数えられ、後世妙好人の代表とされた。

生没年

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道宗の生没年について、没年に関してのみは後述の『実悟記』により永正13年(1516年)に亡くなったことが明らかである[53][54]。一方、生年については記録がなく、享年については様々な後世の伝承があるため、諸説あって定説が確立されていないのが現状である[55]

古くから知られているのは行徳寺の寺伝に基づく享年65歳説であり、最も早く道宗に関する研究を行った橋川正は「延徳3年の蓮如との出会い時点で30歳未満」という同時代の記録に基づき、「道宗は天文年間初めに65歳で没した」と論じた[56]。しかし橋川以後の研究者は『実悟記』所載の「道宗永正13年没」が「延徳3年の蓮如との出会い時点で30歳未満」と上手く整合しないことを重視し、「享年65歳説」を誤伝と見なす見解が主流である[57]

これに対し、多くの研究者が支持するのが『越中赤尾道宗物語』に基づく享年55歳説で、これと「永正13年没」を合わせると延徳3年時点で29歳となり、同時代史料の記録とよく合致する[58]。また、この史料は江戸時代中期の成立であることが明らかであり、行徳寺寺伝よりも古い成立であると見られることも、享年55歳説が支持される理由の一つである[59]

近年では、金龍静が道善寺所蔵『東赤尾村道宗一代記』の記録に基づき、享録4年(1531年)2月20日に亡くなったとする説を紹介している[54]。同じく道善寺所蔵の『天十物語』では晩年の道宗が「没後の信心のことは瑞泉寺賢心に問え」と述べたと記されているが、賢心は永正13年時点で27歳、享禄4年時点で42歳のため、この所伝が正しければ享禄4年没が自然となる[54]

以上の諸説を踏まえ、2022年に出版された『妙好人が生きる とやまの念仏者たち』などでは享年55歳説に基づいて「1462年生〜1516年没」とした上で、65歳死去説が別にあることを注記する形をとっている[60]

同時代史料での道宗

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五箇山での真宗の広まり

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道善寺の阿弥陀如来を本地とする熊野権現信仰、上梨白山宮の阿弥陀如来立像、信濃善光寺如来の道宗へのお告げ⇒汎浄土宗的念仏信仰が先に広まっており、真宗の教えはなかなか広まらなかった(県史739-740)。

蓮如への師事

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道宗が真宗の教えに帰依するに至った経緯について、後世の伝承では様々に語られているが、同時代史料としては下記の行徳寺所蔵蓮如御文が最も重要で基本的史料となる[61][62]

ちかごろの事にてやありけん。ここに越中国赤尾の浄徳といふものの甥に、弥七といいしをとこありけるが、年はいまだ三十にたらざりしものなりけるが、後生を大事と思て、仏法に心をかけたるものなり。然れば此六年のさきより当年まで、毎年上洛せしめて、其内に年をとる事六年なり。かの男のいはく、当流の安心のやうかたのごとく聴聞仕り候といへども、国へくだりて人をすすめけるに、さらに人々承引せざるあひだ、一筆安心のをもむきを、ふみにしるしてたまはるべき由しきりに所望せしめて、田舎へまかりくだりて、人々にまふしきしめんと申すあひだ、これをかきくだすものなり。 — 『蓮如御文』明応5年2月28日条[62]

この御文によると、「越中国赤尾の浄徳の甥である弥七(=道宗)は、30歳未満の時に蓮如に面謁し、それから6年にわたって毎年上洛した後、明応5年(1496年)2月28日に御文を下された」という。また、これとは別に『捨塵記』には長享年間1487年-1489年)に道宗が蓮如に面謁したとの記録もある[59]。いずれにせよ、道宗が蓮如に面謁し教えを受けたのは、蓮如晩年の山科本願寺在住時代(1483年-1532年)のことであった。

なお、「道宗が30歳未満であった」時点を「御文が下された明応5年時点」と見る説と、「初めて蓮如と面謁した延徳3年時点」と見る説の二通りがあるが、先述したように「永正13年に55歳で死去」の説にあわせて「延徳3年時点で29歳であった」と解釈する見解が主流である[63]


この頃、既に長享の一揆を経て加賀国の本願寺支配が始まり、越中西部(砺波郡)でも瑞泉寺・勝興寺による支配が強まっていたが、正しい真宗の教えが行き渡っているとは言えない状態にあった。このような情勢下で、正しい教えを受けるために毎年の上洛という難行を継続し


長享3年=延徳元年に初めて面会して、延徳3年から京で越冬(「霜月の始よりのぼりて12月まであり、又年ごもりして年明けぬれば2,3月に下りて」)するようになった[64]

蓮如御文に見られる徳行

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『蓮如上人御一代聞書』では3箇所において道宗について言及されており、これらの記述が後世の道宗伝承の基盤となっている。

一つ目は138条の記述で、以下のように記されている。(心がけ) (県史738-739)。

原文:あかをの道宗まうされさふらふ、一日のたしなみには、あさつとめにかかさじ、とたしなめ。一月のたしなみには、ちかきところ御開山の御座候ところへまゐるべし、とたしなめ。一年のたしなみには、御本寺へまゐるべし、とたしなむべし、と云々。これを圓如様きこしめしおよばれ、よくまうしたる、とおほせられさふらふ。
意訳:一日のこころがけとしては、朝のおつとめを欠かさぬこと、一月のこころがけとしては、親上人の御影を安置する処へ参ること、一年のこころがけとしては、本山へ参詣することであると道宗はいった。道宗のこの言を、実如の二男で、澄如の父であった円如がきいて、よくぞ申したとほめた。 — 『蓮如上人御一代聞書』138条[65]

・225条(聴聞)

原文:一ツ事を聞きて、いつも珍らしく、はじめたるやうに、信の上にはあるべきなり。 ただめづらしきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴間すとも、めづらしくはじめたるやうに、あるべきなり。道宗は、ただ一ツ御詞をいつも聴間申すが、はじめたるやうにありがたき申され候。
意訳:道宗は、一つのことを何度聴問しても、初聴間のように熱心にきき、そのたびごとに新しい信仰上の意を見出してはよろこび、有難く思ったということである。 — 『蓮如上人御一代聞書』225-226条[66]

・289条善知識

原文:善知識の仰せなりとも、成るまじき なんど思ふは、大きなる あさましきことなり、なにたる事なりとも、仰せならば成るべき、と存ずべし。この凡夫の身が仏になるうへは、さて なるまじき、と存ずることあるべきか。然れば道宗申され候、近江の湖を一人してうめよ と仰せ候とも、畏りたると申すべく候、仰せにて候はば、ならぬ事あるべきか、と申され候由に候。
意訳:善知識の仰せは、絶対のものであって、これを疑うのはそこに凡夫の小我のはからいが入るからである。凡夫が仏になる以上、なるまじと思うことは、全くあり得ない。道宗がいうには、ひとりして琵琶湖をうめよと仰せられたと仮定しても、自分はいささかの疑心もなくその仰せをかしこみ、それに従うという。 — 『蓮如上人御一代聞書』289条[66]

道宗心得二十ヶ条

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『蓮如御文』の記述はあくまで外から見た道宗のあり方であるが、道宗が自らの信心を率直に語った貴重な記録が行徳寺所蔵の『道宗心得二十ヶ条』である。

この内容は蓮如の「心中をありのままに言わざる者は、まことに無宿善なり」との言葉に従った改悔そのものであるといえる[67]。各条目は蓮如の残した言葉と類似の表現が随所に見える[67]。『道宗心得二十ヶ条』は全般に渡って信心為本・仏法為先の立場で記されており、世俗的問題については全く言及しないことも特徴である[68]。このために道宗の父母の名前さえ今に伝わっていないが、それ故にこそ道宗は

晩年

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後世の伝承での道宗

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行徳寺・道善寺所蔵文書

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江戸時代に入って以後、徐々に道宗にまつわる逸話が形成されていくが、その中核となるのは道宗による創建と伝えられる赤尾行徳寺と新屋道善寺となる。特に、道善寺所蔵の『天十物語』(天正十年)『新屋道場由来記』(寛政二年)『東赤尾村道宗一代記(※文末に「元禄2年8月10日これを書く」とあるが、本文中に「嘉永(実際には「嘉元」か)の記載があるため、実際にはもっと後代の編纂とみられる)』などは道宗についてのみならず、戦国期五箇山史研究の重要史料と位置付けられている(教育委員会47-48)。


「越中州赤尾道宗と云は、蓮如上人御在世の時一年に二度三度は上洛し、山科野村の御坊へ参りけり。遙の路をしげく上洛す。大儀たるべし、しげく上洛すべからずなど仰ければ、畏候と申ても猶上洛す。奇特の仏法者都鄙かくれなかりし仁也。俗の時は弥七郎 御文あそばし入らるゝ也とやらん云し事也。…………道宗は永正十三年月往生す。」

『拾塵記』(「蓮如上人事」条) 「越中五ヶ山内赤尾村に道宗といへる入道あり。若き時は弥七郎とぞ云ける若き時より仏法に心をかけて、年久ク

脚注

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  1. ^ a b c 利賀村史編纂委員会 1999, pp. 53–54.
  2. ^ a b c d e f 瑞願寺 1994, p. 2.
  3. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, pp. 57–58.
  4. ^ a b c d 平村史編纂委員会 1985, p. 275.
  5. ^ 瑞願寺 1994, p. 3.
  6. ^ 平村史編纂委員会 1985, p. 276.
  7. ^ a b 平村史編纂委員会 1985, p. 277.
  8. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, p. 13.
  9. ^ a b c d 利賀村史編纂委員会 1999, p. 57.
  10. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, p. 23.
  11. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, p. 26.
  12. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, pp. 24–25.
  13. ^ a b c d 平村史編纂委員会 1985, p. 278.
  14. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, pp. 26–27.
  15. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, p. 25.
  16. ^ 瑞願寺 1994, p. 14.
  17. ^ a b 平村史編纂委員会 1985, pp. 188–189.
  18. ^ a b 平村史編纂委員会 1985, p. 189.
  19. ^ a b c d 利賀村史編纂委員会 1999, p. 58.
  20. ^ 瑞願寺 1994, pp. 21–22.
  21. ^ a b 瑞願寺 1994, pp. 20–21.
  22. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, p. 59.
  23. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, p. 61.
  24. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, pp. 60–61.
  25. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, p. 62.
  26. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, p. 59-60.
  27. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, pp. 59–60.
  28. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, p. 60.
  29. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, pp. 62–63.
  30. ^ a b c d e 利賀村史編纂委員会 1999, p. 63.
  31. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, pp. 63–64.
  32. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, p. 64.
  33. ^ a b c 利賀村史編纂委員会 1999, p. 66.
  34. ^ 平村史編纂委員会 1983, p. 95.
  35. ^ a b 平村史編纂委員会 1985, p. 522.
  36. ^ a b 平村史編纂委員会 1985, p. 306.
  37. ^ 平村史編纂委員会 1985, p. 302.
  38. ^ a b 平村史編纂委員会 1985, p. 338.
  39. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, p. 67.
  40. ^ 平村史編纂委員会 1985, pp. 414–415.
  41. ^ 平村史編纂委員会 1985, p. 375.
  42. ^ 平村史編纂委員会 1985, pp. 378–379.
  43. ^ 平村史編纂委員会 1985, p. 307.
  44. ^ 平村史編纂委員会 1985, p. 435.
  45. ^ 上平村役場 1982, p. 51.
  46. ^ 上平村役場 1982, pp. 496–498.
  47. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, p. 191.
  48. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, p. 462.
  49. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, p. 463-465.
  50. ^ a b 利賀村史編纂委員会 1999, p. 474.
  51. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, pp. 474–476.
  52. ^ 利賀村史編纂委員会 1999, p. 477.
  53. ^ 高瀬 1973, p. 75.
  54. ^ a b c 利賀村史編纂委員会 2004, p. 289.
  55. ^ 高瀬 1973, p. 77.
  56. ^ 橋川 1926, pp. 139–140.
  57. ^ 柏原 1971, p. 73.
  58. ^ 柏原 1971, pp. 76–77.
  59. ^ a b 柏原 1971, p. 74.
  60. ^ 森越 2022, p. 22.
  61. ^ 橋川 1926, p. 125.
  62. ^ a b 柏原 1971, p. 72.
  63. ^ 高瀬 1973, p. 76.
  64. ^ 高瀬 1973, pp. 76–77.
  65. ^ 高瀬 1973, pp. 65–66.
  66. ^ a b 高瀬 1973, p. 66.
  67. ^ a b 金龍 1984, p. 740.
  68. ^ 金龍 1984, p. 741.

参考文献

[編集]
  • 金龍, 静「蓮如教団の発展と一向一揆の展開」『富山県史 通史編Ⅱ 中世』富山県、1984年、704-918頁。 
  • 利賀村史編纂委員会 編『利賀村史1 自然・原始・古代・中世』利賀村、2004年。 
  • 柏原祐泉「妙好人道宗の位置」『近世庶民仏教史』法蔵館、1971年、71-90頁。 
  • 「赤尾道宗」『日本仏教史 中世編』同朋舎、1967年、495-500頁。 
  • 橋川正「赤尾の道宗」『佛教研究』第7号、大谷大學佛教研究會、1926年、124-140頁。 
  • 高瀬重雄「中世庶民仏教史のひとこま-妙好人道宗の歴史的背景-」『富山史壇』56・57、越中史壇会、1973年、124-140頁。 

リンク

[編集]

稲葉昌丸『蓮如上人遺文』法蔵館、1972年 笠原一男 井上鋭夫 北西弘


仏厳寺の寺伝によると、上田石見守家は佐々木京極の子孫で、もとは信濃国上田の城主であったとされる[1]。 天文14年(1545年)には武田信玄旗下の武将として上杉謙信とも戦ったが、永禄元年(1558年)の川中島合戦の後に剃髪して井波瑞泉寺に入ったという[1]。もっとも、この寺伝は現存する書状の内容とは合致しない[1]。永禄11年(1545年)8月29日 武田信玄より 「越後本意之者、一所可相渡候」と検診討伐の暁には褒賞を与える書状[2]。 直海郷内の北野村には瑞泉寺7代顕秀が創建したと伝えられる立野山大泉寺が存在するが、大泉寺の周辺には上田石見守の子孫を称する家が多数存在する(奥田33}} 大泉寺前には上田石見守の館が存在したとの伝承もあることから、北野こそが上田石見守家の直海郷支配の拠点であったと考えられている(奥田33}}。 佐々成正の攻撃が北野まで及んだとは考え難い(城端300}}。 文化人の上田一花を排出(町史598/617}}。仏巌寺の祖 [3]由来記[4]。 元和4年(1618年) 瑞泉寺と隣の上田権助の間に屋敷の境界論争が起こる。 上田権助は石見守秀綱の次男で武勇に優れ、上田大和を名乗っていたという[5]。天正9年(1581年)の瑞泉寺陥落後に佐々成正旗下の前の小兵衛の与力付となったが、成正の敗退後は藤橋村に居住した [5]。瑞泉寺8 代准秀による瑞泉寺復興時、松尾縫殿という家老がこれに従ったが、上田大和権助は松尾縫殿と折り合いが悪く、両者の不和が屋敷の境界論争の原因となった[5] 瑞泉寺屋敷・上田権助屋敷はともに慶長10年に拝領したものであるが、同年の検地の際に当初の御印面と誤りがあったため、論争が起こった[6]。 最終的には瑞泉寺側の言い分を認める形で判決が下され、これを受けて上田権助は井波を退去し埴生八幡宮の神主家に養子入りすることとなった[6]。この時に前述の武田信玄より下された書簡や鎧、上田権助が佐々成正より下賜された刀などが埴生八幡に移され、現在まで保管されている[6]




2024年城端むぎや祭では、能登半島地震で被災した石川県輪島市にゆかりのある「お小夜節」は、復興の願いを込めて届けられた[7]。。 とやま百川 図書

富山県教職員山岳研究会, 富山県高等学校体育連盟山岳部 編 北日本新聞社出版部, 1976

全 2 件の該当箇所 140 コマ: はきわめ国庄川谷道猪お小夜渕の中心原小小原大滝山小原ダム細島菅沼 141 コマ: いる地点のすぐ下流にお小夜ヶ渕という名が今も残っている。村人は彼女をしのんでお小夜節を歌う


富山県史 史料編 8 (現代) 図書

富山県 編 富山県, 1980.2

全 2 件の該当箇所 641 コマ: 区に駐車場建設、遊女お小夜歌碑建設、袴腰山登山道開設、五箇山ユースホステル開業。菅沼合掌集落が国指定史跡となる。菅沼地区に公 747 コマ: 庭五箇山夜話·輪島のお小夜立山と黒部のうた週刊女性自身中央公論昭和三十五年(はなあんず)(~三五·(~五)郷土と文学随筆集

上平村誌 図書

上平村, 1982.3

全 8 件の該当箇所 43 コマ: れたのである。祖五、お小夜について小原村へ流されたというおさよについて、輪島の古今伸一 119 コマ: 、優美な唄である。○お小夜節もとは"マイマイ"として伝承 164 コマ: ささの葉で招くお小夜節名をつきょうな 165 コマ: 帰りたい帰りたいお小夜お小夜と名も言うて 10 コマ: 、流刑人五、お小夜について昔の交 70 コマ: う誇ろうよ公園の追分お小夜雪にも躍り丈夫につとめ宗桑井田崎利八郎静 163 コマ: お小夜なんで縫うたカナ 166 コマ: や節、こきりこ節、お小夜節、しょっしょ節、


富山県南砺市上梨の遠洞渓谷標識。

上梨集落から下流の庄川は、両岸切り立った険しい渓谷となることから、「遠洞渓谷」と呼ばれている[8]。 四季を通じて懸崖の美しい風景がみられる景勝地として知られてきた[8]。特に妙仏山から流れ出る霞が淵は、鏡のように平たくなめらかな岸壁とあいまって、遠洞渓谷の見どころとされている[8]


五箇山の歴史では、現在富山県南砺市に属する五箇山地位の歴史について解説する。

概要

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五箇山地域は前近代において越中国砺波郡に属していたが、峻険な山岳地帯に位置することから平野部とは異なる独自の文化・伝統を発展させてきた。 五箇山地域には古くから平家の落人・南朝の落人伝承があり、平野部での政治闘争に敗れ山間部に逃れてきた者達によって集落が形成されたようである。特に南北朝時代より年号を記した文字史料が残されるようになっており、この時期が五箇山地域の集落形成の大きな転機と考えられている。

戦国時代には浄土真宗の教えが広まり、五箇山は加賀国とともに一向一揆によって支配される本願寺領となった。この時期、越前国の朝倉氏と対立したことによって真宗門徒は北陸道の通行を阻まれ、このために五箇山・白川郷を通って畿内に出るルートが主流となった。これにより、五箇山地方は交通の要衝として発展し、石山合戦の際には大坂本願寺と越後上杉家を繋ぐ中継地点としての役目も果たした。

しかし、織田家家臣の佐々成政によって越中一国が平定された後、秀吉政権下で前田利家がこれを引き継ぎ、前田家=加賀藩による五箇山支配が始まった。加賀藩は塩硝・生糸・和紙といった特産品を直接買い上げることで五箇山住民の暮らしを保護したが、一方で他藩民の出入りを厳しく統制した。これによって戦国時代とは一転して、五箇山地域は「閉ざされた秘境」としての印象を強くする。

明治維新後、加賀藩の解体によって五箇山地域は富山県に属するようになったが、藩の保護を受けていた塩硝・生糸・和紙といった商品生産は打撃を受けた。しかし、水上善治に代表される篤志家の尽力によって生糸・和紙生産は継続し、道路・橋梁の整備など近代化が図られた。

戦後、五箇山トンネルなどの開通によって五箇山地域へのアクセスは格段に改善されたが、一方で五箇山住民の流出も増大しつつある。年には相倉・菅沼の合掌造り集落が世界遺産に認定されたことにより、世界的な観光地として

原始・古代

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五箇山の遺跡・遺物

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五箇山地域では旧石器時代遺跡遺物がほとんど見つかっておらず、わずかに皆葎遺跡で石刃状の石器が1点発見されているに過ぎない[9][10]。恐らくは標高が高く気候も寒冷であったため、平野部に比べて居住が遅れたものとみられる[11]

旧石器時代が終わり新石器時代(縄文時代)に入った後も、草創期〜早期の縄文土器は五箇山で発掘されておらず、五ヶ山出土の最も古い土器は縄文前期のものとなる[12][13]。縄文時代中期には本格的に縄文文化が五箇山で広がり、矢張下島遺跡や東中江遺跡で注記の土器・各種遺物が発掘されている[14][15]。縄文時代中期は井戸尻遺跡に代表されるように中部高地一帯で文化が発達した時期であり、五箇山でもその影響を受けて縄文人の定着が進んだと考えられている[16]

縄文時代後期には寒冷化の影響か北陸全体で遺跡数が減少し、五箇山内でも来栖遺跡・下梨こもむら遺跡などに限られる[17]。縄文時代晩期には北陸地方独自の土器様式が成立し、五箇山でも御経塚式・中屋式の土器が矢張下島遺跡どで発見されている[17][18]。なお、五箇山の考古遺跡はほとんどが既存の集落内で発掘されているが、例外的に矢張下島遺跡は利賀ダム建設に伴って集落から離れた場所で発見されたものである[19]。矢張下島遺跡の存在は、開発の進んでいない集落から離れた場所に未発見の縄文遺跡が更に存在する可能性を示唆していると評される[19]

越中国・利波郡の設置

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縄文時代に続く弥生時代・古墳時代について、五箇山では遺跡・遺物がほとんど見つかっておらず、歴史研究上空白の時期となっている[20]。五箇山北麓の立野原台地には弥生時代の遺跡が存在するものの、寒冷な気候の五箇山は稲作栽培に厳しい土地柄であり、狩猟・採集を中心とする生活が長く続いたようである[21]

一方、このころの日本列島では大和朝廷の領域拡大が進み、五箇山の属する高志国7世紀ころには大和朝廷の支配下に入った。

修験道の広まり

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奈良時代には山岳修験道が五箇山地方にも広まり、人形山金剛堂山が修行の場として用いられるようになったと伝えられる[22]

天保14年(1833年)編纂の上梨白山宮縁起によると、元正天皇の御代に泰澄大師が二十一世観世書のお告げを受けて人形山に堂塔の建立・尊像の安置を行ったという[23]。その後兵火によって堂塔は焼けてしまったが、今度は上梨村の市良右衛門に人形山白山権現より夢のお告げがあり、我を上梨村にし氏神として崇敬すれば村の反映を守護するであろうと述べたという[24]。そこで平安時代の大治2年(1125年)、市良右衛門は上梨に泰澄作の尊像を上梨集落に遷し、現在の上梨白山宮が形成されたと伝えられる[24]。なお、現在の人形山宮屋敷が上に移るまで白山宮のあった場所とされる[24]

金剛堂山については、江戸時代中期成立の『越の下草』に「文武天皇の治世に役小角伊豆国へ流された後、五箇山を訪れ、金剛堂山に堂塔を建立し修験道の行場とした」という伝承が記されている[25][22]。また、名勝として名高い天柱石も「金剛堂山の行者が座業を行う」のに用いられたと伝えられる[22]。天柱石は地元上松尾集落では「立石」と呼ばれ、「武蔵坊弁慶が担いで来たが、あまりに重くて下ろしたもの」「岩の赤色は、弁慶が背中をすりむいてついた血である」「弁慶が尻餅をついてできたのがすり鉢状の地形である」といった伝承がある[26]

これらの山岳信仰は五箇山の最も古い自然信仰であり、人形山・金剛堂山を水源を守護する神体山として拝むものであった[27]

平安・鎌倉時代

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平安時代末期、日本全土を巻き込んだ治承・寿永の乱(源平合戦)が起こり、越中国においても木曽義仲率いる源氏軍と平維盛率いる平家軍との間で倶利伽羅峠の戦いが繰り広げられた[28]。この戦いでは平家方が大敗したが、この時敗れた平家の落人が五箇山に逃れ、土着して集落を形成したとの伝承がある[28]

平家の落人伝承について、城村を開いた城小太郎、大牧温泉を発見した藤原賀房などが知られるが、最も特筆されるのは民謡の麦屋節に関するものである[29]。伝承によると麦屋節は平家の落人の紋弥なる者が唱い始めたとされ、実際に「烏帽子狩衣脱すてて」「波のやしまを遁れ来て」といった歌詞が含まれる[29]

もっとも、平家の落人が五箇山に定着したことを裏付ける遺物は現在のところ発見されておらず[30]、平家の落人伝承を史実とは認められないとする学者もある[31]。なお、五箇山の平家の落人伝承について始めて言及するのは、文化年間の『北国奇談巡杖記』がはじめてである[32]

ただし、五箇山に隣接する臼谷集落(旧福光町太美山地域

南北朝時代

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南朝の落人伝承

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南北朝時代に入ると南朝の落人の流入によって五箇山で集落形成が進み、利賀谷大豆谷八幡宮や上梨白山宮で五箇山最古の文字資料が刻まれるようになる[33]。大豆谷八幡宮の神像に刻まれた「永和四年(1378年)」や「明徳四年(1393年)」、上梨白山宮の仏像後頭銘に記される「応永二年(1395年)」の年号は、南北朝期に集落形成が進んだことを示唆する貴重な史料と位置付けられている[34]

大豆谷八幡宮の神像については、元々「おもての権現」「うらの権現」「こおやの権現」「きどの権現」など、それそれの屋号を冠した神をそれぞれの家で祀っていたものを八幡宮に合祀したものと伝えられている[35]。また、地元の伝承によると元は尼寺の本尊であったとされ、実際に「大豆谷の比丘尼屋敷跡」と伝えられる場所には15世紀ごろのものと推定される2基の五輪塔が残っている[36]。南北朝時代は五箇山の集落が形成され始めた時期であり、「村殿」と呼ばれる集落の有力者が、自身の地位を正当化させようと作成したものではないかと推定される[37]

上梨白山宮の仏像後頭銘は現在摩耗が進んで読み取れないが、上梨集落出身の歴史家である高桑敬親は「砺波郡貴船城主石黒重行が応永二年と同十八年に改修し、武運を祈願した」と読解している[38]

室町時代後半には荘園制の崩壊と並行して郷村が発達し、古文書中で「村殿」と呼ばれる名主が五箇山でも現れるようになった[39]。上梨白山宮の棟札には「文亀二年(1502年)壬子」「越中国利波郡坂本保内上梨村」等の記載があるが、これは五箇山内の地名(上梨)を記した最初の文字史料である[40]。棟札に記される「高桑新兵衛」は、この頃五箇山に現れ始めた「村殿」の一人とみられる[39]。なお、「坂本保」については不詳であるが、年貢徴収単位としての、在地領主の開発勧農地域ではないかと考えられている[40]

室町時代

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井口氏の支配

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応永19年(1412年)9月11日に東寺造営料として棟別銭(臨時税)が越中はじめ五か国に課せられたが、この棟別銭に関して「在所事(中略)なしとか いの口方」との記載がある[41]。この「なしとか」は「梨・利賀」を指すと考えられ、「梨谷と利賀谷」すなわち五箇山地域一帯が井口氏の支配下にあったことが分かる。また前後の記載状況から見て「梨・利賀」地域は幕府の御料所であったと考えられ、この井口氏は幕府奉公衆で、畠山家臣としての井口氏とは別系統の家系であったと推定される[42]

なお、「なしとか」以外にも、石清水八幡宮領の「かな山(金山)」「かんた(蟹谷)」、「くゝミなと(久々湊)」、伊勢氏領の「上荘(阿努上荘)」、「うなミ(宇波)」、「あおやなき(青柳)」、「もりしり(森尻)」、「山むろ(山室)」、「なめりかわ(滑川)」などが挙げられている[43]

この「なしとか(梨・利賀)」の記述は、「梨谷」「利賀谷」の史料上の初見であり、後述する井口美濃守が越中国から排除されるころまで五箇山は井口氏の支配下にあったと推定される[44]

戦国時代(本願寺領時代)

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赤尾道宗の活動

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室町時代の後半、文明年間に本願寺8代蓮如越前国吉崎御坊に滞在したことにより、北陸地方で真宗門徒が急増し、五ヶ山地方にも本格的に真宗が広まりつつあった[45][46]。最初に五箇山地方に教線を伸ばしたのは越前国の和田本覚寺で、この本覚寺門徒で赤尾谷出身の浄徳という僧があった[47]。この浄徳の甥が妙好人として名高い赤尾の道宗で、道宗こそが行徳寺の始祖と位置付けられる[48]

道宗の出自や来歴については後世の様々な伝承があるが、本願寺8代蓮如の著作でしばしば言及されることから、蓮如と同時代の人物であったことは疑いない[49][50]。道宗は熱心に蓮如の下に通い教えを受けたことで知られ、道宗が収集・書き写した蓮如御文が今も行徳寺に残されている。

行徳寺には本願寺8代蓮如筆の六字名号が5点残されており、これらの名号を備えることで赤尾の道場(=行徳寺の前身)が形成されたようである[51]。道宗が文亀元年(1501年)12月24日付で書き残した「心得二十一カ条覚書」には「御たうちやう(御道場)」について言及されており、少なくとも1501年以前には行徳寺の前身となる道場が成立していたことが分かる[52]

蓮如の没後も道宗と本願寺の密接な関係は続き、永正10年(1513年)11月27日には本願寺9代実如より阿弥陀如来絵像が下付されている[53]。道宗の生年については諸説あるが、没年については蓮如第23子の実悟が残した『実悟記』により永正13年(1516年)に死去したことが明らかである[54]

五箇山十日講

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織田家との抗争

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江戸時代(加賀藩領時代)

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五箇山市助の代官支配

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五箇山両組制の確立

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藩政末期

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明治時代

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延享5年 ただし、本願寺に対する献上物に一度も紙が含まれていないことから、この見解を疑う説もある[55]

課税は明暦2年から[56]

○紙漉屋の分布 一例として、1734年(享保19年)の文書では年間の収入133貫700目の内、全体の19%に当たる25貫目が製紙業による収入で、56%を占める生糸生産の次に位置していた[57]

藩政時代、奉書紙はあくまで二俣産で、五ヶ山生産の記録はない。ただし、「本のし・五々太夫・五々脇」などは類似品で、民間で儀礼用に用いられたのではないか[58]

享保19年(1734年) 平村史,465頁: 享保19年(1734年) (高田1965,2-19): 安政(1855-1860)-寛永(1848-1855) 寛永3年(1850年) (高田1965,2-17):

安永6年(1777年) (高田1965,2-19): 「御印紙屋」⇒藩の御算用場より御印紙製造のため任命されたもの 下梨村次右衛門 小来栖村源七郎 見座村新右衛門 「御付取紙屋」⇒御印紙以外の藩庁用紙注文に応じて納入を命じられた指定紙漉屋 上梨村市蔵 皆葎村太郎右衛門 皆葎村助九郎

天保12年(1841年)


天保12年(1841年) 平村史,483頁:紙方諸役人 天保13年(1842年) 平村史,475頁:井波町人の払紙の許可 天保14年(1843年)464頁:収益 天保14年(1843年) (高田1965,2-21):

このような北陸道の情勢について、従来は「北陸道諸国は平家方の知行国であったが、在地武士が平家支配への不満から平家方の国衙を占領した上で義仲勢の傘下に入った」と考えられてきた(実際に、能登国のみは在地武士が能登国衙を制圧したとの記録がある)。しかし、この頃の北陸道諸国の知行国主は平氏の中でも平教盛(清盛異母弟)・平経常(清盛異母弟)・平通盛(教盛子)・平教経(教盛子)・平重盛(清盛長子)ら平家内の反主流派、藤原成親を通じて後白河院方に近しい一派であった。また、越中の場合は知行国主の記録がないが、待賢門院兄弟の閑院流諸家の領主が多くの荘園(般若野荘高瀬荘)を有しており、後白河院分や上位院近臣知行の国であったと考えられている。越中中世史研究者の久保尚文は上記の点を踏まえ、北陸諸国の在地武士は必ずしも国衙と対立的であったわけではなく、特に越中国衙は荘園領主たる院近臣を通じて義仲に協力的であったと指摘する。このような越中情勢は、後述するように越中国内での義仲の軍事行動に大きな影響を与えている。

(なお、荊波神社は南砺市岩木にも存在し、どちらが本来の荊波神社であるか議論がある。久保尚文は恐らく岩木(福光)が利波臣の本家でこれを継承したのが石黒家であり、池原は分立者であろうと推定する)

永正3年(1506年)3月16日、実如の弟にあたる本泉寺蓮悟は「能州(=畠山義元)は仏法を絶やさんと数年来長尾(=長尾能景)と申し合わせている」ことを理由に門徒集に蜂起を呼びかけた。

参考文献

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[59] [60] [61] [62] 五箇山研究ノート 米沢康著

越飛文化研究会 1962.8


○紙漉屋の分布 一例として、1734年(享保19年)の文書では年間の収入133貫700目の内、全体の19%に当たる25貫目が製紙業による収入で、56%を占める生糸生産の次に位置していた[57]

今般松共一商社を結、生薬組号作し越中城端商会社出張所=おいて商店を開、総計元銭四 万!文を以現期之通り商業戦 行中度と茶レ存候、依面社中為茂定六万貫文為替会社=指出可申候、此段聞 創座候様願上候、然上ハ社長、副長入 札 追市副道中上候間、副取極役 仰渡一可被下候、先兼施副布介之初規則照相守 可申 候以上 城端塗師屋 甚右衛門 浜 屋 彦右衛門 糸 屋 文右衛門 紫屋伝兵衛 細野屋喜 平 通商掛御中 佳葉組は、城端町人によって発起さ れたもので、出資金を公要する株式立ての会社であった。しかし頭初は、発 起人即ち出資者があったことは、藩政期の株仲間組織に似るものである。 出資金は、装定 と称する寄附金、一口五四〇〇貴文合計十一口、六万 文、元子銭と称する社中出資金 : ロ、一人宛三万一〇〇貫文余、合計三四万貴文であった。出資者は株主となり、他人に名機を設るときは社中一 同の了解を必要とした。又、社中の進退については一同の納得の上と し元銭出資金は返却することとされた。し不筋な行為を犯したものは、社中一同評決の上除名する。この際出資金は一切返却しないこと した、このよう に 城 端 商 法 会 社 と は 別 に 、 独 自 の 資 本 を 有 し て 五 ヶ 山出 来 紙 の 販 売 に 当 る こ と に な っ た ( 時 」 赤 ) 。

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