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利用者:Koshinami/sandbox

善徳寺
所在地 富山県南砺市法林寺308
位置 北緯36度33分59.49秒 東経136度51分17.22秒 / 北緯36.5665250度 東経136.8547833度 / 36.5665250; 136.8547833座標: 北緯36度33分59.49秒 東経136度51分17.22秒 / 北緯36.5665250度 東経136.8547833度 / 36.5665250; 136.8547833
山号 廓龍山
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 明徳元年(1390年)
開基 道乗(高坂治郎尉)
文化財 【南砺市指定文化財
『蓮如書状』
『砂子坂末寺之覚帳』
Koshinami/sandboxの位置(富山県内)
Koshinami/sandbox
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善德寺(ぜんとくじ)は、富山県南砺市城端町にある真宗大谷派寺院である。山号は「躅飛山」。

安土桃山時代1602年の本願寺東西分裂の際、それまで越中国内で真宗寺院の指導的地位にあった勝興寺・瑞泉寺が西本願寺についたのに対し、東本願寺派の代表となることで以後勝・瑞に並ぶ寺勢を誇った(福光町335)。 南砺市城端町は善徳寺の門前町として発展した町であり、現在においても町の中心地として様々な祭事の舞台として利用されている。

歴史[編集]

善徳寺設立の背景[編集]

善徳寺は本願寺中興の祖とされる8代蓮如の働きかけにより開基された寺院であるが、その系譜は5代綽如の時代までさかのぼる[1]日野時光の猶子であった縁から1380年代に越中国石黒荘に下向し、越中滞在中に井波瑞泉寺を創建したことで知られる[1]。綽如の次男頓円(鸞芸)・三男周覚(玄真)は父の事跡を継いで北陸方面での布教に尽力し、前者は越前藤島超勝寺を、後者は荒川興行寺を創建した[1][2]。これら北陸で繁栄した次男頓円(鸞芸)・三男周覚(玄真)の後裔たちは、同時代史料上で「北国一家衆」と呼ばれている[3]

頓円・周覚の後裔は越前から北方の加賀・越中方面に向けて教線を伸ばしたことで知られており、善徳寺もこの系列の一つに数えられる[4]。この中でも、周覚(玄真)の後裔が開いた寺院はいわゆる「中通り道」を中心に分布し、越中国では「二俣越」から越中に入るルート沿いに教線を拡大した[5]。特に、周覚の孫蓮真は越前国足羽川右岸の桂島に位置する照護寺に入り、照護寺の系列から善徳寺が出る事となる[6]

光徳寺の由緒によると、文明年間の加賀井家荘砂子坂に高坂四郎左衛門という武勇を知られた武士がいた[7]。高坂四郎左衛門は子がいなかったため舎弟の高坂治部卿を後嗣としたが、高坂治部は蓮如の教えを受け道乗という法名を名乗り砂子坂に道場を開いたとされる[7]。加賀受徳寺栄玄が残した『栄玄聞書』には、「蓮如上人が吉崎に住まわれていた頃、加州河北三番砂子坂の道乗が本尊を望んだが、この人物は越前桂島照護寺の門徒であった」旨の記述がある[8]。これと対応するように、善徳寺の寺伝は「蓮如上人が吉崎に滞在していた頃、吉崎から井波瑞泉寺に向かう際に『砂子坂の周覚が布教していた旧地』に立ち寄り、道場を建立するよう手配し周覚の孫蓮真に委ねた」と伝える[9]。これらの記録により、周覚の後裔が越前-加賀-越中を結ぶ「中通り」沿いに教線を伸ばす中で、越前照護寺の門徒道乗が砂子坂で開いた道場を基盤として、蓮如の手配により蓮真が入寺したことによって善徳寺は成立したと言える。 上記の経緯から善徳寺は蓮如上人を開祖と仰いでいるが、蓮如にとっては越中真宗寺院の中核となるべき井波瑞泉寺と加賀・越前を結ぶ「二俣越」を抑えるために善徳寺創設を手配したものと推定される。このことは、後に善徳寺が砂子坂から法林寺に、法林寺から福光に、福光から城端へと井波に近づくように移転を繰り返したことからも裏付けられる[10]。なお、「二俣越」の加賀側の寺院である二俣坊本泉寺は本願寺直系の蓮乗が入った後若松に移転したが、その旧跡は周覚の末子玄秀が継承しており、周覚の後裔によって「二俣越」が抑えられていたことが窺える[10]

砂子坂道場時代[編集]

文明年間、蓮如の吉崎滞在によって北陸地方では爆発的に真宗門徒が増大し、これを危険視した守護大名と真宗門徒の関係が悪化する。善徳寺の主筋に当たる照護寺は越前守護斯波氏の被官甲斐氏の氏寺であり[11]、文明4年8月に甲斐氏が朝倉氏に敗れると二俣に逃れざるを得なくなった[12]また、一向一揆の助けを得て加賀守護職を得た富樫政親も一向一揆の武力を危険視するようになり、年中に真宗門徒を弾圧した。富樫政親が加賀国石川・河北両郡を制圧したことにより、河北郡の井上荘を拠点とする高坂氏は加賀国において立場を失い、その庇護下にあった砂子坂の蓮真も越中方面に進出せざるを得なくなった[13]。以後、蓮真の系譜は砂子坂を離れ、山本・福光を経て城端善徳寺へと発展していくこととなる。一方、道乗の後裔は蓮真の一族が去った後も砂子坂に残り、光徳寺を興すこととなった[13]

法林寺・山本時代[編集]

先述したように善徳寺は蓮如を初代とし、蓮如から砂子坂道場を委ねられた蓮真を2代目とする(福光町335)。蓮真は「砂子坂から法林寺に移った後に息子の実円に地位を譲り、自らは才川七開往院(松寺永福寺)を開いた後に永正八年10月20日に同地で没した」と伝えられている[14][15]。こうして善徳寺の3代目となった実円は『日野一流系図』で「加州砂粉坂に居住、また(越前)岡崎に住む、また越中法輪寺に住む、また山本里に住む」と伝えられている。その弟賢誓が越前に居住していたとの記録があることを踏まえ、蓮真は実円の誕生(文明6年/1474年)後に越前岡崎に一度移ったが、賢誓の誕生(文明9年/1477年)後に法林寺(法輪寺)に寺基を移したと推定される[16]。 なお、この法林寺時代に田屋川原の戦いがあったが、積極的には関わらなかったと推定される[17]。田屋川原の戦い後、砺波郡南部の周覚系一家衆と北部の勝興寺系一門衆で住み分け[17] 上述したように実円は法林寺から更に山本へと移転し、その後永正6年(1509年)12月13日に父蓮真に先立って死去した[18][16][19]。『城端善徳寺由緒略書』では山本への移転を文亀年間(1501~1504年)のこととするがこれは疑わしい[20]。延徳元年(1489年)生まれの実円の息子円勝に砂子坂・法林寺在住の記録がないことから、円勝が生まれる前(1489年以前)既に法林寺から山本へと移っていたと推定される[20]。山本の善徳寺跡には善徳寺の墓所が残されていること、「善徳寺」の名称が記録されるようになるのがこの頃であることから、善徳寺が本格的な真宗寺院として活動を開始するのは山本時代のことであったと考えられている[20]。 なお、蓮真が死去した頃に本願寺9代実如から善徳寺に宛てた文書が伝えられており、文書中で「加賀・越中・能登三ヶ国門徒之儀者、善徳寺門徒たるべく候」と記されている[21]。 この文書自体は後世創作された偽文書であると見なされているが、 永正3年()には北陸全土を巻き込む「永正三年一揆」が勃発し、一連の戦役によって敗退した越前の真宗寺院は加賀国に逃れざるを得なくなった。 蓮淳書状で触れられているため、蓮真が死去した永正8年(1511年)以後のことと考えられる。永正3年一揆の敗戦により照護寺が流浪の身になったためか[22]。 「砂子坂末寺之覚」により傘下の寺院を確認できる[22]

実円の死後、4代目となった円勝は天文年間(1532~1555年)中に山本から更に福光に移転したと伝えられている[18][20]。『天文日記』には天文十年7月21日に円勝が石山本願寺を訪れた記録があるが、恐らくこの時与えられた実如上人御影裏書の写しが残されている。写しには「越中国利波郡石黒郷 福光善徳寺」と記されており、この記録によって天文10年(1541年)までには福光に移っていたことが分かる[23]。なお、円勝は石山本願寺を訪れたものの喉の病のため食事ができないとして8月3日の下間頼慶の法事を欠席したと伝えられており、この病のためか天文12年(1543年)に没している[24]

城端への移転[編集]

円勝の没後、福光善徳寺を継承し、現在まで続く城端への移転を行ったのが5代祐勝であった。祐勝は『天文日記』によると天文6年(1537年)7月18日に石山本願寺を訪れ、同月24日に得度式を受けたとの記録があり、この頃から僧侶として活動を始めていた[24]。祐勝については『天文日記』や『私心記』といった外部の史料でも多く言及されており、少なくとも天文18年(1549年)・天文22年(1553年)・天文24年(1555年)の三度石山本願寺を訪れている[24]。祐勝の本願寺訪問記録を見ると、最初は越前照護寺等の周覚系一家衆とともに上山しているのに対し、勝興寺・瑞泉寺等の越中寺院とともに上山している[25]。この記録により、この頃の善徳寺が周覚系寺院との繋がりよりも、越中国内の寺院との繋がりを重視するように変化してきたことが分かる[26]

善徳寺の城端への移転については、『城端善徳寺由緒略書』に「永禄2年、城ヶ端城主荒木大膳の願いにより福光から城ヶ端へ移った」旨の記載がある[26]。この頃城端への移転が行われた理由として、前述したように天文年間末から周覚系寺院よりも越中一門衆との協調を重視するようになったことが挙げられる。同時期、五ヶ山地方ではそれまで主流であった本覚寺の統制が薄れ独立した地域として扱われるようになっており、五ヶ山も含む砺波郡域が一つの集団としてまとまっていく方向性の中に城端移転があったと言える[27]

このように上杉-武田の抗争に巻き込まれる情勢になったことにより、より防禦に優れた城端への移転が行われたと推定される[28]


1530年代には、本領を取り戻すため戦争を要求する革新派の越前寺院、大名との和睦により両国を安定化させたい保守派の加賀寺院、防衛に加賀の武力に頼らざるを得ないが出兵までは望んでいない中道派の越中寺院という、対立構図が生まれる[29]


[10]

城端への移転[編集]

祐勝は子を残さず亡くなったため、越前西光寺から婿として空勝を迎え、空勝が6代目となった[30]。天正八年3月28日書状では善徳寺からの協力に感謝している[31]。上杉景勝書状[32]7月中旬、和解の報が善徳寺に届く[33]。天正13年7月越中国が前田家の領有となった頃、城端に帰還したのではないか[33]。天正15年2月、九州出陣に際して善徳寺・常楽寺に人質を差し出させる[33]

天正20年の顕如の没後、文禄2-3年に東西の対立が悪化。慶長3年の秀吉・利家の死後、同年11月に正信偈を復刻、慶長5年7月には家康に対面、慶長7年2月に自立[34]。慶長7年(1602年) 9月14日、上人寿像を善徳寺が授与される[34]。慶長10年6月には「親鸞聖人絵伝」も下付(⇒五尊の完備)されており、期待されていることが窺える[35]。慶長9年9月上棟式を挙行した本願寺の御影堂建立に際して、太海郷永福寺了誓とともに配下の門徒衆への馳走を依頼される[35]。善徳寺が東についたのは、主導的立場にあった勝興寺への反発もあるのではないか[36]。また、慶長初年には北加賀の受徳寺が善徳寺に入寺したことによって善徳寺は北加賀にも教線を伸ばしていた。加賀は東支持の寺院が多数派を占めたため、加賀との関係から善徳寺は東を選んだとも考えられる[37]。 善徳寺は二代藩主利長との交流に努め、年頭の祝儀や贈物に対する利長の礼状が12通伝えられている。この礼状のほとんどは紙尾図書・生田四郎兵衛宛となっており、この時期は両名が取次となっていたことが窺える[38]。このような努力の結果、慶長9年(1604年)8月には狩りの途中で善徳寺に2泊したとされ、小屏風・御膳具の拝領のみならず屋敷地が寄進されることとなった[39]。また、空勝の養嗣子因勝が加賀藩士水越縫殿助の息女を内室とし、更に加賀藩との縁を深めた[39]。 慶安元年(1648年)には寺社奉行が置かれ、 もっとも、蓮真は修正照護寺蓮真を称しており、実質的な初代は実円[12]

富樫政親が加賀国石川・河北両郡を制圧したことにより、河北郡の井上荘を拠点とする高坂氏は加賀国において立場を失い、その庇護下にあった砂子坂の蓮真も越中方面に進出せざるを得なくなった[13]。こうして、砂子坂を離れた蓮真の系譜は山本・福光を経て城端善徳寺へと発展していくことになったが、砂子坂に残った道乗の系譜が光徳寺を興すこととなった[13]


文化財[編集]

南砺市指定文化財
  • 善徳寺境内林[40]
  • 善徳寺の庭園[41]
  • 善徳寺梵鐘[42]
  • 善徳寺唐金燈籠[43]
  • 文禄3年『砂子坂末寺之覚帳』[44]
富山県指定文化財
  • 善徳寺宝物[45]
  • 城端別院善徳寺文書[46]
  • 本堂・山門・鐘楼・太鼓楼[47]

観光情報[編集]

営業時間[編集]

定休日[編集]

  • 火・水・木曜(祝日は営業)[48][49]

拝観料[編集]

アクセス[編集]

近隣情報[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 草野 1999, p. 9.
  2. ^ 太田 2004, p. 178.
  3. ^ 太田 2004, p. 179.
  4. ^ 草野 1999, p. 10.
  5. ^ 草野 1999, pp. 12–13.
  6. ^ 太田 2004, p. 182.
  7. ^ a b 笠原 1962, pp. 266–267.
  8. ^ 草野 1999, p. 13.
  9. ^ 草野 1999, pp. 13–14.
  10. ^ a b c 草野 1999, p. 15.
  11. ^ 太田 2004, p. 186.
  12. ^ a b 太田 2004, p. 214.
  13. ^ a b c d 太田 2004, p. 228.
  14. ^ 草野 1999, pp. 17–18.
  15. ^ 太田 2004, p. 256.
  16. ^ a b 草野 1999, p. 18.
  17. ^ a b 草野 1999, p. 25.
  18. ^ a b 金龍 1984, p. 774.
  19. ^ 太田 2004, p. 257.
  20. ^ a b c d 草野 1999, p. 19.
  21. ^ 金龍 1984, p. 772.
  22. ^ a b 草野 1999, p. 16.
  23. ^ 草野 1999, pp. 19–20.
  24. ^ a b c 草野 1999, p. 20.
  25. ^ 草野 1999, p. 21.
  26. ^ a b 草野 1999, p. 22.
  27. ^ 草野 1999, p. 23.
  28. ^ 草野 1999, p. 28.
  29. ^ 太田 2004, p. 261.
  30. ^ 草野 1999, pp. 28–29.
  31. ^ 草野 1999, p. 29.
  32. ^ 草野 1999, p. 31.
  33. ^ a b c 草野 1999, p. 32.
  34. ^ a b 草野 1999, p. 33.
  35. ^ a b 草野 1999, p. 34.
  36. ^ 草野 1999, pp. 34–35.
  37. ^ 草野 1999, pp. 35–36.
  38. ^ 草野 1999, p. 36.
  39. ^ a b 草野 1999, p. 37.
  40. ^ 南砺市文化芸術アーカイブズ 善徳寺境内林”. 2024年6月1日閲覧。
  41. ^ 南砺市文化芸術アーカイブズ 善徳寺の庭園”. 2024年6月1日閲覧。
  42. ^ 南砺市文化芸術アーカイブズ 善徳寺梵鐘”. 2024年6月1日閲覧。
  43. ^ 南砺市文化芸術アーカイブズ 善徳寺唐金燈籠”. 2024年6月1日閲覧。
  44. ^ 南砺市文化芸術アーカイブズ 砂子坂末寺之覚帳”. 2024年6月1日閲覧。
  45. ^ 南砺市文化芸術アーカイブズ 善徳寺宝物”. 2024年6月1日閲覧。
  46. ^ 南砺市文化芸術アーカイブズ 城端別院善徳寺文書”. 2024年6月1日閲覧。
  47. ^ 南砺市文化芸術アーカイブズ 本堂・山門・鐘楼・太鼓楼”. 2024年6月1日閲覧。
  48. ^ a b c d e 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「旅々なんと」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  49. ^ a b c d e 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「観光ナビ」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません

参考文献[編集]

  • 太田, 浩史「越中中世真宗教団の展開と城端地域」『城端町の歴史と文化』城端町教育委員会、2004年、172-290頁。 
  • 笠原, 一男「越中国における真宗の発展」『一向一揆の研究』山川出版社、1962年、243-285頁。 
  • 草野, 顕之「善徳寺の開創と一向一揆」『城端別院善徳寺史』城端別院善徳寺蓮如上人五百回御遠忌記念誌編纂委員会、1999年、9-30頁。 
  • 草野, 顕之「医王山麓における真宗の足跡」『医王は語る』福光町、1993年、268-287頁。 
  • 藤田, 豊久「城端城主荒木善太夫に関する一考察」『城端町の歴史と文化』城端町教育委員会、2004年、291-305頁。 
  • 福光町史編纂委員会 編『福光町史 上巻』福光町、1971年。 (福光町史編纂委員会1971a)
  • 福光町史編纂委員会 編『福光町史 下巻』福光町、1971年。 (福光町史編纂委員会1971b)






延享5年 ただし、本願寺に対する献上物に一度も紙が含まれていないことから、この見解を疑う説もある[1]

課税は明暦2年から[2]

○紙漉屋の分布 一例として、1734年(享保19年)の文書では年間の収入133貫700目の内、全体の19%に当たる25貫目が製紙業による収入で、56%を占める生糸生産の次に位置していた[3]

藩政時代、奉書紙はあくまで二俣産で、五ヶ山生産の記録はない。ただし、「本のし・五々太夫・五々脇」などは類似品で、民間で儀礼用に用いられたのではないか[4]

享保19年(1734年) 平村史,465頁: 享保19年(1734年) (高田1965,2-19): 安政(1855-1860)-寛永(1848-1855) 寛永3年(1850年) (高田1965,2-17):

安永6年(1777年) (高田1965,2-19): 「御印紙屋」⇒藩の御算用場より御印紙製造のため任命されたもの 下梨村次右衛門 小来栖村源七郎 見座村新右衛門 「御付取紙屋」⇒御印紙以外の藩庁用紙注文に応じて納入を命じられた指定紙漉屋 上梨村市蔵 皆葎村太郎右衛門 皆葎村助九郎

天保12年(1841年)


天保12年(1841年) 平村史,483頁:紙方諸役人 天保13年(1842年) 平村史,475頁:井波町人の払紙の許可 天保14年(1843年)464頁:収益 天保14年(1843年) (高田1965,2-21):

このような北陸道の情勢について、従来は「北陸道諸国は平家方の知行国であったが、在地武士が平家支配への不満から平家方の国衙を占領した上で義仲勢の傘下に入った」と考えられてきた(実際に、能登国のみは在地武士が能登国衙を制圧したとの記録がある)。しかし、この頃の北陸道諸国の知行国主は平氏の中でも平教盛(清盛異母弟)・平経常(清盛異母弟)・平通盛(教盛子)・平教経(教盛子)・平重盛(清盛長子)ら平家内の反主流派、藤原成親を通じて後白河院方に近しい一派であった。また、越中の場合は知行国主の記録がないが、待賢門院兄弟の閑院流諸家の領主が多くの荘園(般若野荘高瀬荘)を有しており、後白河院分や上位院近臣知行の国であったと考えられている。越中中世史研究者の久保尚文は上記の点を踏まえ、北陸諸国の在地武士は必ずしも国衙と対立的であったわけではなく、特に越中国衙は荘園領主たる院近臣を通じて義仲に協力的であったと指摘する。このような越中情勢は、後述するように越中国内での義仲の軍事行動に大きな影響を与えている。

(なお、荊波神社は南砺市岩木にも存在し、どちらが本来の荊波神社であるか議論がある。久保尚文は恐らく岩木(福光)が利波臣の本家でこれを継承したのが石黒家であり、池原は分立者であろうと推定する)

永正3年(1506年)3月16日、実如の弟にあたる本泉寺蓮悟は「能州(=畠山義元)は仏法を絶やさんと数年来長尾(=長尾能景)と申し合わせている」ことを理由に門徒集に蜂起を呼びかけた。

参考文献[編集]

  • 石田善人「畿内の一向一揆について その構造論を中心として」『日本史研究』23号、1954年
  • 井上鋭夫「大小一揆論」『封建社会における真宗教団の展開』山喜房佛書林、1957年(井上1975に再録)
  • 井上鋭夫「大小一揆論」『一向一揆の研究』吉川弘文館、1975年
  • 金龍静「加賀一向一揆の形成過程」『歴史学研究』436号、1976年(金龍2004に再録)
  • 金龍静「加賀一向一揆の形成過程」『一向一揆論』吉川弘文館、2004年
  • 久保尚文「越中一向一揆の形成過程」『越中中世史の研究』桂書房、1983年
  • 久保尚文「「長尾為景と越中戦国史」再論」『中世関東武士の研究 第34巻 長尾為景』戎光祥出版、2023年
  • 棚橋光男「室町時代の越中」『富山県史 通史編Ⅱ 中世』、1984年
  • 谷下一夢「本泉寺蓮悟について 享禄の錯乱を中心に」『封建社会における真宗教団の展開』山喜房佛書林、1957年
  • 新行紀一「永正三年一向一揆の政治的性格」『史潮』7号、年
  • 峰岸純夫「大名領国と本願寺教団ーとくに 内を中心にー」(『日本の社会文化史』2 、年

[5] [6] [7]

越中五箇山平村史 平村史編纂委員会 タイラ ソンシ ヘンサン イインカイ

平村 (富山県) タイラムラ 書誌事項

越中五箇山平村史 平村史編纂委員会編

平村, 1985.5 () 五箇山の和紙は、 五箇山和紙(ごかやまわし)は、富山県南砺市五箇山地方で作られる和紙である。 峻険な山岳地帯に位置する五箇山では農業生産量が十分でないために煙硝生産や養蚕業・製紙業といった家内手工業が奨励されていたが、とりわけ製紙業は「冬稼第一の産業」と称されるほど冬期の稼ぎとして重視されていた。 江戸時代には、加賀藩によって御用紙に認定されたことから五箇山全域で紙漉屋が立てられ、最盛期には五箇山村中45ヶ村に253軒の紙漉屋が存在したほどであった[8]。明治維新を経て御用紙の地位を失うと紙漉屋の数も激減したが、残った紙漉屋によって五箇山和紙の技法は現代まで伝えられ、現在では五箇山和紙の里を拠点として新たな製品開発・後継者育成が図られている。

歴史 五箇山和紙の起源 五箇山和紙の起源については明確な記録がないが、南北朝時代に五箇山に逃れた南朝の遺臣が製紙業を伝えたと伝承されている[9][10]。すなわち、新田義貞の家臣として越前国で転戦した畑時能の一族が、上州の小川絹・小川紙の製造法を伝えたとされる[9]。 室町時代末期、文明年間には本願寺8代蓮如が越前国吉崎御坊に滞在して布教を行ったことにより、北陸地方では急速に真宗門徒が増大した。五箇山においては赤尾道宗という人物が熱心に蓮如の下に通って教えを受け、道宗の活動によって五箇山地方でも真宗の教えが広まった。赤尾道宗は1501年(文亀元年)に自らの心を振り返って内省・悔改した「道宗覚書二十一か条」を記し、これが現在まで西赤尾村行徳寺に伝えられているが、これこそ五箇山で生産された現存する最も古い和紙であると推定される[11]。この他に、新屋道善寺所蔵の天十物語の用紙や、五箇山十日講員が天文21年10月27日に本願寺に提出した起請文なども、五箇山で生産された和紙であるとみられる[11]。 戦国時代を通じて五箇山地方は一向一揆による支配下にあったが、やがて佐々成政の統治()を経て、年より加賀国を本拠とする前田利家の支配下に入ることとなった。天正年間()、下梨村市助が前田利家に和紙10束を献上したとの記録があり、これが文献上で始めて五箇山和紙について言及された例となる[11]。 なお、後述するように初期の紙漉屋は須川集落から集落にかけての地域に集中しており、特に軒数の多い下梨村から皆葎村に至る一帯が五箇山和紙の発祥地であったと推定される[12]。 ○加賀藩御用紙 当初は藩主に対する献上品として登場した五箇山和紙は、生産量の増加に伴って加賀藩の御用紙としての地位を獲得していったようである。既に元禄年間に記された『元禄中農隙所作村々寄帳』には皆葎村・上梨村・田向村が上り紙、中畑村・嶋村が中折の色紙、籠渡村・下梨村・小来栖村・中畑村・見座村・皆葎村・上野村・漆谷村・來栖村・下嶋村が中折紙及び蝋、入谷村・中江村・下出村・須川村・夏焼村・阿別当村が中折紙を生産していると伝えている。

延享5年


○紙漉屋の分布 一例として、1734年(享保19年)の文書では年間の収入133貫700目の内、全体の19%に当たる25貫目が製紙業による収入で、56%を占める生糸生産の次に位置していた[3]


明治三年十一月、藩政期以来、野田紙紙取集所が 止され、 五ケ山紙販売 会社 「佳葉組」の設立代って民間の資本と組織による城端商法会社の出張所としこ、出家組・ 称する販売会社が設置された。 今般松共一商社を結、生薬組号作し越中城端商会社出張所=おいて商店を開、総計元銭四 万!文を以現期之通り商業戦 行中度と茶レ存候、依面社中為茂定六万貫文為替会社=指出可申候、此段聞 創座候様願上候、然上ハ社長、副長入 札 追市副道中上候間、副取極役 仰渡一可被下候、先兼施副布介之初規則照相守 可申 候以上 城端塗師屋 甚右衛門 浜 屋 彦右衛門 糸 屋 文右衛門 紫屋伝兵衛 細野屋喜 平 通商掛御中 佳葉組は、城端町人によって発起さ れたもので、出資金を公要する株式立ての会社であった。しかし頭初は、発 起人即ち出資者があったことは、藩政期の株仲間組織に似るものである。 出資金は、装定 と称する寄附金、一口五四〇〇貴文合計十一口、六万 文、元子銭と称する社中出資金 : ロ、一人宛三万一〇〇貫文余、合計三四万貴文であった。出資者は株主となり、他人に名機を設るときは社中一 同の了解を必要とした。又、社中の進退については一同の納得の上と し元銭出資金は返却することとされた。し不筋な行為を犯したものは、社中一同評決の上除名する。この際出資金は一切返却しないこと した、このよう に 城 端 商 法 会 社 と は 別 に 、 独 自 の 資 本 を 有 し て 五 ヶ 山出 来 紙 の 販 売 に 当 る こ と に な っ た ( 時 」 赤 ) 。 明治維新期を迎えた講所では、旧藩時代の政策が停廃止される中で、五ヶ山紙仕入仕法は、城端・非波商法会社 お よび、住薬組 という民間組織に引継がれ、五ヶ山紙 屋は何とか滞政期時代と同様に紙連が保障されることとな ったのである

  1. ^ 高桑 & 19, p. 159.
  2. ^ 高桑 & 19, p. 160.
  3. ^ a b 高田 1965a, p. 42.
  4. ^ 高桑 & 19, p. 162.
  5. ^ 高田 1965b, p. 13.
  6. ^ 高田 1966, p. 13.
  7. ^ 平村史編纂委員会 1985, p. 13.
  8. ^ 高田 1965a, p. 43.
  9. ^ a b 高桑 1955, p. 13.
  10. ^ 高田 1965a, p. 41.
  11. ^ a b c 高桑 1955, p. 14.
  12. ^ 高田 1965a, p. 44.