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舵子事件または梶子事件(かじこじけん)は、1948年(昭和23年)と1951年(昭和26年)の2度にわたって山口県情島で発覚した人身売買及び児童虐待事件である。児童福祉をめぐる戦後の法体制の形成期にあって児童労働が社会問題として認知された最初の事件であり、1947年に制定された児童福祉法の受容を物語る象徴的事例であった。

背景[編集]

情島の位置図
情島の位置図
情島の位置

舵子[編集]

事件の舞台となった情島は、山口県屋代島(周防大島)の伊保田港から3km沖、愛媛県との県境に浮かぶ面積1km2ほどの瀬戸内海の小島である。大島郡油田村に属していた。事件が起こった終戦直後の1948年ごろは人口のピークであり、戸数95戸、540人もの人口を抱えていた。

島内の4集落は全て、伊保田とは反対側の山を挟んだ島の東岸、諸島水道に面し、もっぱら漁業を生業としていた。諸島水道はタイ・サワラの好漁場であり、情島は一本釣り漁の村であった。潮流の速いこの海域で一本釣り漁を行うためには、船の方向を一定にするために絶えず舵取りを行う必要がある。梶子(舵子)とはこの舵取りを行う者のことで、広島県下蒲刈島三之瀬のように、瀬戸内の一本釣り漁村で多く使用されていた[注釈 1][2]

島では舵子を自家の子供に任せていたが、大正時代の終わりごろから漁船が増えるにしたがって、愛媛県の三津浜から人を雇うようになった[注釈 2]。しかし戦後の混乱の中でますます人手が不足し、都市部の孤児や非行少年を連れてきてこれを行わせるようになった[5]。舵子はその性質上、全員が男子であり、少年が多かったが、幼児をもらって漁に出られる年齢まで養う場合もあった。奉公の期間は10年・15年が多く、徴兵検査ごろまでを一区切りとしていた。成人して年季が明けると郷里へ帰っていったが、島の女性を妻として、漁師として定着する者もあった[6]

1946年には、防波堤のなかった島に台風が押し寄せ、使用に堪える漁船3艘を残して100艘あまりを破壊または洗い流し、島は困苦のなかで復興のさなかにあった。本州本土と大島との間に大島大橋が架橋されたのは1976年のことであり、それまで本土から情島にわたるためには、大島へ渡船してバスで伊保田へ向かい、さらに1日1度の渡船を乗り継がぐ必要があった。島の電線開通は1953年を待たねばならず、集落をつなぐ道路事情も極端に悪く、瀬戸内海の多くの島とともに情島は「忘れられた島」の様相を呈していた[7]

戦後の児童労働[編集]

戦前、貧窮児童保護の主体は全国にわずかに120か所設置された「育児施設(児童養護施設)」があるのみで、農山漁村の広範な貧窮問題に対しての貢献は限定的なものにすぎなかった。多くの児童は、あるいは運よく施設に保護された児童であっても尋常小学校を終えれば、農家や商家へ奉公に出される処遇が一般的であった。戦前農山漁村の労働現場は、乏しい貧窮児童の保護施策を補完する社会教育的な受け皿としての機能を果たしていたと言える[8]

民俗学者竹内利美の整理によれば、家業継承を目的としない非相続養子には、養育を目的とする「養い子」と労働力融通のための「貰い子」の2つの種類がある。養い子の慣習は、近親その他の特別の縁故のある範囲で一種の義理として行われるに過ぎなかったのに対し、貰い子の慣習は特に幼時からの熟練労働力を必要とする漁村地帯で、貧村の余剰労働力を吸収するという形で多く見られた[9]

戦後間もないころには、このように養子や貰い子という名目で子供に労働を課す慣習は、情島ばかりでなく全国各地の漁村に残っていた。1937年から1939年に柳田国男指導の下で行われた「離島及び沿海諸村に於ける郷党生活の調査」に参加した最上孝敬は、「家族単位の漁では普通の個人をつかふこともあるが、貰子又は養子によって労力の補給が行はれる」とし、桜田勝徳も「自分がたまたま知っている丈けでも、北は青森県下北半島から山形、新潟、神奈川、静岡、愛知、三重、沖縄糸満の広地域に及んでをり、尚自分等の知らぬこの様な例は非常に多いものと予想せられる」と述べている[注釈 3][11]

子供の年季奉公の慣行は、農村でも行われていた。これについて柳田国男は戦前、「身売りといふことは、我が国に於ては久しい間、労力融通の平穏なる一組織になつて居た」と述べている[12]。さらに戦後の農地改革は、農外収入に依存しなければ生活できない零細農民層を大量に生み出し、また他方では耕作能力を失った地主の労働力補填手段として人身売買を横行させ、こうした児童売買を因習化する状況を創り出していた。特にその皺寄せを食らったのは、冬季に農作業のできない積雪寒冷地、すなわち東北の水田単作地帯であった[13]

加えて、戦争の長期化による遺児家族、戦災孤児、非行児童などの問題が深刻化しながら、戦時中には児童保護の観点からの公的施策はほとんど皆無に等しいものであった。敗戦後の混乱と窮乏のもとで、戦災孤児・引き揚げ孤児・戦没軍人の孤児など基盤家族から切り離された「要養護児童問題」が一挙に露見した。政府は1946年9月に大都市圏に「主要地方浮浪児等保護要綱」を通達して浮浪児対策に出たが、その他の地方についてはほぼ手付かずの状態であった[14]

第1次舵子事件[編集]

発覚[編集]

1948年7月7日、久賀町(現・周防大島町大字久賀)警察署員が、道路に干してある豆を盗もうとしていた17歳と19歳の少年2名を保護し事情を聴取した。少年たちは対岸の情島から逃亡してきた舵子であった。彼らは1944年3月に広島の孤児施設から引き取られて働いていたが、仕事に耐えかねて無断で雇用主の船を使って島外へ脱出し、路頭に迷っていたところであった[15]。少年たちは虐待の事実を訴え、「ぼく達は島に二年いたが約六十名の仲間達は過労と栄養不足で幽霊のようにやせている。一度逃げそこなつたらそれこそ死よりもつらい折かんをうけたか知れない」と語った[16]

事情徴収の中で、情島で15歳の舵子が監禁され死亡した児童虐待事件が発覚した。その顛末は以下のようなものである。死亡した児童Kの雇用主である漁師Iは、広島の感化院(児童施設)から13歳のKをもらい受けて舵子として使用していた。感化院にいたころから不良児として有名であったKは、日ごろから近隣の食べ物を盗むなどしてIを困らせていた。Kは悪性の腸カタルに罹り治療を受けたが、医者や漁師の注意も聴かず依然として盗み食いを続けるので、Iは釣り餌のいけす用の小さな箱にKを入れて監禁した。はじめは座敷に置いていたが、下痢便による悪臭のため便所に移し、わずかな食事を与えて放置していたところ、20日後に死亡したという[17]

事態を重く見た駐在所はすぐさま大島地区警察署に通報し、県本部に報告するとともに捜査に乗り出し、漁民と協議して指導を行い、また児童を監禁死亡させた漁師を検挙した[18][17]。7月23日からは山口県児童課、労働省岩国労働基準局、労働省婦人少年局山口出張所などによる合同の実態調査が行われた。確認された舵子の中には50人余りで、感化院や孤児院出身の子供の他、前借金で連れてこられた者や戦災孤児が含まれていたことが判明した[18]

このような事件がこれまで表沙汰にならなかったことについて、警察は(1)同島が隔絶した孤島であったこと、(2)全島約50戸のすべてが舵子を使用しており互いに隠していたこと、(3)警邏の際も雇い主の目を恐れて舵子たちが実情を語らなかったこと、などを理由として挙げている[19]。島民や

対応[編集]

岩国労働基準局は、「これ迄のあり方は永年の慣習のまま時代に無自覚、無関心に基因するので児童福祉法、労働基準法等の新法令の趣旨を全然認識していなかつたことにある」との見解を示し、8月5日から県児童課と連携して指導を進めた。(1)離島希望者を自由にさせること、(2)12歳~14歳の者に義務教育を施すこと、(3)15歳以上の者を労働基準法上の労働者として扱うこと、(4)14歳未満の者には義務教育を受けさせること、(5)12歳以下の者には労働させないこと、(6)舵子組合を設立し福祉を図ること、が取り決められ、52名の舵子のうち14名が離島を希望した[20]

事件の後、島では児童福祉法の下で公的に整備されたばかりの里親制度が活用され、12人の子供が里子として登録された[注釈 4]。1948年には「里子保護者会」が設けられ、月例会が行われた。里子に対しては個人名義の貯金が作らるとともに、翌年には里子会館が開かれ、島で初めてのラジオが導入されている[22]

死亡した児童の雇い主は本件により不当監禁致死罪のかどで起訴され、1949年2月18日に山口地方裁判所岩国支部に出頭した。裁判所は懲役2年執行猶予3年の判決を申し渡したが、検事控訴となり、最終的には翌1950年7月11日に、広島高等裁判所で懲役1年の実刑判決を受けた[17]

県と労働省による指導の後、事件は急速に収束していった。1948年後半から1949年にかけては、舵子なくしては生活の成り立たない島民に同情を寄せ、買った漁師と舵子が里親・里子関係を結び円満に生活していることを強調する声が県内の教育者から次々と発せられ、厚生省もこの事件を人身売買として問題視することはなくなった[23]

第2次舵子事件[編集]

労働問題の広がり[編集]

情島の事件が明るみに出てから半年後の1948年12月3日、東京の24歳の男性が10代前半の少年たちを誘拐して栃木県河内郡平石村の農家に売り込むという事件が毎日新聞で取りざたされた。栃木県地方検察庁、栃木県児童課、栃木労働基準局の捜査の結果、平石村では東北地方の貧農の児童(奥州っ子)を因習的に買っていたことが明らかとなった。

地方紙レベルの扱いにとどまった舵子事件と異なり、全国規模で報道された栃木県の事件はまもなくGHQの目にも留まり、内外世論を巻き込んだ大きな社会問題として認知された。この事件を発端として、栃木県全県、さらには児童労働力の供給地であった東北六県、そして全国へ児童売買問題は急速に拡大していくこととなった[24]

この事件を受けて、政府は「この種の慣行は、(…)いろいろの形態のもとに全国的に各地で行われているものと思われる」との見解のもと、1949年5月14日付で「家庭養育雇用児童」保護対策要綱を公表し、児童福祉法並びに諸法規の体制下で徹底した調査・保護措置を取ることを示した。さらに、婦人児童局の提起により中央青少年問題協議会で対策が論じられ、1952年2月には厚生事務次官通知「所謂児童の人身売買事件の対策について」が発せられるに至った[25]

第2次舵子事件[編集]

情島の事件が再発したのはこうした議論が盛んになっていた1951年のことであった。里子保護者会の責任者で青年団の世話役も務めていた東野氏は、舵子に関する労基法上の手続きを引き受けつつ、島民の意識改革にも働きかけていたが、同年に島民との軋轢で会長の任を辞していた。彼の辞任後に賃金台帳が未整備となり、労働基準監督官から指導が入っていた[26]

5月24日、情島から5人の舵子が虐待に耐えかねて逃走し、徳山児童相談所に保護された。いずれも17歳の戦災孤児であった。彼らの言によれば「情島のカジ子たちは明るく生活しているというのは表面だけで、相変らず、どれいの如く酷使されて」おり、朝4時から夜11時まで拘束されて、学校にもほとんど通っていないと実情を訴えた[27]。2度目の事件であり、社会問題として児童の人権推進キャンペーンが行われていた時期でもあったことで、情島に対する報道姿勢は第1次事件にもまして苛烈なものとなった[28]

里親が相談所に呼び寄せられ、県児童課との相談の上、全員が舵子に復帰することが決まった。この事件を機に、里親制度は15歳以上の就労を含むケースにはなじまないことが明らかとなり、これに代わって児童福祉法の保護受託者制度が適用されることとなった[注釈 5]。行政指導の下で舵子保護者会が開催され、空席となっていた役員に東野旧会長が再選し、至急賃金台帳の整備など体制の立て直しに当たった[28]

流布[編集]

最初の事件から5年後、1953年に労働省官僚兼作家の本庄しげ子が渡島して残留した舵子に取材し、『人身売買:売られゆく子供たち』で告発した。本庄の取材により改めて情島の虐待は全国に知られるところとなった。1954年、この事件を基に水木洋子が書き下ろしたラジオドラマ「舵子」がNHKで放送され、1957年には、同ドラマが水木脚本・久松静児監督の下で「怒りの孤島」のタイトルで映画化され、文部省の推薦を受けている[30][31]。新田次郎の作品「珊瑚」にも舵子の話が取り上げられている[32]

「怒りの孤島」の制作会社日映専務の曽我正史は、映画の内容が事実であることを強調し、映画を通じて多くの不遇な児童の状況が認知され改善されるようにとの期待を表明した。一方で映画の中では、情島は「愛島」(いとしじま)の名に置き換えられ、島民が密漁者を殺害したり、逃げた舵子が海に落ちて渦潮に巻き込まれるなど、露骨な脚色も多く施されていた[33]。また、撮影は情島ではなく宮城県の江島で行われており、島の風景も大いに異なっていた[34]

東和町出身の民俗学者宮本常一は、「島民の世間知らずを利用して、いろいろきき出して、それに尾鰭をつけて、世に悲惨な物語にしあげ」ているとして映画「怒りの孤島」に批判的な見解を示し、島の開発の遅れを指摘しながら「島のおくれを島民だけの責任に帰して非難したり、あげ足とりをするまえに、お互いに何とかしてその生産と生活向上について考えもし、また助け合いたいものである」と述べている[35]

宮本は、第1次事件で監禁され死亡した児童は「異常性格児」であり、「たべすぎがもとで死んでいった」と述べ、逃亡した2人の舵子についても「単調な生活に耐えかねたもののようであつたが、巡査につかまつてから、逃亡の理由に虐待をあげた」と舵子に責があるような叙述を行っている。第1次事件で実地調査に当たった県児童課の行政官も、「大半の使用首は舵子に対して家族同様の待遇をなしており、新聞報道されたような過酷な事実はなく、単に永年の慣習により「無自覚無関心」に子どもたちを取り扱っていた」ためであると、比較的島民に対して好意的な意見を述べている[36]

対して情島出身の鶴村豊は、大部分の舵子は、家の子供よりも下等な食物を与えられ、夜尿や盗み食いをすれば激しい折檻を受けるなどかわいそうな生活を繰り返していたと証言している。生活に耐えかねて山や島外へ逃走を図るものの、連れ戻される舵子も多かったという[37]

評価[編集]

宮本常一が舵子事件の報道を誇張であると断じたのと同様に、こうした伝統的な労働慣習を擁護する論調は多くみられた。竹内利美も三陸漁村の貰い子の事例を挙げ、「第一義は漁家経営の必要におかれていても、養育と漁夫としての自立の配慮が、近年までかなりゆきとどいていた」と主張する。坂井摂子は、漁村の貰い子慣習を問題化した児童福祉の推進が「児童の労働搾取」としての里親制度への否定的なイメージの形成につながったことを指摘している[38]

一方、法学者の川島武宜は飛島の貰い子「南京小僧」の実地調査をもとに、こうした養子の形態は、家族的恭順関係に擬制された支配=収取関係を特質とする「アジア的奴隷制」のいわば原型であると断じた[39]。加えて、児童の自由が親によって他人に譲り渡され、その児童が他人の家父長制奴隷となることが問題であるとし、虐待されていないという事実をもって人身売買(ないしは養子)を擁護する考えを厳しく批判している[40]

いずれにしても、戦前の労働環境のもとに許容され、消極的な児童保護対策を補完していた「家庭養育雇用」は、社会問題化を経て「人身売買」へと置き換えられることとなった。舵子事件は上述のように、後に起きた栃木県の人身売買事件に比べれば、社会への訴求力は限定的なものであった[注釈 6]。しかし、伝統的な家庭養育雇用の慣習が児童福祉法の理念のもとに一掃される過程に起きた1つの象徴的事件であったといえる[42]

その後[編集]

情島小中学校。隣(右手奥側)にあけぼの寮があった。

情島には1951年、児童養護施設「あけぼの寮」が設置された。舵子とは別に家庭不遇児の養護施設事業を行ってはどうか、という山口県婦人児童課職員の勧めで、事件の汚名を払拭すべく開設したもので、東野氏の息子兄弟とその夫人が運営に当たった。県の斡旋で3歳から18歳までの精神薄弱児を主に収容し、島の小中学校に通わせた。1959年には小・中学校がともに油田分校から独立している[43]

舵子の慣習は昭和30年代以降、動力船の導入にしたがって次第に消滅し、1980年代には数人を数えるのみになった。島は高齢化が進み、魚価の低迷もあって、2017年時点で現役の漁師は10人ほどにまで減っている。島の小中学校は2006年以降、あけぼの寮の生徒のみとなり、そのあけぼの寮も、救急搬送[注釈 7]や高校通学の困難から2017年3月をもって岩国市に移転、島の小中学校は休校となった[45]。現在、旧寮舎は地域交流センターとして活用されている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日清日露戦争のころ、父親の出兵により家を追い出されて路頭に迷う子供が広島、島々に相当多く、各地の漁船がこれを連れてきて釣漁の漕ぎ手として養っていたことが、下蒲刈島三之瀬の民俗調査で報告されている[1]
  2. ^ このため舵子には「伊予子」の別称もあった[3]。1935年『愛媛社会事業』によると、松山市内から新浜村や山口県へ舵子に売られた児童が小学校教師や叔父の手で連れて返されるという事件が当時数度報道されている[4]
  3. ^ 個別の通称のあるものに、山形県飛島のタラ漁に使われた「南京小僧」や沖縄県糸満の漁夫が用いた「糸満売り」などがある。また、戦前に児童福祉活動家の留岡幸助が開設した家庭学校では、1914年以降、不良少年を小笠原諸島に送致して強制労働に付す処分が行われていた[10]
  4. ^ 児童保護政策について日本では戦前から施設収容第一主義が取られてきたが、戦争を経て施設の量的・質的な限界に直面していた。里親制度は、それまで制度的に整っていなかった個人養育を法の管理対象に入れることで、施設に依存しない個人養育制度の開拓を目指すものであった[21]
  5. ^ 保護受託者制度は1951年6月の第5次児童福祉法改正において定められたもので、里親制度とは異なり、年長児童のために独立自活に必要な指導を受けさせる目的と意義があった。里親という名目での児童の労働搾取が絶えないなかで、里親制度から労働の側面を切り離し、純粋な養育制度に改めたい意図があったと考えられる[29]
  6. ^ 映画評論家井沢淳は「怒りの孤島」の批評の中で、八海事件を題材とした「真昼の暗黒」と対比して、「ジャーナリスチックには、それほど注目された事件ではなかった。しかし問題そのものの重大さは、むしろ、こちらの方が上かもしれぬ。」と述べている[41]
  7. ^ 情島には医療施設や救急船がなく、急患が出た際には何人かの島民が自家用船で対岸の大島へ運んでいるが、高齢化によって運営が難しくなっている[44]

出典[編集]

  1. ^ 北見 1966, pp. 449–450.
  2. ^ 宮本 1959, p. 47.
  3. ^ 鶴村 1987, pp. 75–76.
  4. ^ 水野 2016, p. 90.
  5. ^ 宮本 1959, p. 49-50.
  6. ^ 鶴村 1987, pp. 76–77.
  7. ^ 宮本 1959, pp. 52–53.
  8. ^ 加登田 2009, p. 48, 68.
  9. ^ 坂井 2015, pp. 37–38.
  10. ^ 藤野 2012, p. 58-59,109.
  11. ^ 藤野 2012, p. 47.
  12. ^ 藤野 2012, p. 78.
  13. ^ 藤野 2012, p. 147.
  14. ^ 加登田 2009, pp. 46–47.
  15. ^ 加登田 2009, p. 39.
  16. ^ 藤野 2012, p. 49.
  17. ^ a b c 加登田 2009, pp. 39–40.
  18. ^ a b 藤野 2012, p. 50.
  19. ^ 加登田 2009, p. 40.
  20. ^ 藤野 2012, p. 51.
  21. ^ 貴田 2019, pp. 76–79.
  22. ^ 加登田 2009, p. 66.
  23. ^ 藤野 2012.
  24. ^ 藤野 2012, pp. 78–79, 140–141.
  25. ^ 加登田 2009, pp. 60, 63–64.
  26. ^ 加登田 2009, pp. 66–67.
  27. ^ 藤野 2012, p. 53.
  28. ^ a b 加登田 2009, p. 67.
  29. ^ 貴田 2019, pp. 85–87.
  30. ^ 藤野 2012, p. 54.
  31. ^ 加登田 2009, pp. 67–68.
  32. ^ 鶴村 1987, p. 77.
  33. ^ 藤野 2012, pp. 54–55.
  34. ^ 宮本 1959, p. 45.
  35. ^ 宮本 1959, pp. 51, 53.
  36. ^ 加登田 2009, pp. 54–56.
  37. ^ 鶴村 1987, pp. 56–57.
  38. ^ 坂井 2015, p. 44.
  39. ^ 川島 1947, p. 34.
  40. ^ 川島 1949, p. 122.
  41. ^ 井沢 1958, p. 74.
  42. ^ 加登田 2009, p. 68.
  43. ^ 宮本 1959, pp. 54–55.
  44. ^ 齋藤 2017, p. 151.
  45. ^ 齋藤 2017, pp. 154–155.

参考文献[編集]

  • 井沢淳「怒りの孤島」『映画芸術』第6巻第3号、映画芸術社、1958年、74頁。 
  • 加登田恵子「〈児童福祉法体制〉受容のプロセス:舵子事件をめぐって」『山口県立大学社会福祉学部紀要』2009年、39-70頁、ISSN 1882-6393 
  • 川島武宜『日本封建制のアジア的性質』岩波書店〈川島武宜著作集 10〉、1983年(原著1947年)。 
  • 川島武宜「売られゆく子ら:人身売買の実話と批判」『婦人』第22号、皓星社。 
  • 貴田美鈴『里親制度の史的展開と課題:社会的養護における位置づけと養育実態』勁草書房、2019年。ISBN 9784326603220 
  • 北見俊夫 著「広島県安芸郡蒲刈島」、柳田国男指導日本民俗学会 編『離島生活の研究』国書刊行会、1975年(原著1966年)、421-466頁。 
  • 齋藤潤「瀬戸内海の今を歩く第62景 山口県情島:消える小中学校と児童養護施設」『しま』第61巻第4号、日本離島センター、2017年、148-163頁、ISSN 1343-7224 
  • 坂井摂子「里親養育にみる子育ての可能性」、新潟大学博士論文、2015年。 
  • 鶴村豊『情島:わが心に残る故郷の島への想い』1987年。 
  • 藤野豊『戦後日本の人身売買』大月書店、2012年。ISBN 9784272350360 
  • 水野喜代志「「舵子」の資料と研究方向」『愛媛近代史研究』第70号、2016年、89-95頁。 
  • 宮本常一「「怒りの孤島」に生きる人々――山口県大島郡情島」『宮本常一離島論集』 1巻、みずのわ出版、2009年(原著1959年)、44-56頁。ISBN 9784944173730 

関連項目[編集]


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