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INSTANT LOVE
BOØWYスタジオ・アルバム
リリース
録音 STUDIO BIRDMAN
ジャンル ロック
ポストパンク
ニュー・ウェイヴ
時間
レーベル 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ
プロデュース 木村マモル
BOØWY
チャート最高順位
BOØWY アルバム 年表
MORAL
1982年
INSTANT LOVE
1983年
BOØWY
1985年
EANコード
『INSTANT LOVE』収録のシングル
  1. 「INSTANT LOVE」
    リリース: 1988年3月25日
  2. 「OH! MY JULLY Part I」
    リリース: 1988年3月25日
  3. 「MY HONEY」
    リリース: 1988年4月25日
  4. 「FUNNY-BOY」
    リリース: 1988年4月25日
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INSTANT LOVE』(インスタント・ラブ)は、日本のロックバンドであるBOØWYの2枚目のオリジナル・アルバム

1983年9月25日徳間ジャパンのジャパンレコーズレーベルからリリースされた。ビクター音楽産業からの移籍第一弾として前作『MORAL』(1982年)以来1年半ぶりのリリースとなった。作詞は氷室狂介高橋まこと松井恒松、深沢和明、作曲は氷室および布袋寅泰、プロデュースは木村マモルが担当している。

レコーディングはメンバーであった深沢および諸星アツシの脱退後に行われ、当時所属していた音楽事務所であるビーイングのスタジオ「バードマン」の空き時間を使用しての作業となった。氷室は本作のテーマが「シラケ感覚」であると述べ、パンク・ロックを基本とした前作から作風が一変しラブソングを中心とした構成になっている。

本作リリース直後は音楽ランキングなどには全くチャートインせず、BOØWYの同レーベルからのリリースは本作のみとなり後に東芝EMIに移籍する事となる。その後、1988年の再リリース盤はオリコンチャートで最高3位を記録した。また本作からのシングルカットはプロモーション用の「FUNNY BOY/OH! MY JULLY」のみで正式にはリリースされなかったが、1988年に「INSTANT LOVE」、「OH! MY JULLY Part I」、「MY HONEY」、「FUNNY-BOY」の4曲をA面とした8センチCDがリリースされた。

背景[編集]

氷室狂介布袋寅泰を中心に松井恒松、深沢和明、諸星アツシ、木村マモルによって結成されたBOØWYは、事務所の許可を得た事からファーストアルバム『MORAL』(1982年)のレコーディング作業に取り掛かる事となった[1]。元々プロデューサーとしての活動を希望していた木村はレコーディング中に自身の代わりとなるドラマーのオーディションを提案し、そのオーディションによって高橋まことが加入する事となった[2]

1981年の夏にレコーディングが終了するも完成した音源に関してレコード会社から理解が得られず、リリースするまでに長い時間を要する事となった[3]1982年3月21日にようやくリリースされた『MORAL』であったが、レコード会社によって付けられた「エアロスミスアナーキーサザンを足して3で割ったバンド」、「ラスト・パンクヒーロー」というキャッチコピーにメンバーは落胆する事となり[4][5]、またすでにメンバーの音楽的な興味は大きく変化していた[6]。その後氷室と布袋の提案により「ラスト・パンクヒーロー」というイメージからの脱却が図られ、ライブ時に黒ずくめであった衣装からポップ・ミュージシャンを思わせる派手な色合いの物へ変更した他、演奏曲を『MORAL』からではなくまだ未発売であった本作収録曲を中心にメロディアスな曲やラブソングを中心に、よりニュー・ウェイヴに近い音楽性やウルトラヴォックススクイーズのような物憂いメロディアスな音楽性へと変化する事となった[7]。この事により初期からのファンは戸惑いを見せ始め、またメンバーであるギターの諸星アツシとサックスの深沢和明も同じく戸惑いを感じていた[4]

そんな状況からの脱却を試みようと、布袋は同年9月9日渋谷パルコ Part3でのライブから方向性を変え、演奏曲や衣装をそれまでのイメージと全く異なるものに変更することを提案した[4]。しかし、当日のライブでは途中で帰ってしまう観客が出るなど反応は厳しく、それまで必ず演奏していた「IMAGE DOWN」をセットリストから外した事によって客席からブーイングが起き、収集が付かなくなったためアンコールで「IMAGE DOWN」を演奏する事となった[8]。またライブ時における深沢と諸星の扱いに関して布袋が行き詰っており、事務所副社長であった月光恵亮から両者を脱退させるという通達が出された[3]。通達の根拠は、BOØWYは氷室と布袋のツートップが魅力であり、両者を浮かび上がらせるには6人編成では人数が多すぎるというものであった[9]。この決定にメンバーは猛反対したものの、バンドのステップアップのため泣く泣く条件を飲む事となった[9]。同年10月9日の新宿ロフトライブを最後に諸星と深沢は脱退する事となった[4][10]。高橋の自著『スネア』によれば、深沢と諸星は音楽性の変化に付いていけずに脱退したとも記されている[11]。また、松井の自著『記憶』によれば、2名の脱退により音がスカスカになり、6人時代は誤魔化せていた部分も誤魔化しがきかなくなり、演奏時の緊張感が高まったと記されている[12]

録音[編集]

プロデュースはBOØWYの初代ドラマーだった木村マモルが担当した。木村はBOØWY以前に氷室も在籍したスピニッヂ・パワーというグループでドラマーを担当していた[13]。プロデューサーとなった木村は移籍先となるレコード会社としてジャパン・レコードとの契約を獲得する[14]。やがてレコーディングも決定したが、所属事務所であるビーイングの所有するスタジオ「バードマン」の空き時間であるなら自由に使用しても良いという、通常ではあり得ない方法が採用される事となった[14]。そのため、レコーディングスケジュールが存在せず、特に締切に追われることなく作業が行われた。

前作で思うような音作りができず、完成したレコードを聴いて落胆した布袋は、本作にて様々なアレンジを試みている。前作における失敗に関して、布袋は制作時間の少なさやエンジニアとの相性以前にバンドが一つになっていなかった事が原因であると述べている[15]。そのため本作では自らがサウンド・プロデュースを行う事を申し出ており、サウンドのほぼ全てを担当している[15]。しかし、前作では編曲者のクレジットは布袋一人になっているが、本作では「BOØWY」とバンド名での編曲クレジット表記になっている(オリジナルアルバムでは唯一のバンド名での編曲クレジット表記)。また、この時期にはライブで演奏された曲は数多く存在するが、本作では9曲に絞り込まれた。

布袋は本作のレコーディング作業に関して、数日間徹夜になる事もあった他、作業が終わりスタジオから出るのは日中であった事も述べ、メンバー全員疲労困憊であったと述べている[16]。レコーディングが進められる中でメンバーは、事務所によるブッキングを待つだけでなく、自ら積極的にライブハウスとの交渉によりブッキングを取り付けるようになり、また事務所所有のレコーディングスタジオでは空き時間にしか使用できないため、事務所からの独立を計画する事となった[17]。その後独立のため、布袋は当時高円寺で貸しスタジオを運営していたかつてのバンドメンバーである土屋浩をメンバーに紹介する事となった[4]。土屋はBOØWYのマネジメントを引き受ける事となり、メンバーは所属事務所であったビーイングを離脱する事となるが、原盤制作は引き続きビーイングが担当している[18]

音楽性[編集]

本作は前作のリリースから1年半経過していた事もあり、氷室は「俺たちは飽きっぽいからさ、1年半もあれば、いろいろ音の興味も変化するわけ。だから、いろんなタイプの曲が入っているんだ」と述べ、ストレートなロックンロールをベースに、ファンクレゲエダブプログレなど様々な要素が取り入れられる事となった[19]

また、氷室は政治状況などから日本におけるパンク・ロックはあり得ないと断言し、また若者に馴染み易い事象は「恋愛ごと」であるとして「恋愛ごと」に対する自身の考えを表現する事を検討、その事によって「その方が気がラクだよなって、すごく思った」と語り、歌詞においても「パンク」というイメージに縛られずに「今思うものを書く」ことに専念する事となった[20]。また本作のテーマについて氷室は、「ファーストアルバムが『怒り』なら、今回は自分達の中にある『シラケ感覚』がテーマ」[19][21]。と述べた他、「前作『MORAL』が怒りに斧を振り上げているイメージに対し、今作はドスをチラリと見せる、よりシャープなイメージ」であると語っている[22]

布袋は本作の音楽性に関して、「モダンでキッチュで、しかしメロディはどことなくセンチメンタルな、アバンギャルドなポップ」と述べている[16]

リリース[編集]

1983年9月25日徳間ジャパンのジャパンレコーズレーベルよりLPでリリースされた。1985年6月25日に初CD化で再リリースされ、1986年3月12日にはカセットテープでリリースされた。

また、バンド解散後の1988年にはアルバム収録曲全9曲から『SYMPHONIC』を除く8曲で4枚の8センチCDがリリースされた他、6月25日には当時の宣伝用ポスター、ポストカード等の復刻版を付属した限定版がLP、CD、CTの3形態で再リリースされ、解散から10年経過した1998年2月18日にはCDのみ再リリースされた。その他にボックス・セットである『BOØWY COMPLETE』に収録される形で1991年12月24日1993年3月3日2002年3月29日の計3回リリースされ、2002年版では初めてデジタルリマスター版が収録された[23]

さらに2002年3月29日にリミックス・アルバム『INSTANT LOVE HAMMER TRANCE』に2枚組で収録され、解散宣言から20年となる2007年12月24日には紙ジャケット仕様でリリース[24]、デビューから30周年となる2012年12月24日にはブルースペックCDでリリース[25][26]2020年9月30日には徳間ジャパンコミュニケーションズ創立55周年企画としてUHQCDでリリースされた[27]

シングルCD
No. 日付 タイトル カップリング曲 規格 規格品番 最高順位
1 1988年3月25日 INSTANT LOVE TEENAGE EMOTION 8センチCD 10JC-277 70位
2 1988年3月25日 OH! MY JULLY Part I OH! MY JULLY Part II 8センチCD 10JC-278 78位
3 1988年4月25日 MY HONEY LONDON GAME 8センチCD 10JC-282 -
4 1988年4月25日 FUNNY-BOY THIS MOMENT 8センチCD 10JC-283 -

プロモーション[編集]

本作リリース前に、契約したジャパンレコードが徳間音楽工業に吸収され徳間ジャパンという新しい会社となったため、BOØWYに関する全ての宣伝費がカットされる事態となる[28]。そのため、ポスター作成依頼も断られメンバー自らがアルバイト等で得た収入を元に、手作業でポスターや告知を作成することとなった[28]。その最中、唯一プロモーション用宣材として限定300枚のみ配布されたシングル「FUNNY BOY」をセルフ・プローモションとしてメンバーがアポなしで足を運び、新宿有線で3週連続1位を獲得[29][30]

しかし、所属のレコード会社との事務引き継ぎなどがないまま事務所を離脱した事もあり、本作に関するプロモーションは思うようには行われず、予算もなかったため宣伝活動やライブ告知などは全てメンバー自らが行い、予算がない中で全国をハイエース1台で周り、ライブだけを行う状態となった[28]。このため、レコード化されていない楽曲が多く、ファンの間では録音したライブ音源の交換によって曲の認知度が広まっていった[14]。前作に続き本作も全く売れず、レコード会社との契約は打ち切りとなった[16]。1983年の秋頃、そのままバンド活動を終了する訳にはいかないと考えたメンバーは、「あと一枚だけはアルバムを作ろう」との信念から土屋を中心にプライベート・オフィス「Ø-connection」を設立する事となった[31]。土屋は高円寺でリハーサルスタジオを経営しており、スタジオ内に間借りする形で事務所が設けられた[32]。事務所はアルバイトを雇う余裕がないため、ライブのブッキングや楽器の運搬、ライブ用のチラシデザイン、取材など全てをメンバー自らが行わなければならない状態であった[33]

当時広報係の担当となった布袋は、AUTO-MODなどの他のバンドにも参加してBOØWYのデモテープを渡すなど積極的な宣伝活動を行った[34]。また布袋はスタジオミュージシャンとしても活動するようになり、フジテレビ系テレビアニメ『ストップ!! ひばりくん!』(1983年 - 1984年)のエンディングテーマ「コンガラ・コネクション」や小林泉美のアルバム『Nuts, Nuts, Nuts』(1982年)にギタリストとして参加している[35][36][37]

アートワーク[編集]

本作のビジュアル・コンセプトは「アダム&ジ・アンツをもっと過激に!」となっている[38]。布袋はこの当時に渋谷公園通りを歩いていた際に、パルコの「やさぐれて、艶姿(あですがた)」というキャンペーンポスターに写る男女が髪を逆立てている様を発見した事から、他のメンバーにも髪を逆立てるよう提案し「ダイエースプレー」を使用するようになった[39]。またこの当時、メンバーのヘアメイクは全て布袋が担当していた[40]

本作のレコーディング直後に布袋は、青山にある「T-KIDS」という洋服店を発見し、ショーウィンドウに飾られた服を気に入った布袋は店員に服のリースを直談判し、当初は拒絶されたものの音源を聴かせる事やバンドのイメージを説明した事で店側の了承を得た[41]。この頃より布袋はライブ毎にメンバーの衣装をイラストで提案する事や、ライブ毎にコンセプトを打ち立て、「アフロカビリー」と題したジャングルビートとロカビリーを融合した内容や、「ロンドン・ゲーム」と題してグラムロックパーティを行うなどアイデアを発揮するようになった[42]。また本作より高橋はトレードマークとなるサングラスを掛けているが、これは布袋の発案によるものであった[43]

ツアー[編集]

1983年の本作のリリース以前に、BOØWYは「ジャパン・ツアー」と題した初の全国ツアーを実施、機材車であるハイエースにメンバーとスタッフを載せる事となった[44]。金銭的な事情から高速道路の使用を諦め、一般国道を走る一行であったがエアコンが故障した事から布袋はアルミホイルを購入し車窓に貼り付ける事で暑さを凌ごうとしたが、車体が高温になった事からガムテープが剥がれ、アルミホイルは全く役に立たなかったという[45]

ツアー中の7月31日には佐賀県にて行われたイベント「さが21世紀県民の森イベント『WOODS CONCERT』」に参加、マネージャーであった土屋がブッキングしたイベントであり、数万人の客と数十万円のギャランティーが用意されていると聞き、ウッドストック・フェスティバルのようなイベントを期待して行った一行であったが、実際には村おこし盆踊りのようなイベントであり、客は40人ほどであった[46]。さらに、ギャランティーは出ず村でとれた野菜を持って帰るよう主催者側から言われ、帰途用の高速料金もままならない事から土屋は主催者側と再交渉し、高速料金と焼酎を得る事となった[47]

本作リリース後のツアーは、同年9月22日から12カ所の会場で「INSTANT LOVE TOUR」として開催された。しかし、レコード会社からの正式なサポートなどはなく、自己負担による小規模なライブハウスのみのツアーとなっている。また、ポスターなども布袋や土屋が手書きでメンバーの似顔絵を描いたものなどが使用されている[48]

批評[編集]

専門評論家によるレビュー
レビュー・スコア
出典評価
CDジャーナル否定的[49]
音楽誌が書かないJポップ批評18肯定的[50]
音楽誌が書かないJポップ批評43肯定的[51]
  • 音楽情報サイト『CDジャーナル』では、「ライヴ・バンドとしてのパワーを氷室のヴォーカルにのせ過ぎているようで、本領発揮できずだった」と本作を否定的に評価した[49]
  • 音楽誌『音楽誌が書かないJポップ批評18 BOØWYと「日本のロック」』においてライターの根本桃GO!は、「全体にソリッドで抑制が効いている」と述べた他、BOØWYのアルバムの中で「もっともBOØWY的じゃない作品」であると本作を位置付け、布袋の音楽的嗜好が全面に出ていると指摘した[50]。また歌詞に関しては前作のような直接的表現が消えムード重視となった事など急激な変化も含めて「音的にはこのアルバムがBOØWY音楽のもっとも純化した形と言えるのかもしれない」、「彼らのアルバムのなかではかなりロック度が高いといえる」など肯定的に評価した[50]
  • 『音楽誌が書かないJポップ批評43 21世紀のBOØWY伝説』においてライターの安部薫は、「バンドが初めてBOØWYと名乗れるに相応しい音楽を鳴らせた作品」と本作を位置付け、様々なジャンルのサウンドが導入されている事に触れた上で「空間的方向からロマンティシズムに彩られたメロディを揺さぶっていく構図が見える」と表現した他、ウルトラヴォックスのセカンドアルバム『HA! HA! HA!』(1977年)との相似関係があると主張し「当時のJポップ・シーンにあってはあまりにも刺激的だったはずだ」と肯定的に評価した[51]。また安部は本作のテーマが「シラケ感覚」である事から、アメリカ合衆国における失われた世代の日本版であるとし、同世代の文学が刹那主義的で人間関係が欲望の充足によってのみ表現される事に触れた上で、本作の歌詞には性表現はあるものの希薄であり、1980年代には生々しい表現が避けられる傾向にあったためではないかと推測、また氷室は英語を隠れ蓑に孤独な心情を綴っていたと解釈した他、「サウンドも歌詞も当時の自分達に素直に表現できたという意味で、BOØWYはここからスタートしたと言っても過言ではない」と総括した[51]

チャート成績[編集]

リリース当初は様々な音楽ランキングにおいてチャート圏外となり、布袋は自著『秘密』の中で前作に引き続き本作も全く売れず、リリース後にレコード会社との契約が破棄された事を記している[16]。布袋は2枚目のアルバムが不発であった場合、ほぼ全てのバンドは解散するが、もう1枚だけアルバムを制作するという強い意志があったためバンドが存続する事になったとも記している[52]

バンド解散後となった1988年の再発売盤が初めてチャートインし、オリコンチャートにて最高順位3位を記録した。

収録曲[編集]

一覧[編集]

全編曲: BOØWY

SIDE 1
#タイトル作詞作曲時間
1.INSTANT LOVE氷室狂介布袋寅泰
2.MY HONEY氷室狂介布袋寅泰
3.OH! MY JULLY Part II氷室狂介氷室狂介
4.FUNNY-BOY氷室狂介、高橋信松井恒松氷室狂介
合計時間:
SIDE 2
#タイトル作詞作曲時間
5.OH! MY JULLY Part I氷室狂介布袋寅泰
6.TEENAGE EMOTION深沢和明布袋寅泰
7.LONDON GAME氷室狂介布袋寅泰
8.SYMPHONIC氷室狂介氷室狂介
9.THIS MOMENT氷室狂介布袋寅泰
合計時間:

曲解説[編集]

  1. INSTANT LOVE
    曲名は、布袋の作ったデモテープの仮タイトルがそのまま採用されたものであるというが、当初「DON'T KEEP OUT」のタイトルで演奏されていたこともあった。現代の乾いた恋愛感情をテーマにしている。この曲を含め本アルバムに収録された曲は6人編成時代から演奏されていた。1986年頃までセットリストに残った。
  2. MY HONEY
    ミドルテンポの縦ノリビートで、初期〜中期において「OH! MY JULLY Part I」と共にライブの中核を担った。後期にはセットリストから姿を消したものの、BOØWYのキャリアの中でも長く演奏されており多様なアレンジが存在する。1985年のBOØWY'S BE AMBITIOUS TOURで演奏された最終版は、3rdシングル「わがままジュリエット」のB面に収録されている「GIVE IT TO ME」の曲終了後に、イントロがわずかに入っている。1985年頃までセットリストに残った。
  3. OH! MY JULLY Part II
    当初のタイトルは「LOLITA」。
  4. FUNNY-BOY
    プロモーション用としてサンプル用のシングルが制作され、新宿有線で3週連続1位を記録した曲。元々は「夢を追って都会に出て来たが、何もかも上手くいかない少年の歌」だったが、幾度かのアレンジを経て現在の形になった。氷室がBOØWY結成以前の19歳の頃に作曲し、水島裕に提供した「光と影」が原曲である。
  5. OH! MY JULLY Part I
    ジュリーとは、当時氷室が飼っていたウサギのことである。中期まではライブの山場で演奏されるナンバーとして知られ、84年8月の高知県立県民文化ホール・グリーンホールでのライブではオーディエンスがあまりにエキサイトしたために演奏が中断した事もあった。1985年頃までセットリストに残った。
  6. TEENAGE EMOTION
    当初のタイトルは「FUCK OFF」。1986年頃までセットリストに残った。
    同郷の後輩であるBUCK-TICK今井寿が最も好きな楽曲だと語っている。当時ラフォーレ原宿で布袋を見かけサインを貰ったが、偶然この時の今井の服が当アルバムの裏ジャケットで布袋が着ている衣装の色違いだったという逸話がある[53]
  7. LONDON GAME
    ライブでも「TEENAGE EMOTION」とメドレーで演奏される事が多かった。当時のライブでは締めとしてよく使われた。1986年頃までセットリストに残った。
  8. SYMPHONIC
    当初のタイトルは「FUNK POP」。キーボードで演奏されている部分は、元々は深沢がサックスで演奏していた。高橋まことのお気に入りで、一度だけライブでボーカルを取った事もある(氷室がドラム、布袋がベース、松井がギター)。2016年4月13日に発売された氷室京介:オールキャリア・ベストアルバム「L'EPILOGUE」では[symphonic デモ音源 2016年Ver]として氷室京介がこの曲をリテイクしたものが期間限定配信で封入されていた。(2016年5月23日(月)23:59をもってこの配信は終了しているので現在は入手不可)
  9. THIS MOMENT
    初期のライブで演奏されていたが、後に「"GIGS" CASE OF BOØWY」でも演奏されている。氷室曰く「BOØWYの楽曲では唯一のレゲエ」。
    同郷の後輩、BUCK-TICK櫻井敦司が最も好きな楽曲だと語っている。1985年頃までセットリストに残った。

スタッフ・クレジット[編集]

BOØWY[編集]

スタッフ[編集]

  • BOØWY - サウンド・プロデュース
  • 木村マモル - プロデュース
  • 荒川勝(ジャパンレコーズ) - ディレクター
アートワーク
  • 三宅克徳 (MOONSHINE PROJECT) - デザイン
  • ジョン・シュナイダー - 撮影
  • やまだいさお (JET) - ヘアー、メイク
  • T-KIDS - コスチューム

リリース履歴[編集]

No. 日付 レーベル 規格 規格品番 最高順位 備考
1 1983年9月25日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ LP JAL-43 -
2 1985年6月25日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ CD 32JC-116 -
3 1986年3月12日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ CT 28J-2048 -
4 1986年10月5日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ LP 28JAL-3048 -
5 1988年6月25日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ LP
CD
CT
39JAL-3163
32JC-308
28J-2163
3位 限定BOXセット仕様
ステッカー、バッヂ、ポスター、カセットインデックス、ポストカード付属
6 1991年12月24日 東芝EMI/イーストワールド CD TOCT-6391 2位 CD-BOXBOØWY COMPLETE LIMITED EDITION』収録
7 1993年3月3日 東芝EMI/イーストワールド CD TOCT-6391 3位 CD-BOX『BOØWY COMPLETE REQUIRED EDITION』収録
8 1993年10月25日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ MD TKYA-1003 -
9 1998年2月18日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ CD TKCA-71347 -
10 2002年3月29日 東芝EMI/イーストワールド CD TOCT-24791 14位 CD-BOX『BOØWY COMPLETE 21st CENTURY 20th ANNIVERSARY EDITION』収録
20ビット・デジタルリマスター
11 2002年8月21日 徳間ジャパン CD TKCA-72413 83位 アルバム『INSTANT LOVE HAMMER TRANCE』との2枚組、デジタルリマスター盤
12 2007年12月24日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ CD TKCA-73288 - リマスターなし(98年以前と同じ音源)、紙ジャケット仕様、LP盤のレーベルを再現
13 2012年12月24日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ ブルースペックCD TKCA-10071 91位 リマスターなし(98年以前と同じ音源)
14 2020年9月30日 徳間ジャパン/ジャパンレコーズ UHQCD TKCA-10509 206位

脚注[編集]

  1. ^ 紺待人 1986, pp. 267–268- 「ACT5 BOY TO BOØWY」より
  2. ^ 高橋まこと 2017, pp. 110–111- 「2章 夜明け前(1974年~1981年)」より
  3. ^ a b B to Y 2004, p. 117- 「HISTORY」より
  4. ^ a b c d e RENDEZ-VOUS 1989, p. 166- 「ALL OF ALL」より
  5. ^ 高橋まこと 2017, p. 132- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  6. ^ 松井常松 2009, p. 58- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  7. ^ 高橋まこと 2017, pp. 132–133- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  8. ^ 高橋まこと 2017, p. 133- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  9. ^ a b 布袋寅泰 2006, p. 111- 「第二楽章 東京」より
  10. ^ B to Y 2004, p. 121- 「HISTORY」より
  11. ^ 高橋まこと 2017, p. 134- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  12. ^ 松井常松 2009, pp. 61–62- 「第2章 ライブ・デイズ - 1980年~1982年」より
  13. ^ 紺待人 1986, p. 72- 「ACT1 氷室京介」より
  14. ^ a b c 「ライナーノーツ」『BOØWY COMPLETE』、東芝EMI、1991年。
  15. ^ a b 布袋寅泰 2006, p. 112- 「第二楽章 東京」より
  16. ^ a b c d 布袋寅泰 2006, p. 113- 「第二楽章 東京」より
  17. ^ 高橋まこと 2017, p. 135- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  18. ^ 本作の音楽出版権はビー企画室が保有していたが、1984年にユイ音楽工房に移管されている。
  19. ^ a b ARENA37℃ 2001, p. 22- さまたまさと「1983年6月号??1984年8月号 BOØWY本誌初登場から初取材」より
  20. ^ 別冊宝島 2006, p. 95- 「アルバム・レヴュー 2nd Album『INSTANT LOVE』(1983)」より
  21. ^ B to Y 2004, p. 123- 「HISTORY」より
  22. ^ ARENA37℃ 2001, p. 23- 星野京子「1984年3月号 BOØWYの寒中見舞い申し上げます。」より
  23. ^ BOOWY CD10枚組ボックスセットをリマスター再発”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2002年2月18日). 2021年5月5日閲覧。
  24. ^ BOΦWY、12月24日の「解散宣言」日に貴重なアイテム発売”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク (2007年10月12日). 2021年5月5日閲覧。
  25. ^ デビュー30周年!BOOWY未発表映像&音源含むリリース企画”. 音楽ナタリー. ナターシャ (2012年10月4日). 2021年5月5日閲覧。
  26. ^ BOΦWY、未発表映像収録したBD BOX発売”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2012年10月26日). 2021年5月5日閲覧。
  27. ^ ZIGGY、ザ・スターリン、LINDBERG、BOØWY、THE STAR CLUB、THE MODSのアルバムがUHQCD(高音質CD)で9月30日発売”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2020年7月30日). 2021年5月5日閲覧。
  28. ^ a b c RENDEZ-VOUS 1989, p. 168- 「ALL OF ALL」より
  29. ^ 別冊宝島 2006, p. 94- 「アルバム・レヴュー 2nd Album『INSTANT LOVE』(1983)」より
  30. ^ 高橋まこと 2017, p. 144- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  31. ^ 布袋寅泰 2006, p. 114- 「第二楽章 東京」より
  32. ^ 布袋寅泰 2006, p. 115- 「第二楽章 東京」より
  33. ^ 布袋寅泰 2006, pp. 121–122- 「第三楽章 BOØWY」より
  34. ^ 布袋寅泰 2006, p. 122- 「第三楽章 BOØWY」より
  35. ^ 高橋まこと 2017, p. 138- 「3章 酒とバラの日々(1982年~1993年)」より
  36. ^ 小林泉美の大人気盤『Nuts, Nuts, Nuts』『TROPICANA』がタワレコ限定で初CD化”. TOWER RECORDS ONLINE. タワーレコード (2013年5月1日). 2021年5月6日閲覧。
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  52. ^ 布袋寅泰 2006, pp. 113–114- 「第二楽章 東京」より
  53. ^ TEENAGE EMOTION”. 寿記-寿的超日常記- / OFFICIAL BLOG of IMAI HISASHI from BUCK-TICK (2011年2月19日). 2019年9月21日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]