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冷房(鉄道車両)[編集]

鉄道車両の冷房装置(てつどうしゃりょうのれいぼうそうち)では、鉄道車両における冷房装置について記述する。なお、本項では主に冷媒を用いた単段蒸気圧縮冷凍サイクル蒸気圧縮冷凍機の空調装置(エア・コンディショナー)について述べる。

歴史[編集]

鉄道車両における冷房の初期的なものとしては、19世紀末から欧米で氷を用いた冷房が採用された例がある。これは車内に氷を積み込み、氷が融解する際の潜熱(融解熱)を利用して車内の温度を下げるというものであった。

設置方式による分類
動力源による分類(気動車、一部の客車)

関連項目[編集]

宇佐美式弁装置[編集]

宇佐美式弁装置(うさみしきべんそうち)は蒸気機関車の駆動に用いられる弁装置の一つである。1952年(昭和27年)、大宮工場の技師であった宇佐美吉雄により開発された。

開発の経緯[編集]

大正期以降、鉄道省および日本国有鉄道が新製した蒸気機関車ではワルシャート式弁装置が採用されていた。


関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1987年1月号(通巻474号)p128 星山一男 宇佐美式バルブギヤー

村上巧児[編集]

村上巧児(むらかみ こうじ、1879年明治12年)8月24日 - 1963年(昭和38年)10月21日)は日本の実業家西日本鉄道(西鉄)成立時に同社社長を務めた。

来歴・人物[編集]

現在の大分県中津市に生まれる。生家は現在、村上医家史料館となっている。

1903年明治36年)に早稲田大学政治経済科を卒業。大阪毎日新聞に入社し記者を務めた後、1908年明治41年)に同社を退社し、三越呉服店に入社する。1912年(大正元年)8月に三越呉服店を退社して設立間もない九州水力電気に入社し、1923年(大正12年)に同社の常務取締役となる。

九州水力電気入社後、電力供給事業において競合関係にあった九州電気軌道の買収工作を行った。1930年(昭和5年)、九州水力電気が九州電気軌道の株式の大半を取得して同社を傘下に収めた際、九州電気軌道専務取締役に就任。直後に発覚した前代九州電気軌道社長松本枩蔵による手形の不正発行事件の処理と財務整理を行った。1935年(昭和10年)に九州電気軌道取締役社長に就任したのち、1941年(昭和16年)に九州電気軌道が九州鉄道・福博電車を傘下に収めた際に両社の社長にも就任し、5社合併を主導した。1942年(昭和17年)に九州電気軌道が九州鉄道・福博電車・博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道を吸収合併して西日本鉄道となった際、同社社長に就任した。

また、経営不振に陥っていた小倉市の百貨店「井筒屋」が九州電気軌道傘下となった際、井筒屋取締役(のち社長)にも就任している。

1938年(昭和13年)には経営再建中であった耶馬溪鉄道(のちの大分交通耶馬溪線)の社長に就任し、当初は沿線の観光開発を手がけ、のちに別府大分電鉄(のちの大分交通別大線)の社長にも就任して大分交通成立を主導した。

1963年(昭和38年)10月21日死去(享年84)。西鉄・井筒屋による合同社葬が営まれた。

略歴[編集]

  • 1879年明治12年)8月24日 - 大分県下毛郡中津町の医師、村上田長の四男として出生
  • 1897年(明治30年)3月 - 大分中学校(現在の大分県立上野丘高等学校の前身)を卒業
  • 1903年(明治36年) - 早稲田大学政治経済科を卒業し大阪毎日新聞社に入社
  • 1908年(明治41年) - 大阪毎日新聞社を退社し三越呉服店に入社
  • 1912年大正元年)8月 - 三越呉服店を退社し九州水力電気に入社
  • 1921年(大正10年) - 九州水力電気取締役に就任
  • 1923年(大正12年) - 九州水力電気常務取締役に就任
  • 1930年昭和5年)10月 - 九州電気軌道専務取締役に就任
  • 1935年(昭和10年)7月 - 九州電気軌道専務取締役社長に就任
  • 1936年(昭和11年)10月 - 小倉商工会議所会頭に就任
  • 1937年(昭和12年)7月 - 井筒屋百貨店取締役に就任
  • 1938年(昭和13年)10月 - 耶馬溪鉄道取締役社長に就任
  • 1940年(昭和15年)
    • 4月 - 井筒屋百貨店取締役社長に就任
    • 5月 - 別府大分電鉄取締役社長に就任
    • 10月 - 福博電車取締役に就任
  • 1941年(昭和16年)
    • 1月 - 九州鉄道取締役に就任
    • 4月 - 福博電車取締役社長に就任
  • 1942年(昭和17年)
    • 2月 - 九州鉄道取締役社長に就任
    • 9月 - 西日本鉄道取締役社長に就任
  • 1943年(昭和18年)10月 - 昌栄土地(現・西鉄不動産)取締役社長に就任
  • 1945年(昭和20年)
    • 4月 - 大分交通取締役会長に就任
    • 5月 - 九州配電参与理事に就任
    • 9月 - 九州配電取締役に就任
    • 11月 - 西日本鉄道取締役社長を退任
  • 1946年(昭和21年)
    • 2月 - 貴族院議員となる
    • 3月 - 九州経営者協会会長に就任
  • 1951年(昭和26年)
    • 3月 - 九州電力相談役となる
    • 12月 - 西日本鉄道相談役となる
  • 1952年(昭和27年)
    • 10月 - 耶馬溪観光ホテル取締役社長に就任
    • 11月 - 小倉興産取締役に就任
  • 1955年(昭和30年)
    • 9月 - 八幡大学(現・九州国際大学)理事長に就任
    • 11月19日 - 井筒屋社長を退任
  • 1956年(昭和31年)
    • 4月 - 井筒屋取締役会長に就任
    • 6月 - NHK経営委員、小倉ステーションビル取締役社長に就任
  • 1957年(昭和32年)6月 - 小倉興産取締役会長に就任
  • 1958年(昭和33年)
    • 2月 - 小倉市特別功労者として表彰を受ける
    • 5月 - 小倉興産相談役となる
  • 1959年(昭和34年)6月 - 小倉商工会議所顧問となる
  • 1960年(昭和35年)9月 - 福岡ビル取締役会長に就任
  • 1962年(昭和37年)10月 - NHK経営委員を退任
  • 1963年(昭和38年)10月21日 - 午後6時5分死去。正五位三等瑞宝章を受章

家族[編集]

1男5女をもうけた。

関連人物[編集]


タクシー業務適正化特別措置法[編集]

タクシー業務適正化特別措置法(タクシーぎょうむてきせいかとくべつそちほう、公布:昭和45年5月19日法律第75号、最終改定:平成19年6月15日法律第87号)は、大都市圏におけるタクシー業務の適正化を目的とした日本法律である。略称はタク特措法(タクとくそほう)。

構成[編集]

  • 第1章 - 総則(第1条・第2条)
  • 第2章 - タクシー運転者の登録等
    • 第1節 - タクシー運転者の登録(第3条 - 第12条)
    • 第2節 - 登録タクシー運転者証等(第13条 - 第18条の3)
    • 第3節 - 登録実施機関(第十九条 - 第32条の3)
    • 第4節 - 補則(第33条)
  • 第3章 - タクシー業務適正化事業(第34条 - 第42条)
  • 第4章 - タクシー業務の特別規制等(第43条 - 第50条)
  • 第5章 - 雑則(第51条 - 第55条)
  • 第6章 - 罰則(第56条 - 第62条)
  • 附則

目的[編集]

この法律は、指定地域において、タクシーの運転者の登録を実施し、特定指定地域において、タクシー業務適正化事業の実施を促進すること等の措置を定めることにより、タクシー事業の業務の適正化を図り、もつて輸送の安全及び利用者の利便の確保に資することを目的とする。(第1条)

制定の経緯[編集]

1960年代の高度経済成長により、大都市圏でのタクシー需要の増大により、


大都市圏(東京・大阪地区)におけるタクシー業務の適正化を目的とし、タクシー業務適正化臨時措置法として制定された。

2002年(平成14年)2月1日タクシー業務適正化特別措置法として恒久化された。また2008年(平成20年)5月2日にタクシー業務適正化特別措置法施行令が改正され、東京・大阪地区だけでなく全国の大都市部も指定地域となっている。

指定地域・特定指定地域[編集]

第2条第5項で指定地域、第2条第6項で特定指定地域を定めている。

「タクシーによる運送の引受けが専ら営業所以外の場所において行われており、かつ、道路運送法第二十七条第一項の規定に違反する適切な勤務時間又は乗務時間によらない勤務又は乗務、同法第十三条 の規定に違反する運送の引受けの拒絶その他の輸送の安全及び利用者の利便を確保することが困難となるおそれがある行為の状況に照らして、タクシー事業の業務の適正化を図る必要があると認められる地域で政令で定めるものをいう。」

タクシー業務適正化特別措置法施行令(昭和45年7月25日政令第224号)第1条により、以下の地域とされている。また同令第2条

特定指定地域[編集]

特定指定地域以外の指定地域[編集]

タクシー近代化センターの設置[編集]

この法律の制定を受けて、

東京地域を管轄する東京タクシー近代化センターと、大阪地域を管轄する大阪タクシー近代化センターが発足した。タクシー近代化センターは、


双方とも2002年(平成14年)4月1日に「タクシー近代化センター」から「タクシーセンター」に改称し、東京タクシーセンターおよび大阪タクシーセンターとなった。

運転者の登録[編集]

第3条では、指定地域内の事業所に配置されているタクシーに乗務する運転者は所轄のタクシーセンターに登録することが義務付けられている。

登録を行った運転手に対して、法人タクシーの運転手には運転者証が、個人タクシーの運転手には事業者乗務証が交付される。いずれも顔写真が付き、氏名・登録番号・有効期限が記載されている。運転者証には所属タクシー会社名も記載されている。

乗務中は運転者証・事業者乗務証をタクシー車内に掲示することが義務付けられている。

下位法令[編集]

  • タクシー業務適正化特別措置法施行令
  • タクシー業務適正化特別措置法施行規則

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


定山渓鐡道モハ2300形電車[編集]

定山渓鐡道モハ2300形電車(じょうざんけいてつどうモハ2300がたでんしゃ)は、かつて定山渓鐡道で使用された電車の一形式である。

車両概説[編集]

1964年昭和39年)に東急車輛製造で2301・2302の2両が製造された。本形式が定山渓鐡道最後の新車となった。

車体は同時期に東急車輛で製造された東急デハ150形電車と同様、耐候性高抗張力鋼製としながらも米国バッド社ステンレス車体製造技法を応用した軽量車体で、車体形状は当時製造が進められていた東急7000系(初代)に似る。前面は貫通形で、前面上部両端に150Wシールドビーム前照灯を1個ずつ備える。側面は17m車体、2扉のd2D5D2d(d=乗務員室扉、D=乗降用扉)の窓配置で、扉は片開き式とし、製造費を削減しつつ冬場の保温性を高めるため窓はすべて熱線吸収ガラスを用いた固定窓とされた。屋根上のベンチレータ(通風器)はバッドタイプの台形大型のものである。側面裾はコルゲート板(プレス加工された波板)としており、この点も東急デハ150形電車と同様である。北海道の気候を考慮しつつ工法を簡易化して製造費用を従来の10%以上縮減している。

車内はロングシートである。窓が熱線吸収ガラスのためカーテンは省略している。室内灯は蛍光灯が採用されている。

台車・機器は廃車車両からの流用品である。

運用[編集]

本車両は冷房装置を搭載していないにもかかわらず窓をすべて固定式としたため、夏場には車内の温度が著しく上昇し、気分が悪くなる乗客が続出するという問題が生じた。このため乗客からは「ゲロ電」と呼ばれ嫌われた。実際に車内には嘔吐用のエチケット袋が備えられたという。

1969年廃線により製造後わずか5年で廃車となり、そのまま他社に譲渡されることなく解体された。

諸元[編集]

  • 製造初年:1964年
  • 全長:18,140mm
  • 全幅:2,798mm
  • 全高:4,100mm
  • 自重:
    • 2301:32t
    • 2302:34t
  • 車体構造:全鋼製
  • 定員:120人
  • 電動機
    • 出力
      • 2301:80PS×4基
      • 2302:100PS×4基
    • 駆動方式:吊掛方式

参考文献[編集]