利用者:Nux-vomica 1007/西洋建築史
西洋建築史(せいようけんちくし)では、西洋世界における建築の歴史を概説する。
古代
[編集]オリエント建築
[編集]ティグリス川・ユーフラテス川流域に広がる平野地帯であるメソポタミアにおいてはすでに紀元前7千年紀より定住がはじまり、最初期の住宅遺構として紀元前6千年紀のハッスーナ文化のものが発見されている[2]。同地域においては高い基壇の上に長方形の神殿建築が築かれ、これはのちにジッグラトとよばれる階段建築に発展する[3]。
紀元前8世紀には同地域にアッシリア人が帝国を築き、北メソポタミアを中心に宮殿を中心とする都市を建築し、次いで勃興した新バビロニア王国においても同様の建築様式が引き継がれた。紀元前550年に成立したアケメネス朝ペルシアはアッシリア・バビロニアの建築様式を受け継ぎながらも独特な巨大建築を築いた。その代表的遺構であるペルセポリスには多数の石柱を特徴とする壮大な空間設計が残されている[3]。
エジプト建築
[編集]エジプトにおいては紀元前5千年紀ごろより定住がはじまり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌を背景とする文明が発達した[7]。
初期王朝時代よりマスタバと呼ばれる長方形の日干しレンガ積み墳墓が建てられ、古王国時代にはこれを何重にも重ねた階段ピラミッドが誕生した[6]。階段ピラミッドはのちに屈折ピラミッドとよばれる途中で傾斜角度が折れ曲がる形のものへ、その後は四角錐のものへ移り変わった[7]。ピラミッドのそばには葬祭殿や神殿が付随するようになり、ひとつの建築複合体を形成した[6][7]。中王国時代からは大規模な神殿建築が現れ[6]、塔門・中庭・多柱室・至聖所などを軸線上に並べる構成を特徴とした[6][7]。
クレタ建築・ミュケナイ建築
[編集]クレタ文明は紀元前30世紀から紀元前11世紀ごろまでクレタ島を中心に栄えた。クノッソスに代表されるクレタ文明の諸都市には城壁が存在せず、宮殿建築は、大きな中庭を核に、謁見の場・私生活の場・倉庫などの諸建造物がゆるやかにつながった構造をしている。柱や梁は木造・壁は石造であり、漆喰を塗った上にはしばしば壁画が施された。また、柱は下に行くほど細まる形状である[10]。
ミュケナイ文明は紀元前16世紀頃、ペロポネソス半島南部で勃興し、紀元前14世紀にはクレタ島を制圧した[10]。ティリンスに代表されるミュケナイ文明の宮殿は城壁と門で囲われた城塞の中に築かれ、メガロンとよばれる前室と主室からなる大広間を中心とする構成を有していた[11]。柱や梁は木造で、壁は石造ないし日干しレンガ造、スタッコで化粧され、フレスコ画が施された[10]。
ギリシア建築
[編集]ギリシア人は紀元前8世紀頃よりポリスとよばれる都市国家を形成しはじめ、その中で独自の神殿建築様式を編み出した[13]。紀元前7世紀頃まで、柱や梁は木造、壁は日干しレンガ造、テラコッタ板による装飾が施されていたと考えられている[14]、紀元前6世紀に入ると、ギリシアの神殿建築はそれまでの木造神殿建築の様式を保存しながら石造に移行した[15]。ギリシア神殿建築はオーダーとよばれる一定の様式のもと築かれたが、ギリシアにおいて一般的な2大様式であったドリス式およびイオニア式はおそらく木造建築期に生み出されたものである[16]。
ドリス式はおもにギリシア本土において発展した様式であり、礎盤がなく、スタイロベートから柱身が直接伸びる。柱の高さは柱身下部直径の4倍半から6倍で、柱の太さは上に行くほど細まる。柱身には膨らみがあり(エンタシス)、浅い条溝が彫られる。柱頭は方形のアバクスと皿形のエキヌスからなり、柱頭と柱身の間には溝がある[17]。柱の上に乗っている部分を総称してエンタブラチュアと呼ぶ。ドリス式の場合、エンタブラチュアのアーキトレーブは単純な角材で、フリーズにはトリグリフという三条の縦溝が彫られたブロックと、メトープという装飾のための版石をはめ込む[18][14]。トリグリフの下には各6個の露玉、コーニスの下には3列6個の露玉を備えたミューチュールを設ける[14]。
イオニア式は、アナトリア半島西岸に入植したギリシア人が作り上げた様式であり、柱の上にアーキトレーブを渡し、その上に太い垂木を並べて屋根を架けた木造建築がその由来であると考えられている[24]。柱はドリス式のものよりも細く、その長さは柱身下部直径の8倍から9倍半である。柱身は装飾を施された礎盤から伸び、深い条溝が彫られる。柱の太さはドリス式と比べて直線的であり、エンタシスもほとんどない。エキヌスはしばしば卵鏃模様で飾られ[18]、アバクスは薄い。柱頭は左右に渦巻く独特な形状をしている(ヴォリュート)。エンタブラチュアは小アジアのものとギリシア本土におけるそれで差異があり、前者においてはフリーズがなく、歯状紋を刻んだアーキトレーブの上に直接コーニスを載せる様式が一般的であった。後者においてはアーキトレーブは3層に段をつけられ(ファスキア)、フリーズは浮き彫りで装飾される[24]。また、イオニア式では円柱の代わりに少女の立像が用いられることがあり、これをカリアティードと呼ぶ[18]。
また、紀元前5世紀末ごろからはコリント式とよばれる第3のオーダーが現れた。コリント式はイオニア式の派生であるが、柱頭のアカンサス様にその特色がある[28]。しかし、ギリシアでの作例はほとんどなく、神殿内部のデザイン上重要な箇所に部分的に用いられることがほとんどであった[13]。
ギリシア諸都市は、元来は政教の中心であり、のちに聖域となるアクロポリスと、市民生活の中心であるアゴラを核に形成された[29]。アゴラには神殿のある聖域や議事堂(ブーレウテリオン)、柱廊が築かれ、その周囲には競技場や劇場が作られた[13]。紀元前6世紀まで、こうした都市は明確な計画性をもたないまま成長することが常であったが、紀元前5世紀にはヒッポダモスが格子状の街路計画を考案し、紀元前4世紀には景観を重視した都市計画がなされるようになった[30]。
ローマ建築
[編集]ポー川流域からポンペイにかけての地域を勢力圏としていたエトルリア人は数々の建築を残し、これらはローマ建築にも多大な影響を及ぼしている。エトルリアの神殿建築は石造の高い基壇の上に築かれ、壁は日干しレンガ積み、柱や屋根は木造で、梁や軒先はテラコッタの装飾板で装飾された。また、エトルリア人は多くの墳墓を築き、これは彼らの住宅建築を模したものであると考えられている。エトルリアの墳墓が有する平面構造は、天窓が開いていないことを除いては4世紀のポンペイにみられるような家屋のそれとほとんど変わらない[34]。ローマは紀元前4世紀ごろまでエトルリア文化の強い影響下にあり、初期のローマ神殿建築はエトルリアの様式を踏襲したものであった[35]。
ローマは紀元前3世紀中葉までにイタリア半島をほぼ統一し、南イタリアのギリシア植民都市を版図に含めた[37][34]。さらに、紀元前1世紀の終わりまでには地中海世界全域を勢力下に置く巨大な国家へと成長した[34]。ヘレニズム世界との政治・軍事的交流のなかでローマ建築にもギリシア的な様式が浸透し、ポルトゥヌス神殿をはじめとするギリシア風の建築が築かれるようになる[35]。
帝政期の初頭までにローマ人はギリシア建築のオーダーを消化し、独自の翻案を加えるようになる。そのうちのひとつがコリント式オーダーに加えられたモディロン(modilon)とよばれるS字形の持ち送りである[38][39]。これによってコーニスの軒が深まり、軒下飾りを配することが可能となった[39]。また、コリント式の柱頭の上にイオニア式のヴォリュートを加えたコンポジット式オーダーが考案された[40][14]。このような古典主義的な建築が爛熟する一方で、それまで土木や基礎の工事に用いられていたローマン・コンクリートが新たな表現の材料として注目されるようになり、それまでの柱-梁構造や石やレンガによる壁構造とはまったく異なる性質を持つドーム建築が生まれた[40]。
トラヤヌスの時代には、ローマ建築はギリシア的な様式から脱却し、以後独自の性格を強めていく[44]。また、ハドリアヌスの時代ごろよりローマ市外の諸地方における建築が活発化し、地方の様式と接触する中で新たな表現法を見出していった[45]。セウェルス朝以降ローマ世界が不安定化したことも相まって、2世紀後半にはローマと諸属州の文化水準の差異は失われ、「ローマの建築はローマ帝国における一都市の建築にすぎない」といえるような状況となった[46]。
中世
[編集]初期キリスト教建築
[編集]1世紀にパレスチナで誕生したキリスト教は、激しい迫害を受けながらも西洋世界全体に伝播した。禁教下において、キリスト教徒は共同墓地の地下室や住宅を改装して礼拝を行っていた[50]。313年にコンスタンティヌス1世がミラノ勅令によりキリスト教を公認すると、バシリカとよばれる集会施設が教会堂として用いられ、その構造はキリスト教建築の基本として形式化された[51]。
バシリカ式教会は、入り口の先に回廊で囲われたアトリウムを備え、その中央には身体を清めるための洗水池がある。さらに進むと拝廊(ナルテクス)があり、洗礼を受けていない者はここまでしか入ることができない。教会堂本体は中央を通る身廊と左右の側廊からなり、列柱によって区切られる。身廊と側廊の屋根の高さには段差があり、採光のための高窓が据え付けられる。身廊には信徒の座席が並べられ、その奥の半円形の張り出し(アプス)には司祭席が設けられる。アプスはバシリカ式教会において最も重要な部分であり、半ドームには宗教画が描かれる。身廊とアプスの接続部分には袖廊が築かれ、交差部の四方にはアーチがかけられる[52]。
また、初期キリスト教時代には、八角形・円形・ギリシア十字形をした集中式建築も建設された。この様式は、コンスタンティヌス1世がキリストの墓所を覆うようにして建てた聖墳墓教会の様式を模倣するもので、迫害期の殉教者を記念するマルティリウムに多く見られた。多くの場合、中央に祭壇が設けられた[50][55]。また、洗礼堂も同様の形式で築かれることが多く、これはキリスト教において洗礼が象徴的に死と結びつくものであることと関連している[55]。
ビザンティン建築
[編集]330年にコンスタンティヌス1世は首都をコンスタンティノポリスに移し、新首都建設のための大規模な建築工事を実施した[58]。395年以降、コンスタンティノポリスは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都となり、ローマとは異なる建築文化を醸成する。こうした東ローマ帝国の建築文化を総称してビザンティン建築とよぶ[59]。
東ローマ帝国では神の座としてのドームの象徴性が強く意識され、バシリカ式建築とドーム建築の融合が試みられた。バシリカ式の矩形の平面構造を正方形に分割し、それぞれにドームをかけることが考案され、正方形の平面とドームを自然につなげる手法として穹隅(ペンデンティブ)が考案された。これは、正方形に外接する円の、正方形からはみでる部分を切り取ったドームの上に、正方形に内接する円のドームをかぶせるというものである[60]。
ロマネスク建築
[編集]西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパは政治的に安定せず、建築には発展のみられない時代が続いた[62]。民族移動時代を経て西北ヨーロッパに定着したフランク人はキリスト教を受け入れ、9世紀初頭にはカロリング朝のカール大帝が教皇によって戴冠された[63]。カール大帝の治世下ではアーヘンの宮廷礼拝堂が建てられたほか、修道士らが教会堂を中心とする複合施設である修道院を作り上げた[62]。また、9世紀ごろからは北イタリアのロンバルディア地方で建築活動が盛んに行われるようになり、これを総称してロンバルド建築といった。ロンバルディアの職人集団(コマチーニの工匠)はカタルーニャ地方・ドイツのライン川沿岸・フランスのブルゴーニュ地方など各地で活動し、その後ロマネスク建築が発展する素地をつくりあげた[64][65]。
9世紀後半から10世紀の西ヨーロッパは、カロリング帝国の分裂と内乱、異民族の侵略などによリ、慢性的な不安定状態が続く[68]。しかし、11世紀に入り、社会が安定しはじめると、各地でロマネスク建築と総称される新たな様式がうまれる。ロマネスク建築は地域ごとに異なる発展を遂げた建築の集合体であり、厚い壁・太い柱・半円アーチの開口部といった部分にいくらかの共通点をもっていた[62]。
ライン川流域では袖廊をふたつ、身廊の左右に側廊をひとつづつ設ける二重内陣・三廊式のバシリカ式教会がよく建てられた。天井は石造交差ヴォールトでつくられた。また、壁は石造ヴォールトの重さを支える必要があったため、壁はきわめて分厚いものとなった。11世紀末ごろまでは、とくに身廊の天井は木造であることも多かったが、身廊に交差ヴォールトが採用されるようになった末期ロマネスク建築では、教会建築の平面構造は、ヴォールトをかけやすい正方形をベースとするものに規定された。半円アーチの窓が並ぶ外装は簡素で、そのシルエットは数基の塔によって特徴づけられる。装飾は華美でなく、壁面にめぐるロンバルディア帯程度にかぎられる。内装の柱列は主として角柱からなり、付柱や円柱を交えることによりパターンに抑揚をつけている。柱頭の造形は定型を脱した自由なものとなった[69]。
また、ライン川下流域のケルンでは上流の会堂とは異なる、3方向にアプスが張り出す三葉形内陣式の平面構造を特徴とする建築が発展した。この構造は、ケルンにもほど近い、アーヘンの宮廷礼拝堂の集中形式プランを想起させるものであるが[70]、ロンバルディア地方から移入されたものであり、その原型はミラノのサン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂にあると考えられている[71]。
フランスのロマネスク建築では二重内陣制はほとんど採用されず、小祭室を側廊の頭部に並べる方式が取られた。この小祭室は、主祭室のアプスまわりを取り囲む場合(放射状祭室)もあった。通常三廊式であったが、さらに両側にひとつづつ側廊を重ねる五廊式バシリカも多く築かれた。ドイツのように群塔が並ぶことは少なく、身廊と袖廊の交差部に大きな採光塔をつけるか、あるいはノルマンディーの建築に多く見られるように、堂の正面に目立つ塔を2基築いた[75]。
ローマ建築およびロンバルド建築の伝統が残っていたイタリアでは、ロマネスク様式の流入により多様な建築が築かれたが、そのなかでも初期キリスト教建築のバシリカが有する簡素な構造は保存されつづけた[80]。
ゴシック建築
[編集]ゴシック建築は①尖頭アーチ②リブ・ヴォールト③フライング・バットレスの3点を大きな特徴とする建築である。ゴシック建築の発端となったのはシュジェールが率いたサン=ドニ大聖堂の改築であり、イル・ド・フランス地方を中心として発展した[84]。これら3つの手法はいずれも後期ロマネスク建築においてすでに登場していたものではあったが、ゴシック建築はこれらの手法を組み合わせることにより、壁などの面的要素を極力排除した、軽やかなフォルムを目指した点に特徴があった[85]。ゴシック建築のもうひとつの視覚的特徴は、その仰高性である。
12世紀に建造された初期のゴシック建築は双塔式のファサードを有し、正方形を6分割する六分ヴォールトから構成された。また、内部の壁面は、①側廊との段差にある高窓が並ぶ層であるクリアストーリー、②アーケードのある通路上のくぼみであるトリフォリウム、③側廊の2階部分であるトリビューン、④アーケードの四層構成でつくられた[87]。
トリフォリウム
初期ゴシック建築においては、① 双塔式のファサード・六分ヴォールト(ロマネスクの4分ヴォールトの間にもリブが入り「*」みたいな形にベイが分かれる)・四層構成を特徴とする→()・()・トリビューン()・アーケード
盛期ゴシック建築4分ヴォールト・三層構成・高い天井を特徴とするがボーヴェ大聖堂のヴォールト崩落によって高さの追求に歯止めがかかる→レイヨナン式(鉄材で補強して構造をさらに薄くする。全面にステンドグラス)・フランボワイヤン式(火炎のような複雑な曲線。彫金細工のように石を加工して超重力性を出す)といった小型ながらも装飾性の強い建築が流行。
ヨーロッパ全土に伝播して各地域でバナキュラー性を持つ→イギリス(身廊と交差廊の交差部に大きな塔をすえる。複雑な壁面装飾や装飾リブを用いる装飾式とファンヴォールトで垂直性を目立たせる垂直式が特徴) ドイツ(三葉形の内陣を有し、身廊と側廊の高さが等しいハレンキルヘが登場)
中世世俗建築
[編集]① 中世…宗教建築や宮殿だけでない市民のための建築の様態がはっきりわかる ② 城塞…丘の上に塔状の砦を築く→多層建築(仏:ドンジョン 英:キープ)に進化→城郭の守りの中心は天守から城壁に移行、城館建築は住宅建築に移行。中世後期には城塞建築(バスティード)が建築されるように ③ 都市建築…大規模で豪奢な宮殿建築が誕生。市庁舎と広場を構える都市に多くの公共建築が作られる。都市計画は不在でインフラは劣悪→疫病が猛威を振るう。ドメニコ会・フランチェスコ会といった托鉢修道会が貧困層を救援 ④ フランドル地方 (ブリュージュ・ヘント)やバルト海沿岸・ハンザ同盟(ハンブルグ・ブレーメン)などが新興都市として勃興。地中海ではヴェネチア・フィレンツェなどが繁栄。都市貴族が邸宅(パラッツォ)を建築。シチリア王国・パレルモではビザンツ宮殿建築の様式が西欧城塞建築と融合
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 日本建築学会 1981, p. 89.
- ^ a b 星 1995, p. 10.
- ^ a b c 「建築史」編集委員会 2009, p. 68.
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参考文献
[編集]- 熊倉洋介・末永航・羽生修二・星和彦・堀内正昭・渡辺道治『カラー版 西洋建築様式史』新集社、1995年。ISBN 9784568400380。
- 星和彦『古代オリエント・エジプト建築』、8-16頁。
- 渡辺道治『古代ギリシア建築』、18-32頁。
- 渡辺道治『古代ローマ建築』、34-46頁。
- 羽生修二『初期中世建築』、47-56頁。
- 羽生修二、堀内正昭『ロマネスク建築』、57-70頁。
- 羽生修二・堀内正昭・星和彦『ゴシック建築』、57-70頁。
- 「建築史」編集委員会 編『コンパクト版建築史 日本・西洋』彰国社、2009年。ISBN 9784395008766。
- 日本建築学会 編『西洋建築史図集』彰国社、1981年。ISBN 9784395000210。
- 森田慶一『西洋建築入門』東海大学、1971年。ISBN 9784486007449。
- 光井渉・太記祐一『カラー版 都市と建築の歴史』井上書院、2013年。ISBN 9784395008766。
- 吉田鋼市『西洋建築史』森北出版株式会社〈建築学入門シリーズ〉、2007年。ISBN 9784627505612。