利用者:Omotecho/ライムハウス

Omotecho/ライムハウス
ライムハウス地区庁舎、1878年完成。
コマーシャル通りに面したライムハウス庁舎(旧ライムハウス地区庁舎、1878年完成)
Omotecho/ライムハウスの位置(イギリス内)
Omotecho/ライムハウス
Omotecho/ライムハウス
イギリスにおけるOmotecho/ライムハウスの位置
人口15,986人 (2011年国勢調査、Ward 単位)[1]
英式座標
TQ365815
セレモニアル
カウンティ
グレーター・ロンドン
リージョン
構成国イギリス
イギリスの旗 イギリス
郵便地域LONDON
郵便番号E14
市外局番020
警察 
消防 
救急医療 
英国議会
場所一覧
イギリス
北緯51度30分57秒 西経0度01分54秒 / 北緯51.5158度 西経0.0318度 / 51.5158; -0.0318座標: 北緯51度30分57秒 西経0度01分54秒 / 北緯51.5158度 西経0.0318度 / 51.5158; -0.0318

ライムハウス(英語: Limehouse)はイーストロンドン(enタワーハムレッツ区の特別区。テムズ川北岸のチャリングクロスの東およそ6.3 km に位置し、川に近接するため水辺の町の特徴が色濃い。歴史的建造物のザ・グレープス(パブ)やライムハウス・ステアズ(階段)など川沿いの建造物にその影響をとどめる。ライムハウスはかつてミドルセックスの歴史的郡(en)に属し、1888年の地方行政府法可決後はロンドン郡(County_of_London)に併合され、1965年にグレーターロンドンの一部になる。西と北をステップニーに接し、北西はマイルエンドとボウ、東はポプラ、さらに南にはカナリー・ワーフとミルウォールがある。東西はバートレットパーク近くのステンズビー・ロード(東)からケーブルストリートとバッチャーロウの端(西)まで広がり、南のウエスト・インディア・ドック(サウスドック)とテムズ川から、北のサーモンレーンとローズウェル・ロードにわたる。

この地名に由来する「ライムハウス・リーチ」とはテムズ川の一区間を指す。ロザーハイズのカッコールズ・ポイント(Cuckold's_Point)で直角に曲がった川が南下してミルウォールに至るまでの区間である。屈曲部の上流で西から東へ流れる区間は、まさに「ロウアー・プール」(下の溜まり)と呼ばれる[2]

歴史[編集]

市民教区の境界図。ホワイトチャペル、ライムハウス、ポプラ(1870年)
ロンドン都心部のライムハウスの位置。ステプニーメトロポリタンボロ内の右下に当たる。(1916年当時)

この地名には窯業の大手[3]が河畔に築いた「オースト・ハウス」という一連のが深く関与する。14世紀には地域経済の要であり、地元で採れる石灰(ライム)を焼いてはロンドンドック(London_Docks)から積み出した。語源は古英語「līm-āst」(現代語の lime-oast)とされ、文献に初めて記載された時は「Les Lymhostes」とつづった(1356年[4])。それが1473年には「ライムハースト」と変化し、職業名は「ライムブレナー」という表記が使われた[5]

鉱物が地名の由来なのだが、世間では船員言葉から来たと伝わっている。当時、王立海軍壊血病予防にライムジュースを配給して飲ませたことにこじつけ、ここで船を下りる者をふざけて「ライムジューサー」または「ライミー」と呼んだという説は誤りである(Lime-juicers=ライムジュースを飲みたがる者)。

ライムハウスの名は次のように、早くも1417年の資料に現れる。

Inquisicio capta sup'litus Thomisie apud Lymhosteys pro morte Thome Frank。(出典は「テムズ河畔リムホスティーズにて実施したトマス・フランクの死因審問」) ヘンリー5世の御代 [紀元1417年]8月17日、市の権限と管轄下にある「レ・ライムホステス」の市長ヘンリー・バートンならびに王の財産没収吏の立ち会いのもと死因審問に臨むにつき、死者はプロイセンのグダニスク船籍「ラ・メアリー・ナイト」号と称する船舶の操舵手(船頭)もしくは「lodysman」であったトマス・フランク(Herewich 出身)。宣誓をした陪審員諸氏とはジョン・ベイル、マシュー・ホーム、ロバート・マール、ヘンリー・マーク、アレクサンダー・ブライアン、ジョン・ゴビー、リチャード・ハービー、ウォルター・スティール、ピーター・ウェスト、リチャード・ストウェル、ジョン・ダイス、ウォルター・ブラウンである。当該人の死因の所見は錨の鋭い端の上に落ちたためとされた。

海事とのつながり[編集]

隣接するワッピング同様、低湿地のライムハウスは町の成り立ちが陸上交通よりも水運に負うところが大きい。重要な川港として発展したのは中世後期からであり、ドック関連の造船、消耗品や日用品を船に納める業者ロープ製造業などの産業を営んだ。この町が大規模なドックと埠頭を構えるまで、船荷のほとんどは主にロンドンプール港で陸揚げしていた。

ライムハウス河畔の立派な建物と造船所(ジョン・ボイデル作の風景画、1751年)

ライムハウスの入江は1820年の開設当時「リージェント運河の船だまり」と呼ばれ、テムズ川と運河系を結ぶ重要な結節点であり、船積みの貨物を大型船舶から喫水の浅い船に積み替えた。今日も運河ナロウボートと外洋航海帆船が行き交い、往時の景色をしのばせる[6]

チューダー朝から20世紀まで、船の乗組員は臨時雇いで働き、雇う側も交代要員の新人を探すのに苦労せず–特に外国の海域では潮流や海難水域に精通した地元の船員は、特に高く評価されている。航海が終わり下船するときに乗組員の給料を支払うため、そのような港に自然に外国人船員が住み着きギニア沿岸のラスカーやアフリカの植民地にとどまり、一例としてシャドウェル、ライムハウスおよびポプラに隣接するペニーフィールズ地域には、中国系船員の恒久的なコミュニティが確立[7]、いずれも対中国の阿片の交易商人merchantmenすなわち漢民族が中心であり、やがて19世紀末にSax Rohmer ほか pulp fiction の作家が書き立てると阿片窟として悪評が定着する。イーストエンド全域に並び経済移民 immigrationを大量に受け入れるものの、第二次世界大戦 Second World War の空襲で被災した中国系移民社会 Chinese community の大部分はソーホーSohoへ移転した [8][9]


コレラのパンデミックは1817年にインドで初めて記録されると国際貿易港のハンブルクを経由し、1832年2月12日にイギリス第1号の症例がここライムハウスで報告され感染が拡大、死者800人という数値は同年の結核による病死者数を下回った。その後、コレラ流行は1848年と1858年に再燃した[10]

物資の輸送が鉄道網に変遷していく中、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦時下には運河を使う水運が復活、ライムハウスの入江も短いあいだは賑わった。平時に戻ると流通のハブという役割は鉄道に移っていき、ちいきけいざいを支えた港湾荷役は衰退した。地域の歴史を一般市民に啓発しようと、Stepney Historical Trustが歴史起こしの活動を行なっている。

現代の姿[編集]

マリーナの上空から見たライムハウス・リーチ。手前は製綱所跡を転用した住宅(ロープメーカーズ・フィールズ)。

ライムハウス・ベイスン閉鎖は1960年代後半に始まったドック廃業の最初の事例の一つである。ドック地区は1981年には一律に物理的にも社会経済面でも衰退し、ロンドンドック地区開発公社(LDDC=Limehouse_Basin)が設立されると、1982年11月に「ライムハウス地域開発戦略」を発表[11]、既存の「ライムハウス・ベイスン計画」を発展させ、当地全体にわたる将来の開発や住宅改修、環境改善に向けた議論の枠組みをもたらした。事業計画は主に4件あり「ライムハウス・ベイスン」、「フリートレード埠頭」、「ライト・ラピッド・トランジットルート」(DLR=当時の名称)の3ヵ所、また「ドック地区ノーザンリリーフ・ロード」はアイル・オブ・ドッグズの北側を通りハイウェイと東インディア・ドックを結ぶ。

しかしグレーター・ロンドン・カウンシル廃止の1980年代半ばまで[要出典]社会基盤の改善は進まず、ライムハウスの開発の鍵は、隣接するアイル・オブ・ドッグズ地域にあり、その島では初期の開発計画は軽工業開発と低層のビジネスパークなど規模は大きくない。1983年、開発の初期に独立系のテレビスタジオが開設される。「ライムハウス・スタジオ」(Limehouse_Studios=古い倉庫2棟に開設)という名前だが、実は所在地はサウスキーである。

1984年には将来的な180エーカー (730,000 m2)の大規模商業地開発が話題にのぼり、1985年にカナリーワーフの用地71エーカー (290,000 m2)に延べ床面積230–280エーカー (930,000–1,130,000 m2)の計画が検討されると第1段階が迅速に展開した。ライムハウスとアイル・オブ・ドッグズの将来予想図は完全に変わり、規模の大きさとあわせて交通網の改善を後押しした[要出典]。また廃墟となっていたリージェンツ運河のドックは、マリーナに改築転用された。

コンサート会場「トロクシー」(TroxyLimehouse_Basin)は、この地区のコマーシャル・ロード沿いにある。

クレメント・アトリー像ステップニー市長(1919年)、ライムハウスの国会議員の像が旧ライムハウス図書館の外に立っています。

1909年7月30日デビッド・ロイド・ジョージ大蔵大臣はライムハウスで演説を行うと自身の「人民予算」(People's_Budget)に反対する貴族院を攻撃し、予算の社会目的について極論を展開した。これが起源として「ライムハウスのために」(to Limehouse)という言い回しが生まれ、オックスフォード英英辞書にも「1909年にライムハウスで行われたロイド・ジョージ氏のような激しい(政治的)演説をすること」として掲載される[12]

クレメント・アトリーは旧友がライムハウスで運営する「ヘイリーベリーハウス」の支配人を務めた。1906年から1909年まで労働者階級の少年を集めるクラブであり、スラム街の子供たちと一緒に働いて貧困と社会から見捨てられた身分に衝撃を受け、政治的な立場は保守から社会主義に転向すると独立労働党に加入した(1908年)。やがて1919年にステップニー(Metropolitan_Borough_of_Stepney)市長に選ばれ、ライムハウス選出議員として副首相を経ると1922年総選挙選挙区選出の国会議員(MP)に当選する。第二次世界大戦後は選挙地盤をウォルサムストウ・ウエスト(Walthamstow_West)に移した。

1981年1月25日の「ライムハウス宣言」(Limehouse_Declaration)はライムハウスカットに架かるナロウストリートの橋の上で行われた。いずれも国会議員のシャーリー・ウィリアムズロイ・ジェンキンスウィリアム・ロジャーズデイヴィッド・オーウェンは元労働党の労働組合員であり[13]、まもなく社会民主党の主要な政治家になっていく。

今日のライムハウスはポプラー・ライムハウス選挙区に属し、庶民院議員アプサナ・ベガム(英語)労働党MP・2019年-)を、ロンドン議会議員ウンメッシュ・デサイ(英語)(労働党AM・2016年-)を送っている。

大衆文化[編集]

ライムハウス・ベースンの北側とDLRの車両。(2006年1月)

この地域に影響を受けた作詞家ダグラス・ファーバー(Douglas_Furber)と作曲家フィリップ・ブレアム(Philip_Braham)は1921年に「ライムハウス・ブルース」 [14]を書き、ジャック・ブキャナン(Jack_Buchanan)とガートルード・ローレンスが音楽評論誌『 AtoZ』で論評し人気のジャズのスタンダード曲となる。そのずっと後年、1946年にミュージカル映画『ジーグフェルド・フォリーズ』でフレッド・アステアとルシル・ブラマー(Lucille_Bremer)が演じ、あるいはジュリー・アンドリュースの出演した『スター!』(1968年)でも再演された 。In both instances the actors were in yellowface.[訳語疑問点]映画界でこの曲に関して注目に値する作品はホーギー・カーマイケル主演『脱出』(1944年)、 『銀盤の女王(英語)(1936年)のボラ・ミネヴィッチが率いるハーモニカ・ラスカルズの演奏である。曲と同名の『ライムハウス・ブルース』(1934年Limehouse_Blues)は、ジョージ・ラフト主演であった[15]

文学界を見ると、トーマス・バーク(英語)は小篇集『ライムハウス・ナイト(英語)(1916年)にロンドンのライムハウス地区の貧困に沈んだ暮らしを中心に記し、著作の多く同様、クオン・リーという中国人が語り手である。サックス・ローマーの著作『フー・マンチュー』にもこの街が登場し、ライムハウスのアヘン窟を根城にして中国籍極悪人が暗躍する。イーストエンドのアヘン窟という設定は、チャールズ・ディケンズが述べたアヘン窟探索の地が近隣のブルーゲート・フィールズだった点に端を発しているといい、未完の絶筆『The_Mystery_of_Edwin_Drood』(1870年、仮題『小説エドウィンドルードの謎 』)の特定のシーンにほの見える[16][17]。最近ではアラン・ムーアフロム・ヘル』(1989年)、人気のグラフィック小説『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』(1999年)に、ヴィクトリア朝のロンドンでも指折りの犯罪の巣としてこの地域が何度も言及される。悪名高い「切り裂き魔ゴーレム」の言い伝えがあり、ピーター・アクロイド(英語)は架空の連続殺人事件を展開させる小説『切り裂き魔ゴーレム』(1995年)の舞台に選んだ[18]

この地域は、アンナ・メイ・ウォンの映画『ピカデリー(英語)(1929年)にも登場、ウォンは非常に魅力的な庄司(Shosho)役を演じライムハウスの中華街の神秘を体現したと評された。この地区は D・W・グリフィス監督の無声映画『散り行く花』『黄色い男と少女』(1919年)に描かれた。あるいはトッド・ブラウニング監督作にロン・チェイニーが主演した仮訳『黒い鳥』(1926年)の舞台でもあった。ライムハウス地区は、1942年の映画『Sherlock_Holmes_and_the_Voice_of_Terror』(仮訳『シャーロックホームズと恐怖の声』)にも登場し印象深い。ナチスのスパイ逮捕を目指すホームズを支えるライムハウスの住民は、普通ならおよそ銀幕に登場しないであろう面々であった。

社会[編集]

ジョージ朝初期のテラスハウス。パブ「ザ・グレープズ」がある。の。 (2006年1月、ナロー・ストリート)

セント・アンズ・ライムハウス教会(英語)ニコラス・ホークスムーア(英語)の設計になり、墓地に立つピラミッドは、塔の上に載せるはずだった構造物である。現在コミュニティセンターとして使用され、隣のライムハウス市庁舎(英語)、近隣のライムハウス公共図書館の3施設ともイギリス指定建造物グレードIIである。道路を挟んだ向かい側にはシチュアシオニスト・インターナショナル会議(1960年)が開かれたセーラーズ・ミッションが立ち、後に荒廃してホームレスが泊まるホステルになるとその喧噪で悪評を流し、さらに近年には豪華なマンションが立ち並ぶ居住区に再開発された。

さらに南西に進んだナロウ・ストリート(英語)はいわば古くからライムハウス地域の背骨であり、テムズ川の埠頭裏に沿って走る。ロンドンでも数少ないジョージアン様式初期テラスハウスが自慢である。その隣に立つ「グレープズ(英語)は1720年再建という歴史のある著名なパブで、チャールズ・ディケンズが通い『我らが共通の友(英語)に酒亭「Six Jolly Fellowship Porters」(陽気な6人の荷役仲間)として描いた。数軒先に「Booty's Riverside Bar」があったが、こちらは2012年に閉店している。ナロー・ストリートの向かい側の街区はほぼ全域が第二次世界大戦の空爆で破壊され、数百軒の個人住宅やテイラー・ウォーカー・アンド・カンパニー経営のバーリーモウ醸造所、学校が含まれた。地元で「あいつら(敵機)が爆撃し損なった家」(The House They Left Behind)の名前で通るパブは、ヴィクトリアン様式のテラスハウスとして焼け残った建物の一つで、太い支柱3本に支えられて現存する。

ナロー・ストリートをさらに進むと、料理研究家ゴードン・ラムゼイ経営のガストロパブ「ザ・ナロー」が現れる。店が入居する歴史的建造物はグレードII指定を受け、かつてライムハウス・ドック港長公邸で税関(英語)に転用された経緯がある[19]

教育[編集]

地域のリーダーたちは英国教会の小学校「ステップニーグリーンコート・スクール」を1710年に建てて、地元の子供たちの教育に供した。工業地帯から多文化混合の集落へと一帯が移り変わっても、この学校は近隣の社会に貢献してきた[20]

交通機関[編集]

鉄道[編集]

1987年7月31日、LBR線系列で運行されてきたドック地区軽便鉄道を延伸して新駅を置くと、かつてのロンドン・アンド・ブラックウォール鉄道の施設跡に新しくプラットフォーム3番と4番を設けた[21]。開業の年の5月11日、駅名を所在地名に合わせてステップニー・イーストからライムハウスに改称[22]イギリス国鉄 C2cおよびDLRサービスが停車する。

2007年3月から10月までかけて西インド埠頭(英語)の天蓋を交換する総工費185万ポンドの工事を行い、ロンドン交通局の資金援助を受けてプロジェクトは完了した[23]。西インド埠頭-カナリーワーフ駅間の距離はわずか199メートル (0.124 mi) と[24]、ドック地区軽鉄道系統全域でも、あるいはロンドン地下鉄にとっても最短距離である。

1991年4月22日、朝のラッシュアワーに列車の衝突事故が発生した。現場はライムハウスとポプラ間にかかる西インド埠頭橋上、デルタジャンクションで、連絡路線を全面運休させ、乗客を高架橋からハシゴで避難させた[25][26]

バス[編集]

ロンドンバスの多くのルートが走り、路線バスの15、115、135 、D3線、夜行バスの系統はN15 、 N550 、 N551など[27]

道路(自動車、サイクリング、ウォーキング)[編集]

バーデットロードとコマーシャルロードの交差点。

ライムハウスは西から東に縦貫するA13商業道路で国道ネットワーク(英語)に接続し、A1203のトンネル「ライムハウス・リンク」は波止場の地下に敷設してハイウェイとドック地区北部迂回道を結ぶ。ロザハイストンネル(Rotherhithe)の北の入り口はライムハウス・ベースンの西、鉄道駅に近い[28]

ナロウ・ストリートはテムズパス水路(英語)の北岸の一部を走り、以前はライムハウスの目抜き通りとだったが、現在はタワーゲートウェイとバーキングを結ぶロンドン初のCS3(スーパー自転車ハイウェー)(英語)の一区間でもある。一部の地元住民から道路指定変更の請願が提出され、CS3をナロー・ストリートではなくコマーシャルロードに指定替えするよう求めている。ルートの導入後、道幅が狭まって歩行者がサイクリストに衝突されたり道の端に追いやられたりなど迷惑する事件が急増したと主張したものの、ロンドン交通局(TfL)は移設の予定はないと述べ、市長時代のボリス・ジョンソンは当局の選択を擁護し、ロンドン市内からこの地域に行き来するサイクリストにすでに人気が定着した道路であるとした[29]ロンドンサイクリングキャンペーン(英語)も同ルートを支持したが、路面の改善を要求している[30]。2011年、TfLは路面からロゴを削り取る要請に同意はしたものの、ルート変更には応じていない[31]。地域はライムハウスリンク・トンネルの入り口で道路網が遮断され、また駐車違反を厳重に取り締まっているために自家用車の通勤は制限され、かえって自転車通勤者には車両通行が少なく安心できる。Public access to the foreshore is prohibited, apparently part of the security arrangements for former Foreign Secretary, David Owen. The National Cycle Route 1 also runs in Limehouse north and south.[訳語疑問点]

水路[編集]

もはやドックとしては廃業したものの、「ライムハウスの入江」そのものはマリーナを構えて現役である(地名としてはライムハウス・ベースン)。埠頭の荷役の施設は取り壊されずに残ったものの本来の機能を停止し、そのほとんどは居住用不動産に転用され非常に人気が高い。ライムハウス・ベースンから水路伝いに北のコマーシャルロード閘門を経由してリージェンツ運河に接続し、南のテムズ川へはライムハウス・ベースン閘門を通過する。東のリー川と結ぶ水路をライムハウス・カット(Limehouse Cut)と呼ぶ。

著名な住民[編集]

ハンフリー・ギルバート卿( 1583年頃)

ハンフリー・ギルバート卿(Sir Humphrey Gilbert)は北西航路の開拓を提唱した人物で、当地に住んだ。卿の話を聞いたマーティン・フロビッシャーバフィン島へ航海し、誰も見たことのない黒い鉱物を持ち帰った。ギルバート家には偉大な錬金術師として名高いエイドリアンがいて、ジョン・ディーと緊密に協力していた[32]ことから、ハンフリー卿はフロビッシャーの黒い岩をに変えようと考える。ライムハウスの錬金術研究所主宰のバーグレー卿レスター伯爵に持ちかけて新芸術協会(Society_of_the_New_Art)を共同発起する[33]が、ついに試みは成果を上げていない。

1595年まで数年間、クリストファー・ニューポート船長はライムハウスで暮らした[34]。貧しい船室付きのボーイから身を起こしてイギリスでも裕福な私掠船の船長に出世し、ついにイギリス海軍マスターの仲間入りをした人物である。西インド諸島であるペイン船から宝物を奪って財産を築き、1607年にスーザン・コンスタント号に乗船すると僚船のゴッドスピード号ディスカバリー号を率いる艦隊提督としてジェームズタウンに向かった。ジェームズタウン航路は合計5回往復し、北アメリカに足場を確保したいイングランドを補佐した。海の男として貿易の港バンテンで死去した(現在のインドネシアジャワ島)。ライムハウスでは航海に捧げた人生を偲び、「船員にしてライムハウス版のクリストファー・ニューポート」と記憶されている。

チャールズ・ディケンズ代父母はクリストファー・ハッファムという人物で[35]、チャーチロウ12番(現ニューウェル・ストリート)で製帆業を営んでいた[36]。ディケンズはこの人物から発想して『Dombey_and_Son』(仮題『ドンビー父子』)のポール・ドンビーを創作したと伝わる。

ジェームズ・マクニール・ウィスラー[37]チャールズ・ネイピア・ヘミー[38]には、川沿いのナロウストリートをスケッチした作品がある。

現代は演劇界の人物として俳優のサー・イアン・マッケラン[39]とマシュー・パリス(Matthew_Parris[40]スティーヴン・バーコフ[41]が住む。コメディー女優クリオ・ロコス(Cleo_Rocos[42]、コメディアンのリー・ハースト(Lee_Hurst[43]も暮らし、政治家のデビッド・オーウェン卿の地盤である[44]。今は亡くなったデヴィッド・リーン卿(映画監督)の出身地[45]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Tower Hamlets Ward population 2011” (英語). Neighbourhood Statistics. Office for National Statistics. 2016年10月17日閲覧。
  2. ^ Port of London Authority Map of the River Thames, Lower Pool to Limehouse Reach (October 2013 - January 2014); Chandler, The New Seaman's Guide and Coaster's Companion; Henry Wheatley, London Past and Present, 362; Norie, New and Extensive Sailing Directions for the Navigation of the North Sea. It can be seen clearly in Stanford's Library Map of London 1872 vs. accessed 27 April 2015.
  3. ^ Limehouse | neighbourhood, Tower Hamlets, London, United Kingdom” (英語). Encyclopedia Britannica. 2019年6月16日閲覧。
  4. ^ Folios cxci - cc: Dec 1416 - ', Calendar of letter-books of the city of London: I: 1400-1422 (1909), pp. 175-86
  5. ^ http://aalt.law.uh.edu/AALT2/E4/CP40no847/aCP40no847fronts/IMG_0745.htm ; second entry
  6. ^ Regent's Canal Dock – London's docks and shipping”. Port Cities (2012年10月29日). 2016年12月14日閲覧。
  7. ^ Cite journal|title=On the Chinese at Pennyfields, Poplar 'Pennyfields'|journal=in Survey of London| volume=43, 44|location=Poplar|editors= Blackwall and Isle of Dogs|
  8. ^ Chinese in the Port of London – Port communities”. Port Cities (2012年11月14日). 2016年12月14日閲覧。
  9. ^ The port in literature – Thames art, literature and architecture”. Port Cities (2012年11月14日). 2016年12月14日閲覧。
  10. ^ The 1832 cholera epidemic in East London (1979)” (2004年11月27日). 2004年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
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  12. ^ Oxford English Dictionary, "Limehouse".
  13. ^ Campbell, John (2014). Roy Jenkins- A well Rounded Life. Jonathan Cape. pp. 558–9. ISBN 978-0-224-08750-6 
  14. ^ Prairie Multimedia, Inc.. “Kendor Music Online – Limehouse Blues”. Kendormusic.com. 2005年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月14日閲覧。
  15. ^ Limehouse Blues - IMDb(英語)
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外部リンク[編集]

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