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マチルダ・ジョスリン・ゲージ
現地語名 Matilda Joslyn Gage
誕生 Matilda Electa Joslyn
1826年3月24日
アメリカ、en:Cicero, New York
死没 1898年3月18日(1898-03-18)(71歳)
アメリカ合衆国の旗イリノイ州シカゴ
職業 abolitionistfree thinker、著述家
代表作 共著『History of Woman Suffrage』AnthonyStantonとともに第1巻–第3巻担当。
配偶者
Henry Hill Gage (m. 1845)
子供 モード・ゲージ・ボーム(英語)、Charles Henry Gage、Helen Leslie Gage、Julia Louise Gage、Thomas Clarkson Gage
親族 en:Hezekiah Joslyn(父);
en:L. Frank Baum、女婿
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マチルダ・ジョスリン・ゲージ: Matilda Joslyn Gage1826年3月24日– 1898年3月18日)は女性参政権アメリカ先住民

の権利擁護活動家、奴隷制廃止論者、自由思想家で著述家である。アメリカにおいて「マチルダ効果」というと、科学的発明について女性の信用性を認めない傾向を指し、その頭字語になった人物である。

ゲージはニューヨーク州シラキュースで開催された1852年全国女性権利会議で講演した最年少の発表者[1]でもある。講演会で持論を熱心に唱え、新聞に寄稿を重ねて「同時代の最も論理的で恐れを知らない科学的な作家のひとり」と評された。シラキューズの『National Citizen』紙に1878年から1881年にわたり執筆者として編集者として、女性の権利について論陣を張った。1880年には全米女性参政権協会代表として共和党大会とグリーンバック大会(シカゴ)ならびにオハイオ州シンシナティの民主党大会に送られた。エリザベス・キャディ・スタントンおよびスーザン・B・アンソニーとともに参政権運動の最前線に立ち、3人の共同執筆で『女性参政権の歴史』(1881年–1887年)を出版。また単著に『女性の権利カテキズム』(1868年)、『発明家としての女性』(1870年)、『テネシーキャンペーンの計画者』 (1880年)、『女性、教会と国家』(1893年)がある[2](いずれも書名は仮題)。

ニューヨーク州参政権協会の会長を5年務め、1875-1876年に会長職にあった全米女性参政権協会は、1890年に全米参政権協会を設立した加盟協会の1つであり、その副代表補佐と副代表全体副大統領、元の全米女性参政権協会の実行委員会の委員長の事務所も務めた [2]

参政権とフェミニズムに関するゲージの見解は、あまりにも急進的だと参政権協会の多くの会員に見なされる。その結果、ゲージは1890年に女性の全国自由主義連合 [3]という別組織を立ち上げ[4]次の趣旨を掲げた。女性には生まれつき自らのことを自分で決める権利が備わっているという認識を示すこと。市民および宗教の自由の原則を守ること。憲法改正は、教会と国家の結合の危険性に社会の目を向けさせて世論を喚起し、女性は劣る性であるという教義を非難すること。こうして新団体設立当初から1898年にシカゴで死去するまで、ゲージは会長を務めた[2]

幼少期と教育[編集]

出生名マティルダ・エレクタ・ジョスリン(Matilda Electa Joslyn)は1826年3月24日、 ニューヨーク州シセロ生まれ。父はヘゼキア・ジョスリン(Hezekiah Joslyn)、母は旧姓ヘレン・レスリーである。父はニューイングランド出身で開明的な血筋の自由主義思想家、初期の奴隷制廃止論者であり、父が逃亡奴隷を支援する「地下鉄道」を引き受けたため、ゲージはそういう環境で育つ[5] 。また母方はスコットランドのレスリー家出身で、ゲージは母から歴史好きを継承した[2]

幼少期には学校に通わず両親から教育を受け、知的な家庭の雰囲気は将来、進む道に影響を与えた。ニューヨーク州オナイダ郡クリントンにあるクリントン自由主義研究所( Clinton Liberal Institute)に通い始める [2]

活動家としての始まり[編集]

1845年1月6日、18歳のゲージは地元シセロの商人ヘンリー・H・ゲージと結婚し、ニューヨーク州フェイエットビルに移ると終生の本拠とする[2]

地下鉄道に関わったゲージは逃亡黒人奴隷を支援したかどで1850年の奴隷犯罪者法により裁かれ、刑務所送りに直面する。生涯を通じて財政面と健康面(心臓病)の両方に悩まされたゲージだ が、女性の権利のため広範囲にまた実際的な活動を続け、しばしば見事に目標を遂げている [6]

ゲージは1852年にニューヨーク州シラキュースで 開催された全米女性権利条約で講演を決めたときから、女権運動に関与し始める。1875年から1876年まで全米女性参政権協会会長を務め、理事会長もしくは副会長の座に20年超にわたってついた。1876年大会には警官数名が現れて違法な集会を開いた協会を取り締まろうとすると、ゲージはその根拠を見事に論破し退散させている[7]

ゲージは、 スーザン・B・アンソニーまたはエリザベス・キャディ・スタントン (『History of Woman Suffrage』『Declaration of Rights of Women』を共著、女性参政権の歴史 [8]および女性の権利宣言)のどちらよりも急進的な活動家と考えられている [9]。スタントンとともにキリスト教会の批評家として弁舌を認められ、協会系の保守的女権活動家との対峙を招く。 フランシス・ウィラードと率いるキリスト教女性い禁酒同盟がそうであり、女性の道徳によって法律を適切に動かすのだから女性の投票権を認めよと求める主張(WCTUの立場)を認めず、投票権は「生まれつきの権利」に値すると主張した。 教会というシステムに反対はしても、ゲージには彼女なりの宗教観があり、スタントンの改訂委員会に参加して『The Woman’s Bible』(女性の聖書 )執筆に協力している。

作家、編集主筆[編集]

ゲージは十分な教育を受けた多作な作家あり、同時代の中で最も優秀で教養のある女性として、娘が結婚相手に選んだライマン・フランク・バウムを認めている。投稿した新聞は多数、 女性参政権運動の進展について報告した。1878年、引退を決めた編集主筆サラ・R・L・ウィリアムズに替わり、ゲージはオハイオ州トレドの参政権運動会報『Ballot Box』の発行権を買い取る。会報名を『The National Citizen and Ballot Box』(国民と投票箱)に改称した意図をこう説明した:

Its especial object will be to secure national protection to women citizens in the exercise of their rights to vote ... it will oppose Class Legislation of whatever form ... Women of every class, condition, rank and name will find this paper their friend[10]

ゲージは、次の3年間(1881年まで)の主筆としてさまざまな問題に持論を書いて紙面に載せた。各版には「ペンは剣よりも強し」というスローガンを示し、歴史上の著名な女性や女性発明家をテーマに連載した。ゲージは明確に論理的に、そしてしばしば冷徹な機知と芯を突く皮肉を込めて書いた。 男性が自分の子供の親権を、その子供を産んだ母親と無関係の保護者に委ねてよいと認めた法律について、ゲージの記事はこう綴った。

It is sometimes better to be a dead man than a live woman.[11]

社会活動[編集]

ゲージは自分を「抑圧の憎しみを持って生まれた」と表現した[12]。ゲージの下で選挙運動が進み、ニューヨーク州女性参政権協会は同州の教育委員選挙に女性参政権を認めさせた。ゲージは地元の選挙区(ニューヨーク州ファイエットビル)に住む女性全員にあてて手紙を書き、せっかく認められた投票権を活かして投票に行くように勧めている。その上で自ら投票所に趣き、女性が誰も追い返されないように見張った。この1871年の選挙でゲージは投票所に現れた女性10人のひとりであり、仲間が1人ずつ投票所職員の前に進むとそのそばに付き添い、この人には投票権があるのですと弁明している。翌1872年のアメリカ大統領選挙では当初ビクトリア・ウッドハルVictoria Woodhull を支持、後半戦でユリシーズ・グラントを応援した。

1873年にはスーザン・B・アンソニーが不法に投票したとして訴追され、ゲージは裁判で証言し勝訴に導く[13]。さらに1884ねんには自らElector-at-Large for Belva Lockwood 推薦人となり、Equal Rights Party指示を公言している。[14]

ジョン・チェスター・バター作「ゲージの肖像」銅版画。ナポレオン・サロニー撮影の写真をもとに作成。

ゲージは女性参政権運動を保守派に乗っ取られまいとしたが失敗している。全米女性参政権協会 (NWSA)設立を支援したスーザン・B・アンソニーだったが、主眼を投票権獲得において活動を続け、ゲージはそれだけに絞りこむのでは主題が狭すぎると反対した。保守派の女性たちを参政権運動に引き寄せることはできたものの、社会改革全般は支持されない。参政権運動の保守派の一角をなすAWSA(かつて国民党と対立)は、アンソニーが参政権運動の統合に向けて取り組んでいた一方で、投票権獲得を単一の目標にするとアンソニーをいただき、NWSAと合併する見通しを立てる。こうして一方でアンソニーのほかルーシーとアリス(ブラックウェル)のストーン姉妹が押し進めた合併策が成功、1890年に全米女性参政権協会(NAWSA)が発足し、他方でスタントンもゲージも「教会と国家の分離」を推す急進的な動きを維持し、それに反する2つの参政権団体の合併に反対し続けた。合併成立の年、ゲージは「女性の自由党」(WNLU=Woman’s National Liberal Union)を設立すると代表になり、脳卒中により在職中のまま1898年に亡くなる。WNLUはNAWSAよりも急進的なメンバーを引き付け、自由主義的な思想の急先鋒を担うプラットフォームとしてなる。ゲージは機関誌『Liberal Thinker』主筆を務めた。

ゲージは男性支配を認めるキリスト教系の教会に熱心に反論する。何世紀にもわたる教会の慣習は女性の品位をおとしめ抑圧してきたと分析した[15] [16] [17]彼女は、教会を男性が女性を征服する装置であり、女性を道徳的に劣り本質的に罪深いものとして描写する過程で、教会の教義と権威が利用されてきたと見なした。教会と国家の分離こそ避けられないと強く主張し「女性に対する最も重い傷害は神学的法則に根差し、女性を男性に服従させた」と信じ、1881年10月に次のように記している。

Believing this country to be a political and not a religious organisation ... the editor of the ''National Citizen'' will use all her influence of voice and pen against "Sabbath Laws", the uses of the "Bible in School", and pre-eminently against an amendment which shall introduce "God in the Constitution".[18]

1893年の著書『Woman, Church and State』ではキリスト教が女性を抑圧し、家父長制を強化したと主張し、そのさまざまな方法を概説した。内容は広範であり、以前に演説で述べた(さらに前著の『History of Woman Suffrage』で同名の章を執筆した)考えに基づいて議論を構築した。ゲージは神智学を研究し始めると最晩年の2年は形而上学の主題に集中し、精神主義ならびに神智学研究の現象と哲学を掘り下げていく。1896年には重病を発症した間には精神世界の探究に目覚めるいくつかの啓示的な経験をする。そして神智学のオカルト、東ヨーロッパに根源のある謎に強く惹かれ、人間は生まれ変わること、人類は無限の創造力を秘めていることに大きな関心を示した[19]

他の多くの過激派と同様に、ゲージも中絶を望むべきでない悲劇ととらえたものの、単に反対するのではなく複雑な思いがあった。1868年の『Revolution』誌、エリザベス・キャディ・スタントンとパーカー・ピルズベリー主筆の女権利に関する論文集に寄稿し、中絶は男性が支持し支配し促してきた制度であるという見方に賛同している。原則は中絶反対でも、その根拠は子孫を減らすと富が目減りしないという夫の「利己的欲望」に置いたのである。

The short article on "Child Murder" in your paper of March 12 that touched a subject which lies deeper down in woman's wrongs than any other. This is the denial of the right to herself ... nowhere has the marital union of the sexes been one in which woman has had control over her own body. Enforced motherhood is a crime against the body of the mother and the soul of the child. ... But the crime of abortion is not one in which the guilt lies solely or even chiefly with the woman. ... I hesitate not to assert that most of this crime of "child murder", "abortion", "infanticide", lies at the door of the male sex. Many a woman has laughed a silent, derisive laugh at the decisions of eminent medical and legal authorities, in cases of crimes committed against her as a woman. Never, until she sits as juror on such trials, will or can just decisions be rendered.[20]

ゲージは女性が自らの人生と身体に権利を有するという考えに強い関心をいだき、1881年には離婚をテーマに一文を残した。

When they preach as does Rev. Crummell, of "the hidden mystery of generation, the wondrous secret of propagated life, committed to the trust of woman," they bring up a self-evident fact of nature which needs no other inspiration, to show the world that the mother, and not the father, is the true head of the family, and that she should be able to free herself from the adulterous husband, keeping her own body a holy temple for its divine-human uses, of which as priestess and holder of the altar she alone should have control.[21]

同時代の他のフェミニストは「自発的母性」を唱えた。性的な関心のないという同意のもとの性行為、定期または永続する性的禁欲、あるいはまた(最も重要なのは)女性(特に妻)が性行為を拒否する権利により達成できるとした [22]

ネイティブ・アメリカンに関して

ルイス・ヘンリー・モーガンヘンリー・ロウ・スクールクラフトが研究し、ゲージは影響を受けると執筆と演説を通じて、先住民が受ける残忍な扱いを非難する。アメリカ合衆国の連邦政府は先住民にアメリカ人として市民権を課し、それを根拠に独立国家として地位を得ようとする(イロコイ族の)との取り決めと特権を否定しようとした点に、ゲージは怒りを表明した [要出典]

[ 引用が必要 ] 彼女は1878年に書いた:

That the Indians have been oppressed - are now, is true, but the United States has treaties with them, recognising them as distinct political communities, and duty towards them demands ''not an enforced citizenship'' but a faithful living up to its obligations on the part of the government.[注釈 1]

イロコイの社会については女性が真の力を備える「総主教区」として1893年の著書『Woman, Church and State』(女性、教会、州)に紹介し、家の歴史を女系で受け継ぎ、女性の財産権を認め性別によらない平等な関係を示した。ゲージはイロコイ族と暮らし、一員として受け入れたウルフ族から「空を抱く女」を意味するカロニエンハウィという名を受けている。イロコイ女性カウンシルの加入も認められた [24]

家族[編集]

夫とのあいだに子どもは5人あり、夭折した長男、長女ヘレン・ルイーズ、二男、二女ジュリア・ルイーズおよび三女モードである。ゲージが晩年まで暮らしたニューヨーク州ファイエットビルの家が現存する [25]

二女の誕生から10年後に生まれた三女モードは、作家と結婚すると告げてゲージを慌てさせる。相手はライマン・フランク・ボームといい、のちに『オズの魔法使い』を上梓するものの、当時はまだ駆け出しの演劇人でこれといった実績もなかった。しかしゲージはすぐに自分が子どもたちに「誰でも自分の歩む道を自分で選ぶ」と教えてきたことに思い至り、声をあげて笑ったという。頑固だが思慮深い娘は法律家を目指しながら、女性にはチャンスがほとんどない現実を受け入れて諦めたこと、それでも人生を投げずにいたことを認めると、終生にわたり娘夫妻の家で半年ずつ過ごすようになる。二男と妻ソフィアのあいだに孫娘がイリノイ州ブルーミントンで1898年6月11日に生まれドロシー・ルイーズ・ゲージと名付けるが半年を待たず亡くしている[26]

ひ孫はノースダコタ州選出のジョセリン・バーディック上院議員である。

マチルダ効果と影響[編集]

1993年、科学史家のマーガレット・W・ロシターはマティルダ・ゲージの名前を冠した「マティルダ効果」という用語を作り、女性科学者の科学的研究に対する信用が少ないのは実際に客観的に調べて評価を受けるより社会がそう見なすからだと特定した。これはすでに名声をあげた科学者なら新発見に過剰な信用を得るという、いわゆる「マシュー効果」の対論である [27]。またゲージの足跡を詳細にまとめた伝記をサリー・レーチ・ワグナー[28] [29]とシャーロット・M・シャピロがそれぞれ発表した[30]

1995年には全米女性殿堂入りした [31]

フェイエットビルにあるゲージ邸は2020年より市民団体のマチルダ・ジョスリン・ゲージ財団が使用し、内部の見学ができる [32]

主な著作[編集]

ゲージは、1878年5月から1881年10月『National Citizen and Ballot Box』 (マイクロフィルムで利用可能)の編集者であり、1890年以降は『Liberal Thinker』自由主義思想の編集者でもあった。エッセイや意見を発表する機会として出版物の一部を列記する。

  • "Is Woman Her Own?", published in The Revolution, April 9, 1868, ed. Elizabeth Cady Stanton, Parker Pillsbury. pp 215–216.
  • "Prospectus", published in The National Citizen and Ballot Box, ed. Matilda E. J. Gage. May 1878 p 1.
  • "Indian Citizenship", published in The National Citizen and Ballot Box, ed. Matilda E. J. Gage. May 1878 p 2.
  • "All The Rights I Want", published in The National Citizen and Ballot Box, ed. Matilda E. J. Gage. January 1879 p 2.
  • "A Sermon Against Woman", published in The National Citizen and Ballot Box, ed. Matilda E. J. Gage. September 1881 p 2.
  • "God in the Constitution", published in The National Citizen and Ballot Box, ed. Matilda E. J. Gage. October 1881 p 2.[33]
  • "What the government exacts", published in The National Citizen and Ballot Box, ed. Matilda E. J. Gage. October 1881 p 2.[33]
  • "Working women", published in The National Citizen and Ballot Box, ed. Matilda E. J. Gage. October 1881 p 3.[33]
  • Woman As Inventor, 1870, Fayetteville, NY: F.A. Darling
  • History of Woman Suffrage, 1881, Chapters by Cady Stanton, E., Anthony, S.B., Gage, M. E. J., Harper, I.H. (published again in 1985 by Salem NH: Ayer Company)
  • The Aberdeen Saturday Pioneer, 14 and 21 March 1891, editor and editorials. It is possible she wrote some previous unsigned editorials, rather than L. Frank Baum, for whom she completed the paper's run.
  • Woman, Church and State, 1893 (published again in 1980 by Watertowne MA: Persephone Press)

出典[編集]

  1. ^ Lamphier & Welch 2017, p. 68.
  2. ^ a b c d e f White 1921, p. 244.
  3. ^ Gage, Matilda Joslyn (1890). WOMEN’S NATIONAL LIBERAL UNION REPORT OF THE CONVENTION FOR ORGANIZATION 
  4. ^ Gage, Matilda Joslyn (1890). WOMEN’S NATIONAL LIBERAL UNION REPORT OF THE CONVENTION FOR ORGANIZATION 
  5. ^ Who Was Matilda Joslyn Gage?”. The Matilda Joslyn Gage Foundation. 2012年2月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月19日閲覧。
  6. ^ Susan B. Anthony Institute for Gender & Women's Studies : University of Rochester” (英語). www.rochester.edu. 2017年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月16日閲覧。
  7. ^ Snodgrass 2015.
  8. ^ Gordon 1990, p. 499.
  9. ^ Schenken 1999, p. 287.
  10. ^ "Prospectus"<ref>Gage, Matilda E. J. (ed). [http://fultonhistory.com/Newspapers%20Disk3/Fayetteville
  11. ^ "All The Rights I Want"<ref>Gage, Matilda E. J. (ed). [http://fultonhistory.com/Newspapers%20Disk3/Fayetteville ゲージ著書
  12. ^ International Council of Women (1888年). “Report of the International Council of Women: Assembled by the National Woman Suffrage Association, Washington, D.C., U.S. of America, March 25 to April 1, 1888”. R. H. Darby, printer. p. 347. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  13. ^ United States. Circuit Court (New York : Northern District). "Speech of Mrs. M. Joslyn Gage," An account of the proceedings on the trial of Susan B. Anthony, on the charge of illegal voting. (1874) Daily Democrat and Chronicle. pp. 179-205.
  14. ^ Patrick 1996, p. 36.
  15. ^ Clark 1986, p. 394.
  16. ^ Harrison 2007, pp. 278–9.
  17. ^ Hamlin 2014, p. 49.
  18. ^ "God in the Constitution"、p.2.
  19. ^ Green 1898, p. 337.
  20. ^ "Is Woman Her Own?" ゲージ著書
  21. ^ "A Sermon Against Woman" ゲージ著書
  22. ^ Gordon, Linda (Winter–Spring 1973). “Voluntary Motherhood; The Beginnings of Feminist Birth Control Ideas in the United States”. Feminist Studies 1 (3/4): 5–22. JSTOR 1566477. 
  23. ^ Gage, Matilda E.J. (ed). "Indian Citizenship." The National Citizen and Ballot Box. (1878) Vol. 3, No. 2, p. 2.
  24. ^ Johansen, Bruce Elliott; Mann, Barbara Alice (2000) (英語). Encyclopedia of the Haudenosaunee (Iroquois Confederacy). Greenwood Publishing Group. ISBN 9780313308802. https://books.google.com/books?id=zibNDBchPkMC&pg=PA102 
  25. ^ Matilda Joslyn Gage Home”. Historical Marker Database (2019年). 2020年4月24日閲覧。
  26. ^ Willingham, Elaine (1998). “The Story of Dorothy Gage, the Namesake for Dorothy in The Wonderful Wizard of Oz..”, Beyondtherainbow2oz.com; accessed May 20, 2014.
  27. ^ Rossiter, Margaret W. (1993). “The Matthew Matilda Effect in Science”. Social Studies of Science 23 (2): 325–341. doi:10.1177/030631293023002004. ISSN 0306-3127. JSTOR 285482. 
  28. ^ Wagner (1998年). “Matilda Joslyn Gage: She Who Holds the Sky - Matilda Joslyn Gage Foundation”. www.matildajoslyngage.org. Breakthrough Design Group. 2019年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月17日閲覧。
  29. ^ Wagner 2003, p. 1.
  30. ^ Shapiro 2013, p. 1.
  31. ^ National Women's Hall of Fame, Matilda Joslyn Gage
  32. ^ The Matilda Joslyn Gage Foundation”. 2020年4月15日閲覧。
  33. ^ a b c Brammer 2000, p. 126.

継承[編集]


関連文献[編集]

外部リンク[編集]

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