利用者:Quark Logo/sandbox上村合戦・下書
上村合戦 | |
---|---|
戦争:戦国時代 (日本) | |
年月日:元亀3年12月28日(1573年1月31日) | |
場所:美濃国恵那郡上村 | |
結果:武田軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
織田軍 | 武田軍 |
指導者・指揮官 | |
遠山景行 遠山景玄 遠山友勝ほか |
秋山虎繁 |
戦力 | |
5,000余[1] | 250騎、雑兵2,000余 |
損害 | |
首級486 | 不明 |
上村合戦(かみむらがっせん)は、元亀3年12月28日(1573年1月31日)、美濃国恵那郡上村(現恵那市上矢作町)付近で、同郡地頭遠山氏(織田方)と甲斐および信濃から侵攻した武田軍との間で戦われた合戦である。
明知城主遠山景行(宗寂)は、近隣の徳川氏にも援軍を要請したが、岩井戸砦に討ち死にした。
概要
[編集]戦国大名の武田信玄と織田信長は永禄年間には甲尾同盟をなして和議を守っていたが、元亀元年頃より両者は不穏な関係となって、恵那郡の情勢も緊迫感を帯びていた。しかし遠山氏は織田氏との縁組をもつ一方で、表向きは信玄に服従して、武田氏の指示を受けて飛騨国に侵攻するなどして両属の関係を守っていた。
ところが、元亀3年5月に苗木城主の遠山直廉がこの時のいくさの傷がもとで没し、次いで8月に岩村城主の遠山景任が病死する。遠山兄弟が相次いで亡くなると、信長は遠山氏を取り込む好機と考えて、苗木城に遠山友勝を、岩村城には五男坊丸(後の勝長)を猶子として入れた。なお、通説では、まだ幼い坊丸に代わって景任の正室・岩村殿(おつやの方)が女城主となったという。この岩村殿も、信長の叔母にあたる織田家出身の女性であった。
遠山氏はもはや両者のバランスをとるのをやめて、武田方の兵を追い払い、織田方に味方することになったので、信長は庶兄・織田信広と河尻秀隆を岩村城に派遣して守備させた。
より家臣で
伊那郡代の秋山虎繁(晴近)に東美濃攻略を命じていたが、同地の要衝である岩村城に対して断続的に続けられた包囲攻撃は、城主遠山景任によって撃退されていた。
ところが、元亀3年5月
にこの景任が病死。遠山氏は養子に迎えていた織田信長の五男坊丸(後の勝長)が継ぎ、
同年9月頃に信玄は上洛する旨を示唆していたが、当時、織田氏および徳川氏とは和議が成立していたため、人質として秋山虎繁の居城飯田城に逗留していた徳川家康の異母弟の子・源三郎(松平勝政)に因縁をつけさせて、彼が身の危険を感じて岡崎城へ逃亡したのを口実として同盟を破棄。織田氏の惣領信忠と信玄五女松姫との縁組も破談になったと宣言して、西上作戦を開始すると、10月、遠江・三河に侵攻した。
一方、信玄は織田・徳川を非難するだけでなく、名目上、人質を逃がしてしまった秋山も内通していたのではないかと断罪し、所領没収を口にしたため、秋山はその汚名を晴らすべく東美濃・東三河への侵攻を決意。
奥平
これに呼応して東美濃にも軍勢が侵入。
織田信長に従属する関係地頭遠山氏の本拠地岩村城(遠山景任城主)とその支城群()を攻略しようとして
寛永諸家系図伝によれば、この合戦に参加した遠山庄遠山氏勢は、明知城主の遠山景行や甥で娘婿にあたる小里光次、飯羽間城主の遠山友信が記述されている。
元亀3年(1572年)12月 武田軍の秋山虎繁(信友)が岩村城へ進軍。
同年同月 一報を聞きつけた飯羽間城主(遠山友信)の軍勢は、急ぎ上村へ参戦する。
同年同月 一報を聞きつけた明知城主(遠山景行)の軍勢は、急ぎ上村へ参戦するが敗れて自刃する。
合戦背景図
[編集]1572年
遠山直廉(苗木城) 敗戦
- 三河勢 軍勢数 2500
- 奥平 途中放棄
- 菅沼 途中放棄
- 武田勢 軍勢数 2500
- 秋山晴近 勝戦
1574年
- 織田勢
- 明智光秀 勝戦
- 武田勢 軍勢数 2500
- 秋山虎繁 敗戦
脚注
[編集]- ^ ただし、およそ半分の東三河から来た増援は戦闘には参加せず。
参考文献
[編集]- 国史研究会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 武田三代軍記」『国史叢書』国史研究会、1915年 。
- 加藤護一 編「国立国会図書館デジタルコレクション 第六篇 戦国時代(近古後期の二)『上村合戦』」『恵那郡史』恵那郡教育会、1926年、161-166頁 。
外部リンク
[編集]