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利用者:Quark Logo/sandbox脇坂安治・下書

 
脇坂安治
脇坂安治像(蒲潤宗練賛、龍野神社蔵)
時代 安土桃山時代から江戸時代前期
生誕 天文23年(1554年
死没 寛永3年8月6日1626年9月26日
別名 通称および初名:甚内
戒名 臨松院殿前中書少卿平林安治大居士
墓所 妙心寺京都府京都市
官位 従五位下、中務少輔、淡路守
主君 浅井久政長政織田信長明智光秀豊臣秀吉秀頼徳川家康
淡路洲本藩主→伊予大洲藩
氏族 脇坂氏藤原姓
父母 父:脇坂安明田付孫左衛門説あり)
母:田付景治の妹
兄弟 安治安景[1]、女(渡邊七右衛門室)、女(佐野勘七室)
正室:西洞院時当
安忠(早世)、安元安信、安重、安経[2]、安成、安総、娘(清水谷実任[3]室)
娘(脇坂一盛室)、娘(脇坂一長室)、
娘(田中安義室)、娘(脇坂安盛室)、
娘(脇坂景直室)、娘(座光寺次郎八室)
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脇坂 安治(わきざか やすはる)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将大名賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路洲本藩主。後に伊予大洲藩初代藩主龍野藩脇坂氏初代。家紋は輪違い。

生涯[編集]

滋賀県長浜市小谷丁野町の脇坂甚内安治屋敷跡(脇坂安治生誕地)

前半生[編集]

脇坂氏は、近江国浅井郡脇坂庄[4]に居住し、その土地の名から脇坂を称したのが始まりと云う。『野史』では浅井氏の庶流とする。

天文23年(1554年)、六角氏(佐々木氏)家臣であった脇坂安明の長男として、脇坂庄で生まれた。母は[[田付景治::の妹。初名は甚内。異説では、母が早世したため、田付景治の従弟田付孫左衛門に嫁いだ妹が産んだ子を養子にしたとも言い、孫左衛門が実父とも伝わる[5]

父安明は永禄11年(1568年)の観音寺城の戦いで討死した。他方で、孫左衛門は寛永3年まで長命だった。

甚内は、初め浅井長政に仕えたが、天正元年(1573年)に浅井氏は滅亡。

以後は、織田家に属し、明智光秀の与力として黒井城の戦いなどで功を立てた。丹波の赤鬼といわれた敵将・赤井直正から武勇を賞され、末期に家宝のの皮の槍鞘を拝領した(これ以降「貂の皮」は脇坂家を暗喩する事になる。脇坂安董の項参照)。しかし、この逸話は、貂の皮由来記に顛末が記されているが、当時の安治の身分と活躍する内容が合わず、脇坂家の馬印貂の皮の価値を高めるために後世に創作されたものと考えられる。

後に、木下藤吉郎に自ら頼み込んで家臣となる。その後は播磨国三木城神吉城攻めなど、秀吉の諸戦に従軍して功を重ねた。天正4年(1576年)には150石を与えられ、天正6年(1578年)の三木城攻めでは秀吉より白輪違紋入りの赤母衣を賜り、以後家紋とした。天正10年(1582年)には明石郡30石の加増を受けた。ただし、明石郡30石の加増を受けたというのは、秀吉の書状のみからしか伺うことができず、脇坂家譜には記述がない。

天下統一までの活躍[編集]

太平記英勇伝九十六:秋坂中務大輔安治(落合芳幾画)

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い福島正則加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられ、その戦功により山城国に3,000石を与えられた。この戦いの折、柴田勝政を討ち取ったという説がある。

小牧・長久手の戦いでは伊勢伊賀方面で滝川雄利伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、天正13年(1585年)5月、秀吉より摂津国能勢郡に1万石を与えられた。8月に大和国高取で2万石、10月には淡路国洲本で3万石を与えられた。

その後は加藤嘉明九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、九州征伐小田原征伐朝鮮出兵などに従軍した。九州征伐では、豊前国に到着後、臼杵城大友宗麟の元に兵糧米を輸送している。以後、秀吉の命で黒田孝高の指揮下に入っている(天正15年2月14日豊臣秀吉朱印状)。また、薩摩国平佐城小西行長らとともに攻撃開城させた。小田原征伐では海上から伊豆下田城を攻め落とし、小田原城受け取りの検使を務めている。

朝鮮出兵[編集]

文禄の役では1,500人[6]の動員を課せられ、当初は船手衆の1人として九州から釜山への海上輸送を担当するが後に陸戦兵力として投入された。

文禄元年(1592年)6月に漢城近郊の龍仁を守備中に全羅道観察使の李洸などが率いる朝鮮軍約5万の大軍により攻撃を受けるが、機を制して夜襲を行い朝鮮軍約5万を潰走させた。龍仁戦闘の直後の翌7月には李舜臣による水軍の活動を抑えるために加藤嘉明、九鬼嘉隆と共に急遽連合水軍として編成されるが、功を逸って単独で抜け駆けした安治の1500人の水軍[7]閑山島海戦で李舜臣に大敗した。

以降は秀吉の戦術転換命令によって水陸防御作戦を実施して李舜臣の侵攻を何度も阻んだ(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)。文禄2年(1593年)5月の第二次晋州城攻防戦では攻城軍に加わって陸上兵力(点呼員数900人)としても活躍している。

慶長の役では水軍配置となり1,200人[8]の動員を課せられ、慶長2年(1597年)7月に戦われた漆川梁海戦では侵攻してきた元均率いる朝鮮水軍を逆襲により壊滅させた。日本軍の侵攻作戦が始まると水軍として進撃するが、8月の南原城攻略作戦では陸上兵力として使用された。全州会議に参加した後は再び水軍として引き続き朝鮮沿岸で活動し鳴梁海戦を戦った。第一次蔚山城の戦いにも加わり加藤清正の救援で武功を挙げる。これら朝鮮における一連の功績から、淡路内で預かっていた太閤蔵入地より3,000石を加増されて3万3,000石の大名となる。

関ヶ原の戦い[編集]

関ヶ原の戦いの脇坂安治陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

秀吉の死後、徳川家康前田利家が対立。安治は徳川邸に駆けつけた。会津征伐では、家康の元に息子・安元を参陣させようとしたが、石田三成らに妨害され引き返させた。この際、安治は旧友・山岡景友を通じ事情を家康に伝え、家康から引き返したことに対して了解を得る一方、戦いに向けて防備を固めるように指示を受けた(慶長5年8月1日安元宛徳川家康書状)。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも家康に与するつもりであったが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく約1,000名[9]の兵を率いて西軍に付いたとされる。

9月15日の本戦では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱小川祐忠赤座直保らと共に配置されていたが、秀秋が黒田長政と通じていたのと同様に、安治もまた藤堂高虎より工作を受けており、午後に入り小早川隊が大谷吉継隊を攻撃するとそれに乗じて他の3将と共に寝返り、平塚為広戸田勝成の両隊を壊滅させた。戦後、石田三成の居城・佐和山城攻略にも参加している。同じく寝返った他の3大名と異なり、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。

晩年[編集]

慶長14年(1609年)9月、伊予大洲藩5万3,500石に加増移封された。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では本人は参陣しなかった[10]が、大坂冬の陣の際に次男・安元が幕府軍として八丁目口を担当し、大坂夏の陣では天王寺付近での戦闘で戦功を挙げた。元和元年(1615年)に次男・安元に家督を譲って隠居する。

その後は大洲を去って京都西洞院に住み、剃髪して臨松院と号した。寛永3年(1626年)8月6日に京都で死去。享年73。

人物・逸話[編集]

  • 賤ヶ岳の七本槍の中では最年長の武将である。
  • 中務少輔の時代に京都・伏見の宇治川支流の島のような場所に下屋敷を構えた。中務少輔を唐名で「中書」と呼んだことから、脇坂には「中書(ちゅうじょう)さま」という別名がつき、下屋敷のあった一帯を「中書島」と呼ぶようになったといわれる。
  • 安治が父・安明のために建てた京都妙心寺塔頭隣華院は、4代・脇坂安照まで脇坂家の菩提寺となった。
  • 龍野神社では、安治を祭神として祀っており、安治が賤ヶ岳の戦いで使用したと伝えられる十文字槍が収められている。
  • 2004-05年に製作された韓国ドラマ『不滅の李舜臣』では、主役の李舜臣の日本側における最大の敵役(「日本水軍第一の名将」「日本軍最高の名将」扱い)として登場する。

関連作品[編集]

小説
映像作品

脚注[編集]

  1. ^ 内記。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際に伊達政宗の軍勢に属し、5月6日の道明寺の戦いで戦死。
  2. ^ 兄安元の養子。
  3. ^ 正二位権大納言。
  4. ^ 現在の滋賀県長浜市小谷丁野町。
  5. ^ 新田完三『戦国城主諸家伝 : 徳川外様大名篇』勉誠出版、2001年。ISBN 4585051201 
  6. ^ 『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり
  7. ^ 『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり
  8. ^ 「秀吉朱印状・慶長二年(1597)二月二十一日」陣立書
  9. ^ 参謀本部 関ヶ原役
  10. ^ この事実をもって豊臣家の旧恩から中立を保ったと評価されることもある。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]