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利用者:Revolution will/sandbox/第7作業室

雲水君
宗親二世
正一品君
輔国崇禄大夫
続柄 徳泉君第三子
諡号 漢字:襄胡
諺文:양호
発音:ヤンホ
配偶者 郡夫人清風金氏
子女 鼻城守
益和守
三山守
永山守
青山令
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雲水君朝鮮語: 운수군、1445年 - 1518年)は李氏朝鮮中期の宗親。諱は「李孝誠」、諡号は「襄胡」。本貫は全州李氏徳泉君の三男。祖父は定宗。母は長川府院君李従茂の娘。靖国二等功臣である。

宗親の中では聡明で、特に弓の名手として高名があり、李施愛の乱中宗反正に加担して靖国二等功臣となっている。

生涯[編集]

世祖期[編集]

1445年出生した。父は徳泉君で、祖父は定宗。母は本貫が長水李氏で長川府院君李従茂の娘。正室の郡夫人清風金氏金胤曽の娘。幼少期から聡明で、経史と兵書に通じ、武術も優れていた。

1462年現在に雲水副令に封爵されており、1465年9月7日世祖が温陽に行幸する際に随行し、[1]1467年7月17日現在雲水副守に陞爵され、宣伝官となっており、[2]7月30日世祖に召され、兵要の講義に参列し、[3]9月11日慕華館前の山頂にて李施愛の乱鎮圧の為に、控弦衛将に任じられ、355人の兵を付与され、[4]9月19日更に1000人の兵を付与され、平安道に赴いて1人につき15日分の食料・衣服・綿布を兵に与えた。[5]1468年1月4日建州衛[6]討伐の軍功により、雲水都正に陞爵し、敵愾三等功臣となり、奴婢を6人下賜された。[7]2月20日現在雲水君に陞爵されており、世祖が温陽に行幸する際に、衛将として随行した。[8]3月4日に行幸の際の衛将の業務を怠ったとして、官職をそのまま維持しながら官位を一品下げられた。[9]5月22日6月25日に序賢亭の宴席において世祖が弓を射るように命じて、これを射る。[10][11]

成宗期[編集]

1469年5月26日武芸試験にて、宗親では弓の名手として参加させられた。[12]5月28日官位が一品昇格した。[13]11月4日雲水君が講義を担当し、経書・史書・武経などで進行した。[14]1475年7月3日昌徳宮後苑にて成宗が宗親を含め108人と引見し、皆に虎皮を一張ずつ下賜させ、雲水君には講書がよいとされ、鹿皮を一張更に下賜された。[15]12月29日成宗慕華館に行幸し、宗親の雲水君等他16名と武臣36名に弓を射るように命じ、その中で雲水君が優秀であったため、毛毬一張を下賜された。[16]1476年4月3日成宗孝寧大君宅に行幸し、これを随行した。[17]1478年9月2日子馬一匹を下賜された。[18]1479年9月19日官位が一品昇格した。[19]1482年8月4日定宗の孫として上疏を啓上し、定宗に廟号を追尊すべきと主張しているが、大臣等が議論した結論は、太宗世宗が廟号を追尊しないのには、深い考慮があるとして成宗は允許しなかった。[20]1484年7月24日宗親と廷臣の婚姻を妨害する法律を撤廃すべきと啓上したが、様々な問題点があるとして允許されなかった。[21]1489年3月17日が検証に招かれ鞠問された。[22]1492年5月20日現在司饔院提調となっている。[23]1502年7月22日官位が一品昇格した。[24]

中宗期[編集]

1502年10月2日訓練院に赴き、中宗反正に加担し、[25]10月8日靖国二等功臣となる。[26]1513年9月8日経筵にて司憲府執義金協司諫院正言金磧は、雲水君が息子の葬儀のために、帰郷したのは慣習に背く事で、前例となってはいけないと啓上されているが、保留された。[27]1514年10月16日子鹿が獲られなくなったため、他の品を代用するように中宗に進言した。[28]1515年1月5日子鹿が非常に珍しく貴重だと進言し、黄海道を除く7道での子鹿を免除するようにした。[29]1518年5月19日に雲水君は卒去した。中宗は市場を停止させるよう命じた。[30]

家系[編集]

続柄 爵位 存命期間 備考
祖父 定宗 上王 1357年 - 1419年 璿源となる
祖母 誠嬪池氏 不明
徳泉君 1442年 - 1483年 全州李氏徳泉君派の始祖
長水李氏 不明 長川府院君李従茂の娘
正室 郡夫人清風金氏 不明 金胤曽の娘    
  一子 鼻城守 不明
二子 益和守 不明
三子 三山守 不明
四子 永山守 不明
五子 青山令 不明

参考文献[編集]

  • 『世祖実録』
  • 『睿宗実録』
  • 『成宗実録』
  • 『燕山君日記』
  • 『中宗実録』
  • 『璿源系譜』

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『世祖実録』巻第36 11年(1465年乙酉/成化1年) 旧暦8月17日壬辰)一項目
  2. ^ 『世祖実録』巻第42 13年(1467年丁亥/成化3年) 旧暦6月16日己酉)二項目
  3. ^ 『世祖実録』巻第42 13年(1467年丁亥/成化3年) 旧暦6月29日壬戌)一項目
  4. ^ 『世祖実録』巻第43 13年(1467年丁亥/成化3年) 旧暦8月13日丙午)一項目
  5. ^ 『世祖実録』巻第43 13年(1467年丁亥/成化3年) 旧暦8月21日甲寅)一項目
  6. ^ 明朝永楽帝の代に、満洲南部の女真族を統御する地方行政機関。ここでは女真族を意味する。
  7. ^ 『世祖実録』巻第44 13年(1467年丁亥/成化3年) 旧暦12月9日辛丑)二項目
  8. ^ 『世祖実録』巻第45 14年(1468年戊子/成化4年) 旧暦1月27日戊子)二項目
  9. ^ 『世祖実録』巻第45 14年(1468年戊子/成化4年) 旧暦2月10日辛丑)三項目
  10. ^ 『世祖実録』巻第46 14年(1468年戊子/成化4年) 旧暦5月1日庚申)二項目
  11. ^ 『世祖実録』巻第46 14年(1468年戊子/成化4年) 旧暦6月6日甲午)二項目
  12. ^ 『睿宗実録』巻第5 1年(1469年己丑/成化5年) 旧暦4月15日戊辰)二項目
  13. ^ 『睿宗実録』巻第5 1年(1469年己丑/成化5年) 旧暦4月17日庚午)三項目
  14. ^ 『睿宗実録』巻第8 1年(1469年己丑/成化5年) 旧暦10月1日辛亥)二項目
  15. ^ 『成宗実録』巻第56 6年(1475年乙未/成化11年) 旧暦6月1日戊寅)一項目
  16. ^ 『成宗実録』巻第62 6年(1475年乙未/成化11年) 旧暦12月2日丁丑)一項目
  17. ^ 『成宗実録』巻第65 7年(1476年丙申/成化12年) 旧暦3月9日壬子)一項目
  18. ^ 『成宗実録』巻第95 9年(1478年戊戌/成化14年) 旧暦8月6日乙未)二項目
  19. ^ 『成宗実録』巻第108 10年(1479年己亥/成化15年) 旧暦9月4日丁巳)三項目
  20. ^ 『成宗実録』巻第143 13年(1482年壬寅/成化18年) 旧暦7月20日丁亥)三項目
  21. ^ 『成宗実録』巻第168 15年(1484年甲辰/成化20年) 旧暦7月2日丙戌)四項目
  22. ^ 『成宗実録』巻第225 20年(1489年己酉/弘治2年) 旧暦2月15日癸卯)五項目
  23. ^ 『成宗実録』巻第264 23年(1492年壬子/弘治5年) 旧暦4月24日甲子)五項目
  24. ^ 『燕山君日記』巻第61 12年(1506年丙寅/正徳1年) 旧暦3月24日甲辰)三項目
  25. ^ 『中宗実録』巻第1 1年(1506年丙寅/正徳1年) 旧暦9月2日戊寅)一項目
  26. ^ 『中宗実録』巻第1 1年(1506年丙寅/正徳1年) 旧暦9月8日甲申)二項目
  27. ^ 『中宗実録』巻第18 8年(1513年癸酉/正徳8年) 旧暦8月9日甲辰)一項目
  28. ^ 『中宗実録』巻第20 9年(1514年甲戌/正徳9年) 旧暦9月28日丁亥)一項目
  29. ^ 『中宗実録』巻第21 9年(1514年甲戌/正徳9年) 旧暦12月21日己酉)三項目
  30. ^ 『中宗実録』巻第32 13年(1518年戊寅/正徳13年) 旧暦4月10日戊寅)六項目

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