利用者:Sawossd/sandbox/下書き1
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山田 久米子 | |
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生誕 |
弘化4年3月16日 (1847年3月16日) 東京 |
死没 |
明治44年12月19日 (1911年12月19日)(64歳没) 東京芝区 (現 東京都港区) |
医学関連経歴 | |
専門 | 助産師 |
山田 久米子(やまだ くめこ、弘化4年3月16日(1847年3月16日)-明治44年12月19日(1911年12月19日))は、日本の助産師。職業としての助産師の草創期の人物[1]。
経歴・人物
[編集]明治9年(1876年)東京府病院に設置された産婆学院の第1回生として入学。卒業後、同病院附属貧民施療院の産室取締となる。明治12年(1879年)4月には芝区濱町に開業し、里仁会を設立して貧民の治療に尽くす[3]。 明治23年(1890年)5月には、東京産婆会の会長に就任し[4]、明治36年(1903年)11月芝産婆会を創立して会長に就任する[3]。
宮家にも仕え[2]、伏見宮博厚王、伏見宮博恭王、伏見宮博忠王の助産にあたった。また、伊藤博精、佐佐木高志、兒玉秀雄、大木遠吉の助産も行った[3]。
明治41年(1908年)頃には、新橋72番の2桁の電話番号を持って活躍していた[1]。
明治44年(1911年)12月19日に芝区田町にて死去[3]。
出典
[編集]注釈
[編集]- ^ なお、「光栄ある老産婆逝く」『読売新聞』(1911年12月11日3面)では、広島県出身とされている。
参考文献
[編集]- 『近代名士之面影 第1集』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 「東京産婆会」『読売新聞』1890年6月1日、3面。</ref>、明治36年(1903年)
外部リンク
[編集]- “山田久米子”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2020年2月1日閲覧。