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タロキナ逆上陸作戦

逆上陸した日本兵を迎え撃つ、第3海兵師団第9海兵連隊第3大隊所属のアメリカ兵。
戦争太平洋戦争
年月日1943年11月7日
場所ブーゲンビル島
結果:日本軍は上陸できたが、成果のないまま陸上の主力部隊に合流。
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
三輪光広
大杉守一
戦力
877
損害
戦死 59, 戦傷 38
行方不明 56
戦死17, 戦傷 30
ソロモン諸島の戦い

タロキナ逆上陸作戦(タロキナぎゃくじょうりくさくせん)またはコロモキナ潟の戦い英語: Battle of Koromokina Lagoon)とは、太平洋戦争中期の1943年11月7日ブーゲンビル島タロキナ岬付近コロモキナ潟において、アメリカ軍と日本軍の間で行われた戦闘。ブーゲンビル島の戦いの一部であり、タロキナ岬に上陸占領したアメリカ海兵隊を撃退するため、日本陸軍が陸上からの総攻撃に合わせて海上からも別働隊「第二機動決戦隊」(別名:第二剣部隊)による上陸戦を仕掛けて発生した。日本軍の上陸そのものは一応成功したが、上陸時に部隊が分散してしまい、特に大きな成果を上げることなく陸上の友軍に合流して終わった。日本海軍の作戦名はB作戦

背景[編集]

1943年(昭和18年)11月1日、アメリカ軍の第3海兵師団(師団長:[[]]中将)は艦砲射撃と空襲の援護を受けて、日本の第17軍が守るソロモン諸島北部ブーゲンビル島のタロキナ岬に上陸した。日本軍はタロキナ岬周辺は低湿地帯で大部隊の行動が困難と見ており、タロキナ岬周辺には第6師団歩兵第23連隊の1個中隊を監視用に配置しているだけであった。日本軍のタロキナ岬守備隊は、唯一の山砲上陸用舟艇4隻撃沈・10隻撃破の戦果を上げたものの同日中にほぼ全滅した。アメリカ軍は後続部隊を次々と上陸させて、タロキナ岬周辺に橋頭堡を確保し、さっそく飛行場の建設にとりかかった。

日本側はアメリカ軍の状況を把握できておらず第1波上陸部隊が約1個連隊と推定している程度で、第17軍司令部では牽制作戦である可能性も疑っていたが、前線の第6師団、ニューブリテン島所在の上級組織である第8方面軍がそれぞれ反撃に着手した。第6師団は、低湿地帯で陸路の移動・補給が困難なことを考慮して小規模部隊の早期投入が有利と考え、歩兵第23連隊基幹の約2240人(うち輜重兵1000人)にタロキナ岬東方からの反撃を命じた(第1次タロキナ作戦)。

第8方面軍は独自の反撃計画としてタロキナ岬への1個大隊規模の逆上陸作戦を立案し、11月1日のうちに海軍と協定を結んだ。第8方面軍は直轄の逆上陸作戦の専門部隊として第38師団の一部をもって「第一機動決戦隊」(第一剣部隊)を養成中であったが、同部隊は方面軍司令部の置かれたニューブリテン島ラバウル防衛のために温存され、代わりにたまたまラバウルに立ち寄っていた[注 1]第17師団歩兵第54連隊第2大隊(長:三輪光広少佐)主力など約880人を寄せ集めて「第二機動決戦隊」(第二剣部隊)と命名した。第17師団は日中戦争で歴戦の部隊であったが、上陸作戦の知識や訓練経験は全くなかった。第17師団長の酒井康中将は、編成完了している第一機動決戦隊を使用するほうが適切との反対意見を述べたが、受け入れられなかった。第二剣部隊は上陸後に第17軍の指揮下に入るものとされたが、第17軍参謀の田巻和吉中佐は所定の時機どおりに行動できるか疑問で、寄せ集めで上陸地点の状況も十分承知していないことから、大きな期待はしていなかったと回想している[1]

なお、第6師団の歩兵第23連隊では、第二機動決戦隊とは別に

った[2]。作戦期間は4日間だけと予定された[3]


戦闘経過[編集]

第1回作戦の中止(11月1日)[編集]

上陸(11月7日)[編集]

上陸後の行動[編集]

結果[編集]

参加部隊[編集]

日本軍[編集]

11月7日に実行されたB作戦時の編制。それ以前の中止された回では支援部隊及び挺身輸送隊の編制が異なる。

上陸部隊(第二機動決戦隊・第二剣部隊)
歩兵第54連隊第2大隊長の三輪光広少佐が指揮。兵力877人。なお、第8方面軍参謀の久納清之助少佐が上陸地点沖まで同行。
支援部隊
第10戦隊司令官の大杉守一少将が指揮。第1支援部隊は挺身輸送隊の揚陸支援、第2支援部隊は敵艦船の奇襲撃滅が任務とされた。
挺身輸送隊
第31駆逐隊司令の香川清登大佐が指揮。

アメリカ軍[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 第二機動決戦隊のうち歩兵第54連隊第2大隊はニューブリテン島マーカス、歩兵第53連隊第6中隊はニューブリテン島ツルブにそれぞれ配備予定で、10月21日に上海から中継地のラバウルへ到着したばかりであった。
  2. ^ a b 11月6日の第10戦隊司令官の命令では、第2支援部隊に駆逐艦「藤波」「時雨」を加える予定であったが、「藤波」は前日の空襲で損傷、「時雨」は舵故障のため除外された。代わりに、挺身輸送隊の警戒隊に予定されていた駆逐艦「長波」が第2支援部隊に異動となった。

出典[編集]

  1. ^ [[]]
  2. ^ Shaw (1963) , et al. Chapter 6, pp. 270–272.
  3. ^ Rentz (1946) , p. 75.

参考文献[編集]