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藤波 (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤波
松崎艦長と藤波。
松崎艦長と藤波。
基本情報
建造所 藤永田造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 夕雲型駆逐艦
艦歴
発注 1939年度(④計画
起工 1942年8月25日
進水 1943年4月20日
竣工 1943年7月31日
最期 1944年10月26日[1][2]
もしくは10月27日戦没[3][4]
除籍 1944年12月10日
要目
基準排水量 2,077 t
公試排水量 2,520 t
全長 119.3 m
最大幅 10.8 m
吃水 3.76 m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基2軸
出力 52,000hp
最大速力 35.0 kt
燃料 重油:600トン
航続距離 18ktで5,000浬
乗員 225名
兵装 新造時
50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 II×2
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
九三式魚雷16本)
爆雷×18乃至36
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藤波(ふじなみ)は[5]日本海軍駆逐艦[3]夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の11番艦である。

概要

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夕雲型駆逐艦藤波(ふじなみ)は[5]、日本海軍が藤永田造船所で建造した駆逐艦[3]太平洋戦争中の1943年(昭和18年)7月末に竣工し、訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属する[6]。8月20日より夕雲型駆逐艦で編制された第32駆逐隊に所属[7]。 第32駆逐隊は第二水雷戦隊に編入後、丁三号輸送部隊として前線へ進出[8]、以後は各方面の輸送作戦や船団護衛に従事した。11月上旬のラバウル空襲では32駆僚艦涼波が撃沈され[9]、本艦にも魚雷1本が命中するが不発だった[10]。藤波は引き続き輸送作戦や護衛任務に従事する[3]

1944年(昭和19年)2月中旬、船団護衛中の藤波はトラック島空襲に遭遇した[11][12]。4月下旬から5月上旬にかけて、藤波は竹輸送に参加[13][14]。続いてタウイタウイ泊地で訓練に従事するが、6月7日に32駆僚艦早波が米潜水艦に撃沈される[15][16]。 第32駆逐隊は6月下旬のマリアナ沖海戦に前衛部隊(第三航空戦隊第二艦隊)に所属して参加。同海戦敗北後、32駆(藤波、玉波)はタンカー旭東丸を護衛して内地に向かうが[17]、マニラ沖合で32駆僚艦玉波が米潜水艦に撃沈される[18][19]。駆逐艦3隻(藤波、夕凪)は旭東丸速吸他を護衛して内地に帰投した[20]

8月中旬、藤波はヒ71船団を護衛して南方に向かうが[21]、同船団は空母大鷹・速吸沈没等の大損害を出した[18][22]。 リンガ泊地に集結した第32駆逐隊(藤波、浜波)[23]は訓練後、第二水雷戦隊僚艦と共に10月中旬以降の捷号作戦レイテ沖海戦)に参加する。10月25日、サマール島沖海戦で重巡洋艦鳥海が航行不能になる[24]。藤波は鳥海を雷撃処分したのち[25]、鳥海乗組員を救助して退避した[26]。だが、単艦航行中にアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受け沈没し[27]、藤波・鳥海乗組員総員が戦死した[28]

艦歴

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建造経緯

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1939年度(④計画)仮称第127号艦として藤永田造船所で建造された。 1943年(昭和18年)3月5日、日本海軍は川崎重工業(神戸川崎造船所)で建造の航空母艦大鳳[29]、藤永田造船所の夕雲型駆逐艦11番艦を藤波[5]三菱重工業長崎造船所で建造の秋月型駆逐艦7番艦を霜月と命名[5]。 さらに3隻(大鳳、藤波、霜月)等は艦艇類別等級表に登録された[30]

7月1日、日本海軍は松崎辰治中佐(海軍兵学校52期)を藤波艤装員長に任命する[31][32]。 7月3日、藤永田造船所内に設置中の藤波艤装員事務所は事務を開始[33]。 7月31日、竣工[3]。松崎艤装員長は制式に藤波駆逐艦長(初代)となる[34]。初代主要幹部は、玉井幸男大尉(機関長)、前田圭造中尉(砲術長)、栗田義文中尉(水雷長)、橋本正熙中尉(航海長)[34]。 同日、艤装員事務所を撤去[35]舞鶴鎮守府[36]

第十一水雷戦隊

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1943年(昭和18年)7月31日、竣工した夕雲型11番艦藤波と夕雲型12番艦早波(早波艦長清水逸郎中佐、海兵51期[34][37]は、第十一水雷戦隊に編入[38][6]。 第十一水雷戦隊(司令官木村進少将〈海軍兵学校40期〉)[39]は駆逐艦の訓練を主任務とする水雷戦隊で[40]、本艦編入の直前に夕雲型10番艦涼波(涼波艦長神山昌雄中佐、海兵51期)も[37]、十一水戦に加わっている[41][42]。 内南洋部隊編入中の第6駆逐隊を除き[43][44]、第十一水雷戦隊(龍田、〔9月1日附で第9駆逐隊に編入〕[44]若月〔8月15日附で第61駆逐隊編入〕[45]、涼波、早波、藤波、〔8月中旬、内地帰投〕[46][47])は日本本土で訓練に従事[48][49]

8月17日、戦艦大和を含む主力部隊[注 1]は呉を出撃、トラックに向かった[51][52]。 第十一水雷戦隊(早波、涼波、藤波、霞)は主力部隊航路前方の哨戒に従事した[53][54]。 8月18日、第十一水雷戦隊旗艦は龍田から吹雪型駆逐艦に変更[55]

8月20日、日本海軍は夕雲型駆逐艦3隻(涼波早波、藤波)により第32駆逐隊を編成する[7][56]。 初代第32駆司令は、白露型駆逐艦夕立初代艦長[57]や陽炎型駆逐艦時津風初代艦長[58]等を歴任した中原義一郎大佐(海軍兵学校48期[59][60](7月8日まで第24駆逐隊司令)[61]

翌8月21日、駆逐艦4隻(響〔旗艦〕、涼波、藤波、早波)は戦艦山城(横須賀在泊)の内海西部回航を護衛するため[62]、島風型駆逐艦島風の訓練に協力しつつ[63]横須賀に回航[64][49]。8月22日、同地着[65][49]。 8月26日、5隻(山城〔第11水雷戦隊旗艦〕[66]、響、涼波、藤波、早波)は横須賀を出発[67][68]。 8月27日、瀬戸内海に到着した[69][70]。 その後も、第十一水雷戦隊各艦は訓練を実施[71][72][73]

9月30日付で、第32駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官高間完少将〈海軍兵学校41期〉)[74][75]に編入される[44][76]。 引き続き第十一水雷戦隊の指揮を受けた[77]

10月1日、第32駆逐隊に夕雲型9番艦玉波(玉波艦長青木久治中佐、海兵50期[78]が編入され、32駆は夕雲型駆逐艦4隻(涼波、藤波、早波、玉波)を揃えた[79][80]。ただし玉波は空母隼鷹等を護衛しており、32駆本隊とは別行動である[81]

昭和18年下旬の行動

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9月上旬、大本営は中部太平洋方面の防備を増強すべく、日本陸軍第52師団の派遣を決定する[82]。この中から一部兵力(甲支隊)を海上機動兵団としてトラック泊地方面に配置し、連合艦隊との協同訓練に任ずる事とした[83]。甲支隊(歩兵第107連隊、支隊長は山中萬次郎陸軍大佐)の第一次輸送部隊は、空母隼鷹や軽巡洋艦木曾多摩等により、トラック泊地およびポナペ島へ進出した[84][8]

9月下旬、連合艦隊は戦艦山城伊勢および第十一水雷戦隊により丁三号輸送部隊を編成した[85][86]。 甲支隊の第二次輸送部隊(歩兵第107連隊第3大隊や機関銃・野砲中隊など、合計2000名)を輸送することになった[87]。 10月13日から14日にかけて、甲支隊は宇品(広島県)で各艦に分乗する[88]。 翌15日、丁三号輸送部隊(山城〔第十一水雷戦隊旗艦〕、伊勢、龍田、早波、涼波、藤波)は佐伯および豊後水道を出撃した[89][90]。 10月20日、トラック諸島に到着する[91][92][93]。戦艦搭載の物件を各艦と輸送船4隻に移載した[89][94]。 第十一水雷戦隊(龍田、早波、涼波、藤波)は三回次にわたりポナペ輸送を実施した[88]

10月28日、丁三号輸送部隊は解散[89]。同日附で第32駆逐隊は第二水雷戦隊に復帰する[95][86]。遊撃部隊警戒隊所属[96]。 第十一水雷戦隊(龍田、山城、伊勢)は空母隼鷹雲鷹等と共に内地へ戻った[89]。 第32駆逐隊(早波、涼波、藤波)は10月29日に高間完少将(第二水雷戦隊司令官)の[97]、10月30日に栗田健男中将(第二艦隊司令長官)の視察を受ける[98]。 10月31日時点の第二水雷戦隊は、阿賀野型軽巡洋艦能代(旗艦)と島風型駆逐艦島風、第24駆逐隊(海風涼風満潮)、第27駆逐隊(時雨五月雨白露)、第31駆逐隊(大波巻波長波)、第32駆逐隊(早波、涼波、玉波、藤波)で編制され、各地に分散して行動していた[99][93]

11月3日、第二水雷戦隊(能代、涼波、藤波、早波、玉波)は[100]、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊(愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄摩耶鳥海鈴谷最上筑摩)と共にトラック泊地を出撃[101][102][103]ラバウルへ進出する[104][105]。 途中、日章丸(昭和タンカー、10,526トン)がカビエン北方約180浬地点で空襲を受けて損傷し、鳥海と涼波が遊撃部隊から分離して救援に向かった[106][107]

11月5日、第38任務部隊フレデリック・シャーマン少将)はラバウルに対する空襲を敢行した[108]ラバウル空襲[109]。同日朝6時頃にラバウルへ到着したばかりの栗田艦隊は大打撃を受けた[10]。特に摩耶は直撃弾により機関部で火災が発生、航行不能となった[10][110]。藤波には魚雷1本が命中したが、不発だった(戦死1名、負傷9名)[105]。 南東方面部隊指揮官は[注 2]、ラバウル移動中の鳥海と涼波を含めてラバウル所在の重巡洋艦部隊にトラック泊地への撤退を命じた[111]。栗田艦隊はトラック泊地へ帰投し、修理を必要とする藤波は摩耶等とラバウルに残留した[105][112]。同時期、ブーゲンビル島タロキナ岬に対する逆上陸作戦が実施されたが、藤波は修理のため参加できなかった[113]

11月11日早朝、第50.3任務群(アルフレッド・E・モントゴメリー少将)の増援を受けたアメリカ軍機動部隊は、第2回目のラバウル空襲を敢行した[114][115]。 第二水雷戦隊(能代、第31駆逐隊〈大波、長波、巻波〉、第32駆逐隊〈早波、涼波、玉波、藤波〉)はろ号作戦協力のため出動準備を整えていたが[116]、アメリカ軍機動部隊の空襲を予期し[117]、空襲警報を受けてスコールにまぎれながらラバウル港外に脱出しつつあった[118]。 このラバウル空襲で軽巡洋艦阿賀野が魚雷命中により艦尾切断の損害を受けた[118]。 また涼波が沈没している[107][9]長波(第31駆逐隊)も大破し[119][120]、 他数隻に軽微な被害があった[118]

南東方面艦隊の下令によりラバウル在泊艦艇(能代、阿賀野、摩耶[121]長鯨[122]浦風若月風雲、早波、藤波、五月雨)[123][124]はトラック泊地に撤退する[118][125]。 退却の途中、アメリカ潜水艦スキャンプの雷撃で阿賀野が航行不能となった[126]。第二水雷戦隊(能代、早波、藤波)は摩耶・長鯨護衛を中断、トラック泊地から来た応援艦(長良、涼月、初月)と共に阿賀野と浦風の救援にあたった[105][118][127]

一連の経過により、ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、巻波、長波)となった[128]。このうち大波[129]と巻波[130]も11月24日のセント・ジョージ岬沖海戦で沈没し[131][132]、航行不能の長波のみラバウルに取り残された[133]。 また涼波沈没により第32駆逐隊は3隻編制となったが[134][135]、12月15日附で夕雲型13番艦浜波(舞鶴海軍工廠で建造、10月15日竣工[23]。駆逐艦長本倉正義中佐、海兵51期[37])を編入し、定数4隻を回復した[136][137]

トラックに帰投後の第二水雷戦隊(能代、早波、藤波)はクェゼリン環礁およびウォッジェ環礁への緊急輸送作戦に参加した[105][138][139]。 輸送作戦終了後の12月4日、遊撃部隊と分離してサイパン島への輸送に従事[138][140]。 サイパン島とトラック間での船団護衛を行った[141][140]。 12月24日、トラック泊地到着[140][142]。 本艦が船団護衛任務従事中の12月15日、第二水雷戦隊司令官高間完少将は第十一水雷戦隊司令官へ転任[143][144]。後任の二水戦司令官は、戦艦長門艦長早川幹夫少将[注 3][143][144]

12月中旬、大本営は独立混成第一聯隊(聯隊長は坂本康一陸軍大佐、約2900名)を南東方面に派遣し、ニューアイルランド島の防備を固めることにした[145]。この輸送は「戊号輸送」と呼ばれた[146][147]。 12月23日-24日、陸軍部隊を輸送するため、第五戦隊司令官橋本信太郎少将が指揮する戊二号輸送部隊は呉を出撃した[148][149]。 ところが、駆逐艦時雨(第27駆逐隊司令原為一大佐)が漁船と衝突し修理のため引き返した[150][151]。 藤波は時雨の代艦として戊二号輸送部隊に編入[150]、サイパン方面対潜掃蕩任務を僚艦島風(第二水雷戦隊)に引き継ぐ[152][140]。トラック泊地を出動した藤波は、28日に戊二号輸送部隊と合流した[140]。 12月29日[153][154]、藤波を加えた戊二号輸送部隊はトラック泊地に到着する[155][140]

昭和19年初頭の行動

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1944年(昭和19年)1月2日、戊号二号輸送部隊はトラック泊地を出撃した[156][157]。部隊編成は重巡3隻(妙高、羽黒、利根)と駆逐艦2隻(白露、藤波)であった[158][159]。 4日カビエンに到着[160][161]。 同部隊は第22駆逐隊(文月皐月)の支援を受けていた[150][162]。アメリカ軍機動部隊艦載機約80機は利根以下戊二号輸送部隊を発見できず[150]、第22駆逐隊(皐月、文月)を襲撃する[163]。両艦とも損傷した[164]。 1月5日、戊二号輸送部隊は被害なくトラック泊地に戻った[150][165]

1月10日、藤波と満潮(第24駆逐隊)は大和型戦艦大和[注 4]を護衛してトラックを出港した[166]。1月15日[167]に帰投した[168][169]。 藤波は呉で整備に従事する[170][168]。 続いて、横須賀行きの第130乙船団を護衛した[171][172]

2月4日から、藤波は第二海上護衛隊の指揮下に入る[172]。日本陸軍第52師団[12](通称号「柏」、師団長麦倉俊三郎陸軍中将)の主力第二梯団(歩兵第150聯隊〈第3大隊欠〉、歩兵第69連隊〈第2大隊〉、師団直轄部隊の主力、戦車隊など)のトラック泊地進出を護衛することになった[173][174]。歩兵第150聯隊の聯隊長林田敬蔵大佐と聯隊軍旗は、藤波に乗艦した[175][176]。 第二梯団は輸送船2隻(暁天丸、辰羽丸)に分乗、さらに輸送船(隆興丸、瑞海丸、新京丸)と船団を組む[175][176]。護衛部隊は駆逐艦藤波と澤風、海防艦天草、第31号駆潜艇であった[176]

2月4日、第3206船団[172]として横浜港を出発するが、悪天候のため館山に避泊、あらためて2月6日に館山を出港した[175][177]。 トラックを目前にした2月16日午前2時30分頃[178]、3206船団はアメリカ潜水艦タング[179]の攻撃を受けて暁天丸(拿捕船、6,854トン)が沈没した[180][181]。 藤波は人員救助と対潜掃討をおこない、人員1800名を救助した[182]。船団に合流してトラック西方沖に到達した所で2月17日トラック島空襲に遭遇する[183]第58任務部隊マーク・ミッチャー中将[184]から飛来してきた艦載機群は、船団を攻撃[176][185]。 辰羽丸(辰馬汽船、5,784トン)[186]、 瑞海丸(東亜海運、2,812トン)[187]を失った[178][172]。第二梯団の戦死者は約700名で、戦車・工作車両など全装備を喪失[178]。人員の一部は新京丸に救助されてサイパンへ避退した(3月2日、新京丸はトラック再進出中に潜水艦雷撃で沈没)[178][176]。 2月18日、藤波はトラックに到着した[172][188]。第二梯団の生存者1800名は丸腰で同地に上陸した[178]。 2月19日から20日、藤波は峯風型駆逐艦秋風と共に[189]パラオに下がる工作艦明石と標的艦波勝を護衛してトラックを出港した[185][172][190]。途中合流の白露型駆逐艦春雨(第27駆逐隊)を加え[191]、2月24日パラオに到着した[192][172]。しばらくパラオで待機する[193][194]

しかし、パラオにもアメリカ機動部隊の空襲の危機(パラオ大空襲)が迫ってきた[195]。3月29日、第二艦隊(司令長官栗田健男中将・海兵38期)麾下の第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海)や第二水雷戦隊(春雨、白露、満潮、藤波)、戦艦武蔵[注 5][196]と第17駆逐隊(浜風谷風浦風磯風)はパラオを出港した[197][198]。 しかし、出港直後に第17駆逐隊が護衛していた武蔵が[199][200]、アメリカ潜水艦タニーの雷撃で損傷した[201][196]。 駆逐艦3隻(藤波、満潮、白露)は第17駆逐隊と武蔵護衛任務を交代する[202]。4隻(武蔵、白露、藤波、満潮)は艦隊から分離して内地へ向かう[203]。古賀長官が殉職した海軍乙事件[204]後の4月3日、武蔵以下4隻は呉へ帰投した[195][205]

4月15日、第32駆逐隊司令は中原義一郎大佐[注 6]から折田常雄大佐[注 7]に交代した[210]

同時期、大本営は日本陸軍(第32師団第35師団)をフィリピンとニューギニア島西部のマノクワリに輸送し、豪北方面を増強しようとした[211][212]。作戦名を竹輸送[212]、船団名を竹船団と呼称する[14]。上海からマニラまでは海上護衛総司令部部隊の護衛担任、マニラからニューギニア方面は連合艦隊の護衛担任であった[213][214]

4月14日、二水戦の駆逐艦2隻(藤波、白露)は第一海上護衛隊各艦(白鷹、倉橋等)と共に「竹・モタ07船団」を護衛して門司を出撃、船団訓練のため鎮海に滞在したあと、上海に移動[215][216][217]。 竹一船団の護衛に就く[218]。 4月21日、第六護衛船団司令官梶岡定道少将(旗艦、白鷹)指揮下の竹船団は護衛艦(敷設艦〈白鷹〉、駆逐艦〈朝風白露藤波〉、海防艦3隻、掃海艇、砲艦、駆潜艇〔途中交代艦あり〕)[219][220]、輸送船計16隻(戦史叢書46巻による)という編成で上海沖合を出撃した[214][215]。 一部艦艇は高雄台湾)に寄港後、マニラに向けて航海を続ける[216][217][221]4月26日未明、ルソン島北西部で米潜水艦ジャックが竹船団を襲撃、第一吉田丸(山下汽船、5,425トン)が沈没する[注 8][222][223]。 4月27-28日、船団はマニラに到着した[216][217][221]

ここで護衛分担がかわり(上述)、護衛艦艇は敷設艦2隻(白鷹〔船団旗艦〕、蒼鷹[224]、駆逐艦3隻(五月雨〔5月4日合流〕[225]、白露、藤波)、駆潜艇、哨戒艇2隻(102号104号)となる[226][13]。 5月1日、竹船団はマニラを出発[213][227]。5月6日、セレベス海で米潜水艦ガーナードの襲撃により亞丁丸(大洋興業、5,823トン)[228]、但馬丸(日本郵船、6,995トン)[229]、天津山丸(三井船舶、6,886トン)[230]が沈没した[注 9][227]。 輸送船3隻を喪失した竹船団は西部ニューギニアへの輸送を諦めてスラウェシ島北端のバンカ泊地に避泊し[231]、5月9日にハルマヘラ島のワシレに陸軍部隊を揚陸した[227]。竹輸送の失敗は大本営に衝撃を与え[232]、ニューギニア方面作戦に重大な影響を与えた[233]。 5月11日、3隻(藤波、白露、五月雨)は船団護衛任務を解かれ、5月13日にはバリクパパンに移動する[234][235]。それぞれ別行動となり、藤波は5月18日タウイタウイ到着、第二艦隊に合流する[235]

昭和19年中旬の行動

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6月6日深夜、タウイタウイ近海で駆逐艦水無月(第22駆逐隊)が対潜攻撃中に消息不明となり[注 10][15][236]、駆逐艦早波(第32駆逐隊司令駆逐艦)は捜索と対潜哨戒のため出動したが[237]6月7日昼頃、アメリカ潜水艦ハーダーに撃沈された[16][238]。 第32駆逐隊は3隻(藤波、浜波、玉波)編成となった[239]。 また早波沈没時に艦長の清水逸郎中佐[240]と折田大佐(第32駆逐隊司令)が戦死した(折田大佐は海軍少将に進級)[241][242]。第32駆逐隊は、一時駆逐隊司令不在となった。そこで玉波艦長青木久治中佐(海兵50期)[78]が6月15日附で第32駆逐隊司令に転任[243]。早波艦長として着任予定だった千本木十三四中佐(海兵52期)[32]が玉波艦長となった[243]

6月19日のマリアナ沖海戦では[244]、機動部隊丙部隊(第三航空戦隊、第二艦隊主力)に所属して第二艦隊司令長官栗田健男中将(愛宕座乗)の指揮下で連合軍と交戦する(編成と戦闘経過については当該記事を参照)。 マリアナ沖海戦(あ号作戦)は日本海軍の大敗で終わる[245][246]。 前衛部隊では6月20日の戦闘において千代田、榛名、摩耶に爆弾命中や至近弾による損害があった[247][248]。 日本艦隊は6月22日に中城湾に入港[249][250]。翌23日、第32駆逐隊(玉波、藤波)は中城湾を出港、6月25日にマニラに到着した[251]。さらに昭南(シンガポール)に回航された[251]

7月2日以降、軽巡洋艦北上と第32駆逐隊(玉波、藤波)は[252][253]、シンガポールからマニラ経由で日本に向かう旭東丸飯野海運、10,051トン)の護衛に従事した[254][255]。 7月7日未明、マニラ到着を目前にアメリカ潜水艦ミンゴ[15]の雷撃で玉波が沈没した[18][17](青木32駆司令戦死、千本木艦長戦死)[256][257]。 第32駆逐隊は夕雲型2隻(藤波、浜波)となった[258]。 同日、北上以下船団はマニラに到着[17][259]。北上は修理のためマニラに残留した[260][261]。 7月10日、駆逐艦藤波、夕凪[262]、旭東丸と速吸を護衛してマニラを出港[20]。5隻(旭東丸、速吸、藤波、響、夕凪)はサンベルナルジノ海峡を経由して[263]、7月17日に呉に帰投した[264]

8月8日、空母大鷹[265][266]駆逐艦藤波、夕凪海防艦複数隻平戸倉橋御蔵昭南、第11号海防艦とともに、タンカー4隻(速吸帝洋丸〔日東汽船、9,849トン〕、永洋丸〔8,627トン〕、あづさ丸、帝亜丸帝国船舶、元フランス船アラミス/日本郵船委託、17,537トン〕)、陸軍特種船、貨物船、給糧艦伊良湖などからなる重要船団『ヒ71船団』(指揮官:第六護衛船団司令官梶岡定道少将)は門司を出撃[267][268]馬公で加入船の顔ぶれを少し改める[269]第一海上護衛隊の護衛艦艇5隻(佐渡松輪日振択捉朝風)を加え、8月17日朝に出港した[267][265]8月18日朝、被雷した永洋丸と同船護衛を命じられた夕凪が分離する[265][270]。 つづいて同日夜、バシー海峡からルソン島沿岸に至るまでの間にアメリカ潜水艦ラッシャーブルーフィッシュスペードフィッシュの猛攻を受け、大鷹[21]・速吸・帝亜丸・帝洋丸・陸軍特種船玉津丸大阪商船、9,589トン)が沈没して[271][272]、ヒ71船団は大混乱に陥った[22][270]。さらに対潜掃蕩に従事していた海防艦3隻(佐渡、松輪、日振)も、マニラ沖合で米潜水艦に撃沈された[267]。 藤波もなんとかマニラに到着して船団を再構成し、8月25日-26日に出港した[267]。しかし、マニラから新たに加わったタンカー旭邦丸(飯野海運、10,059トン)が故障を起こして船団から一時脱落し、再合流するまで「旭邦丸」の護衛にあたった[273]。船団は9月1日に昭南に到着し[267][273]、藤波はその後リンガ泊地で第二艦隊に合流した[18]

藤波航海中の8月25日、駆逐艦五月雨の座礁放棄のため(総員退去は8月26日)[274]時雨単艦となった第27駆逐隊より、同駆逐隊司令大島一太郎大佐(海兵50期)が第32駆逐隊司令に任命される[275][78]。当時の第32駆逐隊は前述のように消耗を続け、夕雲型2隻(浜波、藤波)だけになっていた[276]

レイテ沖海戦

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10月18日、捷一号作戦発動に伴って、第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦愛宕)を指揮官とする第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊 )はリンガ泊地から出動した[277]ブルネイ湾で補給の後[278]、10月22日に出撃した[279][280]レイテ沖海戦における第32駆逐隊(浜波、藤波)は、第一遊撃部隊第一部隊に所属していた。第一部隊の編成は、第四戦隊(愛宕〔第二艦隊/第一遊撃部隊旗艦〕、高雄、鳥海、摩耶)、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、第五戦隊(妙高、羽黒)、第二水雷戦隊(能代〔旗艦〕、島風、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波、朝霜、長波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉)であった[281][282]10月23日、アメリカ潜水艦ダーターデ―スの襲撃により第四戦隊の高雄型重巡洋艦3隻は愛宕と摩耶が沈没、高雄が大破した[283][284]。高雄および護衛の朝霜と長波はブルネイに向け退避を開始する[285]。 残存した鳥海は第五戦隊(司令官橋本信太郎少将)の指揮下に入った[286]。 また愛宕脱出後の栗田艦隊司令部(栗田長官、小柳冨次参謀長等)は岸波を経て大和(第一戦隊旗艦)に移乗、同艦より指揮をとる[287][288]

10月24日のレイテ沖海戦・シブヤン海空襲では栗田長官(大和座乗)の第一部隊としてアメリカ軍機と交戦した[289][290]。武蔵が沈没し[291]、3隻損傷離脱(妙高、浜風、清霜)という損害を受けた[292][293]

10月25日朝、第一遊撃部隊(栗田艦隊)は、サマール島沖で米軍機動部隊(護衛空母部隊)を追撃する[294]サマール島沖海戦[295]。 戦闘開始時の第一遊撃部隊は第一戦隊(大和〔第二艦隊旗艦〕、長門)、第三戦隊(金剛榛名)、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(熊野鈴谷筑摩利根)、第二水雷戦隊(軽巡〈能代〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型〈島風〉)、第十戦隊(旗艦〈矢矧〉、第4駆逐隊〈野分[注 11]、第17駆逐隊〈浦風雪風磯風〉)であった[296][297]

一連の戦闘により栗田艦隊では重巡洋艦3隻(鈴谷、筑摩、鳥海)が航行不能となり[298][299]、熊野と早霜が大破して戦場を離脱した[26]。 沖波は鈴谷救援[300]野分は筑摩救援[301][302]、藤波は鳥海救援を命じられ、それぞれ損傷各艦に向かった[24][303]。 同時刻、護衛空母ガンビア・ベイが栗田艦隊の砲撃を受けて沈没した[304]。ヒューグ大佐(ガンビア・ベイ艦長)以下脱出者は空襲を受けて漂流する巡洋艦と護衛の駆逐艦を目撃している[305]。 なお鳥海は低速ながら自力航行可能となり、2隻は北緯11度35分 東経126度05分 / 北緯11.583度 東経126.083度 / 11.583; 126.083地点まで到達した[24]。 19時17分、第一遊撃部隊指揮官(栗田中将)は、航行不能艦の処分許可と警戒艦のコロン湾回航を命じる[306][307]。 藤波は鳥海の乗組員を救助後[26][308]、夜になり鳥海に対する雷撃処分を実施した[25][309]。巡洋艦が沈没する様子はガンビア・ベイ生存者も目撃していたが[310]、鳥海は自力航行可能となってサマール沖海戦の現場からは若干移動している。 藤波は栗田艦隊本隊から落伍しつつ、重巡熊野警戒艦に指定され[311][312]コロン島に帰投することとなった[313]。 翌日以降、藤波と野分は撃沈されて4隻(鳥海、筑摩、藤波、野分)[313]とも全乗組員が戦死[注 12]、このため各艦がどのようにして沈没したのか、詳細は不明である[314][315]

沈没

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沖波・鈴谷生存者の記録によれば、藤波の沈没状況は以下のとおりである。 10月26日14時、救助した鈴谷乗組員(約400名)を満載して単艦航海中の駆逐艦沖波は、セミララ島(ミンドロ島南方)に座礁した姉妹艦早霜を発見して接近した[1][316]。 沖波は乏しい燃料の中から早霜に対し燃料補給を開始する[1][316]。 この時、早霜と沖波は、藤波が約10km程沖合を西方向に航行するのを発見した[1]。14時30分、藤波は空襲を受け早霜と沖波の目前で轟沈した[1]。藤波・鳥海ともに1人の生存者もいなかった[315]。またアメリカ軍機も2隻を襲ってきたため、沖波は横付を離して回避に転じ[316]、単艦でコロン島へ向かった[317]。 同時刻、ミンドロ島南方では熊野が空襲を受け航行不能となっていた[318][28]。熊野からは新たに出現した敵機約40が同艦には近づかず、水平線上の別目標に急降下爆撃を行う光景が見えたという[319]

こうして藤波・鳥海乗組員は全滅した。同様に、筑摩の乗組員を救助して退避中の野分もハルゼー提督直率の米水上艦隊に捕捉され撃沈された[320][321][315]

同日日没時、第十六戦隊(鬼怒浦波)救援のため駆逐艦不知火(第一水雷戦隊、第18駆逐隊)はコロン湾を出撃する[322][323]10月27日、不知火はセミララ島近海で擱座した早霜を発見[324]、救援中にアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて撃沈された[注 13][325][326]。一部文献では、藤波は早霜を救援しようと試みた結果10月27日[27]になって不知火と共に撃沈されたとする[325]

11月15日、第32駆逐隊は解隊された[327]

12月10日、藤波は夕雲型駆逐艦[328]、 帝国駆逐艦籍[329]より除籍された。

歴代艦長

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艤装員長
  1. 松崎辰治 中佐:1943年7月1日[31] - 1943年7月31日[34]
駆逐艦長
  1. 松崎辰治 中佐:1943年7月31日[34] - 1944年10月27日 戦死、同日付任海軍大佐[330]

参考文献

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    • 『昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030685100。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年12月31日 聖川丸戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030649400。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(6)』。Ref.C08030570200。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(1)第1戦隊』。Ref.C08030039100。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(2)第5戦隊』。Ref.C08030039200。 
    • 『S士官の手記 史実調査部/沖波戦闘行動関係』。Ref.C14061106300。 
    • 『S士官の手記続篇史実調査部』。Ref.C14061106400。 
    • 『昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報.第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(1)』。Ref.C08030714600。 
    • 『昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報.第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(2)』。Ref.C08030714700。 
    • 『昭和19年10月17日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(比島方面決戦)(1)第十戦隊』。Ref.C08030037400。 
    • 『昭和19年10月17日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(比島方面決戦)(2)第十戦隊』。Ref.C08030037500。 
    • 『昭和19年10月17日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(比島方面決戦)(3)第十戦隊/第十六戦隊』。Ref.C08030037600。 
    • 『昭和19年5月1日~昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030572600。 
    • 『昭和19年10月 昭和19年12月レイテ作戦 第3/4.輸送作戦』。Ref.C14061135000。 
    • 『昭和19年9月1日~昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030087400。 
    • 『昭和16年~20年 喪失船舶一覧表(1)』。Ref.C08050099900。 
    • 『昭和16年~20年 喪失船舶一覧表(2)』。Ref.C08050010000。 
    • 『昭和16年~20年 喪失船舶一覧表(3)』。Ref.C08050010100。 
    • 『昭和16年~20年 喪失船舶一覧表(4)』。Ref.C08050010200。 

脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ この出撃時における主力部隊の編成は、戦艦3隻(大和長門扶桑)、空母大鷹[50]、巡洋艦3隻(愛宕高雄能代)、駆逐艦部隊(涼風海風秋雲夕雲若月天津風初風)。
  2. ^ 南東方面部隊指揮官は、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将。草鹿中将は、南東方面艦隊司令長官と第十一航空艦隊司令長官を兼任する。
  3. ^ 早川少将は、第一次ソロモン海戦時の重巡鳥海艦長であった。
  4. ^ 大和は前年12月25日に米潜水艦スケートの雷撃を受け、小破していた。
  5. ^ この時の武蔵は、連合艦隊旗艦。連合艦隊長官古賀峯一大将、参謀長福留繁中将はパラオ陸上に残留した。
  6. ^ 中原大佐は5月8日附で軽巡洋艦長良艦長となるが[206]、8月7日の長良沈没時に戦死した[207]。海軍中将[208]へ特進した。
  7. ^ 折田大佐は、秋月型駆逐艦照月[209]沈没時の艦長であった。
  8. ^ 第一吉田丸の沈没により、戦死約2000名以上、生存者700名余。
  9. ^ 亜丁丸、但馬丸、天津山丸の沈没により合計8000名が遭難し、約6000名が救助された。
  10. ^ 水無月は潜水艦ハーダーの雷撃で撃沈された。
  11. ^ 本作戦において、野分は第17駆逐隊司令の指揮下で行動した。
  12. ^ 野分乗組員全滅。筑摩乗組員も、航空機搭乗員以下数名をのぞき全員戦死。
  13. ^ 第18駆逐隊司令井上良雄(海軍軍人)大佐および不知火全乗組員が戦死した。

出典

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  1. ^ a b c d e #S士官の手記続編p.7『(ホ)筑摩、野分、鳥海、藤波ノ消息ニ關シ 2000/10 25沖波北上中「サマール」接岸ニテ二隻航行中ナリシヲ認メタリ速力10k?ト認メタリ右ハ筑野ナルヤ鳥藤ナルヤ不明 1000/25集結時鳥海ハ「出シ得ル速力16k」更ニ「出シ得ル速力8k」ノ信號アリ又筑摩ハ「我航行不能」ノ信號アリ 1400/26「ミンドロ」島前方「セミララ」島海岸ニ於テ沖波ハ早霜ニ重油50Tヲ補給中「ミンドロ」島寄リニ藤波ノ西航スルヲ認メ(約一〇〇〇〇米)タルモ1430/26敵fbノ攻撃ヲ受ケツツアリシヲ確認間モナク轟沈ラシキ火焔黒煙ヲ認メタリ當時藤波ハ單艦ニシテ既ニ鳥海ハ藤波魚雷ニテ處分シアリキ』
  2. ^ 戦藻録 1968, pp. 428a-429十月廿六日 木曜日 晴 決戰第三日(略)損傷に依り自力馬尼剌に向ひつゝありし熊野はミンドロ島西岸に於て敵機の攻撃を受け損傷増加し、警戒に當れる驅逐艦も鳥海生存者と共に沈没するに至れり。
  3. ^ a b c d e 山本ほか、秋月型 2015, p. 225a藤波(ふじなみ)
  4. ^ #ハンディ判艦艇写真集17(駆逐艦『陽炎型・夕雲型・島風』行動年表)p.137◆藤波◆
  5. ^ a b c d #達昭和18年3月、pp.3-4〔 達第四十二號 昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻、潜水艦二隻、海防艦一隻、驅潜艇二隻及特務艇三隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十八年三月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 藤波(フヂナミ)|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 霜月(シモツキ)|三菱重工業會社神戸造船所ニ於テ建造 呂號第四十一潜水艦、呂號第四十三潜水艦|株式會社大阪鐡工所ニ於テ建造 海防艦 六連(ムツレン)|函館船渠株式會社ニ於テ建造 第四十五號驅潜艇|株式會社新潟鐡工所ニ於テ建造 第四十八號驅潜艇|佐野安船渠株式會社ニ於テ建造 第十九號掃海特務艇|三菱重工業株式會社彦島造船所ニ於テ建造 第二十一號掃海特務艇|株式會社横濱ヨット工作所ニ於テ建造 第十號魚雷艇 〕
  6. ^ a b #S1804十一水戦(2)p.44『三一(天候略)藤波早波當隊ニ編入 旗艦復帰(一五〇〇)』
  7. ^ a b #内令昭和18年8月(3)、p.24〔 内令第千七百七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年八月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第三十二驅逐隊|涼波、藤波、早波| 〕
  8. ^ a b 戦史叢書62 1973, pp. 435a-436甲支隊のポナペ進出
  9. ^ a b 山本ほか、秋月型 2015, p. 224b涼波(すずなみ)
  10. ^ a b c 戦史叢書96 1976, pp. 399–400米空母機による第一次被空襲と被害―十一月五日
  11. ^ 戦史叢書12 1968, p. 66第五十二師団第二次輸送船団
  12. ^ a b 戦史叢書62 1973, pp. 571a-573第五十二師団のトラック進出
  13. ^ a b 戦史叢書12 1968, pp. 466–467竹船団の遭難
  14. ^ a b 戦史叢書54 1972, p. 401a竹船団の遭難
  15. ^ a b c 海上護衛戦(戦史叢書)446-447頁『米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧表』
  16. ^ a b 山本ほか、秋月型 2015, p. 225b早波(はやなみ)
  17. ^ a b c #S1906旭東丸日誌(2)p.10『七(天候略)〇二〇〇玉波分離反転〇二一〇爆雷投射始ム〇三一五玉波ノ位置ニ火焔爆煙ヲ上ルヲ見ル〇三二〇藤波反転玉波ノ現場ニ向フ 〇六〇〇船内哨戒第一配備トナス 〇六一一藤波合同一二〇〇藤波護衛ヲ止メ』
  18. ^ a b c d 戦史叢書37 1970, pp. 386–387第三十二駆逐隊
  19. ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 224a玉波(たまなみ)
  20. ^ a b #S1906旭東丸日誌(2)pp.10-11『十(天候略)〇六二五速吸旭東丸ハ響藤波夕凪ノ護衛ヲ受ケ呉ニ向ケ マニラ發〇八一四速吸故障復旧假泊一四一六速吸故障復旧假泊発(以下略)』
  21. ^ a b 海上護衛戦(戦史叢書)380頁『大鷹(旧名春日丸)(三)ヒ七一船団』
  22. ^ a b 航空母艦物語(野元2013)305-307頁『レーダー像から姿を消す(大鷹VSラシャ―)』
  23. ^ a b 山本ほか、秋月型 2015, pp. 225c-226浜波(はまなみ)
  24. ^ a b c 戦史叢書56 1972, pp. 354–355落伍艦の処置
  25. ^ a b #捷号第1遊撃部隊(2)pp.35-36『藤波(宛略)藤波機密第二六〇四〇〇番電 鳥海全部収容ノ上二一四八廃棄艦ヲ雷撃處分「コロン」ニ向フ 地点ヤヒヤ35針路?速力?|電信』
  26. ^ a b c #捷号第1遊撃部隊(1)p.45『一二〇六|1YB機密二五一二〇六番電 航空攻撃目標竝ニ成果速報アリ度 此ノ日〇七〇〇頃ヨリ一六三〇ニ至ル間十一次ニ亘ル延機数四五〇機ノ熾烈ナル雷爆撃ヲ受ケ熊野鈴谷筑摩鳥海早霜ニ相当ノ損害アリ 当時四周ノ敵情ニ鑑ミ損傷艦ハ極力自力航行ニ努ムルモ見込ナキモノハ艦ヲ處分シ乗員ヲ警戒艦ニ収容ノ上「コロン」ニ向ハシメタリ 即チ熊野早霜ハ單独航行、鈴谷乗員ハ沖波ニ鳥海乗員ハ藤波ニ夫々収容「サマール」島接岸航路ヲ採リ「サンベルナルヂノ」海峡ニ向ヘリ 野分ハ筑摩ノ救援ニ向ハシメタルモ爾後消息不明ナリ』
  27. ^ a b 戦史叢書56 1972, p. 482「藤波」
  28. ^ a b 戦藻録 1968, p. 428b.
  29. ^ #達昭和18年3月pp.2-3『達第四十一號 川崎重工株式會社ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十八年三月五日 海軍大臣嶋田繁太郎 軍艦 大鳳(タイホウ)』
  30. ^ #内令昭和18年3月(1)、pp.44-45〔 内令第三百九十三號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十八年三月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、航空母艦ノ部中「龍鳳」ノ下ニ「、大鳳」ヲ加フ|驅逐艦、一等夕雲型ノ項中「涼波」ノ下ニ「、藤波」ヲ、同秋月型ノ項中「若月」ノ下ニ「、霜月」ヲ加フ|潜水艦、二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十」ノ下ニ「、呂號第四十一」」ヲ、「呂號第四十二」ノ下ニ「、呂號第四十三」ヲ加フ|海防艦、占守型ノ項中「隠岐」」ノ下ニ「、六連」ヲ加フ|驅潜艇、第十三號型ノ項中「第四十四號」ノ下ニ「、第四十五號」「、第四十八號」ヲ加フ 〕
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  35. ^ 昭和18年8月7日(土)海軍公報(部内限)第4460号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070433200 『○事務所撤去 對島艤装員事務所ハ七月二十八日撤去セリ|驅逐艦早波艤装員事務所ハ七月三十一日撤去セリ|伊號第四十潜水艦艤装員事務所ハ七月三十一日撤去セリ|藤波艤装員事務所ハ七月三十一撤去セリ|六連艤装員事務所ハ七月三十一日撤去セリ』
  36. ^ #内令昭和18年7月(6)p.22『内令第千五百五十六號 驅逐艦 藤波 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル|海防艦 六連 右本籍ヲ呉鎮守府ト定メラル|呉鎮守府在籍 海防艦 六連 右警備海防艦ト定メラル|昭和十八年七月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  37. ^ a b c 大正12年07月16日 官報第3288号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ2清水逸郎(補少尉候補生)〈371中段〉・本倉正義(補少尉候補生)〈371下段〉、コマ3神山補少尉候補生〈372中段〉
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  40. ^ #S1804十一水戦(2)p.24『(三)作戰指導其ノ他 主トシテ内海西部ニ在リ全作戰支援竝ニ新造驅逐艦ノ急速練成戰備促進諸訓練ノ指導護衛ニ從事』
  41. ^ #S1804十一水戦(2)p.35『二七日一六一三軍令部総長(宛略)昭和十八年度帝國海軍編制中左ノ通改定セラル 七月二十七日附涼波ヲ11sdニ編入』
  42. ^ #S1807舞鎮日誌(1)p.87『廿七日一六三一總長(宛略)二十七日附 戰時編制中改定 涼波ヲ第十一水雷戰隊ニ編入』
  43. ^ #S1804十一水戦(3)pp.3-4『備考 6dg(響缺)内南洋部隊ニ編入中 響ハ八月三日附北方部隊ヨリ復帰ス』
  44. ^ a b c #S1804十一水戦(4)p.4『備考 6dg(響缺)内南洋部隊ニ編入中/霞 九月一日附9dgニ編入/山雲 九月十五日附4dgニ編入/32dg 九月三十日附2sdニ編入』
  45. ^ #S1804十一水戦(3)p.19『十五日〇〇〇〇大臣(宛略)十五日附駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 第六十一駆逐隊ノ項中ニ若月ヲ加フ』
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  50. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.51『一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略)』
  51. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.4『(三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着』
  52. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.60『二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)11dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五』
  53. ^ #S1804十一水戦(3)p.18『十四日一五〇〇11sd司令官(宛略)機密第一四一五〇〇番電 信電令作第九號 一.早波涼波藤波霞ハ先任指揮官之ヲ指揮シ明後十六日徳山ニ於テ燃料補給ノ上十七日天明時ヨリ日没時迄沖ノ島ノ五〇浬圏内主力部隊出撃航路附近ノ敵潜相当ヲ實施スベシ/二.右任務終了セバ徳山錨地ニ入泊スベシ』
  54. ^ #S1804十一水戦(3)p.20『十六日0600早波駆逐艦長(宛略)早波涼波藤波霞徳山経由豊後水道沖ニ向ケ桂島発』
  55. ^ #S1804十一水戦(3)p.36『一八(天候略)〇二〇〇霞早波藤波涼波徳山着 一〇〇〇響呉発一五三〇徳山着|旗艦ヲ響ニ変更ス』
  56. ^ #S1804十一水戦(3)pp.22-23『二十日〇〇一一大臣(宛略)二十日附 一.駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 第三十一駆逐隊ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ 第三十二駆逐隊 涼波 藤波 早波/二.以下省略』
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  60. ^ 昭和18年8月21日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1196号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072092600 
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  62. ^ #S1804十一水戦(3)p.20『十七日一〇二六番電1F長官(宛略)一.山城ハ水上訓練部隊指揮官ノ定ムルトコロニ依リ内海西部ニ回航所定ノ任務ニ從事スベシ/二.第十一水雷戰隊司令官ハ之ガ護衛ニ任ズベシ』
  63. ^ #S1804十一水戦(3)p.36『二一(天候略)響32dg0630出港引続キ出撃横須賀ニ向フ|響32dg魚雷発射 島風研究発射側方警戒 敵潜掃討』
  64. ^ #S1804十一水戦(3)p.23『二十一日一三四三11sd司令官(宛略)響、三十二駆ヲ率ヰ横須賀ニ向ケ内海西部発』
  65. ^ #S1804十一水戦(3)p.24『二十二日一三四五11sd司令官(宛略)當隊(響、三十二駆)横須賀着』
  66. ^ #S1804十一水戦(3)p.26『二十六日〇八〇五11sd司令官(宛略)将旗ヲ一時山城ニ移揚セリ』
  67. ^ #S1804十一水戦(3)p.27『二十六日一二三二11sd司令官(宛略)山代響第三十二駆逐隊ヲ率ヰ内海西部ニ向ケ横須賀発』
  68. ^ #S1804十一水戦(3)p.37『二六(天候略)〇九〇〇響32dg山城一二三〇横須賀発|山城護衛ノ爲響32dg出撃』
  69. ^ #S1804十一水戦(3)p.27『二十七日二一四〇11sd司令官(宛略)山城響32dgヲ率ヰ内海西部着』
  70. ^ #S1804十一水戦(3)p.37『二七(天候略)響32dg二一三〇桂島着|山城護衛出撃響32dg』
  71. ^ #S1804十一水戦(3)p.37『三〇(天候略)響〇七三〇桂島出港 32g一二三〇出港 八島一八二〇假泊|響曳的艦 32dg主砲晝間射撃』-『三一(天候略)〇七三〇響32dg八島出港 響徳山入港一七五〇 山雲横須賀発一六〇〇|響32dg対空射撃 對空戰斗教練( ) 山雲出撃護衛』
  72. ^ #S1804十一水戦(4)p.5『(四)麾下艦船ノ行動』
  73. ^ #S1804十一水戦(4)p.28『二二|八島|龍田三十二駆八島發(〇六三〇)|龍田三十二駆對空射撃 三十二駆昼間教練射撃』
  74. ^ 大正2年12月20日 官報第420号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ3高間補少尉候補生〈501上段〉
  75. ^ #S1806二水戦日誌(3)p.14『(一)司令部(イ)職員官氏名』
  76. ^ #S1806二水戦日誌(3)p.13『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  77. ^ #S1806二水戦日誌(3)p.10『(8)32dg(早波涼波藤波)三十日附2sdニ編入同日附YBヨリ除カレ丁三號輸送部隊ニ編入引續キ11sd司令官ノ指揮ヲ受ク』
  78. ^ a b c 大正11年6月2日(金)官報第2949号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ14大島一太郎補少尉候補生〈58中段〉、青木久治補少尉候補生〈59中段〉
  79. ^ #内令昭和18年10月(1)p.11『内令第二千三十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月一日海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、五月雨」ヲ加フ|第三十二驅逐隊ノ項中「早波」ノ下ニ「、玉波」ヲ加フ』
  80. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.2『(イ)一般(略)一日附玉波32驅ヘ五月雨27驅ヘ編入セラル』
  81. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.8『玉波 一日附三二驅ニ編入隼鷹他二隻ヲ護衛四日内海西部五日呉着十三日呉發シ佐伯ニ回航十四日隼鷹雲鷹ヲ護衛同發十九日「トラツク」着爾後「トラツク」ニ在リテ待機』
  82. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 147a-148第五十二師団の動員と甲支隊の派遣/第五十二師団の動員
  83. ^ 戦史叢書06 1967, p. 147b.
  84. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 148–149甲支隊第一輸送部隊ポナペ島へ前進
  85. ^ #S1804十一水戦(5)p.3『(二)我軍ノ状況 九月二十六日聯合艦隊機密第二四二一五一番電ニ依リ第十一水雷戰隊(龍田)第三十二驅逐隊((司令)早波涼波藤波)山城伊勢ヲ以テ丁三號輸送部隊ヲ編成セラル 丁三號輸送部隊ハ九月二十八日呉入港戰備作業(山城十月八日入渠同十二日出渠)補給訓練(龍田伊勢ハ十月七・八日伊勢灘出動)ニ從事シタル後伊勢ハ十月九日龍田第三十二驅逐隊ハ同十二日山城ハ同十三日夫々宇品ニ回航 陸軍山中部隊ノ一部二,四三〇名及附随物件二,四五七立米ヲ収容シ佐賀関沖ニ集結ヲ完了ス』
  86. ^ a b #S1806二水戦日誌(4)p.8『(4)第三十二驅逐隊(早波涼波藤波)内海西部ニ在リテ待機整備(出撃準備)十二日宇品ニ回航丁三號輸送部隊ニ編入十三日佐伯ニ回航十五日同發二十日「トラツク」着陸軍甲支隊ヲ移載「ポナペ」ニ向ケ「トラツク」發二十三日「ポナペ」着即日同發二十四日「トラツク」着二十六日早波涼波第二次「ポナペ」輸送ノ爲「トラツク」發二十七日「ポナペ」着即日同發二十八日「トラツク」着同日附畫艦共YB警戒隊ニ編入』
  87. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 151–152甲支隊ポナペ島の配備を終わる
  88. ^ a b 戦史叢書62 1973, pp. 435b-436.
  89. ^ a b c d #S1804十一水戦(5)p.4『本職十月十一日山城ニ将旗ヲ移揚シ十五日一〇〇〇豊後水道西掃海水道出撃二十日一三〇〇「トラツク」ニ進出本職将旗ヲ龍田ニ復帰ス 山城伊勢搭載物件ハ逐次龍田第三十二駆逐隊竝ニ輸送船團(山霜丸、日豊丸、第十八御影丸、第二永興丸)ニ移積ノ上本職之ヲ指揮シ「ポナペ」ニ輸送、龍田「トラツク」歸投時十月二十八日ヲ以テ丁三號輸送部隊ノ任務ヲ解カル|(2)二十八日附聯合艦隊電令作第七七八號ニ依リ本職内地回航部隊(龍田、山城、伊勢、隼鷹、雲鷹、利根)第二十四駆逐隊〔海風涼風〕谷風第七駆逐隊〔曙〕)ヲ指揮シ三十一日「トラツク」發内地ニ回航セリ』
  90. ^ #S1804十一水戦(5)p.21『十五日〇六〇〇11sd司令官(宛略)山城伊勢龍田三十二駆(缺玉波)「トラツク」ニ向ケ内海西部発』
  91. ^ #S1804十一水戦(5)p.6『(四)麾下艦船ノ行動』
  92. ^ #S1804十一水戦(5)p.28『二十日一三〇〇11sd司令官(宛略)山城伊勢龍田三十二駆(玉波缺)「トラツク」着』
  93. ^ a b #S1806二水戦日誌(4)p.12『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  94. ^ #S1804十一水戦(5)pp.24-27『十八日二〇三〇GF参謀(宛略)甲支隊ハ龍田32dg(玉波缺)ノ外マーシヤル諸島方面船団ヲ利用左ニ依リ「ポナペ」輸送ノ如ク手配済ニ付「トラツク」着後速ニ荷役ヲ開始シ得ル如ク準備方取計ハレ度(以下略』
  95. ^ #S1804十一水戦(5)p.39『二十八日2sd旗艦(宛略)×サヨ× 一.本日附三十二駆(早波涼波藤波)ヲ原隊ニ復帰セシメラル豫定』
  96. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.11『二十八日 三二驅(早波涼波藤波)YB警戒隊ニ編入(丁三號輸送隊ヨリ)』
  97. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.84『二九(天候略)司令官32dg(早波涼波藤波)巡視/五月雨敵大編隊來襲ノ爲出撃5Sノ直衛ニ就キ之ト交戰セルモ被害ナク入港』
  98. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.84『三〇(天候略)長波一三三〇「トラツク」発/島風一四五〇「トラツク」発|島風日章丸東亜丸ヲ礁外二〇〇浬迄護衛ノ爲「トラツク」発/長波1sf基地員物件輸送ノ爲「ラバウル」ニ向ケ「トラツク」発|2F司令長官 32dg(早波涼波藤波)巡視』
  99. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.11『十月三十一日現在 二水戰(能代 巻波 二四驅(海風涼風満潮) 三二驅(早波涼波玉波藤波) 島風 YB警戒隊 二七驅(時雨五月雨白露) NTB SNB 2SYB 三一驅(大波長波)NTB』
  100. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.25『二日(司令官)2sd(宛略)機密二水戰命令作第一〇七号中島風ヲ削除シ左ノ通改ム 三.直衛区分 第一群 能代(0) 涼波(11) 藤波(13)/第二群 早波 玉波/六 探知 島風ヲ除キ三時間交代トス』
  101. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.17『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  102. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 396–397栗田部隊のラバウル進出決定
  103. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 397a-399ラバウル進出と逆上陸計画との絡み合い
  104. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.4『(1)上旬(略)更ニYBノ大部ヲ以テ増援ニ決シ三日2sd(能代32驅(早波玉波藤波涼波))YB指揮官ト共ニ「トラツク」出撃出撃後NTBニ編入セラル』
  105. ^ a b c d e #S1806二水戦日誌(5)p.10『(3)32驅(早波、藤波)「トラツク」在泊中一、二日不要物件陸揚出撃準備實施/三日32驅(早波玉波藤波涼波)「トラツク」出撃即日NTBニ編入セラル四日涼波分離五日「ラバウル」着敵數十機以上ト交戰|戰果 敵機撃墜三(一不確實)藤波/同各一 一 早波、玉波/被害 藤波雷撃(不發)ニヨリ船体軽微ナル被害 戰死一 負傷九 其ノ他ナシ|六日32驅(早波)B號作戰第二支援隊トシテ参加、藤波「ラバウル」残留/七日同歸着作戰終了/八日ヨリ十日迄敵飛行機來襲屡港外ニ出撃ス/十一日敵大編隊來襲之ト交戰 涼波沈没 早波、藤波被害ナシ|戰果 早波藤波撃墜 各一|同日夕刻NTB電令作第三二號ニ依リ「トラツク」回航部隊護衛ノ爲出撃途中敵機ノ觸接爆撃ヲ受クルモ被害ナシ/十二日2sd(能代)ト共ニ阿賀野救援ニ向ヒ對潜掃討、警戒ニ從事十五日「トラツク」着十六日NTBヨリ除カレYB警戒隊ニ復歸ス/二十四日YB警戒隊トシテ「クエゼリン」ニ向ケ出撃二十六日同着 二十八日輸送物件(陸兵及物件)搭載二十九日打合三十日「クエゼリン」發 同日「イミエジ」着揚搭後「ウオツヂエ」行基地物件搭載』
  106. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 397b-399.
  107. ^ a b #S1806二水戦日誌(5)p.11『涼波 三日「トラック」出撃迄31驅(早波、玉波、藤波)ニ同ジ 四日日章丸護衛ノ爲分離16驅司令ノ指揮ヲ受ケ同船警戒救難五日「ラバウル」着同日夕刻4S護衛「ラバウル」發七日「トラック」着即日「トラック」發九日「ラバウル」着、十一日敵機来襲ノ際「ラバウル」灣口附近ニ於テ交戦一機ヲ撃墜セルモ被雷撃及魚雷ノ誘爆ニ依リ〇七〇七沈没』
  108. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 425–426遊撃部隊のラバウル進出直後の被害
  109. ^ ニミッツ 1962, p. 185.
  110. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 189–192.
  111. ^ 戦史叢書96 1976, p. 400重巡部隊のトラック帰投
  112. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.30『五日(指揮官)YB(宛略)鳥海涼波ハ「ラバウル」入港ヲ止メ「トラツク」ニ帰投セヨ』-『五日1955(長官)YB(宛略)4S(摩耶鳥海欠)7S(鈴谷)8S(筑摩)島風ヲ率ヒ「トラツク」ニ向ケ「ラバウル」発』
  113. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 401–402タロキナ北方上陸の成功
  114. ^ ニミッツ 1962, p. 186.
  115. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 414a-415邀撃作戦と艦艇の被害
  116. ^ #S1806二水戦日誌(6)pp.40-41『二、計畫 第二水雷戰隊(《旗艦》能代、第三十一驅逐隊《司令大波長波巻波》第三十二驅逐隊《司令早波涼波藤波》)ハ南東方面部隊襲撃部隊ニ編入サレ「ろ」號作戰ノ爲待機警泊中ノ處右ノ形勢ニ備ヘ常ニ出撃ノ準備ヲ完成シ敵ノ大空襲ニ際シテハ猶豫ナク港外ニ避航スル計畫ナリ』
  117. ^ #S1806二水戦日誌(6)p.42『〇六三〇|敵機動部隊ノ熾烈ナル艦船攻撃ヲ豫期シ直ニ港外ニ向ケ出動ス』
  118. ^ a b c d e 戦史叢書96 1976, pp. 414b-415.
  119. ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 222長波(ながなみ)
  120. ^ #S1806二水戦日誌(5)pp.12-13『長波 一日一航戦基地物件輸送「ラバウル」着同日NTB OSYBニ編入午後出港「ブーゲンビル」島沖海戦ニ参加 二日歸投敵機ト交戦撃墜五機人員兵器異常ナシ 同五日同ジク「ラバウル」ニ在リテ敵機ト交戦撃墜二機 六日以後十日迄大波ニ同ジ 十一日「ラバウル」ニ在リテ敵機約百三十機ト交戦〇七〇七至近弾次デ〇七一五頃後部ニ被弾機械舵故障使用不能トナリ巻波曳航ノ上入港 爾後「ラバウル」ニ在リテ修理竝ニ警戒ニ従事中(二十七日被曳航準備完成)』/#S1806二水戦日誌(6)p.53『五.戦果及被害 (一)戦果 飛行機撃墜二機 涼波1早波1 (二)被害 沈没 駆逐艦一隻(涼波) 撃破 駆逐艦一隻(長波) 其ノ他 被害ナシ|六我兵力ノ現状 (一)全力發揮可能ノモノ (司令官)能代(司令)早波藤波(司令)大波巻波 (二)其ノ他 長波航行不能對空射撃(機銃可能)』
  121. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 430-431a「摩耶」の応急修理と内地回航
  122. ^ 戦史叢書62 1973, p. 428.
  123. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.47『一一日〇九三〇(長官)NTG(宛略)一.本十一日敵空襲ニテ艦船被害調査中ナルモ阿賀野舵故障涼波沈没長波航行不能/二.取敢ズ能代阿賀野摩耶長鯨浦風若月風雲等ヲ速ニ「トラツク」ニ回航セシム/三.21sf基地員輸送用駆逐艦ヲ派遣アリ度』
  124. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.50『一一日(司令官)2sd|一七〇二艦N|タナ七三直衛配備ヲ左ノ通定ム 能代ノ左右七〇度摩耶ノ左右九〇度長鯨ノ一八〇度距離二粁前方ヨリ右側若月風雲、左側早波藤波、後方五月雨』
  125. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 192–193.
  126. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 429–430「阿賀野」の被雷とその救難
  127. ^ 戦史叢書62 1973, p. 430b.
  128. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.6『31驅(大波、巻波、長波)「ラバウル」ニ在リテ待機中十九日巻波ハ作戦輸送ニ従事セリ』
  129. ^ 山本ほか、秋月型 2015, pp. 227b-228大波(おおなみ)
  130. ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 223a巻波(まきなみ)
  131. ^ ニミッツ 1962, pp. 187–188.
  132. ^ #S1806二水戦日誌(5)p.7『(3)下旬 31驅(大波、巻波)二十一日二十二日第一次「ブカ」作戦輸送ニ従事同二十四日二十三日第二次「ブカ」作戦輸送ニ従事揚陸後歸途二十五日0000頃「ヘンバニ」岬南西海面ニ於テ敵巡洋艦戦隊、水雷戦隊、魚雷艇群ト交戦砲雷撃ヲ受ケ沈没セリ』
  133. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 431–432「長波」の被曳航護衛
  134. ^ #内令昭和19年1月(2)、p.14〔 内令第六十二號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年一月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十六驅逐隊ノ項中「初風、」ヲ削ル|第三十驅逐隊ノ項中「望月、」ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「涼波、」ヲ削ル 〕
  135. ^ #S1806二水戦日誌(6)p.2『一二日(司令)32dg|〇九〇五(司令官)2sd|タナ八六 十一日附當隊艦船番号左ノ通変更ス 一.早波 二.玉波 三.藤波 四.涼波』
  136. ^ #内令昭和18年12月(2)、p.46〔 内令第二千六百八十八號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年十二月十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第十一驅逐隊ノ項ヲ削ル|第三十二驅逐隊ノ項中「玉波」ノ下ニ「、濱波」ヲ加フ 〕
  137. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.7『十五日附濱波2sd 32dg編入セラル、春雨修理完成内海西部ニ回航十九日着』
  138. ^ a b #S1812二水戦日誌(1)pp.5-6『(イ)一般(第二水雷戰隊)(1)上旬2sd〔能代32dg(早波藤波)〕「クエゼリン」方面ニ在リテ待機或ハ作戰輸送ニ從事中ノ所三日YBニ對スルUNB指揮官ノ指揮ヲ解カレ三日夜YB「ルオット」発2sd警戒隊トシテ「トラック」ニ向フ 四日丙作戰第三法集結Z作戰部隊ノ編制ヲ解カル/藤波ハ七五五空基地物件輸送ノ爲分離五日夜YB「トラツク」帰着爾後「トラック」ニ在リテ待機』
  139. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.6『作戰 2sd〔能代32dg(早波藤波)〕「ルオット」「クヱゼリン」「イミヱジ」「ウオッゼ」方面輸送護衛』
  140. ^ a b c d e f #S1812二水戦日誌(1)pp.14-15『(3)32dg(藤波)三日迄早波ニ同ジ/四日YB主力ト分離(七五五空基地物件輸送)「サイパン」ニ向フ/六日GF電令作第八五〇號YB電令作第二九號ニ依リ(指揮官)UNB指揮下ニ入ル/七日「サイパン」着 揚搭終了/八日總洋丸救難ノ爲「サイパン」発九日〇六〇〇現場着掃蕩セルモ手掛ヲ得ズ十日「サイパン」帰着待機/十九日筥崎丸船団護衛ノ爲「サイパン」発に十日合同二十四日「トラック」着/二十五日GF電令作第八七二號ニ依リ戊二號輸送部隊ニ編入セラル//二十七日「トラック」発二十八日5Sニ合同、途中利根探知ノ敵潜攻撃(効果不明)/二十九日「トラック」着/三十一日戊二號輸送人員物件搭載』
  141. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.7『(2)中旬2sd(能代)「トラック」ニ在リテ待機(略)32dg(早波)及藤波ハYB電令作第三九號ニ依リ六日(指揮官)UNB式下ニ入リ夫々「パラオ」及「サイパン」方面ニ在リテ護衛及對潜掃討ニ從事セシメラルヽ事トナリ32dg(早波)ハ十一日「トラック」発、藤波ハ上旬以降引續キ「サイパン」方面ニ在リ護衛ニ從事中(以下略)』
  142. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.19『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  143. ^ a b #S1812二水戦日誌(1)p.20『二.人員ノ現状(一)司令部(イ)職員官氏名』
  144. ^ a b 昭和18年12月17日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1283号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900 
  145. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 204a-205独立混成第一聯隊の編成と同部隊の南東方面転用
  146. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 204b-205.
  147. ^ 戦史叢書62 1973, p. 525五 戊号輸送
  148. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 526a-527輸送経過
  149. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.49『二三日一〇一五(司令官)5S(宛略)5S利根白露十二月二十三日〇八〇〇「トラツク」ニ向ケ呉発』/#S1701第八戦隊日誌(8)p.27『(七)十日聯合艦隊電令作第八五七號及機動部隊機密第一〇一七〇〇番電ニ依リ8S(利根)5S、27dg(時雨白露)ハ二十三日迄ニ横須賀ニ回航、陸軍部隊ヲ南東方面ニ輸送ノ豫定ナリシトコロ一月一日附ヲ以テ第八戰隊解隊ノコトトナリ豫定変更十六日聯合艦隊電令作第八六一號ニ依リ5S利根27dg(時雨白露)ヲ以テ戊二號輸送部隊ヲ編制、5S司令官之ヲ指揮シ二十二日呉ニ於テ大海機密第一五一一一番電ノ人員物件ヲ搭載「トラック」経由「カビエン」ニ向ケ二十四日一三〇〇内海西部ヲ出撃二十九日「トラック」着尚利根ハ二十五日附ヲ以テ遊撃部隊ニ編入セラル』
  150. ^ a b c d e 戦史叢書62 1973, p. 527.
  151. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.15『(5)27dg(時雨)(略)二十四日5S利根ト共ニ「トラック」ニ向ケ發/二十五日一九二八魚船國吉丸ト觸衝小被害アリ命ニ依リ呉ニ引返シ修理ニ從事(以下略)』/#S1812二水戦日誌(1)p.50『二四日二一四五(司令)27dg(宛略)時雨、5S直衛トシテ警戒航行中一九二八豊後水道附近ニ於テ無燈ノ大型漁船ト觸衝左舷水線上ニ数個所ノ跳出及亀裂ヲ生ジ一二節以上ノ速力ニ堪ヘズ修理ノ為(?)ニ同航ス。相手船人員機関異状ナシ損害軽微』
  152. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.9『早波ハ中旬ニ引續キ「パラオ」方面、藤波ハ「サイパン」方面輸送護衛對潜掃蕩ニ從事中/二十五日藤波ハ戊二號輸送部隊ニ編入島風藤波ニ交代「サイパン」方面對潜警戒護衛ニ任ゼシメラル。浜波ハ二十四日呉発波船團護衛(以下略)』
  153. ^ #S1812利根日誌p.6『二十九(天候略)一六二〇「トラック」着 玄洋丸横付重油搭載』
  154. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.16『(白露)二十四日迄27dg(時雨)ニ同ジ二十九日「トラック」着』
  155. ^ #S1812利根日誌p.25『二十九日一六〇一(司令官)5S(宛略)5S利根一一〇〇藤波白露(敵潜制圧後)一五三〇「トラツク」着』
  156. ^ #S1901利根日誌p.3『二(天候略)一二五〇「カビエン」ニ向ケ「トラツク」出撃(略)』
  157. ^ 戦史叢書96 1976, p. 463a戊二號・戊三号輸送部隊のトラック出撃
  158. ^ 戦史叢書62 1973, p. 526b.
  159. ^ 戦史叢書96 1976, p. 463b.
  160. ^ #S1901利根日誌p.3『四(天候略)(略)〇〇三五「カビエン」入港〇五五八出港陸軍清水部隊及軍需品揚陸|〇六三〇敵艦上機「カビエン」來襲』
  161. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.4『仝日戊二號輸送部隊5S藤波白露「トラック」発四日朝「カビエン」着揚搭即日発五日帰投同日仝部隊ノ編制ヲ解カル』
  162. ^ #S1812三水戦日誌(5)p.11『(2)特別任務 自一月三日至一月四日 22dg(水無月欠)GF戊二号輸送部隊警戒対潜掃蕩「カビエン」港外』
  163. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 466a-467第三次カビエン空襲(一月四日)
  164. ^ 戦史叢書96 1976, pp. 466b-467.
  165. ^ #S1901利根日誌p.4『五(天候略)(略)一六五〇トラック入港』
  166. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.77『十(天候略)藤波満潮〇六三〇「トラツク」発(略)藤波満潮大和ヲ護衛シ呉ニ向ケ「トラック」発』
  167. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.80『十五(天候略)長波一四〇〇「トラツク」発/満潮一四四八徳山着/藤波一六三〇呉着(略)藤波大和ヲ護衛シ呉着 満潮ハ徳山着』
  168. ^ a b #S1812二水戦日誌(3)pp.12-13『藤波 戊二號輸送部隊トシテ大気中二日「トラック」発/四日「カビエン」着揚搭後即日発/五日「トラツク」着任務終了輸送部隊ノ編制ヲ解カル/十日満潮ト共ニ大和護衛「トラツク」発/十五日呉着入渠整備ニ從事/二十五日修理整備完了/二十八日桂島ヨリ門司着/二十九日(横鎮長官ノ指揮ヲ受ケ)ハ一三〇九船団ヲ護衛門司発/三十日洲本沖着陸軍々旗及陸兵移乗即日発/三十一日尾鷲湾着』
  169. ^ #S1812二水戦日誌(3)pp.9-10『満潮(略)十日大和護衛「トラツク」発十五日徳山着(以下略)』
  170. ^ #S1812二水戦日誌(3)p.18『(四)麾下艦船部隊ノ行動』
  171. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.5『輸送護衛(略)藤波(一三〇乙船団、三二〇四船団)(以下略)』
  172. ^ a b c d e f g #S1812二水戦日誌(4)pp.10-11『藤波 第一三〇乙船団ヲ護衛尾鷲湾ニ假泊中一日仝地発第二日影丸ヲ合同横須賀ニ向フ一六三七敵潜探知爆雷攻撃セルモ効果不明/二日横須賀着/四日横須賀ヨリ横濱着横鎮長官ノ指揮ヲ解カレ二海護司令官指揮下ニ入リ第三二〇四船団ヲ護衛仝地発荒天ノ爲船団ヲ見失ヒ反転/五日船団合同館山湾假泊再ビ出港セルモ荒天ノ爲引返シ館山湾假泊/六日出港(船団 暁天丸外五隻護衛艦藤波澤風夏島)/十六日〇〇四五敵潜ヲ認メ爆雷攻撃ヲ爲スモ効果不明制圧中〇二三五5°0′N149°17′Eニ於テ暁天丸雷撃ヲ受ケ〇三三五沈没 船団ト分離人員物件収容潜水艦制圧中/十七日制圧ヲ止メ船団ニ追及セル頃一四一五敵艦爆六機來襲辰羽丸瑞海丸被爆沈没(7°41′N150°10′E)セリ 夕刻迄人員物件ヲ収容隆共丸ヲ護衛一三二五「トラツク」着 「トラツク」空襲警報解除/二十日明石船団護衛「トラツク」発二日春雨合同/二十四日「パラオ」着/二十五日出撃セルモ命ニ依リ引返シ爾後「パラオ」ニ在リテ待機』
  173. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 200–203第五十二師団のトラック島進出/編成、訓練
  174. ^ 戦史叢書06 1967, p. 203a第二梯団の輸送
  175. ^ a b c 戦史叢書06 1967, p. 203b.
  176. ^ a b c d e 戦史叢書62 1973, pp. 572–573.
  177. ^ 戦史叢書06 1967, pp. 256a-257第五十二師団主力の行動と第二梯団の遭難
  178. ^ a b c d e 戦史叢書06 1967, pp. 256b-257.
  179. ^ 戦史叢書62 1973, p. 578.
  180. ^ #喪失一覧(2)p.40『昭和19年2月(1944年)C|17|a|暁天丸|6,854|拿捕船|雷撃|8-00N 149-17E|』
  181. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.47『十六(天候略)藤波三二〇四船団護衛中〇〇四五敵(潜水艦)ヲ発見爆雷攻撃ヲナスモ効果不明爾後制圧中〇二三五(8°0′N149°17′E)ニ於テ暁天丸雷撃ヲ受ケ沈没人員救助ヲナス』
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  275. ^ 昭和19年8月28日(発令8月25日付)海軍辞令公報(甲)第1577号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100700 
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  317. ^ #S士官の手記p.21『日没時「パラワン」島「コロン」着補給(早霜ハ其ノ後「セミララ」島ニ坐礁司令以下「マニラ」ニ皈リタルモ先任将校69期田中秋文大尉ハ三十数名ヲ指揮之ニ残リタリ其ノ後GKFノ優柔ヤ先見ノ明ナキ爲遂ニ之ガ所置ナク米軍ノ「ミンドロ」島上陸トナリ遂ニ救出出來ザリシト聞ク)』
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  320. ^ #S士官の手記続編p.8『尚「戦時下ノ我海軍」ト題スル米作戰部長「アーネスト・J・キング」提督ノ公式報告書ニ依レバ米第三艦隊「ハルゼー」ノ派遣セル快速戰艦部隊ハ朝/26「サンベルナルヂノ」海峡入口ニ到達シ日本艦隊ノ落伍艦(巡洋艦又ハ大型驅逐艦)ヲ撃沈セリと明確ニ記録サレアリ之ハ恐ラクハ筑摩、野分ナラント推察セラル』
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  324. ^ 岸見、多号作戦 2010, pp. 30–31.
  325. ^ a b サイパン・レイテ海戦記 2004, p. 394.
  326. ^ #S1909一水戦日誌(3)p.11『11月1日|那智飛行機|0630カヒデ湾カナカオ基地発駆逐艦不知火ノ捜索ヲ実施ス/1015セミララ湾ニ擱座セル駆逐艦早霜ヲ発見着水不知火消息ヲ尋ネタル處セミララ島西方1000米ニテ沈没セルコト判明セリ|戦果:早霜発見、不知火ノ消息判明』
  327. ^ #内令昭和19年11月(3)、pp.4-5〔内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル 〕
  328. ^ #秘海軍公報昭和19年12月(2)、p.12〔 内令第一三三三號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス 昭和十九年十二月十日海軍大臣 驅逐艦、一等初雪形ノ項中「浦波、」ヲ、同初春型ノ項中「、若葉」ヲ、同不知火型ノ項中「不知火、」ヲ、同夕雲型ノ項中「、藤波」ヲ、同秋月型ノ項中「秋月、」「、初月」ヲ削ル 〕
  329. ^ #秘海軍公報昭和19年12月(2)、p.18〔 内令第一三四〇號|呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦波、驅逐艦 不知火|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 若葉 驅逐艦 秋月 驅逐艦 初月|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 藤波|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(中略) 昭和十九年十二月十日 海軍大臣 〕
  330. ^ 昭和20年7月15日(日)海軍辞令公報(甲)第1857号 p.38」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106100 

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