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沖波 (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沖波
基本情報
建造所 舞鶴海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 夕雲型駆逐艦
艦歴
発注 1942年度(マル急計画
起工 1942年8月5日[1]
進水 1943年7月18日[2]
竣工 1943年12月10日[3]
最期 1944年11月13日大破着底
1944年12月31日総員退去[4]
1945年1月7日爆破、自沈[5]
除籍 1945年1月10日
要目
基準排水量 2,077 t
公試排水量 2,520 t
全長 119.3 m
最大幅 10.8 m
吃水 3.76 m
主缶 ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式タービン2基2軸
出力 52,000hp
最大速力 35.0kt
燃料 重油:600トン
航続距離 18ktで5,000浬
乗員 225名
兵装 新造時
50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 II×2
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
九三式魚雷16本)
爆雷×18乃至36
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沖波(おきなみ)は[6]日本海軍駆逐艦[7]夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の14番艦である。

概要

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一等駆逐艦沖波(おきなみ)は[8]、日本海軍が太平洋戦争で運用した駆逐艦[9]舞鶴海軍工廠で、1942年(昭和17年)8月から[10]1943年(昭和18年)12月上旬にかけて建造された[3][11]。 竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属した[12]

1944年(昭和19年)2月10日、夕雲型3隻(沖波、岸波、朝霜)は第二水雷戦隊隷下の第31駆逐隊に編入される[13][注 1]。第31駆逐隊は船団護衛任務に従事したあと、5月下旬までにタウイタウイ泊地へ集結した[14][15]

6月中旬、沖波は軽巡能代[注 2]と共に大和型戦艦2隻(大和武蔵)を護衛して渾作戦に従事した[16][17]。 続いて小沢機動部隊や別働の31駆僚艦に合流してマリアナ沖海戦に参加した[6]。敗北後、一度内地に帰投[16]。7月上旬、第31駆逐隊は遊撃部隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)を護衛して日本本土を出撃、リンガ泊地に進出した[18]。その後はリンガ泊地で訓練に従事する[19]

10月中旬以降の捷一号作戦に伴うレイテ沖海戦で、第31駆逐隊は第一遊撃部隊(通称栗田艦隊)に所属[14]。10月25日のサマール沖海戦で重巡洋艦鈴谷が沈没すると[20][21]、沖波は単艦で鈴谷乗組員多数を救助した[22]。 その後、沖波は姉妹艦早霜の救援を行い[23]、続いて重巡洋艦熊野の護衛に従事、同艦と共にマニラへ帰投した[24]

レイテ沖海戦後、第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)の指揮下に入る[25][26]。 第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(第一水雷戦隊旗艦「」)の指揮下で多号作戦に従事した(第二次多号作戦部隊)。 11月5日、沖波はマニラ在泊中に空襲を受けて損傷(同時に、沈没した重巡洋艦那智[20] を救援)[27]。 同港で応急修理中の11月13日、沖波はマニラ大空襲により停泊中の各艦[注 3]と共に沈没した[28](大破着底状態)[29]。12月31日、沖波は放棄された[4]。残骸は戦後になり浮揚・解体された。

艦歴

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完成まで

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夕雲型駆逐艦の沖波(おきなみ)は1942年度(マル急計画)仮称第342号艦として舞鶴海軍工廠で建造されることになり、1942年(昭和17年)8月5日に起工した[1][10]

1943年(昭和18年)5月25日、沖波は姉妹艦(岸波、朝霜)や海防艦2隻(御蔵平戸)、標的艦波勝等と共に命名された[8]。3隻(沖波、岸波、朝霜)は同日附で一等駆逐艦夕雲型に登録[30]7月18日、沖波は進水した[2][31]

11月6日、日本海軍は鴻型水雷艇水雷艇長[32]、初春型駆逐艦初春艦長[32][33][34] 等を歴任した牧野坦中佐(海兵51期[35] を、沖波艤装員長に任命した[36]。 11月10日、舞鶴海軍工廠に艤装員事務所を設置する[37]。 沖波は12月10日に竣工[3]。 沖波艤装員事務所は撤去された[38]。牧野艤装員長も、正式に沖波駆逐艦長(初代)となった[39]舞鶴鎮守府籍となる[40]

就役後

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12月10日の竣工と共に、沖波は訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将〈前職第二水雷戦隊司令官。12月15日発令、12月27日着任〉[41]、司令官代理〈12月25日退任〉小川莚喜大佐海軍兵学校46期[42])に編入される[12]。 瀬戸内海に回航され、第十一水雷戦隊各艦(第二戦隊〈山城伊勢日向〉、訓練部隊〈龍田、岸波、沖波、朝霜〉)や修理復帰艦艇(不知火春雨)等と訓練を受けた[43][44][45]。 12月29日、燧灘で十一水戦に春雨(二水戦、第27駆逐隊)が合同する[46]。駆逐艦4隻(時雨春雨、沖波、朝霜)は扶桑型戦艦山城を護衛して呉を出発する[47]。31日、横須賀回航部隊は横須賀に到着した[48][49]

1944年(昭和19年)1月4日、沖波と朝霜は内海西部に戻る[50][51]。以降、第十一水雷戦隊は臨時編入艦と共に内海西部で訓練に従事する[52]

1月下旬、サイパン島より横須賀へ向かっていた大鷹型航空母艦雲鷹(1月19日、アメリカ潜水艦の雷撃で損傷)と護衛艦艇は悪天候のため燃料残量が乏しくなり、またアメリカの潜水艦に狙われて窮地に陥った[53][54]。 1月29日、沖波と岸波は桂島泊地を出撃、小笠原諸島周辺を航行中の雲鷹隊救援に向かった[55]。 2月5日、雲鷹隊に合流した[56]。7日、燃料補給を終えた各艦(高雄、潮、曙、初霜)は雲鷹隊に再合流した[57][58]。 同日夜、重巡洋艦高雄以下の雲鷹護衛部隊は横須賀に到着して、任務を終えた[59][60][61]

第31駆逐隊

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2月10日[13]夕雲型駆逐艦3隻(沖波、岸波[15]朝霜[62])は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期[41]、旗艦能代)隷下の第31駆逐隊に編入された[63][64][65]。 第31駆逐隊は「長波」1隻となっており、夕雲型駆逐艦4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)で再編された[13][66]。 駆逐隊司令福岡徳治郎大佐(海兵48期[66]、前職第19駆逐隊司令)[67] も任命されたばかりである[68]

2月26日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)は宇品を出港し[69][70]マリアナ諸島へ移動する第29師団(通称号「雷」師団長高品彪陸軍中将、歩兵第18連隊〈聯隊長門間健太郎大佐〉、歩兵第38連隊〈聯隊長末長常太郎大佐〉、歩兵第50連隊〈聯隊長緒方敬志大佐〉、師団戦車隊・補給部隊等)[71][72] の陸軍兵士[73] と装備品を乗せた安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)、埼戸丸(戦史叢書では「崎戸丸」と表記[74]、日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船による緊急輸送作戦に従事した[64][75]。 船団は2月29日未明、米潜水艦に襲撃された[75][76]。 雷撃により「岬戸丸」が沈没[69][注 4]。 さらに「安芸丸」が損傷した[69][注 5]。 「沖波」は健在船(安芸丸、東山丸)を護衛してグアム島およびサイパン島へ先行する[78]。現場に残った「朝霜」は、爆雷攻撃により米潜水艦を撃沈した[64]。この米潜水艦はトラウトだった[75][80]。 3月4日、船団はグァム島に到着して第29師団司令部と歩兵第38聯隊を揚陸し、翌日にはサイパン島で歩兵第50聯隊が上陸した[注 6][78]。崎戸丸生存者を収容した各艦はサイパン島へ移動し、3月6日に歩兵第18聯隊生存者を揚陸した[76][78]。3月15日、31駆は横須賀に帰投した[16][65]

3月20日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)はトラック諸島行きの東松三号特別船団、輸送船3隻(浅香丸山陽丸さんとす丸)を護衛して館山を出航する[81][82]。船団は28日にトラック泊地に到着した[82][83]。その後も、タンカー船団の護衛に従事した[16]

5月中旬以降、第31駆逐隊は前進根拠地のタウイタウイ方面にあり、同方面で対潜警戒に従事した[40][84]。 6月9日、タウイタウイ泊地で対潜掃蕩作戦に従事中の駆逐艦4隻(磯風谷風島風早霜)が[85]、アメリカ潜水艦ハーダーに襲撃され[86]、同艦の雷撃により谷風は轟沈した[87][88]。急遽出動した沖波は、谷風の生存者を救助した[89]

この頃、ビアク島を巡って日本軍と連合軍間で攻防が繰り広げられていた(ビアク島の戦い[90][91]。日本海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開していたが、過去二度にわたる作戦は目的を達しえなかった[92][93]。 そこで、大和型戦艦2隻なども投入して第三次渾作戦を敢行[94]、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった[95]。 第一戦隊司令官宇垣纏海軍中将(海兵40期)が率いる渾部隊は[96]、宇垣司令官直率の攻撃隊(第一戦隊〈大和武蔵[97]、第五戦隊〈妙高羽黒。2隻ともバチャン泊地にて先行待機中〉[98]、水雷戦隊〈能代島風、沖波、朝雲山雲野分〉)、第一輸送隊(重巡〈青葉〉、軽巡〈鬼怒〉、駆逐艦4隻)、第二輸送隊(津軽)等という戦力を揃えた[95]

6月10日[17]、攻撃部隊(戦艦〈大和、武蔵〉[99]、軽巡〈能代〉[100]、護衛艦艇〈島風、沖波、山雲、野分[101]〉)はタウイタウイを出撃した[102][103]。 直後にアメリカ潜水艦ハーダーに発見された[104][105]。これと同時に日本艦隊もハーダーの潜望鏡を発見し、沖波はハーダーを攻撃するため部隊から分離した[96][99]。 ハーダーはこの一週間の間にタウイタウイ周辺で駆逐艦水無月6月6日[106]早波6月7日[107]谷風6月9日、詳細前述)を立て続けに撃沈しており[88]、今回も沖波の真正面から魚雷を発射した[108][109]。 二つの爆発音が聞こえ、ハーダー側は沖波を撃沈したと判断したが[110]、沖波は艦首7mで魚雷を回避[109]。逆に爆雷攻撃でハーダーを追い払った[111]。ただし大和座乗の宇垣中将以下日本側もハーダーを撃沈したと判断し[96]、沖波の乗組員は「谷風の仇を討った」と思っていた[109]

6月12日、大和以下攻撃部隊はハルマヘラ島バチャン泊地に到着した[17][112]。同地で第五戦隊他と合流する[102][113]。 作戦開始を待ったが、6月13日になってサイパン島に対する艦砲射撃が開始されるに到り[114]、戦局は急展開する[115][116]連合艦隊は渾作戦の中止と「あ号作戦決戦用意」を発令する[116][117]。 攻撃部隊[注 7]は同日夜にバチャンを急遽出撃する[118][119]。 第三艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)率いる第一機動艦隊(旗艦大鳳)に合流すべく急行した[120][116]

6月19日-20日のマリアナ沖海戦における第31駆逐隊は、前衛部隊(指揮官栗田健男第二艦隊長官〔旗艦愛宕〕)に所属して米軍と交戦した(艦隊編成と経過については、当該記事を参照)。 6月19日朝、栗田艦隊が第一航空戦隊(甲部隊)攻撃隊を誤射した際には[121][122]、沖波のみが対空砲火を開かなかったという[123]。実際には武蔵等[124]、沖波以外にも射撃していない艦がいた。 6月20日の対空戦闘で、栗田艦隊は損傷艦数隻(千代田、榛名、摩耶)を出したが、沈没艦はいなかった[125][126]。 敗北後、日本艦隊は中城湾沖縄本島)へ移動した。宿毛湾宿毛湾泊地)から岸波と沖波は重巡摩耶を護衛して横須賀へ移動、6月30日に到着した[127][128]。摩耶は横須賀で修理と整備をおこなった[129][130]

7月上旬、日本海軍は遊撃部隊主力をリンガ泊地に進出させることにした[18]。 7月8日-9日、遊撃部隊主隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)は臼杵湾を出動[131][132][133]。輸送物件の関係から、甲部隊[注 8]と乙部隊[注 9]という編成だった[132]。第31駆逐隊は甲部隊所属だった[132]。 7月10日午後、遊撃部隊主隊は中城湾に到着した[133]沖縄第三十二軍(司令官渡辺正夫中将)に対する輸送任務を行う。また第31駆逐隊は戦艦武蔵から燃料補給を受けた[133]。 同日夕刻、甲部隊は沖縄を出発、リンガ泊地に直接向かった(乙部隊は12日出発)[134][135]。暴風雨に遭遇して駆逐艦五月雨が一時行方不明になったが、特に異状なく7月16日シンガポール(一部はリンガ泊地直行)到着[134]。 ほどなく乙部隊[135] や摩耶[129][136]もリンガ泊地に進出し、第一遊撃部隊(8月1日附改定)は訓練に励んだ[19][137]。 8月中旬、31駆はシンガポール~クチン(ボルネオ島)間の船団護衛任務に従事した[138]

レイテ沖海戦

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10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期)が指揮する第一遊撃部隊はリンガ泊地から出動し[139]ブルネイ湾で補給の後、10月22日朝に出撃した[129][140]10月23日未明、パラワン水道において栗田艦隊は米潜水艦により大打撃を受ける[141][142]。第二艦隊旗艦の重巡洋艦愛宕は、アメリカ潜水艦ダーターの雷撃で沈没[143][144]。 重巡洋艦摩耶デイスの雷撃で沈没[145][146]。 重巡洋艦高雄がダーターの雷撃で大破して航行不能となった[147]。 愛宕被雷時、二水戦3隻(能代、沖波、長波)は愛宕-高雄-鳥海-長門の左側約2kmほどを航行していた[148]。 第31駆逐隊2隻(朝霜、長波)は高雄(航行不能、復旧作業中)の護衛を命じられ[149][150]、栗田艦隊から離脱した[151][152]。 暫定的に沖波と岸波のみになった第31駆逐隊は、第二水雷戦隊各艦と共にシブヤン海へ向かった[153]

10月24日レイテ沖海戦(シブヤン海空襲)で、第31駆逐隊(岸波、沖波)は栗田長官(大和座乗)直率の第一部隊第一戦隊[注 10]としてアメリカ軍機と交戦した[154]。 栗田艦隊は、武蔵沈没[155]、3隻損傷離脱(妙高、浜風、清霜)という損害を受けた[156]

10月25日[157]、第一遊撃部隊(栗田艦隊)はサマール島沖で米軍機動部隊(護衛空母部隊)を追撃する(サマール島沖海戦[158][159]。 第二水雷戦隊の戦果は僅少だった[160]。 このサマール島沖海戦において第七戦隊旗艦(司令官白石万隆少将。先に旗艦熊野が被雷したため、鈴谷に旗艦変更)[21][161] の重巡洋艦鈴谷は至近弾により魚雷発射管が炎上して爆発を起こし[162]、瀕死の状態となった[163][164]。 第七戦隊司令官白石万隆少将は健在の重巡洋艦利根(艦長黛治夫大佐)を呼び寄せ[22]、利根から派遣されたカッターボートを使用して鈴谷から脱出する(利根に第七戦隊旗艦変更)[165][166]。 同時に沖波と雪風に対し鈴谷生存者・利根短艇乗員の救助収容を命じたが[167]、第十戦隊・第17駆逐隊所属の雪風にはすでに第十戦隊司令官木村進司令官(軽巡矢矧座乗)より原隊復帰命令が出されており、姉妹艦と合流して去っていた[168]。 単艦行動となった沖波は、波浪と空襲に悩まされながら約六時間にわたり鈴谷乗組員救助をおこなった[165][169]。 沈まない場合は雷撃処分も下令されていたが[22][170]、鈴谷は13時20分に沈没した[171]。 沖波は空襲を受けつつ[162][172]、鈴谷の艦長寺岡正雄大佐以下412名[172](戦史叢書では415名)[22] の乗員を救助した。取り残された利根カッターボート乗組員11名(田中春雄中尉含め12名)も収容したが[166]、その後の対空戦闘で4名が戦死した[173]。 しかし、救援を行っているうちに栗田艦隊主力は遠くへ去って単艦となり[22]、鈴谷艦長と相談の上、日没をもって救助活動を中止[174]。沖波単独で深夜にサンベルナルジノ海峡を通過した[172]

翌10月26日、ミンドロ島東方海域で第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受け、先行していた栗田艦隊本隊では軽巡能代(第二水雷戦隊旗艦)が沈没した[175][176]。本隊から遅れていた沖波はのべ40機に襲撃され、至近弾でを損傷したものの[177]、鈴谷乗組員・利根乗組員の協力を得て空襲を切り抜けた[178][179]。 同日、沖波はセミララ島に座礁した夕雲型姉妹艦早霜(第2駆逐隊所属、舞鶴建造艦)を発見し接近した[23]。燃料に海水が混じったため早霜の使用可能燃料は5トン程度しかなく、沖波も余裕はなかったが横付して補給を開始する[23]。 この時、沖波と早霜は夕雲型姉妹艦藤波(第32駆逐隊)が約10km程沖合を航行するのを発見した[180]。 だが藤波は空襲を受け、2隻の目前で轟沈した[180]。藤波は25日(サマール沖海戦)で沈没した重巡鳥海乗組員を救助していたが、鳥海・藤波とも1人の生存者もいなかった[180][181]。またアメリカ軍機も2隻を襲ってきたため、沖波は横付を離して回避に転じる[23]。沖波は早霜を残してコロン湾へ向かった[182]

10月27日、第十六戦隊(鬼怒浦波)救援のため出動した駆逐艦不知火(志摩艦隊、第一水雷戦隊所属)はセミララ島近海で擱座した早霜を発見、不知火は早霜を救援中にアメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて撃沈された[183][184]。 一方、沖波はコロン湾を単艦で出港した重巡洋艦熊野[注 11][24] と合流した[185][186]。2隻はマニラに向かった[187]。 28日朝、マニラに到着した[24][188]

多号作戦

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レイテ沖海戦中の10月下旬、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は、マニラ方面の所在艦艇をもってレイテ島輸送作戦実施を下令する[26]。第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に編入され、多号作戦への従事を命じられた[25][26]。 沖波は浸水被害を抱えたまま多号作戦に参加することになった[189]

10月29日のマニラ空襲では、那智に被害があっただけで、沖波以下多号作戦参加艦艇に被害はなかった[190]。 10月31日0700、多号作戦第二次輸送部隊[191](警戒部隊〈沖波初春初霜〉、松山光治少将指揮下の護衛部隊〈沖縄占守、海防艦11号、13号〉[192]、輸送船〈能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸〉)としてマニラを出撃した[193][194]。 警戒部隊は、一番隊(霞〔第一水雷戦隊司令官木村昌福少将旗艦〕、沖波)、二番隊(曙、潮)、三番隊(初春、初霜)という編成だった[191]

11月1日日中、第二次輸送部隊は米軍機少数に襲撃されたが、味方直衛戦闘機の活躍で撃退に成功した[194]。夕刻、第二次輸送部隊はレイテ島オルモック湾に到着して兵員や軍需品の揚陸を開始した[193][194]。揚陸作業中、沖波はと組んでオルモック湾の南西方向を警戒した[195]11月2日朝より、第二次輸送部隊はP-38B-24 の攻撃を受ける[196]。正午以降の対空戦闘で輸送船能登丸(日本郵船、7,191トン)が沈没[196][197]、駆逐艦潮が損傷した[193][198]。能登丸が沈没したものの、輸送作戦は成功をおさめた[199]。 第二次輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)は、同日19時に第二次輸送部隊を出港させた[200][201]。復航では、第一号型輸送艦第9号も第二次輸送部隊に加わった(同艦は、11月2日0430オルモック着)[201]。途中、木村司令官の指定により3隻(初春、初霜、第9号)はパナイ島北東で応急修理中の第百三十一号輸送艦を救援するため分離[201]。 11月4日朝、第二次輸送部隊はマニラに帰投した[201][202]。別働の4隻も翌朝、マニラに帰投した[201]。 沖波はマニラで多号次期作戦に備えて待機した。

11月5日、米海軍機動部隊艦載機によるマニラ空襲により、第五艦隊旗艦の重巡那智が沈没[203]、駆逐艦が損傷[204][205]。那智を掩護していた沖波も損傷を受け戦傷者多数、艦長は入院するに至った[27]

11月13日、第38任務部隊艦載機はマニラに空襲を敢行した[206][207]。 朝からの波状攻撃により軽巡木曾[208][209]、駆逐艦複数隻([210]初春[211]秋霜[212])などマニラ在泊中の艦船は次々と被害を受けた[29][213]。 沖波もマニラ湾にて攻撃を受けて損傷、火災が発生した[214][215]。 朝霜や沖縄等の救援により陸岸に移動して消火に成功したが、浸水が進み着底した[216]北緯14度35分 東経120度50分 / 北緯14.583度 東経120.833度 / 14.583; 120.833、マニラ市街西方8浬地点であった[217]。 この時点で、沖波に残る乗組員は約30数名となった[216][218]。生存者のうち178名はフィリピンの戦いにおける陸上兵力に転用されている[219]。 同日深夜、第一水雷戦隊残存部隊(霞、朝霜、潮、初霜、竹)はマニラを出発し[220]、ブルネイに向かった[221][222]

11月20日、牧野中佐は沖波駆逐艦長の任を解かれた(12月10日、転勤。艦長代理は沖波砲術長)[223][224]。 11月25日、多号作戦第五次作戦に従事していた第九号輸送艦は空襲により損傷、同艦航海長(袴田徳男大尉)が戦死する[225]。沖波航海長の佐々木幸康大尉は臨時の第九号輸送艦航海長に任命され、ひきつづき多号作戦に従事することになった[225]

12月11日、福岡徳治郎大佐は第31駆逐隊司令の職務を解かれた[226]。 12月31日、総員退去[4]1945年(昭和20年)1月7日、沖波は爆破処理された[5]。 1月10日、沖波を含む夕雲型駆逐艦6隻(長波、浜波、沖波、岸波、早霜、秋霜)は艦艇類別等級表から削除された[227]。 同時に帝国駆逐艦籍から除籍[228]。 第31駆逐隊も解隊された[229][230]

歴代艦長

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艤装員長
  1. 牧野坦 中佐:1943年11月6日[36] - 1943年12月10日[39]

駆逐艦長

  1. 牧野坦 中佐:1943年12月10日[39] - 1944年11月20日[223]

参考文献

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  • 池田清『重巡摩耶 元乗組員が綴る栄光の軌跡』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X 
  • 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。 
  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6 
  • 生出寿『砲術艦長 黛治夫 海軍常識を覆した鬼才の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉、1996年6月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2124-7 
  • 大井篤「第5章 決戦準備の輸送、資源蓄積の輸送(昭和19年3月から仝年5月まで)」『海上護衛戦』株式会社KADOKAWA〈角川文庫〉、2014年5月(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8 
  • 岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3 
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
  • 岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦 敵制空権下の多号作戦の全貌光人社〈光人社NF文庫〉、2010年12月。ISBN 978-4-7698-2666-8 
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。 
  • 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年5月(原著1989年)。ISBN 978-4-7698-2949-2 
  • 古村啓蔵ほか『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7 
    • (86-123頁)戦史研究家伊達久『重巡戦隊の編成変遷とその航跡の全貌』
    • (271-282頁)当時「鈴谷」艦長・海軍大佐寺岡正雄『「鈴谷」最後の艦長レイテ沖決死の突撃行 至近弾により次々と誘爆、全艦火の海と化し沈没したサマール沖の実相
    • (288-297頁)元「筑摩」艦長・海軍大佐古村啓蔵『先頭第一の栄光に生きた重巡「筑摩」 真珠湾から南太平洋海戦の被弾、遂には比島沖に没した獅子奮迅の記録
    • (298-315頁)当時「利根」艦長黛治夫『不滅の重巡「利根」悔いなき航跡 落日せまる太平洋を縦横無尽に疾駆したライオン艦長の戦場報告
    • (333-350頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍重巡洋艦十八隻戦歴一覧』
  • 佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年1月。ISBN 4-7698-2408-4 
  • 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8 
    • (226-237頁)当時「雪風」砲術長・海軍大尉奥野正『レイテの海よ殊勲艦「雪風」の雄叫びを聞け 対空戦、魚雷戦、砲撃戦の果て米駆ジョンストンを撃沈したサマール沖海戦
    • (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後
  • 手塚正己『軍艦武藏 上巻』新潮文庫、2009年8月。ISBN 978-4-10-127771-4 
  • 手塚正己『軍艦武藏 下巻』新潮文庫、2009年8月。ISBN 978-4-10-127772-1 
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
    • (75-86頁)戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
    • (185-206頁)「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』
    • (220-231頁)当時「能代」水雷長・海軍少佐高田敏夫『二水戦旗艦「能代」サマール沖の痛恨 敵を目前に肉薄雷撃戦もならず空しく帰途についた旗艦を襲った悲運
  • 福田幸弘『連合艦隊 サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月。ISBN 4-7887-8116-6 
  • 淵田美津雄奥宮正武『機動部隊 新装版戦記文庫』朝日ソノラマ、1992年12月(原著1951年)。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(1) マリアナ玉砕まで』 第6巻、朝雲新聞社、1967年7月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』 第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦(1) 臺灣沖航空戦まで』 第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海上護衛戦』 第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』 第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。 
  • 松永市郎「不死身の第九号輸送艦」『三号輸送艦帰投せず 『先任将校』後日物語』光人社、1986年10月、112-120頁。ISBN 4-7698-0325-7 
  • 雑誌『丸』編集部 編『ハンディ判日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年10月。ISBN 4-7698-0818-6 
  • 「丸」編集部編『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6 
    • (7-26頁)戦史研究家大浜啓一『日本重巡十八隻の戦歴』
    • (162-178頁)元「熊野」掌航海長兼通信長・海軍大尉青山総市『前衛部隊「熊野」マリアナ沖決戦記』
    • (179-207頁)元「利根」艦長・海軍大佐黛治夫『最精鋭重巡「利根」サマール沖の突進』
    • (208-216頁)元「鈴谷」艦長・海軍大佐寺岡正雄『七戦隊「鈴谷」サマール沖の最期』
    • (233-243頁)当時第二艦隊司令長官・元海軍中将栗田健男述『レイテ湾突入ならず 米戦略爆撃調査団に対する栗田長官の証言記録
    • (244-253頁)元「熊野」航海長・海軍中佐山縣俠一『レイテ還り「熊野」の孤独な戦い』
  • 「丸」編集部小艦艇戦記 海防艦「占守」電探室異状なし』株式会社潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2012年10月。ISBN 978-4-7698-2756-6 
    • (15-72頁)海防艦「占守」電探室異状なし"学徒兵かく戦へり"電探員が見た船団護衛始末記―北村栄作
  • 矢花冨佐勝『駆逐艦勤務 日本海軍兵士の艦上での日常』新風社、2007年8月。ISBN 978-4-289-01255-8 
  • 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6 
    • (73-83頁)戦史研究家落合康夫『艦名別秋月型駆逐艦十二隻の生涯』
    • (207-219頁)当時「浜波」乗組・海軍中尉中沢五郎『オルモック急行「浜波」砲塔に息絶えて 長波、朝霜、若月らと行を共にした第三次多号作戦の悲惨
    • (220-229頁)戦史研究家伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
    • (264-272頁)元「柳」艦長・海軍少佐大熊安之助『松型「柳」艦長三たび痛恨の海に没したけれど 乗艦三隻の最期をみとった駆逐艦長が綴る海の勇者たちへの鎮魂歌
    • (230-238頁)当時「島風」機関長・海軍少佐上村嵐『追随をゆるさぬ最高速艦「島風」の最後 乗員四五〇名のうち生存者たった三名という制空権なき輸送作戦の結末
  • 歴史群像編集部編「PHOTO DOCUMENT 夕雲型駆逐艦「沖波」大破着底」『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡』 第19巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1998年8月、30-33頁。 
  • 歴史群像編集部編『軽巡球磨・長良・川内型 八八艦隊計画の一翼を担った5500トン型軽巡の変遷』 第32巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2001年8月。ISBN 4-05-601918-5 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和18年1月~8月 達/5月(3)』。Ref.C12070118900。 
    • 『昭和18年5~6月内令2巻/昭和18年5月(7)』。Ref.C12070177800。 
    • 『昭和18年11~12月内令5巻/昭和18年11月(6)』。Ref.C12070182500。 
    • 『自昭和19年1月至昭和19年7月内令/昭和19年2月(2)』。Ref.C12070194500。 
    • 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報号外/11月(3)』。Ref.C12070497900。 
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)』。Ref.C12070503600。 
    • 『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030354600。 
    • 『昭和17年9月1日~昭和17年9月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030354700。 
    • 『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030354800。 
    • 『昭和17年11月1日~昭和17年11月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030354900。 
    • 『昭和17年12月1日~昭和17年12月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030355200。 
    • 『昭和17年12月1日~昭和17年12月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030355300。 
    • 『昭和18年1月1日~昭和18年1月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030355400。 
    • 『昭和18年2月1日~昭和18年2月28日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030355500。 
    • 『昭和18年2月1日~昭和18年2月28日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030355600。 
    • 『昭和18年3月1日~昭和18年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030355700。 
    • 『昭和18年3月1日~昭和18年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030355800。 
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    • 『昭和18年7月1日~昭和18年7月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030356600。 
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    • 『昭和18年12月1日~昭和18年12月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030359600。 
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    • 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030126800。 
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    • 『昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030102100。 
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    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(1)第十戦隊』。Ref.C08030037400。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(2)第十戦隊』。Ref.C08030037500。 
    • 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(3)第十戦隊/第十六戦隊』。Ref.C08030037600。 
    • 『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(6)/自昭和十九年十月二十三日至同年十月二十六日 第七戦隊戦斗詳報(菲島沖海戦ヲ含ム)第七戦隊司令部』。Ref.C08030037100。 
    • 『昭和19年10月18日~昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(1)』。Ref.C08030568500。 
    • 『昭和19年10月18日~昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(2)』。Ref.C08030568600。 
    • 『昭和19年10月18日~昭和19年11月5日 軍艦利根戦闘詳報(3)』。Ref.C08030568700。 
    • 『昭和19年5月1日~昭和19年11月25日 軍艦熊野戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030572600。 
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    • 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030102500。 
    • 軍艦高雄『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 軍艦高雄戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030570000
    • 軍艦鈴谷『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月二十五日 軍艦鈴谷戦時日誌』(昭和19年10月1日〜昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(4)軍艦大淀・軍艦鈴谷) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030038300
    • 軍艦鈴谷『軍艦鈴谷戦闘詳報 自昭和十九年十月十八日至昭和十九年十月二十五日』(昭和19年10月18日〜昭和19年10月25日 軍艦鈴谷戦闘詳報) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030568900
    • 多号作戦第二輸送部隊 第一水雷戦隊司令部『昭和十九年十一月四日 多号作戦戦闘詳報第一号(自十九年十月三十一日至十九年十一月四日第二次輸送作戦)』(昭和19年9月1日〜昭和19年11月11日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030087400
  • SS-257, USS HARDER(issuuベータ版)

脚注

[編集]

[編集]
  1. ^ この時点で、第31駆逐隊所属艦は長波のみ。沖波、岸波、朝霜の編入で4隻編制となる。
  2. ^ タウイタウイ出撃時の編成は、大和、武蔵、能代、島風、沖波、野分、山雲。他に別働中の妙高、羽黒、朝雲。
  3. ^ 軽巡洋艦木曾、駆逐艦秋霜初春など。
  4. ^ 崎戸丸乗船者約3900名中、聯隊長含め戦死者約2200名、生存者約1720名内重傷570、兵器資材喪失[77][78]
  5. ^ 安芸丸の船首に魚雷1本命中、速力低下、戦死約30名[78][79]
  6. ^ その後、1コ大隊を残してテニアン島へ進出した。
  7. ^ この時点での攻撃部隊は、戦艦(大和、武蔵)、第五戦隊(妙高、羽黒)、軽巡(能代)、駆逐艦部隊(島風、沖波、朝雲、山雲、野分)。
  8. ^ 第一戦隊(大和、武蔵)、第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海)、第七戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)、第二水雷戦隊(第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波、長波、朝霜〉、夕雲型〈浜波〉、島風型〈島風〉)
  9. ^ 第三戦隊(金剛、榛名)、長門、最上、第十戦隊(一部艦艇欠)
  10. ^ 第二艦隊司令部(司令長官栗田健男中将、参謀長小柳冨次少将)と第一戦隊司令部(司令官宇垣纏中将)は共に「大和」座乗。第一戦隊(大和武蔵長門)、第五戦隊(妙高羽黒鳥海〔臨時編入〕)、第二水雷戦隊(軽巡洋艦能代〔旗艦〕、第2駆逐隊〈早霜秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波藤波〉、島風型〈島風〉)。
  11. ^ サマール島沖海戦に参加した熊野は、駆逐艦ジョンストンの魚雷で艦首を喪失していた[21]

出典

[編集]
  1. ^ a b #S1708舞鎮日誌p.59『五(天候略)〇八三〇 第三四二號艦起工式/薄雲諸工事完了現地ニ向ケ一〇〇〇出港』
  2. ^ a b #S1807舞鎮日誌(2)p.14『十八(天候略)工廠工事 沖波進水』
  3. ^ a b c #S1812舞鎮日誌(1)p.9『沖波 豫定通十二月十日竣工引渡ヲ了ス』
  4. ^ a b c #S士官の手記p.24『31/12總員退去』
  5. ^ a b #S士官の手記p.24『7/1 沖波爆破』
  6. ^ a b 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94a沖波(おきなみ)
  7. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 320–321沖波(おきなみ)
  8. ^ a b #達昭和18年5月(3)pp.4-6『達第百二十一號 昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻、潜水艦三隻、海防艦二隻、驅潜艇二隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年五月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 沖波(オキナミ)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 驅逐艦 岸波(キシナミ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 朝霜(アサシモ)|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第四十六潜水艦|三菱重工會社神戸造船所ニ於テ建造 呂號代四十五潜水艦 呂號第四十七潜水艦|日立造船株式會社ニ於テ建造 海防艦 平戸(ヒラト)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 御藏(ミクラ)|日立造船所株式會社因島造船所ニ於テ建造 第四十六號驅潜艇|川南工業株式會社香焼島造船所ニ於テ建造 第四十七號驅潜艇|株式會社播磨造船所ニ於テ建造 特務艦 波勝(ハカチ)』
  9. ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 226沖波(おきなみ)
  10. ^ a b #S1708舞鎮日誌p.5『(1)新造艦船工事 前月ニ引續キ巻波、初月、島風ノ艤装工事、第三四〇號、第三四一號艦ノ建造工事及本月五日起工セル第三四二號艦建造工事ハ何レモ順當ニ進捗シ巻波ハ十八日完成引渡シヲ了セリ』
  11. ^ #S1812舞鎮日誌(2)p.6『十(天候略)沖波竣工引渡』
  12. ^ a b #S1812十一水戦(1)p.5『備考 一.岸波十二月三日附、沖波十日附11sdニ編入』
  13. ^ a b c #内令昭和19年2月(2)、p.18〔 内令第三百十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年二月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、巻波、大波」ヲ「長波、岸波、沖波、朝霜」ニ改ム 〕
  14. ^ a b 山本ほか、秋月型 2015, p. 226a沖波(おきなみ)
  15. ^ a b 山本ほか、秋月型 2015, pp. 226b-227岸波(きしなみ)
  16. ^ a b c d 戦史叢書12巻〔付表第一〕『聯合艦隊主要艦艇行動表(昭和十九年一月一日~六月二十五日)』〔沖波〕
  17. ^ a b c 戦史叢書12巻507-509頁『第三次渾作戦』
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  19. ^ a b 戦史叢書37巻390-391頁『第一遊撃部隊の編制』
  20. ^ a b 重巡洋艦戦記23-25頁『▽レイテ沖海戦を終えて』
  21. ^ a b c 重巡十八隻117-119頁(七戦隊、レイテ)
  22. ^ a b c d e 戦史叢書56巻355-356頁『「鈴谷」の最期』
  23. ^ a b c d #S士官の手記pp.20-21『一四〇〇頃「ミンドロ」島南方「セミララ」島海岸近くクニ早霜深泊中ナルヲ發見当時早霜被爆ノ爲一番砲ヨリ前部切断燃料海水混入ノ爲使用不能大部残額僅ニ五トン沖波モ九五トン位ナリシモ艦長ハ之ニ對シ三〇噸ノ補給ヲ計畫横付シ約十二、三トンノ補給終シシ時敵艦爆十数機ノ急襲ヲ受ケ両艦ノ離シ終ラザルニ初弾落下之ト交戦戦果被害ナシ』
  24. ^ a b c 戦史叢書56巻481-482頁『「熊野」等別働艦の行動』
  25. ^ a b #S19.10.18~10.31経過概要p.25『41dg 61dg→2YBヘ 31dg→2YB 大淀→1YBヘ夫々編入(1YB 2YB増勢)』
  26. ^ a b c 戦史叢書56巻507-508頁『護衛艦艇のマニラ集結』
  27. ^ a b #S士官の手記pp.22-23『5/11 多號作戰待機中ノ1sd 2sdノ主力「マニラ」港内ニ集結船團モ多數碇泊セルモ敵機ハ主目標ヲ「ニコラス」飛行場及防波堤外ノ艦船ニ向ケ防波堤内ノ艦船ニハ攻撃ヲ殆ド加ヘズ堤外ニテ之ノ敵ヲ砲撃セシモノ那智、沖波他ニ驅潜艇一商船一、〇七三〇頃六〇機來襲、一〇〇〇百機來襲、一二〇〇 四〇機、一四三〇 八〇機來襲此ノ日ノ戰闘ハ快晴ナレドモ雲低ク敵機ハ之ヲ利用シ急降下ス、激烈ヲ極メシ戰闘ヲ續ケ沖波機銃員ノ被害漸大、被爆ノ爲電灯消ユ、機械一時停止主砲人力等最後ノ空襲ニ依リ艦長重傷一六〇〇那智救助ニ向ヒ間モナク來着セル病院船ト協力、全部救助、沖波戰死十籔名、重輕傷多數、艦長入院、翌日ノ被攻撃ヲ避ケ出港、戰果撃墜二機』
  28. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 33.
  29. ^ a b 戦史叢書56巻543-545頁『十一月十三日の空襲、「木曾」、駆逐艦等の沈没』
  30. ^ #内令昭和18年5月(7)、pp.4-5〔 内令第千二十七號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十八年五月二十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|駆逐艦、一等夕雲型ノ項中「濱波」ノ下ニ「、沖波、岸波、朝霜」ヲ加フ(以下略) 〕
  31. ^ #S1807舞鎮日誌(1)p.7『(1)新造艦船工事 早波 艤装工事竝ニ諸公試終了三十日引渡ヲ了ス/濱波 艤装工事豫定通進捗中/沖波 十八日進水艤装工事進捗中/第三四五號艦・第三六一號艦 船臺ニ在リテ建造工事豫定通進捗中/第四六號驅潜特務艇 佐賀造船所ニ於テ新造工事完了五日回航十三日整備完了引渡ヲ了ス』
  32. ^ a b 昭和15年9月28日(発令9月27日付)海軍辞令公報(部内限)第535号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078900 
  33. ^ 牧野は、1942年(昭和17年)10月17日、アメリカ軍機の空襲により吹雪型駆逐艦沈没・初春大破時の艦長。
  34. ^ 昭和17年11月16日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第988号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072088200 
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  36. ^ a b 昭和18年11月10日(発令11月6日付)海軍辞令公報(部内限)第1257号 p.19」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094300 
  37. ^ 昭和18年11月16日(火)海軍公報(部内限)第四千五百四十二号 p.35」 アジア歴史資料センター Ref.C12070442600 『○事務開始 沖波艤装員事務所ハ十一月十日舞鶴海軍工廠ニ於テ事務ヲ開始セリ|呂號第四十五潜水艦艤装員事務所ハ十一月十日三菱神戸造船所内ニ於テ事務ヲ開始セリ』
  38. ^ 昭和18年12月20日(月)海軍公報(部内限)第四千五百七十号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C12070443300 『○事務所撤去 沖波艤装員事務所ハ十二月十日之ヲ撤去セリ』
  39. ^ a b c 昭和18年12月10日(発令12月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1278号 p.19」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094800 
  40. ^ a b #ハンディ判艦艇写真集17(駆逐艦『陽炎型・夕雲型・島風』行動年表)p.137◆沖波◆
  41. ^ a b 昭和18年12月17日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1283号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900 
  42. ^ #S1812十一水戦(1)p.7『(イ)主要職員氏名』
  43. ^ #S1812十一水戦(1)p.6『(軍隊区分)訓練部隊|(指揮官)11sd司令官|(兵力)龍田朝霜岸波沖波|(指揮官)山城艦長|(兵力)2D/2S〔山城伊勢日向〕|主要任務(一)新造駆逐艦ノ急速戰力練成戦備促進 (二))水上艦艇ノ訓練統制 (三)練習生乗艦實習指導 (四)日本近海ニ出現スル敵艦艇攻撃及対潜警戒(特令ニ依ル)』
  44. ^ #S1812十一水戦(1)p.10『(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦ノ行動』
  45. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.15『(春雨)横須賀ニ於テ修理中ノ所十日修理工事完成/十六日訓練ノ爲内海西部ニ向ケ横須賀発(途中假泊)十九日桂島着二十八日迄諸訓練ニ従事/二十九日燧灘ニ於テ山城時雨ニ合同以下27dg(時雨)ニ仝ジ』
  46. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.15『27dg(時雨)(略)二十九日司令交代(海軍大佐白濱政七)呉発山城春雨ニ合同燧灘假泊/三十日春雨ト共ニ山城護衛假泊地発/三十一日横須賀着』
  47. ^ #S1812十一水戦(1)p.37『三十日〇八一五山城艦長(宛略)山城時雨春雨沖波朝霜横須賀ニ向ケ内海西部発〇六三〇』
  48. ^ #S1812二水戦日誌(1)p.73『三十一(天候略)27dg(時雨春雨)一五三〇横須賀着|27dg(時雨春雨)山城ヲ護衛横須賀着』
  49. ^ #S1812十一水戦(1)p.46『三一日(天候略)山城朝霜沖波時雨横須賀着』
  50. ^ #S1812十一水戦(1)p.68『四(天候略)沖波朝霜内海西部ニ向ケ日一〇〇〇横須賀発』
  51. ^ #S1812十一水戦(1)p.55『四日一〇〇〇沖波(宛略)沖波朝霜内海西部ニ向ケ横須賀発』-『五日一九〇二11sd司令官(宛略)沖波朝霜内海西部着』
  52. ^ #S1812十一水戦(1)p.51『(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動』
  53. ^ #S1812高雄日誌(2)p.2『爾後之ヲ警戒シツツ北上ソノ間雲鷹ノ航行危険ニ瀕スル毎ニ曳航ヲ試ミルコト三度ニ及ビタルモ敵潜ノ攻撃ニ加フルニ荒天ノ為成功スルニ至ラズ』
  54. ^ #S1812高雄日誌(2)p.33『当時雲鷹ハ艦首ニ雷撃ヲ受ケ平水ニテ最大實速七節荒天時保針不能漂白ノ已ムナキ状態ニシテ…』
  55. ^ #S士官の手記p.4『19-1/29 雲鷹救援ノ爲父島海面ニ向ケ桂島發護衛部隊、高雄以下十五隻』
  56. ^ #S1812高雄日誌(1)p.17『(5日)沖波、岸波合同』
  57. ^ #S1809一水戦日誌(4)p.62『六日(司令)7dg(宛略)機密第〇六〇六〇〇番電 雲鷹護衛ノ爲七駆ヲ率ヰ横須賀發』
  58. ^ #S1812高雄日誌(1)pp.43-44『(高雄)1日|1052雲鷹ニ合同』-『5日|2045重油補給ノタメ雲鷹ト分離』-『6日|0910横須賀入港/2249出港』-『7日0440雲鷹ニ合同/2003横須賀入港』
  59. ^ #S1812高雄日誌(2)p.33『爾後漸次増援アリテ横須賀入港時11隻、高雄搭載機零水1他ニ内地航空隊ノ対潜哨戒機延5機ノ協力ヲ得タリ』
  60. ^ #S1806二水戦日誌(4)p.19『7日高雄→2420(将旗2sd司令官)能代|雲鷹ハ東京湾ニ入港任務終了』
  61. ^ #S1809一水戦日誌(4)pp.52-53『(二)水雷部隊ノ行動』
  62. ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 227b朝霜(あさしも)
  63. ^ #S1812二水戦日誌(4)p.4『(1)上旬 十日附三十一駆長波ニ(岸波、沖波、朝霜)編入』
  64. ^ a b c #S1812二水戦日誌(4)p.13『(6)31dg(岸波沖波朝霜)十日附31dgヲ右三艦及長波ノ四隻ト改メラレ2sdニ編入セラル/二十五日迄内海西部ニ在リテ教育訓練及出撃準備ニ從事/二十六日重要船團タル安藝丸船團(崎戸丸東山丸)ヲ護衛宇品発/二十九日〇二五二朝霜25°43′N130°21′Eニ於テ敵浮上潜水艦ヲ電探ニテ探知照射砲撃ニ依リ撃沈ス 仝日夕刻一七五五22°40′N131°50′Eニ於テ崎戸丸安藝丸雷撃ヲ受ケ崎戸丸沈没安藝丸ハ航行可能 安藝丸東山丸ハ沖波之ヲ護衛「サイパン」ニ向ハシメ岸波朝霜敵潜攻撃朝霜之ヲ撃沈ス人員救助敵潜制圧後両艦船團ニ向フ』
  65. ^ a b 戦史叢書12巻〔付表第一〕『聯合艦隊主要艦艇行動表(昭和十九年一月一日~六月二十五日)』〔岸波〕
  66. ^ a b 駆逐艦勤務94-95頁『第三十一駆逐隊』
  67. ^ 昭和18年12月10日付 海軍辞令公報(部内限)第1278号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094800 
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  69. ^ a b c 戦史叢書12巻130-131頁(崎戸丸遭難状況)
  70. ^ 戦史叢書12巻〔付表第一〕『聯合艦隊主要艦艇行動表(昭和十九年一月一日~六月二十五日)』〔朝霜〕
  71. ^ 戦史叢書12巻84-86頁『陸軍兵力配備の検討』
  72. ^ 戦史叢書6巻300-302頁『第二十九師団の派遣と第一派遣隊のサイパン転用』
  73. ^ このうちの一人が横井庄一
  74. ^ 戦史叢書12巻100頁『中南部太平洋派遣兵団等の検討』
  75. ^ a b c 海上護衛戦(角川文庫)216-218頁『17 内南洋での遭遇戦準備』
  76. ^ a b 戦史叢書6巻382-387頁『第二十九師団の到着と配備』
  77. ^ #S19.02船舶(沈没)p.10『19-2|29|0300|沖大東島S方|埼戸丸|太平洋 陸軍|九二四五|朝霜、岸波、沖波|敵(潜水艦)ノ雷撃ニ依リ沈没』
  78. ^ a b c d e 戦史叢書6巻305-307頁(被害状況)
  79. ^ #S19.02船舶(損傷)p.3『19-2|29|0300|沖大東島S方|安藝丸|太平洋| | |敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケタルモ損害軽微』
  80. ^ 潜水艦攻撃100-102頁『(31)トラウト(米)/1944年2月29日〈駆逐艦「朝霜」による〉』
  81. ^ 戦史叢書12巻148頁『東松三号特船団』
  82. ^ a b 戦史叢書46巻363-364頁『東松三号特別船団』
  83. ^ #山陽丸(7)p.58『二八|「トラック」着|人員及軍需品ノ陸揚搭載』
  84. ^ 戦史叢書12巻522-523頁『第一機動艦隊等の状況』
  85. ^ #あ号詳報(2)pp.23-24『(3)谷風「タウイタウイ」在泊中ノ所二日港外ニ出動六十一駆浦風ト共ニ對潜掃蕩ニ從事翌三日泊地ニ皈投ス爾後警戒待機中ノ所九日磯風島風早霜ト共ニ港外ニ出動敵潜掃蕩中「ボンガオ」島ノ二二九度九浬ニ於テ敵潜ノ攻撃ヲ受ケ被雷沈没セリ』
  86. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 93「谷風(たにかぜ)」
  87. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 309–310谷風(たにかぜ)
  88. ^ a b 戦史叢書46巻446-447頁『米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧表』
  89. ^ #S士官の手記pp.9-10『沖波ハ應急出動艦トシテ直ニ出動、谷風艦長以下約2/3乗員救助帰投』
  90. ^ 戦史叢書6巻436-437頁『連合軍のビアク島進攻と「渾作戦」/連合軍のビアク島上陸』
  91. ^ 駆逐艦勤務189頁『「渾作戦」発動』
  92. ^ #サイパン・レイテ海戦記36-39頁『IIIビアク来攻と渾作戦』
  93. ^ 戦史叢書6巻441-442頁『「渾」作戦の再興―不成功』
  94. ^ 戦史叢書6巻442頁『米機動部隊主力のメジュロ出港―「あ号作戦決戦準備」』
  95. ^ a b #サイパン・レイテ海戦記40頁
  96. ^ a b c #戦藻録(1968)340-341頁『六月十日 土曜日 半晴』
  97. ^ 武藏2009文庫上巻469頁
  98. ^ #あ号詳報(2)pp.12-13『(二)七日5S 10dgハ再ビ渾作戰部隊ニ編入セラレ同日「ダバオ」出港九日「バチヤン」泊地着輸送隊(16S浦波敷波)ト合同同泊地ニテ待機ス 「ダバオ」出撃時七日夜風雲敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ十日1S(長門欠)2sd(能代島風沖波)渾部隊ニ編入セラル』
  99. ^ a b 武藏2009文庫上巻470-471頁
  100. ^ #あ号詳報(2)p.6『十日(略)第一戰隊(大和武藏)第二水雷戰隊(能代沖波島風)ヲ率ヰ「タウイタウイ」發』
  101. ^ 野分物語 2004, p. 194.
  102. ^ a b #サイパン・レイテ海戦記38頁『渾作戦各部隊行動図』
  103. ^ #あ号詳報(2)p.20『(2)野分、山雲 三日「タウイタウイ」泊地発第二補給部隊ヲ港外七十浬迄護衛シタル後途中ニテ反転四日「タウイタウイ」皈着 九日野分第一哨艦ノ配備ニ就キタル外同日迄ノ経過概ネ満潮ト同断/十日渾部隊ニ編入「タウイタウイ」出撃1Sノ警戒ニ任ジツヽ十二日「バチヤン」泊地着司令駆逐艦ヲ野分ニ変更ス/十三日「あ號作戰決戰用意」発令ニ伴ヒ原隊ニ復皈同日「バチヤン」泊地出撃比島東方洋上ニ進出、十六日KdB前衛ニ合同翌十七日本隊ニ合同之ガ警戒ニ任ジツゝ十九、二十日敵KdBト交戰々果被害ナク味方不時着搭乗員ヲ数名救助セリ、二十二日中城湾着/二十三日満潮ト合同司令驅逐艦ヲ同艦ニ復皈ス、爾後ノ経過概ネ満潮ト同断』
  104. ^ 「SS-257, USS HARDER」p.231
  105. ^ #サイパン・レイテ海戦記41-42頁
  106. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, p. 272水無月(みなづき)
  107. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, p. 320早波(はやなみ)
  108. ^ 「SS-257, USS HARDER」p.252、木俣『日本戦艦戦史』373ページ
  109. ^ a b c #S士官の手記pp.11-12『1400沖波ハ左舷35°約五〇〇〇米ニ敵潜望鏡發見、緊急信號ト共ニ左回頭増速潜望鏡ニ向鏡之ニ殺到セリ 敵(潜水艦)ハ大和武藏等ニ氣ヲ奪ハレシモノノ如ク(或ハ僚艦トノ協同戰闘ヲ策セルカ)沖波ガ至近距離ニ到ル迄五回程潜望鏡ヲ上グ、沖波ハ其ノ都度小長針路修正常ニ之ヲ正舟首ニ保チ肉迫、敵潜ハ舟首400ニ至リ潜望鏡ヲコチラニ向ケタルモ一米以上露出セシ灰白色ノ潜望鏡ヲ引込ムヤ否ヤ窮鼠ノ勢猛然ト反撃ニ出テ魚雷二本發射之ハ沖波右舷約七米ヲ平行ニ通過沖波ハ直ニ三回ニ亘ル爆雷攻撃ヲ加ヘ確実ニ撃沈丁度上空ニ飛來セシ直衛機ヨリ「唯今ノ爆雷投射見事」ノ語受ケ昨夜ノ谷風ノ仇ヲ討ツ』
  110. ^ 「SS-257, USS HARDER」p.232,252
  111. ^ 「SS-257, USS HARDER」p.232、木俣『日本戦艦戦史』373ページ
  112. ^ #戦藻録(1968)342-343頁『六月十二日 月曜日 晴 バチヤン泊地集合。』
  113. ^ #あ号詳報(2)pp4-5『(イ)第一機動艦隊 前月中旬來其ノ全力ヲ「タウイタウイ」ニ集結決戰即應ノ態勢ヲ持シアリシトコロ敵ノ「ビアク」攻略作戰ニ對應スル爲前月末一部ノ兵力ヲ之ニ向ケラレタルモ所期ノ成果ヲ得ラレザリシヲ以テ更ニ本月十日第一戰隊(長門欠)第二水雷戰隊(能代沖波島風)ヲ渾部隊ニ増勢セラレ右作戰部隊ハ十二日「バチヤン」泊地ニ其ノ大部ノ集結ヲ了シ作戰準備中新ニ敵ノ「マリアナ」進攻作戰ニ依リ渾作戰ハ一時中止ノ止ムナキニ至リ右部隊ハ十六日「パラオ」北西方ニ於テ機動部隊本隊ニ合同…』
  114. ^ 戦史叢書6巻446-447頁『艦砲射撃開始―米軍の上陸企図を警戒』
  115. ^ #戦藻録(1968)343-344頁『六月十三日 火曜日 晴 サイパン攻略戰。あ號作戰決戰用意下令。』
  116. ^ a b c 戦史叢書12巻566-567頁『六月十七日までの状況』
  117. ^ 戦史叢書6巻448-449頁『大本営の敵情判断と聯合艦隊の「あ号作戦決戦用意」』
  118. ^ #あ号詳報(2)p.7『十三日輸送及攻撃準備概成セル處「あ」號作戰決戰用意」發令ト共ニ渾作戰ハ一時中止セラレ第一戰隊(大和武藏)第五戰隊第二水雷戰隊(能代沖波島風)朝雲第四驅逐隊(山雲野分)ヲ原隊ニ復歸セシメラル 右諸部隊ヲ率ヰ機動部隊本隊ニ合同ノ爲「バチヤン」泊地ヲ出撃ス』
  119. ^ #あ号詳報(2)pp.21-22『(2)朝雲 七日迄ノ経過風雲ト同断/八日風雲遭難ニ際シ乗員救助、九日「バチヤン」着 燃料補給ノ上十地日「サムバキ」ニ囘航十二日出動 1S嚮導ノ上即日皈投 翌十三日「あ號作戰決戰用意」発令ニ伴ヒ渾作戰一時中止原隊ニ復歸「サムバキ」出撃1S 5Sノ警戒ニ任ジツゝ比島東方海面ニ進出 十七日KdB本隊ニ合同ス 十九日、二十日敵KdBト交戰敵機撃退味方搭乗員救助等ニ任ジ、二十一日燃料残額ノ関係上單獨中城湾ニ囘航、二十二日同地着燃料補給ノ上二十三日同地発 本隊ノ警戒ニ任ジツゝ内海西部ニ囘航 二十四日桂島泊地着 二十六日呉ニ囘航爾後十三號電探、單装機銃装備工事等ニ從事ス』
  120. ^ 野分物語 2004, p. 195.
  121. ^ #生出、黛239頁
  122. ^ #淵田,奥宮(1992)390-391頁
  123. ^ #S士官の手記pp.12-13『總攻撃當日本隊ト前衛(第一部隊ト第二部隊ト呼稱セル如ク記憶ス)トノ連絡不充分第一部隊攻撃部隊ハ前衛ノ對空砲火ヲ受ケ前途ニ暗影ヲ投グ、第十一群中味方識別艦艇ヲ爲シ砲火ヲ開カザリシハ沖波ノミ…』
  124. ^ 武藏2009文庫上巻479頁
  125. ^ #淵田,奥宮(1992)429-430頁
  126. ^ #戦藻録(1968)360-361頁『六月廿二日 木曜日 雨後曇』
  127. ^ #S士官の手記p.14『26/6 沖縄發、九州南方ヨリ桂島及佐世保ニ向フ、岸波、沖波ハ宿毛湾後摩耶横須賀ニ向フ』-『30/6 横須賀着、整備待機、「あ」號作戰終結』
  128. ^ 戦史叢書12巻588-590頁『六月二十一日以後の状況』
  129. ^ a b c 重巡十八隻92-95頁『レイテ突入を前に二隻沈没』
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  134. ^ a b 戦史叢書37巻384-386頁『中城湾以後の甲部隊の行動』
  135. ^ a b 戦史叢書37巻386頁『乙部隊の行動』
  136. ^ 重巡摩耶 2002, p. 225.
  137. ^ 駆逐艦勤務232頁『訓練の内容』
  138. ^ 駆逐艦勤務234頁『ボルネオへ』
  139. ^ 重巡十八隻273-275頁『捨て身の殴り込み』
  140. ^ 戦史叢書56巻138頁『挿図第六、第一遊撃部隊主隊行動図(十月二十二日~二寿三日)』
  141. ^ #愛宕戦闘詳報所見p.4『尚二番艦高雄ハ本艦(愛宕)被雷時ヨリ1分後、第五戦隊三番艦ノ位置ニ占位セル摩耶ハ午前六時五十六分頃被雷、高雄ハ航行不能摩耶ハ轟沈セリ』
  142. ^ 重巡洋艦戦記21-22頁『▽パラワン沖の悲劇』
  143. ^ #生出、黛268-271頁『旗艦沈没』
  144. ^ 重巡十八隻342頁『愛宕(あたご)』
  145. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 247–252葬送
  146. ^ 重巡十八隻343-344頁『摩耶(まや)』
  147. ^ 重巡十八隻341-342頁『高雄(たかお)』
  148. ^ 戦史叢書56巻143頁『挿図第八、「愛宕」被雷時の隊形』
  149. ^ #愛宕戦闘詳報所見p.5『(四)本艦乗員ノ状況 (1)岸波及朝霜ニ救助セラレタル者:艦長以下准士官以上44名、下士官兵667名、傭人2名 (2)戦死者:機関長以下准士官以上19名、下士官兵340名、傭人1名 (3)重傷者:准士官以上2名、下士官兵3名 尚朝霜長波2艦ハ爾後高雄ノ警戒ニ當リツツ仝日夕刻迄附近海面ヲ行動セリ』
  150. ^ #高雄対潜戦闘p.6『0832大和→朝霜/朝霜ハ高雄ノ護衛ヲ続行スベシ|朝霜愛宕乗員ノ救助ヲ終リ本艦ノ警戒ニ就ク』-『0849大和→長波・朝霜/長波朝霜ハ今ヨリ高雄艦長ノ指揮ヲ受ケ護衛ニ任ゼヨ』
  151. ^ #サイパン・レイテ海戦記150頁
  152. ^ 戦史叢書56巻151-152頁『「高雄」ブルネイに回航』
  153. ^ #レイテ岸波詳報p.6『一六二〇|(司令官)能代|2sd|〃|作業終了後岸波(沖波)鳥海ノ一一(一二)能代ハ大和ノ二一ニ就ク』
  154. ^ #サイパン・レイテ海戦記159頁『対空警戒航行序列(輪形陣)』
  155. ^ 重巡十八隻275-277頁『修羅場と化したミンドロ沖の決闘場』
  156. ^ #サイパン・レイテ海戦記166頁
  157. ^ 重巡洋艦戦記23頁『▽サマール沖海戦』
  158. ^ #戦藻録(1968)419-420頁『十月廿五日(×日)水曜日 日出0627日没一八一七 朝スコール所々。決戰第二日』
  159. ^ #戦藻録(1968)427頁(註十七)
  160. ^ 軽巡二十五隻227-229頁『ひきとめられた水雷戦隊』
  161. ^ 重巡十八隻277-280頁『旗艦が鈴谷にうつる』
  162. ^ a b 重巡十八隻280-282頁『全乗員退艦せよ』
  163. ^ 重巡洋艦戦記214頁『炸薬に誘爆』
  164. ^ 重巡十八隻346-347頁『鈴谷(すずや)』
  165. ^ a b 重巡洋艦戦記215-216頁『静かなる最期』
  166. ^ a b #生出、黛328頁
  167. ^ #S1910利根詳報(1)p.36『1214|(司令官)7S→沖波雪風 發光「利根ノ短艇ヲ使用シ極力人員ヲ救助シタル後「カッター」艇員ヲ収容シ來レ』
  168. ^ #捷号詳報(2)第十戦隊p.56『二五1140(司令官)10S→雪風|皈レ』
  169. ^ #S士官の手記pp.18-19『…尚、此ノ時炎上中ノdヲ更ニ砲撃セントシアリシ鈴谷ハ敵fb三機ノ攻撃ヲ受ケ發射管附近至近弾ノ為火災、魚雷誘爆シ航行不能沖波ハ鈴谷警戒ヲ命ゼラレシ竝ニ艦隊ト分離單艦行動トナル(艦隊ハ燃料不足、敵KDBノ南北ヨリ協議、「レイテ」突入時機失等ノ理由及GF長官ヨリノ命ニ依リ反轉「パラワン」経由昭南ニ向フ)鈴谷沈没後約六時間ニ亘ル救助作業ヲナス』
  170. ^ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.33『一二一四|(司令官)利根→沖波「沈ミサウデナイトキハ最後ニ魚雷ヲ以テ處分シ来レ」』
  171. ^ #サイパン・レイテ海戦記316頁
  172. ^ a b c 『軍艦鈴谷戦時日誌』pp.69
  173. ^ #S士官の手記p.20『(利根乗員十一名中戰死四名(田中大尉述)』
  174. ^ #S士官の手記p.20『沖波艦長ノ武士ノ面目彼等ヲ見捨テテハ相立チ申サズノ信念ニ長時間ノ困難ナル救助敢行日没時ニ到リ鈴谷艦長トノ話會ノ上作業打切リ艦隊追及』
  175. ^ #サイパン・レイテ海戦記338-339頁
  176. ^ 軽巡二十五隻200-201頁『▽能代が辿った二時間の死闘』
  177. ^ 戦史叢書56巻474-475頁『「沖波」』
  178. ^ 木俣『日本水雷戦史』527ページ
  179. ^ #S士官の手記pp.20-21『比島沖海戰第三日(26/10)』
  180. ^ a b c #S士官の手記続編p.7『1400/26 「ミンドロ」島南方「セミララ」島南岸ニ於テ沖波ハ早霜ニ重油50Tヲ補給中「ミンドロ」島寄リニ藤波ノ西航スルヲ認メ(約10000米)タルモ1430/26敵fbノ攻撃ヲ受ケツツアリシヲ確認間モナク轟沈ラシキ火焔黒煙ヲ認メタリ當時藤波ハ単艦ニシテ既ニ鳥海ハ藤波魚雷ニテ處分シアリキ』
  181. ^ 重巡摩耶 2002, pp. 261–263.
  182. ^ #S士官の手記p.21『日没時「パラワン」島「コロン」着補給(早霜ハ其ノ後「セミララ」島ニ坐礁司令以下「マニラ」ニ皈リタルモ先任将校69期田中秋文大尉ハ三十数名ヲ指揮之ニ残リタリ其ノ後GKFノ優柔ヤ先見ノ明ナキ爲遂ニ之ガ所置ナク米軍ノ「ミンドロ」島上陸トナリ遂ニ救出出來ザリシト聞ク)』
  183. ^ #サイパン・レイテ海戦記394頁
  184. ^ #地獄のレイテ輸送作戦29-30頁『「不知火」不運』
  185. ^ #S1905熊野日誌(4)p.37『10月27日0030頃/警戒艦タル浜風藤波未着ナルモ空襲ノ状況ト測量トニ鑑ミ先行スルニ決シ行動予定ヲ日栄丸ニ托シ単艦出港ス』
  186. ^ #S1905熊野日誌(4)p.39『10月27日0500頃/沖波追及合同ス』
  187. ^ #捷号日誌(3)第7戦隊pp.37-38『27日1840 熊野→清霜、浜波/熊野機密第271810番電 熊野 沖波 28日0730「マニラ」着の予定』『28日0129浜風→1YB/一. 浜風、清霜28日熊野ニ合同 任務終了後「ブルネイ」ニ進出ノ予定 二. 「コロン」ニ於テ応急修理班ノ用意無キニ付乗船中』
  188. ^ #S1905熊野日誌(4)p.39『10月28日0730「熊野沖波「マニラ」着」』
  189. ^ #S士官の手記pp.21-22『30/10 多號作戰、玉船團(近衛師團主力約一五〇〇〇)護衛「レイテ」島「オルモツク」ニ向フ1sd沖波沖縄ソノ他海防艦、沖波ハ浸水百噸ノ儘作戰ニ参加』
  190. ^ 戦史叢書56巻508-509頁『米機動部隊のマニラ空襲(十月二十九日)』
  191. ^ a b 戦史叢書56巻515頁『第二次輸送部隊の行動/編制』
  192. ^ 占守電探室異状なし57-59頁『決戦場レイテ島へ』
  193. ^ a b c #地獄のレイテ輸送作戦32-37頁『最大規模の第二次輸送作戦』
  194. ^ a b c 戦史叢書56巻515頁『出撃』
  195. ^ 『多号作戦戦闘詳報第一号』pp.67
  196. ^ a b 戦史叢書56巻515-516頁『揚搭中の警戒』
  197. ^ 戦史叢書56巻517頁『挿図第四十、対空戦闘概要図(十一月二日1250~1305)』
  198. ^ 戦史叢書56巻516頁『能登丸の沈没』
  199. ^ 戦史叢書56巻518頁『成果』
  200. ^ 『多号作戦戦闘詳報第一号』pp.19
  201. ^ a b c d e 戦史叢書56巻518頁『復航海、「輸送百三十一号」の救難』
  202. ^ #S士官の手記p.22『4/11マニラ着』
  203. ^ 重巡十八隻338頁『那智(なち)』
  204. ^ #戦藻録(1968)434-435頁『十一月五日 日曜日 晴』
  205. ^ 戦史叢書56巻521-523頁『米機動部隊のルソン来襲』
  206. ^ 日本軽巡戦史603-605頁『木曽、マニラに死す(十一月)』
  207. ^ 軽巡二十五隻187-188頁『▽殺し屋に狙われた木曾』
  208. ^ 歴群32、球磨型・長良型・川内型 2001, p. 181.
  209. ^ #S士官の手記p.24『14/11 「マニラ」地區空襲、五〇〇機、木曾沈没』
  210. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 281–282曙(あけぼの)
  211. ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 287–288初春(はつはる)
  212. ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 228秋霜(あきしも)
  213. ^ #S1909一水戦日誌(2)p.11『(4)十一日第三次輸送部隊オルモック湾ニ於テ敵機動部隊ノ攻撃ヲ受ケ全滅ノ報ニ接シ十二日敵機動部隊來襲必死ト豫期シ那智ノ戰例ニ鑑ミ木曽ヲ湾内ニ轉錨セシメ警戒ヲ厳ニセルモ敵機ヲ見ズ翌十三日朝來敵艦上気群反覆來襲「マニラ」港及「キヤビテ」港在泊艦船ヲ攻撃所在麾下艦船全砲火ヲ以テ之ニ對セルモ及バズ初春曙大破潮中破〔外ニ秋霜沖波木曽大破〕ノ被害アリ…』
  214. ^ #地獄のレイテ輸送作戦50-51頁『マニラ湾の地獄』
  215. ^ #霞詳報(マニラ空襲)p.7『一一二〇幕煙展張セシモ効果ナシ初春沈没』-『一三三〇 SBD数十機右一〇〇度ヨリ降下来襲 三機撃墜至近弾数発 木曽沈没着底 沖波沈没着底』
  216. ^ a b #S士官の手記pp.23-24『13/11 「マニラ地區空襲、五〇〇機 〇八〇〇第一回約八〇機來襲〔飛行場〕及港内艦船攻撃SB2O二機撃墜 〇九三〇第二回八〇機來襲、沖波被爆 艦尾右舷一五〇度高度二五〇〇ヨリ急降下スルfb三機ノ攻撃ニ依リ機關室ニ被弾蒸氣噴出ト共ニ火災發生、機械室、仙頭機長ヲ除キ機關長以下總員戰死、其後幾度カ來襲スル敵機ト交戰シツツ消火ニ從事朝霜、沖縄等ノ協力ニ依リ陸岸近ク迄移動シツツ消火約六時間ノ後消火成功、浸水次第ニ多ク發電機使用不能、着底乗員ノ大部ヲ陸上ニ移シ艦長以下三十余名残ル初春火災沈没』
  217. ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 31.
  218. ^ #S士官の手記p.24『15/11〜31/12 約八回ノ空襲アリ對空戰闘ヲ行フモ戰果ナシ、砲術長以下約三〇名』
  219. ^ #10月18日以降増援兵力p.1『(方面)北比|(地區)マニラ|(所轄)沖波|(進出期日 編制期日)一九四四 一一.一三|(員数)一七八』
  220. ^ 戦史叢書56巻548-549頁『ブルネイに避退す』
  221. ^ 日本水雷戦史562-563頁『第一水戦、ブルネイへ脱走』
  222. ^ #S1909一水戦日誌(2)p.11『…敵情尚翌十四日來襲ノ算アリタルヲ以テ急遽「ブルネー」ニ回航待機スルコトトナリ第一警戒部隊〔霞(旗艦)七駆(潮)《應急修復左舷一軸航行可能》二十一駆(初霜)《第五艦隊司令部便乗》三十一駆(朝霜)〕及竹ヲ率ヰ十三日二三三〇「マニラ」ヲ出撃セリ』
  223. ^ a b 昭和19年11月25日付 海軍辞令公報(甲)第1654号 p.50」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000 
  224. ^ #S士官の手記p.24『10/12 艦長転勤、艦長代理島村大尉、31/12總員退去』
  225. ^ a b 三号輸送艦帰投せず118頁
  226. ^ 昭和19年12月11日付 海軍辞令公報(甲)第1669号 p.14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102300 
  227. ^ #秘公報昭和20年1月(2)、p.2〔 内令第一六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和二十年一月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等ノ部中「八十島」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「神鷹、」、同敷設艦ノ部中「、厳島」ヲ削ル 驅逐艦、一等峯風型ノ項中「、萩風」ヲ、同「卯月型 卯月、夕月」ヲ、初雪型ノ項中「曙、」ヲ、同初春型ノ項中「初春、」ヲ、同満潮型ノ項中「満潮、朝雲、山雲、」ヲ、同不知火型ノ項中「、浦風」「、野分」ヲ、同夕雲型ノ項中「長波、濱波、沖波、岸波」「、早霜、秋霜」ヲ、同秋月型ノ項中「、若月、霜月」ヲ、同「島風」ヲ削ル(以下略) 〕
  228. ^ #秘公報昭和20年1月(2)、pp.8-10〔 内令第二九號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 厳島/呉鎮守府在籍 軍艦 八十島/舞鶴鎮守府在籍 軍艦 神鷹/右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 曙、驅逐艦 満潮、驅逐艦 朝雲、驅逐艦 山雲、驅逐艦 野分、驅逐艦 早霜、驅逐艦 秋霜、驅逐艦 若月、驅逐艦 霜月/呉鎮守府在籍 驅逐艦 浦風、驅逐艦 島風/佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 秋風、驅逐艦 卯月、驅逐艦 夕月、驅逐艦 初春/舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 長波、驅逐艦 濱波、驅逐艦 沖波、驅逐艦 岸波/右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和二十年一月十日海軍大臣 〕
  229. ^ #秘公報昭和20年1月(2)、p.7〔 昭和二十年一月十日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「早霜、秋霜」ヲ削ル|第四驅逐隊ノ項ヲ削ル|第七驅逐隊ノ項中「曙、」ヲ削ル|第十七驅逐隊ノ項中「浦風、」ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、」ヲ削ル|第三十驅逐隊及第三十一驅逐隊ノ各項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「霜月、」及「、若月」ヲ削ル 〕
  230. ^ #S1911二水戦日誌(2)p.15『備考|一.第三十一駆逐隊〔岸波長波沖波(マニラニテ大破)〕一月十日附戰時編制ヨリ除カル』

関連項目

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