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松輪 (海防艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松輪
基本情報
建造所 三井造船玉野造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 海防艦
級名 占守型海防艦
建造費 5,112,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 マル急計画
起工 1942年2月20日[1][2]
進水 1942年11月13日[1][2]
竣工 1943年3月23日
最期 1944年8月22日被雷・沈没
除籍 1944年10月10日
要目(竣工時)
基準排水量 870トン
全長 77.70m
最大幅 9.10m
吃水 3.05m
主機 艦本式22号10型ディーゼルx2基
推進 2軸
出力 4,200hp
速力 19.7ノット
燃料 重油200トン
航続距離 16ノットで8,000海里
乗員 定員146名[注釈 1]
兵装 三年式45口径12センチ単装平射砲x3基
25mm連装機銃x2基
九四式爆雷投射機1基
爆雷x36個
搭載艇 短艇x4隻
ソナー 九三式水中聴音機x1基
九三式水中探信儀x1基
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松輪(まつわ)は、日本海軍海防艦[3]。 普遍的には択捉型海防艦の2番艦とされているが[4]海軍省が定めた艦艇類別等級では占守型海防艦の6番艦[5][6][7]。艦名は千島列島にある松輪島にちなむ。

概要

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海防艦(かいぼうかん)松輪(まつわ)は、日本海軍が三井造船株式会社玉造船所で建造し[4]1943年(昭和18年)3月23日に竣工した海防艦マル急計画、甲型海防艦)[8]。竣工から間もなく第一海上護衛隊に編入され[8]、東南アジア方面(日本本土~台湾~シンガポール間)の船団護衛任務に従事した[4]。11月15日、海上護衛総司令部の設立に伴い、第一海上護衛隊所属の本艦も同部隊の麾下となった[9][10]

1944年(昭和19年)7月28日より、第一海上護衛部隊の掃蕩隊に所属した[11][12]。 8月17日、松輪および僚艦(択捉佐渡日振朝風)は台湾からヒ71船団に合流、空母大鷹等と共にシンガポールへ向かう[13][14]。 だがヒ71船団はアメリカ海軍潜水艦複数隻に襲撃され、8月18日夜から大鷹や速吸沈没等の大損害を受ける[15][16]。 対潜掃蕩に従事した海防艦3隻(松輪、佐渡[17]、日振[18])も遭難現場からマニラへ移動中[13]8月22日に米潜水艦の魚雷攻撃を受け[19]、揃って撃沈された[20][21]。松輪を撃沈したのは、米潜水艦ハーダーだった[22]

艦歴

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竣工まで

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海防艦松輪(まつわ)は、1941年(昭和16年)に決定したマル急計画により、日本海軍が建造した急造海防艦[8][23]。海防艦甲型[8]、仮称艦名第311号艦として計画。1942年(昭和17年)2月20日[1][2]三井造船株式会社玉野造船所で建造番号325番船[24] として起工。 8月20日、日本海軍は建造中の阿賀野型軽巡洋艦矢矧[25]秋月型駆逐艦若月、海防艦4隻をそれぞれ択捉・松輪・佐渡隠岐と命名する[3]。 同日附で各艦は艦艇類別等級表に登録[5]。 海防艦4隻(択捉、松輪、佐渡、隠岐)は占守型海防艦に類別[5]。 松輪は、占守型の6番艦となる[6]。 また、5隻(矢矧、択捉、松輪、佐渡、隠岐)の本籍は佐世保鎮守府所属と仮定された[26]11月13日[1][2]、松輪は進水する。

1943年(昭和18年)2月5日、日本海軍は小田原憲一中佐(当時、佐伯防備隊副長)を松輪艤装員長に任命する[27]。玉三井造船所の松輪艤装員事務所は事務を開始する[28]3月23日、竣工[8][29]。本艦は、マル急計画の甲型海防艦(択捉型海防艦)の中で最初に竣工した[8]。 同日附で、松輪艤装員事務所を撤去[30]。小田原中佐(松輪艤装員長)は、松輪海防艦長となる[31]。 本籍を佐世保鎮守府[22]、役務を佐世保鎮守府警備海防艦にそれぞれ定められ[32]、佐世保鎮守府部隊に編入された[29][33]

昭和18年の行動

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同年3月31日[22]、松輪は南西方面艦隊第一海上護衛隊に編入され[8]、同部隊より駆逐艦三日月が削除された(三日月は第三水雷戦隊に編入)[34][35]4月1日、海防艦2隻(松輪、佐渡)は旧式駆逐艦(汐風、帆風、松風、春風、早苗、朝顔、芙蓉、刈萱、長壽山丸、第三十六号哨戒艇)等と共に第一海上護衛隊の軍隊区分「北支隊」に区分された[36][37]4月6日午前8時、松輪は高雄に向け単艦で佐世保[22][38]4月8日夜、高雄着[39]。21日まで高雄-馬公間で行動する[40]4月22日、第一海上護衛隊の軍隊区分「東支隊」[37] に編入される[41][42]。同日、七四六船団を護衛し、マニラに向け高雄を出発[43][44]。4月25日、マニラ着[43]。 28日、三一〇四船団を護衛して、マニラを出発[43]。その後、パラオ回航を命じられ、5月6日に同地へ進出[45]。5月9日、三二〇七船団を護衛してパラオを出発[45][46]。 5月15日、三二〇七船団は米潜水艦ガー (USS Gar, SS-206) に襲撃され、「明海丸」(明治海運、3,197トン)[47] と「いんだす丸」(大阪商船、4,361トン)[48] を撃沈される[49][50]。松輪は爆雷攻撃を行うが[50]、ガーは離脱していった。 5月16日、三二〇七船団はマニラに到着した[45]。 5月21日から25日にかけて[51]、松輪は九一五船団をマニラからバリクパパンボルネオ島)まで護衛した[45][52]。5月29日、松輪は給油艦旭東丸を護衛してバリクパパンを出発するが、同月31日には雷撃を受けた[45][53]。6月3日、松輪はマニラに到着[54]

6月8日、第一海上護衛隊の軍隊区分西支隊に編入される[55]。同日、三五〇一船団を護衛してマニラを出発[54][56]。6月15日、サンジャック到着[54]。 翌16日、三九八船団護衛のためサンジャックを出発(同日、第二小倉丸が米潜水艦タンバーに雷撃される)[54][57]。 6月18日、三九八船団を護衛してサンジャックに戻る[54][58]。 6月21日、四〇四船団を護衛してサンジャックを出発し、27日に高雄港到着[54][58]。 29日、二七七船団を護衛して高雄港を出発[54][59]。 7月5日、二七七船団は佐世保に到着[60]。松輪は佐世保海軍工廠で修理に従事した[22][61]

7月31日、松輪は一八二船団を護衛して佐世保を出発[60][62]。8月5日に馬公到着[63]。しばらく馬公と高雄港で待機した[63]。 8月15日、松輪は神風型駆逐艦朝風より「ヒ05船団」の護衛を引き継ぎ、高雄港を出撃する[63]。8月19日、シンガポールに到着[63][64]。8月24日、折り返しの「ヒ06船団」を護衛し、同地を出撃した[63][64]。 9月3日、船団は内地に到着し、松輪は佐世保海軍工廠で修理と整備に従事する[65]。出渠後の9月10日、「ヒ09船団」を護衛して内地を出発、同月20日シンガポール着[65][66]。27日、折り返しの「ヒ10船団」を護衛して出発する[65][66]。 10月上旬、別船団および海防艦対馬と水雷艇真鶴が合流し、10月9日に六連泊地着[67]。松輪は佐世保海軍工廠で修理と検査を実施した[67][68]。 10月22日、松輪は一〇八船団を護衛して内地を出発[67][69]。10月26日、高雄港到着[67]

11月2日、海防艦2隻(松輪、択捉)は「ヒ17船団」を護衛して高雄港を出発するが、松輪は引返し、択捉のみ船団護衛を続けた[70][71]。本艦はしばらく高雄港で待機[71]。11月12日附で、松輪海防艦長は小田原憲一大佐から藤本栄左少佐に交代した[72]

11月15日、日本海軍は海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将、参謀長島本久五郎少将、首席参謀後藤光太郎大佐、作戦参謀大井篤中佐他)を設置[73]。第一海上護衛隊も海上護衛総司令部の麾下となった[10][74]。引続き、船団護衛任務に投入される[10]11月23日、松輪は三四〇船団を護衛して台湾を出撃、南方へ向かう[71][75]。インドシナ半島沖合で、三四〇船団は米潜水艦ボーフィン(USS Bowfin, SS/AGSS-287)に襲撃される。11月28日[75]、松輪護衛中の「志どにい丸」(大阪商船、5,428トン)は雷撃により沈没[76][77]。「図南丸」(日本水産、9,866トン)も沈没した[76][78]。 カムラン湾着後、三四〇船団は11月30日に出発[71]。12月1日にサンジャックへ到着した[79]。 12月7日、四四七船団を護衛して同地発[79]。12月20日、高雄港に到着[79]。 同地で松輪は「ヒ27船団」の護衛を駆逐艦朝風から引継き[79]、12月26日に船団4隻を護衛して高雄港出発[80][81]。だがヒ27船団は米潜水艦フライングフィッシュ(USS Flying Fish, SS/AGSS-229) に襲撃された。12月27日、タンカー「久栄丸」(日東汽船、10,172トン)が撃沈される[82][83]

昭和19年の行動

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1944年(昭和19年)1月2日、ヒ27船団はシンガポールに到着[84][85]。1月8日、「ヒ28船団」を護衛して同地を出発[84][85]。1月18日、高雄港到着[84][85]。 1月20日、二三六船団を護衛して出発[84][86]。 航海中の1月25日附で、松輪海防艦長は藤本少佐から土取英少佐に交代[87]1月26日、松輪は佐世保に帰着[84][86]。1月31日まで、佐世保海軍工廠機関修理と電波探知機設置工事を行った[88]

2月1日、松輪は「ヒ41船団」を護衛して門司を出撃[89][90]。 11日、シンガポールに到着[89]。16日、折り返しの「ヒ42船団」を護衛してシンガポールを出発[89][90]。25日から26日まで基隆に立ち寄る[89][90]。29日、佐世保に帰着した[89][90]。しばらく佐世保海軍工廠で修理と整備をおこなう[91]

3月19日、駆逐艦春風と松輪は、「ヒ55船団」を護衛して門司を出撃[91][92]。立ち寄った高雄港で、同航護衛艦のうち春風は水雷艇に交代する[92]4月2日午前4時40分、護衛艦艇3隻(天霧《駆逐艦》、松輪《海防艦》、鳩《水雷艇》)となったヒ55船団を米潜水艦が襲撃[93]。 この米潜水艦はヘイク(USS Hake, SS/AGSS-256) だった。 油槽船「たらかん丸」が被雷して船体前部切断、最大速力4ノットとなる[93][94]。「たらかん丸」は辛うじて沈没を免れ、ヒ55船団もそれ以上の損害なくシンガポールに到着した[95][96]。 4月8日、3隻(松輪、鳩、呉竹)は「ヒ56船団」を護衛してシンガポール発、サンジャックに移動する[95][96]。11日から14日まで同地停泊[95]。サンジャック出発後、4月19日に高雄港寄港[95][96]。4月24日、松輪は佐世保に帰投した(鳩は呉に帰投)[95]4月25日[97] から5月13日まで[98]、佐世保海軍工廠で整備と電波探知機の基礎工事を行う[注釈 2]。同時期には占守型姉妹艦(占守択捉)等も佐世保海軍工廠で修理を実施している[98][99]

5月になると海上護衛総司令部は、日本本土~台湾~シンガポール方面の護衛強化を企図し、その一環として練習巡洋艦香椎第一護衛船団司令部を第一海上護衛隊に編入する[100][101]

5月13日、海防艦4隻(壱岐、松輪、第九号海防艦第十五号海防艦)はマニラ経由シンガポール行きのヒ63船団を護衛する[102][103]5月18日[99][104] から5月20日までマニラ寄港[103][105]。 シンガポールに向け航行中の5月24日朝、クチン(ボルネオ島)北方を航行中のヒ63船団を[106][107]、米潜水艦レイトン(USS Raton, SS/SSR/AGSS-270)が襲撃する[108]。 まず船団旗艦の壱岐(択捉型6番艦)が[102]、雷撃により沈没[109](壱岐座乗中の第1護衛船団司令官伊集院松治少将戦死)[110][111]。松輪も雷撃を受けて損傷する[22]。5月25日、松輪はシンガポールに到着し、同地で修理をおこなった[99]

6月6日、海防艦2隻(松輪、第九号)は「ヒ64船団」を護衛してシンガポールを出発[112][113]6月15日、内地に帰投[112][113]。 松輪は佐世保回航後[112]、翌日より佐世保海軍工廠で修理に取り掛かる[114][115]

7月1日[116][117]、海防艦草垣が第一海上護衛隊に編入される[118][119]7月15日、松輪の修理完了[115]7月22日、松輪他は「ミ13船団」を護衛して内地を出撃[120][121]。31日、高雄港に到着する[120]

本艦航海中の7月28日、第一海上護衛隊の中に、敵潜水艦の掃討と撃滅を任務とする「掃蕩隊」が編成された[12][122][123]。 掃蕩隊の軍隊区分は、第一掃蕩小隊(第21掃海隊)[11][122]、 第二掃蕩小隊(海防艦屋代、神風型駆逐艦朝風[11]、 第三掃蕩小隊(草垣、松輪)[11][123]。 第三掃蕩小隊は、草垣海防艦長尾崎隆少佐の指揮下で行動する[11][12]

8月4日、掃蕩隊所属の3隻(草垣、松輪、朝風)を含め[124]、護衛艦艇(草垣、屋代、松輪、朝風、哨戒艇38号、海防艦14号、掃海艇18号)はミ13船団を編成して高雄港を出撃する[125][126]。 だが8月7日北緯14度45分 東経120度0分 / 北緯14.750度 東経120.000度 / 14.750; 120.000地点において[127][128]、草垣は米潜水艦ギターロの雷撃により撃沈された[118][119]。 マニラ到着後、2隻(松輪、朝風)は「マタ26船団」の掃蕩隊として8月9日にマニラを出発、馬公市に向かう[125]。 本艦航海中の8月上旬、比島方面兵力緊急輸送のため、日本海軍は聯合艦隊および各鎮守府警備部隊から護衛艦を引き抜き、9月中旬頃まで第一海上護衛隊に編入することになった[11]。兵力が増えたため、掃蕩小隊の編成も変わる[11]8月13日、「掃蕩隊・第二掃蕩小隊」は海防艦3隻(屋代、松輪、日振)編成となり、指揮官を屋代海防艦長とした[11][12]8月15日、掃蕩隊2隻(松輪、朝風)は左営市(台湾)に到着[125]。同地には姉妹艦択捉も停泊していた[125]8月16日附で第一掃蕩小隊は解隊、第二掃蕩小隊は第21掃海隊(掃海艇三八、掃海艇三九)・水雷艇・海防艦屋代、掃蕩隊第三掃蕩小隊は海防艦4隻(佐渡、松輪、日振、択捉)編成となり、第三掃蕩小隊指揮官は佐渡海防艦長(谷口信義中佐)と定められた[11][12]

ヒ71船団

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1944年(昭和19年)8月上旬[13]、日本海軍は南方向け重要船団ヒ71船団(指揮官、第六護衛船団司令官梶岡定道少将)を編成する[129][130]。 空母大鷹(艦長杉野修一大佐)[129][131]、駆逐艦2隻(夕雲型駆逐艦藤波、神風型駆逐艦夕凪[13]、海防艦複数隻を護衛に附け[132][133]、第三掃蕩小隊(佐渡、松輪、日振、択捉)と駆逐艦朝風台湾からヒ71船団に加わることになった[13][130]8月17日[129][130]、松輪を含め護衛艦艇(佐渡、松輪、日振、択捉、朝風)は馬公市台湾)でヒ71船団に合流する[14][125]。 だが同船団はアメリカ潜水艦複数隻に狙われていた[134]。 マニラに向け航行中の8月18日朝、米潜水艦レッドフィッシュの雷撃で永洋丸が被雷[130]。駆逐艦夕凪護衛下で高雄に引き返した[14][135]。 同日夜、悪天候でヒ71船団の陣形が乱れる中[130]、空母大鷹が米潜水艦ラッシャーに雷撃されて北緯18度12分 東経120度22分 / 北緯18.200度 東経120.367度 / 18.200; 120.367地点で沈没[131][136][137]。 混乱したヒ71船団を、米潜水艦は次々に襲撃[138]速吸沈没(潜水艦ブルーフィッシュによる)[15]帝亜丸沈没(潜水艦ラッシャーによる)[139]帝洋丸沈没(潜水艦ブルーフィッシュによる)[140]玉津丸沈没(潜水艦スペードフィッシュによる)[141]能代丸損傷(ラッシャーによる)と阿波丸損傷(ブルーフィッシュによる)という大被害を出した[16][142]。 択捉は損傷した「能代丸」の護衛をおこなった(19日に合流)[125][135][143]

第三掃蕩小隊(佐渡、松輪、日振)は遭難現場に留まり、潜水艦の掃討にあたったが成果は無く[13]、21日には現場を引き払いマニラへ向かう[19][21]8月22日0400ごろ[144]小隊の各艦は北緯14度25分 東経120度00分 / 北緯14.417度 東経120.000度 / 14.417; 120.000バターン半島マリベレス英語版の西方50キロ地点でアメリカ潜水艦「ハーダー」と「ハッド」に発見された。海防艦ルソン島寄りから松輪、日振が平行し、佐渡はその後ろを航行し、三角形の陣形を成していた[145]。攻撃は、0500時-0830時までの間に行われた。 まず、ハーダーが日振と松輪を目標に、ハッドが佐渡を目標に攻撃し、3隻は損害を受ける[146]。松輪はハーダーからの魚雷1本が命中して艦体を両断され、艦橋より前方を喪失して航行不能となった[145][147]。その後、ハーダーの二度目の攻撃でさらに被雷し、沈没した[147]。 松輪と同航していた佐渡[17][148] および日振[18][149] も、ハーダーとハッドにより撃沈された[21]。松輪では、海防艦長の土取英少佐以下乗員134名が戦死、12名が負傷した。 残存艦が擇捉のみとなった第三掃蕩小隊は、24日に編成を解かれた[11][12]。同日、ハーダーもマニラ湾において、第二十二号海防艦第102号哨戒艇により撃沈された[150][151]。 マニラ到着以後のヒ71船団は、加入船舶12隻を護衛艦艇6隻(平戸、倉橋、二号海防艦、御蔵、藤波、28号駆潜艇)で護衛し8月26日同地出発、9月1日シンガポールに入港した[13]

10月10日[22]、海防艦2隻(松輪、佐渡)は占守型海防艦[7]、 帝国海防艦籍[152] のそれぞれから除籍された。

海防艦長

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艤装員長
  1. 小田原憲一 中佐1943年2月5日[27] - 1943年3月23日[31]
海防艦長
  1. 小田原憲一 中佐/大佐:1943年3月23日[31] - 1943年11月12日[72]
  2. 藤本榮左 少佐:1943年11月12日[72] - 1944年1月25日[87]
  3. 土取英 少佐:1944年1月25日[87] - 1944年8月22日 - 戦死。同日付任海軍中佐特進

脚注

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注釈
  1. ^ この数字は特修兵を含まない
  2. ^ 該当部の戦時日誌原文ママ。ただし、電波探知機の設置は同年1月に終了している
脚注
  1. ^ a b c d 『昭和造船史 第1巻』、p. 828
  2. ^ a b c d 『写真 日本海軍全艦艇史』資料篇、p. 21
  3. ^ a b #達昭和17年8月pp.19-22『達第二百三十三號 昭和十六年度及昭和十七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦五隻、海防艦四隻、掃海艇二隻及特務艦一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十七年八月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造 驅逐艦 若月(ワカツキ)|呉海軍工廠ニ於テ建造 伊號第四十潜水艦 伊號第四十一潜水艦 伊號第四十二潜水艦 伊號第五十二潜水艦|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 呂號第百九潜水艦|株式會社大阪鐡工所ニ於テ建造 海防艦 擇捉(エトロフ) 特務艦 白埼(シラサキ)|三井造船株式會社玉工場ニ於テ建造 海防艦 松輪(マツワ)|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 佐渡(サド)|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 海防艦 隠岐(オキ)|株式會社東京石川島造船所ニ於テ建造 第二十三號掃海艇|三菱重工業株式會社横濱船渠ニ於テ建造 第二十六號掃海艇』
  4. ^ a b c 補助艦艇奮戦記245頁『松輪(まつわ)』
  5. ^ a b c #内令昭和17年8月(3)pp.5-6『内令第一五五四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十七年八月二十日海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦二等阿賀野型ノ項中「阿賀野」ノ下ニ「、能代、矢矧」ヲ加フ 同、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、冲鷹」ヲ加フ|驅逐艦、一等初春型ノ項中「子日、」ヲ、同白露ノ項中「山風、」ヲ、同朝潮型ノ項中「、霰」ヲ削リ、同秋月型ノ項中「新月」ノ下ニ「、若月」ヲ加フ/潜水艦、一等伊十五型ノ項中「伊號第三十九」ノ下ニ「、伊號第四十、伊號第四十一、伊號第四十二」ヲ、同伊十六型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ
    |伊五十二型|伊號第五十二|
    同、二同呂百型ノ項中「呂號第百七」ノ下ニ「、呂號第百九」ヲ加フ/海防艦、占守型ノ項中「石垣」ノ下ニ「、擇捉、松輪、佐渡、隠岐」ヲ加フ/掃海艇、第十九號型ノ項中「第二十二號」ノ下ニ「、第二十三號」ヲ、「第二十五號」ノ下ニ「第二十六號」ヲ加フ』
  6. ^ a b #内令昭和19年6月pp.6-7『内令第七百三十八號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年六月五日 海軍大臣 嶋田繁太郎/驅逐艦、一等松型ノ項中「桑」ノ下ニ「、杉、槇、樅」ヲ加フ/潜水艦、一等伊三百六十一号型ノ項中「伊號第三百七十一」ノ下ニ「、伊號第三百七十二」ヲ、同伊四百型ノ項中「、伊號第四百二」ノ下ニ「、伊號第四百四」ヲ加フ/海防艦ノ部中占守型及御藏型ノ項ヲ左ノ如ク改ム |占守型|占守、國後、八丈、石垣、擇捉、松輪、佐渡、隠岐、壹岐、對島、平戸、福江、天草、満珠、干珠、笠戸| |御藏型|御藏、三宅、淡路、能美、倉橋、屋代、千振、日振、大東、草垣、昭南| |鵜來型|鵜來、沖縄、奄美、粟國|  同第一號型ノ項中「第四十三號」ノ下ニ「、第五十一號、第六十一號」ヲ、同第二號型ノ項中「第三十四號」ノ下ニ「、第三十六號、第三十八號、第四十號、第四十二號、第四十四號、第四十六號」ヲ加フ』
  7. ^ a b #内令(秘)昭和19年10月(2)p.35『内令第一一五九號 艦艇類別等級別表中次ノ通改正ス 昭和十九年十月十日 海軍大臣
    軍艦、巡洋艦二等長良型ノ項中「長良、」「、名取」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「大鷹、」ヲ、同敷設艦ノ部中「、白鷹」ヲ削ル
    驅逐艦、一等神風型ノ項中「、朝風」「、夕凪」ヲ、同初雪型ノ項中「、敷波」ヲ、同白露型ノ項中「、五月雨」ヲ、同松型ノ項中「松、」ヲ削ル
    潜水艦、一等伊十型ノ項中「、伊號第十」ヲ、同伊十七型ノ項中「、伊號第二十九」ヲ、伊十六型ノ項中「伊號第十六、」ヲ、同伊五十二型ノ項中「、伊號第五十五」ヲ、同二等呂三十五型ノ項中「、呂號第四十八」ヲ、同二等呂三十五型ノ項中「、呂號第四十八」ヲ、同呂五百型ノ項中「、呂號第五百一」ヲ削ル
    海防艦、占守型ノ項中「、松輪、佐渡」ヲ、同御藏型ノ項中「、日振」「、草垣」ヲ削ル
    輸送艦、一等第一號型ノ項中「第二號、」ヲ、同二等第百一號型ノ項中「、第百二十九號」「、第百三十三號」「、第百五十二號」ヲ削ル
    掃海艇、第十九號型ノ項中「、第二十八號」ヲ削ル
    驅潜艇、第一號型ノ項中「、第六號」ヲ削ル』
  8. ^ a b c d e f g 海上護衛戦(戦史叢書)209-210頁『海防艦の竣工と護衛艦艇の増勢』
  9. ^ #海護総司令部(1)pp.2-3『(ロ)我軍ノ情況(一)海上交通保護及對潜作戰強化ノ爲昭和十八年十一月十五日附東京ニ海上護衛總司令部設置セラレ第一、第二海上護衛隊ヲ直属シ海上交通保護及對潜作戰ニ關シ各鎭守府各警備府(海南警備府ヲ除)司令長官ヲ指揮スルコトトナリ同日海軍大學校ニ将旗ヲ掲揚セリ』
  10. ^ a b c 海上護衛戦(戦史叢書)344頁『第一海上護衛隊の護衛作戦/概要』
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  12. ^ a b c d e f #S19.08第一海護日誌(1)pp.10-11『(イ)掃蕩隊 敵潜掃蕩隊トシテ軍隊区分ヲ以テ護衛艦四隻ヲ一隊トシ掃蕩隊ハ舩団ノ附近ニ不即不離間接並ニ直接護衛ニ任ジツツ機宜行動敵潜ノ補捉攻撃ニ任ズルコトト定メタリ 編制左ノ如シ|七月二十八日 第一掃蕩小隊 第二一掃海隊(掃三八、掃三九)指揮官21wg司令/第二掃蕩小隊 朝風、屋代 指揮官屋代艦長/第三掃蕩小隊 草垣、松輪 指揮官草垣艦長/八月六日附第一掃蕩小隊ニ鳩ヲ編入/八月十三日附 第二掃蕩小隊 屋代、松輪、日振 指揮官屋代艦長/八月十六日 第二掃蕩小隊 第二一掃蕩隊、鳩、屋代 指揮官21wg司令/第三掃蕩小隊 佐渡、松輪、日振、擇捉 指揮官佐渡艦長(第三掃蕩小隊ハ八月二十四日解隊ス)』
  13. ^ a b c d e f g 海上護衛戦(戦史叢書)384-385頁『ヒ七一船団の被害』
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  17. ^ a b 写真日本の軍艦7巻232頁〔海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇佐渡◇〕』
  18. ^ a b 写真日本の軍艦7巻234頁〔海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇日振◇〕』
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  22. ^ a b c d e f g 写真日本の軍艦7巻232頁〔海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇松輪◇〕』
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  26. ^ #内令昭和17年8月(3)pp.1-2『内令第千五百四十八號/驅逐艦 若月 伊號第四十潜水艦 伊號第四十一潜水艦 伊號第四十二潜水艦 第二十六號掃海艇 右本籍ヲ横須賀鎭守府ト假定ス/伊號第五十二潜水艦 特務艦 白埼 右本籍ヲ呉鎭守府ト假定ス/軍艦 矢矧 海防艦 擇捉 海防艦 松輪 海防艦 佐渡 海防艦 隠岐 右本籍ヲ佐世保鎭守府ト假定ス/呂號第百九潜水艦 第二十三號掃海艇 右本籍ヲ舞鶴鎭守府ト假定ス/昭和十七年八月二十日  海軍大臣 嶋田繁太郎』
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  30. ^ 海軍公報(部内限)第4359号 昭和18年4月7日(水) p.28」 アジア歴史資料センター Ref.C12070430200 『○事務所撤去 海防艦松輪艤装員事務所ヲ三月二十三日撤去セリ』
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  33. ^ #S18.03佐鎮日誌(1)p.8『(ヘ)經過摘要(略)二十三日|松輪ヲ佐鎭部隊ニ編入セラル/三十一日|松輪ヲ第一海上護衛隊ニ編入セラル』
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  40. ^ #S18.03第一海護日誌(1)p.45『七.作戰經過概要/一六日(略)松輪高雄ヨリ馬公ニ回航/一九日 松輪馬公ヨリ高雄ニ回航』
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  50. ^ a b #S18.03第一海護日誌(2)p.15『作戰經過概要/一五日(略)三二〇七舩団(松輪護衛)明海丸一一〇〇北緯一三九度一〇分東経一二一度五〇分ニテ被雷撃沈没 續イテいんだす丸 パルタサ島ノ一九〇度五浬ニテ被雷撃 松輪直ニ攻撃敵潜一隻撃破確實 續イテ第二次攻撃ヲ行フ効果不明』
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  54. ^ a b c d e f g #S18.06第一海護日誌(1)pp.20-22『七、作戰経過概要』(昭和18年6月)
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  58. ^ a b #S18.06第一海護日誌(1)p.24『西區域船團護衛状況(馬公 サンジャック間)』(別表第18、昭和18年6月)
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  61. ^ #S18.07佐鎮日誌(1)p.15『(ハ)造修(略)(二)作戰地ヨリ入港セル左記艦船ニ對スル整備工事ヲ實施セリ 千歳、伊一六五潜、日向、文月、朝風、大鷹、常磐、追風、羽黒、妙高、卯月、松輪、大瀬、海風』
  62. ^ #S18.06第一海護日誌(1)p.52『北区域船團護衛状況(門司 高雄間)』(別表第1、昭和18年7月)
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  64. ^ a b #S18.06第一海護日誌(2)p.19『区域船團護衛状況(門司 昭南間(直航))』(別表第18、昭和18年8月)
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  69. ^ #S18.06第一海護日誌(3)p.9『舩団護衛状況(門司-高雄間)』(別表第一、昭和18年10月)
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  72. ^ a b c 昭和18年11月17日(発令11月12日付)海軍辞令公報(部内限)第1262号 p.38小田原免職、p.39藤本補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094400 
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  75. ^ a b #S18.06第一海護日誌(3)p.36『船團護衛状況(馬公-聖雀間)』
  76. ^ a b #S18.11.24-11.30経過概要p.20(昭和18年11月)|28|0430|「カムラン」N60′ニテTg(護衛艦松輪)ハ(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|支那|A船しどにい丸(4105t) A船図南丸(9866t)沈没』
  77. ^ #喪失一覧(2)p.28〔昭和18年11月(1943年)B〕『28|C|志どにい丸|5,428|大阪商船|雷撃|佛印カムラン湾北方|』
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  79. ^ a b c d #S18.12第一海護日誌(1)pp.12-14『(四)麾下艦舩部隊ノ行動』(昭和18年12月)
  80. ^ #S18.07横警(5)pp.41-42『三.形勢 敵情不明味方松輪護衛ノ下ニ四隻編隊ノ船團ニテ航行中天候暴風雨風速一五米海上波浪高視界三〇〇米』
  81. ^ #S18.12第一海護日誌(1)p.24『別表第八 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十八年十二月』
  82. ^ #喪失一覧(2)p.32〔昭和18年12月(1943年)B〕『27|b|久栄丸|10,172|日東汽船|雷撃|21-25N 118-05E|』
  83. ^ #S18.12.16-12.31経過概要p.31〔昭和18年12月〕『27|1030|東沙島東北海面ニテ久栄丸(B油(10,050t))ハ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク(横鎭)|馬來|航行不能|』
  84. ^ a b c d e #S18.12第一海護日誌(1)pp.10-12『(四)麾下艦舩部隊ノ行動』(昭和19年1月)
  85. ^ a b c #S18.12第一海護日誌(2)p.21『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年一月』
  86. ^ a b #S18.12第一海護日誌(2)p.22『別表第三 舩団護衛状況(台湾航路)昭和十九年一月』
  87. ^ a b c 昭和19年1月26日(発令1月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1305号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095400 
  88. ^ #S18.12第一海護日誌(1)p.5『(ホ)入渠修理工事十自ノタメ行動セザリシ艦艇(略)|松輪|自一月二十六日 至一月三十一日|佐世保海軍工廠|機関修理、電波探知機工事|/|占守|自一月十五日 至一月二十三日|佐世保海軍工廠|機関整備、電波探知機増備工事|』
  89. ^ a b c d e #S18.12第一海護日誌(1)pp.35-37『(四)麾下艦舩部隊ノ行動』(昭和19年2月)
  90. ^ a b c d #S18.12第一海護日誌(2)p.46『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年二月』
  91. ^ a b #S18.12第一海護日誌(1)pp.55-57『(四)麾下艦舩部隊ノ行動』(昭和19年3月)
  92. ^ a b #S18.12第一海護日誌(2)p.71『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年三月』
  93. ^ a b #S19.04.01-04.20経過概要p.4『19-4|2|0440|海軍所属油槽船たらかん丸(5135t)ハ六隻船團ニ加入、松輪、天霧、鳩護衛ノ下ニ門司ヨリ昭南ニ向ケ航行中昭南西方約120′附近ニテ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|菲蘭 横運|船橋ヨリ前部切断セシモ辛ウジテ自力航行(SP4kt)ヲ續行シツヽアリ』
  94. ^ #S19.04船舶被害損傷p.2『19-4|2|0440|昭南西方約120′|たらかん丸|菲蘭 横運|五一三五|松輪外二隻|敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ辛ウジテ自力航行(SP4kt)』
  95. ^ a b c d e #S19.04第一海護日誌(1)pp.13-15『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年4月)
  96. ^ a b c #S19.04第一海護日誌(1)p.31『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年四月』
  97. ^ #S19.04第一海護日誌(1)p.5『(リ)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇(略)|松輪|自四月二五日 續行|仝右(佐世保海軍工廠)|電波探信号儀基礎工事、舩体兵器機関整備』
  98. ^ a b #S19.04第一海護日誌(2)pp.5-6『(二)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇』
  99. ^ a b c #S19.04第一海護日誌(2)pp.11-12『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年5月)
  100. ^ #海護総司令部(3)p.9『(ロ)南西諸島、臺灣及昭南航路護衛強化ノ爲左ノ通處置ス/(一)臺灣海峡機雷堰構成ノ爲第十八戰隊ヲ一日附佐鎭部隊ヨリ除キ高雄警備府部隊ニ編入ス十五日敷設完了、十六日佐鎭部隊ニ復歸ス/(二)八日石垣島基地ニ九三一空ノ艦攻六機ヲ進出シ佐鎭長官ノ指揮下ニ入ル/(三)第一護衛船團司令部及香椎ヲ海上護衛總司令部部隊ヨリ除キ第一海上護衛隊ニ編入シ主トシテ高速石油船團ノ護衛ニ任ゼシム』
  101. ^ #海護総司令部(3)p.11(5月2日)『第一護衛船團司令部及香椎ヲ附属部隊ヨリ除キ第一海上護衛隊ニ編入ス』
  102. ^ a b #S19.04第一海護日誌(2)p.4『(ハ)壹岐ヒ六三舩団(五月十三日門司発マニラ経由昭南行)ヲ護衛航行中五月二十四日〇二二〇北緯一度一七分東経一〇七度五三分ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ』
  103. ^ a b #S19.04第一海護日誌(2)p.27『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年五月』
  104. ^ #海護総司令部(3)p.15(5月18日)『「ヒ六三」船團(旗艦壹岐)一八三〇「マニラ」着』
  105. ^ #海護総司令部(3)p.16(5月20日)『「ヒ六三」(旗艦壹岐)船團0500「マニラ」發』
  106. ^ #S19.05船舶被害沈没p.4『19-5|24|朝|「クチン」北方|CD壹岐|菲蘭 1KEG| |TB護衛中|敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ケ沈没』
  107. ^ #S19.05.17-05.31経過概要p.22『19-5|24|朝|「クチン」(「ボルネオ」)北方ニ於テCD壹岐ハ船團護衛中敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|菲蘭 1KEG|CD壹岐沈没』
  108. ^ 写真日本の軍艦7巻233頁〔海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇壱岐◇〕』
  109. ^ 補助艦艇奮戦記247頁『壱岐(いき)』
  110. ^ #海護総司令部(3)p.17(5月24日)『海防艦壹岐ヒ六三船團護衛(指揮官第一護衛船團司令官旗艦)中〇二二〇北緯一度一七分東經一〇七度五三分ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ沈没』
  111. ^ 故海軍中将男爵伊集院松治外三名位階追陞の件 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.A12090488000 
  112. ^ a b c #S19.06第一海護日誌(1)pp.14-16『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年6月)
  113. ^ a b #S19.06第一海護日誌(1)p.34『別表第二 舩団護衛状況(馬來直航航路)昭和十九年六月』
  114. ^ #S19.06第一海護日誌(1)pp.7-8『(ト)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇(略)|松輪|自六月十六日至六月三十日|佐世保海軍工廠|主機械「シリンダー」入子換装』
  115. ^ a b #S19.06第一海護日誌(2)pp.7-9『(ハ)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇』
  116. ^ #S19.06第一海護日誌(2)pp.3-4『(二)我軍ノ状況 イ.編成関係』
  117. ^ #海護総司令部(3)p.50(7月1日)『海防艦草垣第一海上護衛隊ニ編入セラル 聨合艦隊司令長官ノ指揮下ニ護衛中ノ旗風及汐風ヲ夫々原隊ニ復歸セシム』
  118. ^ a b 補助艦艇奮戦記253頁『草垣(くさがき)』
  119. ^ a b 写真日本の軍艦7巻234頁〔海防艦『占守型・擇捉型・御蔵型・鵜来型』行動年表 ◇草垣◇〕』
  120. ^ a b #S19.06第一海護日誌(2)pp.15-17『(四)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ一)』(昭和19年7月)
  121. ^ #S19.06第一海護日誌(2)p.35『別表第九 舩団護衛状況(門司ミリ間)昭和十九年七月』
  122. ^ a b #海護総司令部(3)p.47『(三)十八日第二十一掃海隊ヲ高警部隊ヨリ除キ第一海護部隊ニ編入シ之ニ適宜ノ艦艇ヲ附シ對潜掃蕩隊ヲ編成シ主トシテ呂宋海峡及呂宋海峡ヨリ「マニラ」ニ至ル海面ノ敵潜掃蕩撃滅ニ任ゼシム』
  123. ^ a b #S19.06第一海護日誌(2)p.10『(二)呂宋海峡ニ敵潜跳梁シ被害大ナル又口舩団護衛ニハ之ガ撃滅ヲ第一トスルニ付掃蕩隊ヲ編成敵潜撃滅ノ傍ラ舩団護衛ニ任ゼシムル事トシ第一掃蕩小隊(第二十一掃海隊) 第二掃蕩隊(朝風 屋代) 第三掃蕩隊小隊(草垣 松輪)ヲ編成セリ』
  124. ^ #S19.08第一海護日誌(1)p.6『(ロ)草垣ミ13舩団(八月四日高雄発「マニラ」行)掃蕩隊トシテ航行中八月七日二二〇五北緯一四度五〇分東経一一九度五七.五分ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ』
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  137. ^ #海護総司令部(4)p.15(8月18日)『大鷹ヒ七一船團護衛中二二二八北緯一八度一〇分東經一二〇度二二分ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ沈没』
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参考文献

[編集]
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    • 戦史研究家伊達久『日本海軍補助艦艇戦歴一覧 水上機母艦、潜水母艦、敷設艦、一等輸送艦、二等輸送艦、敷設艇、電纜敷設艇、哨戒艇、駆潜艇、水雷艇、海防艦、砲艦、特務艦、全三三二隻の太平洋戦争/海防艦(五十七隻)
  • Bauer, K. Jack; Roberts, Stephen S. (1991). Register of Ships of the U.S. Navy, 1775-1990: Major Combatants. Westport, Connecticut: Greenwood Press. pp. 271-273. ISBN 0-313-26202-0 
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  • 戦史叢書 第31巻 『海軍軍戦備(1) -昭和十六年十一月まで-』、朝雲新聞社、1969年。
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  • 丸スペシャル No. 28 日本海軍艦艇シリーズ 『海防艦』、潮書房、1979年。
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 重巡Ⅲ 最上・三隈・鈴谷・熊野・利根・筑摩・海防艦』 第7巻、光人社、1990年2月。ISBN 4-7698-0457-1 
  • 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。
  • 三井造船株式会社75年史編纂委員会 『三井造船株式会社75年史』、三井造船株式会社、1993年。

関連項目

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