コンテンツにスキップ

利用者:Straysheep/sandbox

東京職工学校(とうきょうしょっこうがっこう)は、1881年明治14年)4月、東京府に設立された旧制中等教育もしくは高等教育相当の官立学校。現在の東京工業大学の源流となった学校である。

沿革[編集]

設立の背景[編集]

明治初期の日本では、産業技術の近代化を推進する人材を育成するべく、欧米の科学技術を取り入れた工業技術教育の整備が進められ、まず1873年に工部省工学寮工学校が日本最初の国立工業学校として設立され、1877年には工部大学校に改組された。その一方で、G・ワグネルは現場技術者とその指導者を育成するため、中等程度の実用的な技術教育の必要性を訴える建議を行い、1874年にはこれを受けて東京開成学校内に「製作学教場」が設置されたが、3年後の1877年には廃止された。先行の工部大学校も1886年、東京大学に合併されて(東京)帝国大学「工芸学部」に改組された後は、実務的な工業教育よりも学理研究へと傾斜していった。

東京職工学校の設立[編集]

このようななか、ワグネルや手島精一(文部省・教育博物館長補)は中等技術教育の必要性を主張し続け、文部省内にも九鬼隆一浜尾新などの同調者が現れたことから、1881年4月26日、文部省は官立の東京職工学校を設立した。職工学校は「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」[1]学校として位置づけられ、初代校長には正木退蔵が就任した。開校当初、機械工芸科と化学工芸科の2科で開始された本校では、ワグネルのもとで陶器・ガラス・漆器など明治以前からの日本の伝統工芸を引き継ぐ軽工業の大規模な生産技術を進める教育が行われた。

開校当初の困難と高等工業学校への改組[編集]

職工学校は伝統的な徒弟制度の下での技術伝承から近代的な科学技術の教育への転換に伴うさまざまな困難に直面した。「職工学校」という名称への誤解から開学当初は生徒が集まらないなど不振の時期が続いたため、1886年にはいったん帝国大学の附属学校に移管され、翌1887年には帝大から再び独立し7月に最初の卒業式を挙行した。1890年、正木に代わり校長となった手島精一のもとで、職工学校は「東京工業学校」に改称し、職工長・工師・教員・企業家養成を中心とする工業教育の指導的機関へと発展した。さらに同校長のもと1901年には東京工業学校に改組、2年後の1903年には旧制専門学校準拠の高等教育機関(高等工業学校)となり[2]1929年(旧制)東京工業大学昇格への基礎が形づくられた。

年表[編集]

  • 1881年4月8日:「職工学校ヲ東京ニ設置スヘキ件ニ付伺」が太政大臣三条実美宛に提出(5月12日付で裁可)。
  • 1881年5月26日:文部卿・福岡孝弟の布達第2号で東京職工学校が設立される。初代校長は正木退蔵
  • 1886年:帝国大学の附属学校に移管。
  • 1887年:帝国大学から独立。
  • 1887年7月:第一回卒業式挙行。
  • 1890年1月:東京商業学校附設商工徒弟講習所職工科(1886年1月設置)が職工学校に移管され、附属職工徒弟講習所と改称。 
同年8月には附属職工徒弟学校と改称、1924年1月には東京高等工芸学校に移管、新制移行後の1951年に東京工業大学に再移管され東京工業大学附属科学技術高等学校の前身となる。

歴代校長[編集]

東京工業学校校長(1890年〜1901年)・(東京)高等工業学校初代校長(1901年1915年)を務める。

校地の変遷と継承[編集]

開校当初の校地となったのは東京府浅草区蔵前(現・台東区蔵前)の御蔵(米倉)および浅草文庫の跡地であり、1882年6月10日以降新校舎が建設された。校地・後者は後身の東京工業学校・東京高等工業学校に継承され、東京高工時代には南元町38番地の土地を加えて増築工事が行われ校地が拡張された。このため「蔵前」(もしくは蔵前工業)は東京高工の別称となり、東京高工の後身である(旧制・新制)東京工業大学の同窓会「蔵前工業会」の名称の由来となっている。

蔵前校地は1923年9月の関東大震災によって灰燼に帰したため、翌1924年、東京高工の校地は大岡山に移転、これが1929年に設立された(旧制)東京工業大学の校地として継承され、学制改革を経て発足した現在の東京工大大岡山キャンパスとなっている。台東区蔵前2丁目の旧校地跡には「東京工業大学発祥の地」の碑が建立されている。

脚注[編集]

  1. ^ 「東京職工学校規則」(1881年)。
  2. ^ 豊田俊雄「わが国離陸期の実業教育」

外部リンク[編集]