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アーニー・ショア
Ernie Shore
1915年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ノースカロライナ州イーストベンド英語版
生年月日 (1891-03-24) 1891年3月24日
没年月日 (1980-09-24) 1980年9月24日(89歳没)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
220 lb =約99.8 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
初出場 1912年6月20日
最終出場 1920年8月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

アーネスト・グレイディ・ショア(Ernest Grady Shore、1891年3月24日 - 1980年9月24日)は、アメリカ合衆国プロ野球選手(投手)。1912年、メジャーリーグ及びナショナルリーグニューヨーク・ジャイアンツに所属し、アメリカンリーグでは1914年から1917年までボストン・レッドソックス、1919年から1920年までニューヨーク・ヤンキースに所属していた。

概要[編集]

1891年、ノースカロライナ州イーストベンド近郊の農場で生まれ育った。ギルフォード大学英語版で野球をした後、1912年にニューヨーク・ジャイアンツの入団テストを受ける。マイナーリーグに放出された後、1914年にボストン・レッドソックスが買い取り、1915年と1916年のワールドシリーズ制覇に貢献した。1917年6月23日には、ベーブ・ルースとのコンビでノーヒットノーランを達成。第一次世界大戦中の兵役の為、1918年のシーズンを欠場した後、レッドソックスはヤンキースにトレードをしたが、レッドソックスで負った腕の故障の為、活躍の場は限られた。アーニーは1921年のシーズンにマイナーリーグで現役を終えた。

引退後、ノースカロライナ州ウィンストン・セーラムで車のセールスマン兼保険代理店として商売を始めた。1936年にフォーサイス郡の保安官に選出され、1970年まで同職を務めた。

1980年、ウィンストン・セーラムで死去。

経歴[編集]

1891年3月24日、ノースカロライナ州ヤドキン郡のイーストベンド近郊でヘンリーとマーサ・ショア夫妻の5人兄弟の次男として生まれた[1][2]。ショア夫妻は200エーカー(81ヘクタール)以上の農地に住んでいたが、アーニーは農業を楽しんでいた訳ではなかった。毎週土曜日には、地元のアマチュア・チームの外野手として野球をするために、イースト・ベンドやフォーサイス郡に出かけた[3]

アーニーは1910年にギルフォード大学に入学し、ギルフォード・クエーカーズ英語版の投手として、チャールズ・ドーク英語版の指導の下で大学野球をプレーした。ギルフォード大学では土木技師になるための勉強をし、1914年に卒業した[1][4]。野球のオフシーズンにはギルフォード大学に戻り、数学の教授を務めていた[5]

プロ入り[編集]

1912年、ナショナルリーグのニューヨーク・ジャイアンツがギルフォード大学からアーニーをトライアルで獲得した。アーニーは夏の間、チームに同行し、しばしばジャイアンツの野手に打撃練習として投げた。6月20日、ボストン・ブレーブス戦で21対2の完封勝利を収めたフックス・ウィルツ英語版に代わってリリーフとしてメジャーリーグにデビューした。9回に10点を許したが、自責点はわずか3点で、ジャイアンツが21対12で勝利した。ジャイアンツのジョン・マグロー監督は、ダブルAアメリカン・アソシエーションインディアナポリス・インディアンスに指名しようとし、1913年のスプリングトレーニングにも参加させようとしたが、アーニーはこれを拒否してギルフォード大学に戻った。マグローはアーニーを出場停止にし、1913年のシーズンに復帰させるために全米野球委員会英語版に25ドル(現在のドル換算で771ドル)の罰金を支払わなければならなかった。

ギルフォード大学3年の後、1913年にノースカロライナ州立リーグ英語版Dクラスのグリーンズボロ・グラスホッパーズで投手となり、クエーカーズで指導者をしていたドークが監督を務めていた。グリーンズボロ・グラスホッパーズでの成績は11勝12敗、防御率3.63であった。シーズン終了後、ダブルAインターナショナル・リーグボルチモア・オリオールズがグラスホッパーズからアーニーをドラフト指名した。1914年6月にギルフォード大学を卒業し、6月4日にオリオールズに入団届を提出。しかし、メジャーリーグであるフェデラル・リーグが1914年にデビューし、ボルチモア・テラピンズがオリオールズと直接競合していた。オリオールズは試合への集客に失敗し、優秀な選手の売却を余儀なくされるなど、財政的に苦境に立たされていた。7月9日、アーニーはベーブ・ルースベン・イーガン英語版と共にアメリカン・リーグのボストン・レッドソックスに売却された。

ボストン・レッドソックス時代[編集]

移籍後の1914年7月14日のクリーブランド・ナップスとのデビュー戦で、2安打を許し完投した。この年は、10勝5敗、防御率2.00の投球をした。さらに翌年1915年では開幕戦の先発を務めた。最終的には19勝8敗、防御率1.64の成績を残した。レッドソックスはアメリカン・リーグのペナントを制し、1915年のワールドシリーズでナショナル・リーグの覇者フィラデルフィア・フィリーズと対戦。アーニーは、ピート・アレクサンダーとの第1戦に先発し、3対1で敗れた。第4戦ではジョージ・チャルマーズと対戦し、レッドソックスが2-1で勝利した。アーニーはワールドシリーズで17イニングを投げて防御率2.12を記録した。

1915年のワールドシリーズにてアーニー(左)とピート・アレクサンダー(右)

1916年シーズンは、16勝10敗、防御率2.63の成績を残した。アーニーの貢献もあり、レッドソックスは再びアメリカンリーグのペナントを獲得し、1916年のワールドシリーズでブルックリン・ロビンズと対戦し、アーニーはルーブ・マーカードとの第1戦、ジェフ・ファファーとの第5戦に先発した。第5戦では3安打を許し、レッドソックスがワールドシリーズチャンピオンに返り咲く決戦を制した。ワールドシリーズでの奪三振は9、与四球は4であった。

1917年6月23日、レッドソックスはワシントン・セネターズと対戦した。この試合ではベーブ・ルースは先発投手として登板し、セネタースの先頭打者レイ・モーガンに与四球で出塁させた[6]。与四球の判定に納得がいかなかったルースは球審のブリック・オーウェンスと口論になり、ルースと捕手であるピンチ・トーマスは退場処分を受けた。アーニーと捕手サム・アグニューが試合に入り、モーガンを2塁で盗塁死させた後に、アーニーは残りのセネターズの打者26人を出塁させることなく凡退させ、4-0でレッドソックスの勝利となった。当初は完全試合とみなされていたが、1991年にメジャーリーグのコミッショナーであったフェイ・ヴィンセントが統計的正確性に関する委員会を率い、ノーヒットノーランと完全試合の定義を明確にするまで続いた。同委員会は、完全試合を達成しなかったと判断し、ルースとアーニーの継投によるノーヒットノーランと認定した。アーニーの9回ノーヒットノーランは、1997年7月12日のフランシスコ・コードバ(先発登板)だけが持つMLB記録である。

1917年シーズン後半、レッドソックスが再びアメリカン・リーグのペナントを争っていた時、投手のダッチ・レナードが腕を骨折し、レッドソックスは試合でアーニーを酷使し続けた。試合での酷使による負担によってアーニーは9月のクリーブランド戦でカーブボールを投げた際に腕を痛めた。1917年シーズン、ショアは13勝10敗、防御率2.22の成績を残し、レッドソックスはシカゴ・ホワイトソックスに次ぐアメリカンリーグ2位でシーズンを終えた。

アーニー(右)とベーブ・ルース(左)

アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦した後、1917年8月にアメリカ海軍予備軍に入隊し、1917年のシーズン終了までレッドソックスに残り、10月に海軍に出頭した。海軍はアーニーをボストン海軍工廠に配属し、工廠でヨーマンとして働き、ラビット・モランビルハーブ・ペノック、ホワイティ・ウイット、ジャック・バリー、アート・リコといった海軍に入隊した他のメジャーリーガーたちとともに、海軍工廠を代表する野球チームを結成し、エキシビションゲームを行った。レッドソックスは1918年のワールドシリーズで優勝した為、1918年はレッドソックスでプレーをしなかった。ハーバード大学士官学校での訓練プログラムを経て、1918年12月に少尉として任命され、第一次世界大戦中に海軍に入隊したメジャーリーガーで士官任官を受けた唯一の選手となった。戦争が終わり、1919年1月に海軍を除隊した。

ニューヨーク・ヤンキース時代[編集]

1918年12月18日、レッドソックスはアーニー、レイ・コールドウェル、ダフィー・ルイスをフランク・ギルフーリー、スリム・ラブ、ロキシー・ウォルターズ、15,000ドル(現在のドル換算で303,850ドル)でニューヨーク・ヤンキースにトレードした。しかし、チームメイトのピン・ボディからおたふく風邪をうつされ、シーズン終了まで完治をしなかった。1919年シーズンはヤンキースで5勝8敗、防御率4.17の成績に終わった。

1920年シーズン終了後、ヤンキースはジョニー・ミッチェルを獲得するために、アーニー、トラック・ハンナ、ボブ・マグロー、ハム・ハイアットをパシフィックコーストリーグのバーノン・タイガースに移籍させた。 5月にヤンキースに戻されたバーノンと揉めた。ヤンキースはショアを受け入れるどころか、6月にPCL傘下のサンフランシスコ・シールズに売却した。1922年にプレーしようとしなかった。権利はバーノンに戻ったが、タイガースに釈放を求められ、受け入れた。ショアは大リーグの7シーズンで65勝43敗、防御率2.47だった。

引退後[編集]

ウィンストン・セーラムに戻った後は、自動車ディーラーを開業し、スタッドベーカー、ポンティアック、オークランド・モーター・カー・カンパニーの車を販売した。またウィンストン・セーラムの他の市民とともに、同市のマイナーリーグ球団であるウィンストン・セーラム・ツインズを買収し、チームのディレクター兼ビジネス・マネージャーを務めた。だが、世界恐慌によって自動車販売が落ち込み、約2万ドル(現在のドル換算で400,700ドル)の負債を抱えて1931年にディーラーを閉鎖。生活費を稼ぐために保険の販売に転じた。

1936年6月の予備選挙では、民主党からノースカロライナ州フォーサイス郡保安官選挙に出馬した。予備選挙では現職保安官ガイ・スコットを僅差の2位で終え、7月にスコットとの決選投票に進んだ。11月の総選挙では共和党候補に勝利し、1936年の選挙でフォーサイス郡で共和党に勝利した民主党議員としては、フランクリン・ルーズベルトを含め、最大の勝率を獲得した。保安官になったとき、同署は6人の副保安官だったが、アーニーが引退するまでには70人の副保安官に拡大した。また、郡初のパトロールカーを取得し、車にトランシーバーを設置した最初のノースカロライナ州の保安官になった。1966年の再選では最小の勝率で勝利。1970年の保安官再選には出馬せず、12月7日に職を辞した。

ウィンストン・セーラムの地域指導者たちは、ウィンストン・セーラム・ツインズのホームスタジアムであるサウス・サイド・パークの状況を懸念し、1953年に新スタジアム建設を検討する18人の委員の内の1人に任命された。サウスサイド・パークは1955年の火災で大きな被害を受け、アーニーは新球場建設のための資金集めの努力を指揮した。その結果、努力の甲斐あってか、必要な20万ドル(現在のドル換算で227万4,783ドル)のうち、12万5,000ドル(現在のドル換算で142万1,739ドル)が集まった。残りの資金が集まった後、新しいスタジアムが建設された。アーニーの名前を用いたアーニー・ショア・フィールドは、2009年にウェイクフォレスト大学に譲渡され、名称が変更されるまで、ウィンストン・セーラムのマイナーリーグの本拠地として使用されていた。

1925年、サウスカロライナ州スパータンバーグ出身の教師ルシール(旧姓ヘンダーソン)と出会い結婚。アーニーとの間には3人の子供が出来た。ルシールは1960年代にサミット・スクールで4年生を教えた。

1975年に脳卒中を患い、健康状態が悪化。妻のルシールは1980年の6月17日に死去。同年9月24日にウィンストン・セーラムの自宅で死去。89歳没。没後9月26日にウィンストン・セーラムに埋葬された。アーニーは1915年と1916年のワールドシリーズチャンピオン、ボストン・レッドソックスの最後の生存メンバーであった。

脚注[編集]

  1. ^ a b admin. “Ernie Shore – Society for American Baseball Research” (英語). 2024年6月20日閲覧。
  2. ^ Rauhauser-Smith, Kate (2014年4月30日). “HISTORY-MAKERS: Ernie Shore” (英語). Winston-Salem Journal. 2024年6月20日閲覧。
  3. ^ “Shore's Desk Is Full of Memories”. Winston-Salem Journal: pp. 3. (1970年12月6日). https://www.newspapers.com/article/winston-salem-journal-shores-desk-is-fu/142483292/ 2024年6月20日閲覧。 
  4. ^ “Ernie Shore's Greatest Thrill Not Perfect Game”. The Boston Globe: pp. 187. (1959年12月13日). https://www.newspapers.com/article/the-boston-globe-ernie-shores-greatest/142451232/ 2024年6月20日閲覧。 
  5. ^ Cox, Joe (2017-02-01) (英語). Almost Perfect: The Heartbreaking Pursuit of Pitching's Holy Grail. Rowman & Littlefield. ISBN 978-1-4930-1951-9. https://books.google.com/books?id=4Z9kDQAAQBAJ&pg=PA16 
  6. ^ 【福島良一 メジャーの旅】ア・リーグ史上初、審判への暴行事件 “元祖二刀流”ルースの「珍ノーヒッター」”. zakzak:夕刊フジ公式サイト (2021年6月7日). 2024年6月27日閲覧。