利用者:Uryah/個人主義と利己主義

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利己主義と個人主義[編集]

  • 『トクヴィル 平等と不平等の理論家』 宇野重規 pp.81-83. によれば:
    • 利己主義・・・「熱烈で度を越した自己愛1)」。「何ごとも自分にだけ引きつけ、すべてを措いて自己を選ぶ態度」。19世紀フランスに居たトクヴィルから見て、「われわれの先祖は利己主義しか知らなかった」、「いつの時代にも見られる」もの。
    • 個人主義・・・「静穏な思慮ある感情」。「個々の市民を同胞の群れから引き離し、家族と友人との別世界にひきこもらせる」もの。「自己の外部や他者に対する関心の希薄化」を特徴とする。19世紀フランスに居たトクヴィルから見て、「新しい現象」「新しい思想の生んだ最近の言葉」。
  • 『トクヴィル 平等と不平等の理論家』 宇野重規 p.82. によれば、要するに個人主義とは:
    • 「社会をいったん自然権1)の担い手である個人に分解し、そのような諸個人の合意に基づいてのみ新たな政治社会を作り出そうという社会契約論1)的な発想」のこと。
  • 『新個人主義のすすめ』 林望 pp.17-19. によれば:
    • 利己主義(者)・・・「他の人のことも考えずに、たとえば鉄火巻きなら鉄火巻きばかり、自分の好物だからといって、三十個も四十個も食べてしまう人」。「自分の考えだけを尊しと思っている傲慢1)さ」。
    • 全体主義または団体主義(者)・・・「他の人の好みや都合を考えずに、すべての人を十把一からげにして、一定のものを押し付ける人」。自分の信仰なり信念を「人に強制1)したり、しつこく説得したりする」こと。
    • 個人主義(者)・・・「他の人の好みや都合を考えて、よけいなおせっかいはしない、そしてまた同時に他の人の食べる分もよく慮って自分の欲望は抑制する人」。
  • 『新個人主義のすすめ』 林望 p.18. によれば、要するに個人主義とは:
    • 「自分のことだけを考えているのではダメで、自分以外の他人を『一個独立の個人』として認める、ということが根幹」「利己主義ではなく、むしろその正反対、利他主義1)と言っても良いくらい」のもの。
  • 『個人主義論考 近代イデオロギーについての人類学的展望』 ルイ・デュモン著 渡辺公三・浅野房一訳 によれば:
    • 個人主義とは
      • p.23 「近代のイデオロギー的布置を『個人主義』という言葉で示すことが可能」。
      • p.35 「先行する時代あるいは同時代の他の世界に対して、近代の特徴をなすもの(中略)それをここでは個人主義と呼」ぶ。
    • ここでいう近代とは
      • p.65 「理性と経験の間にあらかじめ存在していた亀裂を縮める壮大な試み、という意味」。
  • 万人の万人に対する闘争1)状態・自然状態・自然権(万人が利己主義である状態?(※いつのからか以降(少なくとも2010年までの)日本社会に広まっている(た)精神状態?))」→「社会契約」→社会状態。
    • 「自然状態において全ての人間は自由で平等な自己保存の権利を持つとして自然権の普遍性を唱えた。その上で自然権が持つ自己保存の性格が時には自己の意志を妨害する外的障害を排除するために他者の生命・身体を脅かす可能性を有し、その結果『万人の万人による闘争状態』を招くとして、理性の推論的帰結としての自然法の存在と各人の自己保存を維持するための社会契約」を確認し結ぶ必要がある。(自然権
    • 「個人にとって最大の不幸は死、とりわけ自分の意志に反して他人の暴力によってもたらされる死である。他人の暴力は他人の自然権に由来する者であるから、自然権は矛盾を孕んでいることになる。このことから予見能力としての理性は『各人の自然権を制限せよ』という自然法を導く」「自然状態では人間は真に自由であったし、自然権も調和して保たれていたと説くが、悪い人間が他人の自然権を掠め取り、自由を剥奪してしまったとする。一見自然状態が自足的・持続的で理想的と思えるが、他人が奪い取り得るのだから、やはり脆弱なのである。 よって、やはり自由の回復は、単純な自然に還ることでは成し遂げられず、社会状態という第二の自然に入ることでしか得られない」。(自然状態
  • 「平等な自由」「公正としての正義」。
    • トクヴィル・・・「各個人は自己にのみ関わる利害の最善の判断者であるが、他の諸個人と共有する利害、すなわち『社会的な利害』については相互調整に服する」「完全な平等性に立脚した自治の精神」「『平等な自由』こそ、<民主的人間>が秩序を作るにあたって、もっとも根本的な原理」(『トクヴィル 平等と不平等の理論家』 宇野重規 pp.104-105.)。
    • ロールズ・・・「ジョン・ロールズが示す正義の第一原則はまさしく『平等な自由』」(『トクヴィル 平等と不平等の理論家』 宇野重規 pp.104-105.)。人々はみな「自由に対する平等な権利を持っている」「これらの自由は他の自由との衝突によってのみ制限される」「平等な基本的自由の原理」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.105.)。
    • 「社会契約」という論・発想。 → 自分自身の属性がわからなくなるベール、「自分自身の貧富や階級、人種、健康や容姿、所属するコミュニティ等々、具体的なことがわからなくなるベール」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.68.)、「無知のベール」をすべての人がかぶった「原初状態」を想定し、「その状態で人々が合意する正義」を「『公正としての正義(justice as fairness)』と呼ぶ」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.105.)。
    • 「公正」とは、ジョン・ロールズによれば「立場入れ替え可能性の確保」を意味する(リベラリズム)。
  • コミュニタリアニズム
    • コミュニタリアニズムは、“個人は尊重されるのだが、衝突したら、各々の自由は調整しなければならない”“無制限の自由はない”からさらに一歩踏み込んで(?)、「善なる正義」「善き正義」「倫理的正義」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.362 - 364.)を目指すと言う。「倫理」を追求する立場?
    • (学問的に厳密な)「リベラリズム」とは、「リベラル」という言葉から一般に想起されるイメージと違って、その対象が「政治に限定」され、考えるものごと全般、思考の対象全般、思考の仕方そのもの、生き方全般に渡るものではない?(『男の隠れ家』 2011年7月号 pp.76 - 81.)そこで登場するのが「コミュニタリアニズム」?

Uryah 2011年6月1日 (水) 10:56 (UTC)、2011年6月1日 (水) 11:04 (UTC)、強調表示。Uryah会話) 2013年5月17日 (金) 20:51 (UTC)

リベラリズムとコミュニタリアニズム[編集]

リベラリズムとコミュニタリアニズム

  • 衝突が生じたら調整する、想像力によって衝突を回避する知恵を生み出していく、これを様々なことがらについて1つ1つ積み上げていくことによって“リベラルな社会(寛容な社会:自由で、しかも個人個人が相互に尊重し合う道徳的連帯感を帯びた社会)”は構成される、と自分は思っていた(る)。
(参)「個人の自由を尊重する自由主義」は、どこかで互いが「明らかにぶつかります」。各々を「それぞれ尊重すれば、どこかでお互いの自由を侵害しますからね」。「大事なのは」「私に自分の価値観と信念に従って生きる自由があるなら、あなたにもあって当然でしょう」ということです。「違いを尊重する」ことです。相手(の自由・気持ち)を無視して、自分の自由を押しつけ、押し通してはいけない。(アンヌ・フィリップス - 「哲学がかみつく」 著 デイヴィッド・エドモンズ、ナイジェル・ウォーバートン 訳 佐光紀子 2015年12月15日第1刷 pp.100-108) Uryah会話) 2016年3月6日 (日) 02:32 (UTC)追記。
  • でも、現代の多様な価値観の社会にあって
    • 政治的な権利以外の調整は実現不可能だとして政治以外の部分は放棄してしまったのが「ロールズ的リベラリズム」?
    • 権利から(だけ)考え(始め)て、思考のスタートを権利にだけ置いては共生や連帯は不可能という考えに行き着き、“自由主義(リベラリズム(左的)・リバタリアニズム(右的))の問題点”を指摘するのがコミュニタリアニズム?
  • コミュニタリアニズム2011年3月16日 (水) 05:48 の版
    • 自由主義への批判(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.294.)
      • リバタリアニズムへの批判・・・「過度の市場主義ないし商業主義を道徳1的観点から批判」。(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.294.)
      • ロールズ的なリベラリズムへの批判・・・「文化戦争を引き起こしている」ことがら(たとえば「妊娠中絶や自殺幇助」など)について、「道徳的適価の問題」を論じて批判。(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.294.)「リベラリズムのいう『公正』と『権利』だけではなく、『名誉』と『美徳』の問題の重要性を指摘」。「道徳的適価はロールズ的なリベラリズムに対する批判における中心概念の1つ」。(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.301.)
      • サンデルは、たとえば「国営宝くじ、教室の商業化、公的領域のブランド化と市場化、スポーツにおける公民的アイデンティティへの侵食、競売のによる私有化と公共化、大学や教育の商品化、排出量取引批判、裁判における応報的正義、『自殺幇助の権利』批判」を取り上げて、「市場主義の問題と道徳的適価」を考える。(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.294-304.)
    • その源泉を宗教1に求める。(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.267-269, 269-274.)
      • 「『謙虚』『責任』『連帯』という倫理」「生命や自然の『聖性』という観念」「『善』と表現」「精神性とか倫理性・道徳性を強調する」
      • 「背景には、たいてい宗教的な思想があることが多い」
    • コミュニタリアニズムは、古来の伝統社会へ回帰しよう、ということ?でも「自由主義を根本から否定するものではない1」ということだから、そうではない?
  • リベラル-コミュニタリアン論争(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.319-321.)
    • リベラルからの批判・・・「コミュニティの多数派が言うことが正義なのか。多数派の見解を押しつけるのか。少数派を抑圧する危険があるのではないか。自由を軽視したり圧殺したりする危険があるのではないか」「近代の成果を斥ける前近代的な議論ではないか」。
    • それぞれのコミュニタリアンの応答
      • マッキンタイア・・・コミュニタリアニズムという「表現は誤解を招く」。「自分はナショナリズムには反対だから、コミュニタリアンではない」。
      • アミタイ・エツィオーニ・・・「『権利と責任』という標語を用いて、リベラル派が権利ばかり主張することを批判」しているのだ。「権利と共に、それに対応する責任を重視することを強調」しているのだ。
      • マイケル・サンデル・・・
        • 「『コミュニタリアニズム』が多数派主義(majoritarianism)の別名、ないし『権利が、所与の時に、所与のコミュニティにおいて優勢である価値に立脚すべきである』という考え方の別名ならば、これは自分の擁護する立場ではない」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.329.)。
        • 「多数派主義的コミュニタリアニズム」のマイケル・ウォルツァーの「構成員としての正義」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.311-316.)に対する、サンデルの批判(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.328-333.)
          • 「特定の時点における特定のコミュニティの多数派がいうことを正義だとすると、南北戦争前の南部の奴隷制擁護論も正義」?「インドのカースト制」は?「中国やイスラームの人権無視」は?「過去の時代に多くの人々の多数派が擁護していた奴隷制は正義」?(戦前の一時期の日本の軍国主義は?いついつの・・・?
  • サンデルのロールズの議論への批判(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.320-321.)
    • コミュニタリアニズムはクリントン政権ブレア政権に一定の影響を与えた
      • 「このような中で、ロールズは『政治的リベラリズム』に大きく『転向』した」
        • その主張・・・「私的には個々人にとっての善はあっても、公共的理性においては、価値の問題、善の問題を扱うべきではない」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.337.)。
      • 「サンデルは、その新しいロールズの議論を批判するとともに、リベラル-コミュニタリアン論争に対して自分の立場を明確にした」
        • その主張・・・「正義は善に相関していて、独立していない」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.324.)。だから、「公共的領域を善と切り離すことはできない」「共通善の観念が重要」(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.337.)。ロールズは(1つの)正義を追求している。しかし善に多元主義があるのと同様に、正義にも多元主義がある。事実、ロールズとリバタリアニズムは、適用面ではなく原理それ自体が違うではないか。だから、「善についても、より妥当と思われる考え方を決めることができるし、政府は善について中立的である必要はなく、より良いと思われる善を政策や法律に反映させることができる」のだ(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.325-327.)。
  • コミュニタリアンの1人サンデルの政治的な立場は
    • 『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.275-279.:
      • 「ブッシュ政権を擁護する姿勢は微塵もな」い。(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.276.)
      • 「サンデルの政治的スタンスは、明らかに民主党寄り」。(『サンデルの政治哲学』 小林正弥 p.277.)
    • 『サンデルの政治哲学』 小林正弥 pp.292-293.:
      • ジョン・F・ケネディ1)・・・「リベラリズムの流れに即した発言や政策を行ったという点で」高くは評価しない。
      • ロバート・F・ケネディ1)・・・1960年代の「オーソドックスなリベラルとは違って、善にかかわる問題提起をしたから」「高く評価している」。「私たちは」「公民性に関する理想主義を未だに必要としている」。

Uryah 2011年6月8日 (水) 11:06 (UTC)

現在日本(2004年、2006年、2009年、2011年、2012年時点)の利己主義についての1つ2つの考察[編集]

  • 『日本を滅ぼす「自分バカ」』 勢古浩爾 <2009年5月出版の本>
    • 自分バカとは・・・「自尊心と利益を守ることだけが大切で、そのためなら他人という存在も、正義も、公共心も、言動の美しさも、どうでもいいと思っている人間のこと」(p.3)
    • その特徴は・・・「"自分は悪くても絶対に正しい"と、無茶を平気で主張」すること。(p.4)
      • 「現在の日本人はそのほとんどが『自分』の権利と自由と欲望で多少浮き上がっていると考えていい」。きっとみんなそうだろう。そのなかで、「自分病者」とは、「その『自分』に入り込んで、そこから出てこられない者」のこと(p.119)。
      • 「自分のしたいことはしたいのである」「他人はそれを我慢すべきだというのである」「自分という病」(p.5)。「自分病」(p.3)。「何が正しいのかではない。おれが正しいのだ」「『自分』(の気持ち、感情、自尊心)が至上価値」「自分病者」「現在、こういう男や女、子どもや大人や老人が、すなわちごく一般の人間たちが頻繁に出現するようになったのである」「確実に増殖しつつある。政財官民を問わずである」(pp.103-104)。「自分という唯一性を他人に誇示し、他人がそれを承認することを強要する」「かれらが欲しているのは、価値ある自分という気分の優越だけ」「他人を不快にしても平気」「自分の快だけが問題」(p.112)。「図々しいくせに計算高い」「自分の利益のために他人を食い物にする」(p.120)。「自分の存在証明にばかり躍起になって、他人の価値は梃子でも認めない、それどころか他人を傷つけ不愉快にしなければ自分の存在が証明できないとでもいうようなイヤな風潮」(p.142)。
      • 「権利と自由と民主主義」の「戦後日本の社会原則」は「悪くはなかった」。が、堕落した(「原則」としては根を張らなかった)(「現代日本には原則や規範が『ない』もしくは『とても薄い』」について、『コミュニティを問い直す つながり・都市・日本社会の未来』<2009年8月出版の本> 広井良典 pp.270-271. にも同様の把握がある)。(pp.150-151)「互いの個性を尊重し合おう、というかけ声にもかかわらず」「自分の個性だけが大切で、他人の個性などどうでもいい」という風になった。「『正直者はばかを見る』が、これほど実感となって表れた社会はない」。(pp.151-152)「他者への思い遣りのなさ」(p.92)。
    • 原因は・・・「自分病」が広まった最大の原因は、理性を捨て「本能としての自分だけに特化したこと」。(p.149)
    • いつからか・・・「自分らしさ」という言葉が登場したのが1983年(p.14)、「人間らしさ」が死に瀕したのが1985年(pp.20,21)、「自分らしさ」が市民権を持ったのが1991年以降(pp.33,34)で、「最初は『他人に迷惑をかけなければ』と殊勝な前提を置いていたのだが、いつのまにかそれもすっ飛んでしまい、『好き勝手にやればいいのだ』『それがおれの権利だ』となった」「すべての意識が『自分』だけに集中し、『自分自身』がもっとも価値のある欲望となったのである。『自分』の時代の到来であり、すべての『モンスター』の根源である『自分というモンスター』の誕生である」(p.152)。ということだから、「自分病」の登場は1990年代半ば?
    • 林望によれば、「『利己主義』と勘違いされがちの『個人主義』」だが、「『正しい意味での個人主義』はほんとうは『利他主義』である」(p.239)。
  • 「『現代の私たちに求められているのは何が正しいかではなく、どうすれば多数派でいることができるかということではないかと思います』と(中略)書いてきた学生がいた」(『週刊アスキー』<2004年6月出版の本> 仮想報道 Vol.341)

Uryah 2011年6月20日 (月) 11:12 (UTC)


  • 『呪いの時代』 内田樹 <「呪詛」と「贈与」、「呪い」と「祝福」を主題にした(p.281)2011年11月発行の本>
    • 「自分の正味の現実に対する身もだえするような違和感、乖離感、不充足感、それが『自分らしさ』の実態です」「『自分探し』というときに探しているのは実は『自分』ではない」「欠如感、不充足感を充たしてくれるような他者です」(p.41. 下線、原文は傍点)「『ほんとうの私』だと思っている肥大した自尊感情そのもの」「もっと尊敬されるべきであり、もっと厚遇されるべきであり、もっと愛されるべきであると思っている『私』が、その『当然私に向けられるべき敬意や愛情や配慮』の不足に対して報復」している(p.28. 下線、原文は傍点)「現代日本では『分際をわきまえる』とうことが成熟した市民の条件だという了解はほとんど共有されていません」(p.48)「日本人たちは市民的成熟のための努力を止めてしまったのです」「幼児化の兆候」(p.26)「『ペルソナ』というのは、一言で言えば、人間関係の中で、過剰に他者を傷つけない、過剰に傷つけられないための防衛システムです」「ペルソナは双方向の暴力をコントロールするための装置です」(pp.131, 132)「市民的に成熟するという社会的な圧力」「が減殺されて」「解離的な人格の人間が増えてゆく」(p.134)「見ず知らずの人間に向かい、あれだけの暴力を振るえるということは、生身の人間が生身の人間を襲っているのではなく、記号が記号を襲っていると考える他ない」(pp.51, 52)「攻撃的な口調」「烈しい呪いの言葉」(p.53)
    • 「僕たちの時代は『呪い』がかつてなく活発に活動しています」(p.35)「僕たちはもしかすると平安時代以上に多くの人が呪殺されている時代に生きているのかも知れません」(p.36)「僕たちの時代にこれほど利己的攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が『自分をあまりに愛している』からではありません。逆です。自分を愛するということがどういうことかを忘れてしまったせいです」(pp.36,37)「この『呪いの時代』をどう生き延びたらいいのか」(p.36)

Uryah 2012年1月6日 (金) 13:09 (UTC)、2013年8月25日 (日) 01:13 (UTC)

  • 記事の情報源としては、とても使えない情報源。でも、述べられていることは、かなり腑に落ちる内容:No. 142 - 166.(2012年3月)

Uryah会話) 2012年5月3日 (木) 13:25 (UTC)

  • 『永遠の0』 文庫版 2009年7月第1刷 2013年11月7日第46刷 ISBN 978-4-06-276413-1 (原著2006年8月)
    • 「自分さえよければいいという人間」p.358。「自分が死ぬ心配が一切ない」とき、「強気一点張りの作戦」「無茶苦茶な作戦を」平気で「立てられる」、「ところが」「自分が死ぬ可能性がある時は、逆にものすごく弱気になる」p.365。「場が凍りつくとはあのような時を言うのだろうな」p442。「俺たちは弱虫だな」p.404。「いじめ問題を例えにすると」「利己主義が堂々と罷り通る」p.588。

Uryah会話) 2013年12月28日 (土) 03:12 (UTC)、2014年1月4日 (土) 13:25 (UTC)

2008年時点の日本で考える、いま哲学とは何か[編集]

  • 「いま哲学とは何か」<2008年出版の本>
    • p.132.「隣人の苦しみを正当化することこそが、あらゆる不道徳の根源であり、最悪のスキャンダルに他ならない」。
    • pp.183後半-202は、凡人の自分には、簡単には呑み込めないけど(現実に憎しみの連鎖は断ち切らなければならないと思うし、究極の理想としては、頭の片隅に置いておかなければならないかもしれないけど)。

Uryah 2011年9月27日 (火) 12:53 (UTC)

1983年時点のアメリカで考える「邪悪なもの」[編集]

  • 『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』<M・スコット・ペック著 森英明訳 草思社文庫 ISBN 978-4-7942-1845-2 個人主義的教育を受けた(p.463)キリスト教を信じる(pp.3-9)精神科医(p.469)が考える、「悪の根源」。1983年アメリカで出版された本(p.462, pp.461-470)。1996年日本語訳出版、2011年8月文庫化。>
(1)科学と宗教(価値判断)と事実について(pp.63-83)
(2)憎悪と愛について(pp.119-120)。「愛の道」(pp.450-460)。
(3)生と死の関係と、善と悪の関係について(pp.75-77)
「悪は殺しと関係があると言ったが、これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものでもある」。「」とは、「意識、可動性、知覚、成長、自律性、意志といったもの」のこと(pp.75-76)。
(4)神と悪魔について、「善」と「完全な利己心」について(p.148)
(5)エリッヒ・フロムの研究について(pp.75-77, 81-82)
(6)「邪悪なもの」は「特殊なケース」ではなく、堅実な市民、ごくありふれた普通の人たちのなかに居る(pp.81-82, 139, 129-148, 149-151)。彼らは「怠惰な人間ではない。それどころか彼らは、ご立派な体面や世間体を獲得し維持するためには人並み以上に努力し、奮闘する傾向がある」(p.139)
(7)邪悪と罪悪は別のもの(pp.129-140)
邪悪な人とは、良心が欠如している人、罪の意識を欠いている人、精神病質者、社会病質者、「道徳的知的障害者」のことではない(pp.136-137)。
邪悪な人とは、「自分自身のなかにある病を破壊すべきであるにもかかわらず」「他人を破壊しようとする」人、「慢性的に他人をスケープゴートにする人たち」のこと(p.135)。(p.229)。邪悪な人とは、「自己像を守ることに執心する」「他人が自分をどう思うかについては、鋭い感覚を持っている」(p.137)「自省に伴う特有の苦痛を避けるためにはあらゆることをやってのける」(p.140)人のこと。「『イメージ』『外見』『外向け』といった言葉が、邪悪な人たちの道徳性を理解するうえで重要なもの」(p.137)。「邪悪な人たちの中核的欠陥」は、「ある種のナルシシズム」「悪性のナルシシズム」「病的ナルシシズム」である(pp.140-141)。「彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある」(p.142)(pp.140-148)。自我の境界、どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが他人なのかを分けて考えることが出来、ある1つの状況に居合わせたとき、自分はどう考えるのかを自覚し、ところで相手は何を感じるのかを想像してみることが出来るのが精神的健全性の特性だが、邪悪なナルシシズムを持つ人にはこれが出来ない。共感能力の欠如、他人に対する無神経さ、相手の人間性の無視が特徴(pp.261-265)。「邪悪なナルシシズム」は、「他人を尊重する気持ちからくる抑制力を奪う」(p.262)。「私の考えるところでは、邪悪性はこの自己愛的人格障害のひとつの変種として分類するのがまさしく妥当」(p.244)。「無条件の愛」と「『いいこと』と『悪いこと』」(pp.293-356, 317-319, 327)。「邪悪性というのは一種の未成熟の状態」(p.373)。「私は、この難攻不落の無神経の壁に頭を打ちつけることに疲れはてていた。彼女にとっては、私の感情など存在しないも同然なのである」(p.327)。「強度のナルシシズムにとらわれた(つまり邪悪な)人間」(p.402)。「彼らの『犯罪』はきわめて隠微な、表面に現れないもの」(p.130)。
(8)本書の命題:
「本書がその命題のひとつとしていることは、邪悪性を精神病の一形態として規定できないか、これを、すくなくともほかの大きな精神病に向けられているのと同程度の科学的研究の対象にすべきではないか、ということである」(p.127)。「『邪悪』という名称はわれわれ精神科医の用語に明確な位置を占めるべきである、というのが私の主張である」(p.151)。なぜなら、名前を付けることによって、「それに対処するに際して必要な力を相当程度身につけることができる」から(p.231, pp231-246)。ただし、「われわれが他人を悪と決めつけるときには、われわれ自身が別の悪を犯しているかもしれない、ということを十分意識する必要がある」。善悪を解明して善を選び悪を捨てる(pp.416-431)のではなく、誰か個人を悪と決めつけ批判しにかかるのは、まさに邪悪な人間の特性だから(p.434)(p.437)。「内省こそ、他人の悪を判断する際に常に忘れてはならないもの」(p.437)。(pp.433-460)。
(9)では邪悪なものに出会ったときにはどうすればいいか(pp.119-126)
「邪悪なものに出会ったときにとるべき最良の道は、それを避けることである」(p.124)。なぜなら、その「精神病理」は「圧倒的」だから(p.119, 119-120)。
(10)集団の悪について。ベトナム戦争のアメリカ、ソンミ村虐殺事件のアメリカ軍を、「集団のナルシシズムと怠惰」として把握(pp.357-431)。
邪悪とストレスの関係(pp.370-375)、善とストレスの関係(p.375)。集団のなかにおける退行(pp.375-382)。「理想的な成熟性をそなえたセラピー・グループとは、グループ全体がリーダーで構成されているようなグループのことである」(p.377)。「もっとも、集団の多くが」「個人の成長を目的として存在するわけではない」「古くから言われてきたことであるが、兵隊はものを考えるべきではないとされている」(p.378)。「集団の持つ最大の利点のひとつが専門化である。集団のほうが個人よりはるかに効率よく機能することが多い」「しかし、その一方で私は」「専門化については、原子炉にたいしていだくと同じ程度の不信の念や安全対策をもって対処すべきだと私は考えている」(p.364)。「われわれがナショナリズムと呼んでいるものは、自分の属する文化の達成した偉業にたいする健全な満足感というより、悪性の国家ナルシシズムとなっていることが多い」(pp.420-421)。いかなる集団の中においても「善と悪の戦いが行われ、最終的な勝敗が決せられる」のは、「個人の孤独な心と魂のなかにおいて」である(p.431)。


Uryah会話) 2012年5月2日 (水) 22:24 (UTC)


  • 2001年出版の『野獣系でいこう』 ISBN 4-02-261358-0 pp.303 - 345. にある考察
「道徳と倫理の違い」。キリスト教には「戒律」はない、その意味で「外面的行動なんか何でもよろしい」。「戒律はないけれども、内面的な価値観がありますよね」。いっぽう、「日本にあるのは道徳だけで、倫理なんか、ありっこない」。「日本人が倫理という場合には」多数派が「正しいと思ったことが正しい」。「日本はもともと倫理がなくて道徳でやってきたけれども、道徳というのは大前提が必要で、タイトで包括的な共同体がないと機能しない」。
では、共同体(具体的に人間関係を持つ人同士の集まり)のウチでない場所(ソト=公共の場)や、共同体が消えていく時代状況において、「どうやったら社会の秩序は可能なのか」。「倫理的でも道徳的でもない人間たちのために」何かの「メカニズム」が必要。(←なぜ?)「社会の中で全員が非倫理・不道徳ではあり得ないし」「全員が無規範ではあり得ないんで」、そのメカニズム、「システムを設計する人間」には、「そこにはやっぱり」「規範意識といったものが最低限、要求される」。
なぜ、「秩序」や「規範意識」は「必要」なのか?
携帯docomoのiチャンネルの2013年2月26日20:26のニュースに、「『人間と人間の間の、ごく当たり前な関係ができていたのか』」「『暴力だけが問題ではなく、個人の尊厳というところに何らかの問題があったのではないか』と説明」とあった。
失われるとこうなる↑、ということ?
人間と人間の間の、ごく当たり前な関係」「個人の尊厳」とは?
どこで当たり前?いつの時代に当たり前?それはもともと欧米近代発の当たり前?その本にある考察が妥当なら、欧米近代において限定の当たり前かもしれない?(←それ本当?)
Uryah会話) 2013年3月22日 (金) 21:46 (UTC)

個人の尊厳[編集]

個人の尊厳(2013年4月15日 (月) 12:42)によると

個人の尊厳(こじんのそんげん)は、個人の尊重ともいい、すべての個人人間として有する人格を不可侵のものとし、これを相互に尊重する原理をいう。人間の尊厳、個人尊厳の原理、人格不可侵の原則。基本的人権と同義ともされ、個人主義をその背景に持つ。
確かに、いわれてみれば(2)、その価値観は、たとえば「2010年代日本」の時流の価値観とは相容れないかもしれない。そもそも、「人権」なる発想が、「欧米近代(1)」限定の価値観で、「普遍性に疑問がある」かもしれない。

Uryah会話) 2013年8月20日 (火) 12:24 (UTC)


「個人主義は、国家と対立するキリスト教的伝統の下で生まれた西欧の概念であって、その普遍性に疑問がある(2)」を受けて資料に当たってみると:
(1)個人主義と集団主義の違いとして
世界大百科事典10 コウフ-コン 平凡社 2007年9月改訂新版 p.318 個人主義 作田啓一
「西欧の技術や制度を取り入れた近代化の結果として」個人主義は明治以降日本に流入し、第二次世界大戦後定着するかにみえたが、「神聖な価値」として信奉されている欧米とは違って、日本では集団主義の伝統が根強く存続している。
広井良典 『コミュニティを問い直す―つながり・都市・日本社会の未来』 ちくま新書 2010年1月第4刷 ISBN 9784480065018 pp.9-37.
諸外国と比べて際立っている、ウチとソトの落差が激しいという日本社会の特徴としての「見知らぬ者」どうしの気づかいの不在が、それは中根千枝や和辻哲郎らが指摘したようにやや古い時代の特性だと思われるかもしれないが実は、「今(2010年)」、その特色が色を強め際立ってきていることが、現在日本(2010年)に漂っている「生きづらさや閉塞感の根本的な背景になっているのではないだろうか」(p.17)(※1,2
(2)発想・視座の違いとして(横軸)
  • 「米:現代におけるリベラルアーツと定義する[2]。つまり、中世の大学における三科 (文法・論理・修辞) のように、現在の情報化社会において、コンピューターをただ使用するだけではなく、情報にアクセス、精査し、社会的、文化的、そして哲学的な状況・影響を知ることができる能力としている」「日:日本では情報リテラシーとは情報機器を活用して情報社会を生きていく能力といったニュアンスで使われているようである」
(3)時代の違いとして(縦軸)
  • 「サルトルのアンガージュマン(他の実存と共に生きるための自己拘束)の思想」「1960年代の学生運動の思想的バックボーン」「他者を支配管理する実存はあり得ない」
  • 『週刊アスキー』<2004年6月> 仮想報道 Vol.341
  • 「『現代の私たちに求められているのは何が正しいかではなく、どうすれば多数派でいることができるかということではないかと思います』と(中略)書いてきた学生がいた」
(4)ニヒリズム?
  • 日本にはもともとキリスト教の土壌がないということだから、似て非なるものだろうけれども、その雰囲気は、もしかして、キリスト教文化におけるニヒリズム 2013年6月16日 (日) 05:33に似ている?
  • 「『真なる道徳』というものは存在しない、世俗的な倫理は実現不可能。よって我々の存在には結局真理はなく、好まれる行動など存在しない」という考え
  • 「すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に『仮象』を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度」
  • 「何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度」
  • 『希望難民ご一行様』 2010年8月 古市憲寿 ISBN 978-4-334-03578-5 pp.26 - 54, 252 - 280, 292 - 306, 56 - 86, 88 - 250 で言う「あきらめ」。
Uryah会話) 2013年8月23日 (金) 20:45 (UTC)

語そのものについてではなく、語を解釈する人の発想について。[編集]

・「個人主義」という言葉は多義的な言葉なのだそうだ(『西洋思想大事典』2巻 権威→心理学理論 pp.213-223. 平凡社 1990年6月 初版第1刷 個人主義の諸類型、世界大百科事典 10巻 コウフ-コン 平凡社 2007年9月改訂新版 p.318 個人主義)。

・語「個人主義」そのものについてではなく、語を解釈する人の発想について:

個人主義個人の尊厳」というと、
  • a:自分は「個人の相互尊重」、お互いに尊重し合うこと・気配り・配慮・倫理といったものをまず連想する。
  • b:一方、「ナルシシズム・リバタリアニズム」をまず連想する発想・感覚・考え方があるようだ(1)。
「気配り・相互尊重」と「ナルシシズム・リバタリアニズム」では正反対だ。
では連想する人、言葉を使う人の考え方気持はどうなっている?
  • (1)aとbは、同じ言葉を違う意味(語義)で使っているけど、"我が儘を否定的にとらえる" というような、心の中で目指しているものは実は同じ?
  • (2)違うのだとしたら、aが「相互に尊重し合おう」という考えなのは間違いないので、bは、「他人も尊重するのは嫌だ」と言っている?
  • (3)それとも?何が、どこが違う?
  • (4)もしかしてこういうことも? - モラル・ハラスメント(『モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない』2006年 ISBN 4-314-00861-X):
    • 「ナルシシストにとって、他人は人間としては存在しない」。 p.213. ナルシシストは、「いつも他人を必要としている」。「相手にしがみつき」、でも「必要としているのは相手のほうだと考える」。「自分が相手にしがみついているとわかってしまう状態を拒否する。そんなことがわかったら、自分自身に対して抱いているイメージが崩れてしまうからだ」。 pp.224-225. そのしがみつき方は、「ちょうど他の生物の血を吸って生きていくヒルのようなものだ」。 p.213.(歩いていると、そうされたいと思っていないのにくっついてくる。ふと気が付くと、くっついている。される方は望んでいないのに、くっついている。吸い付いて離れない)
  • (5)あるいは、こういうことも? - ( ISBN 978-4-478-02581-9 2013年12月第1刷の本)
    • 「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」p.71。「あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと-あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること-によって引き起こされます」p.140。:「『他人の課題』に土足で踏み込む人の存在」が問題?
      • 「自分の課題と他者の課題とを分離していく必要がある」p.140。人は、「独立した個人です」p.144。「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」p.145。自分もまた、「他者の期待など、満たす必要はない」p.135。
      • 人は人との関係において、「無論、精いっぱいの」働きかけ「はします。しかし、その先にまでは踏み込めない。ある国に『馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない』ということわざがあります。」ここでいう「他者への」働きかけ「全般も、そういうスタンスだと考えてください」p.143。
      • 他者に承認や評価を強要する人、承認や評価という他者の課題に土足で踏み込む人は、「他者の視線が気になっている。他者からの評価が気になっている。だからこそ、他者からの承認を求めてやまない。それではなぜ、他者の視線が気になるのか?」それは、「あなたはまだ、課題の分離ができていない」からpp.147,148。「『他者から嫌われろ』と?」「嫌われることを怖れるな、といっているのです」「わざわざ嫌われるような生き方をしろとか、悪行を働けといっているのではありません。そこは誤解しないでください」p.163。(過去の)「『原因』ではなく、いまの『目的』を考えます」p.27。「これは“勇気”の問題です」問題は、「世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか、なのです」p.6。(下線は引用者)特別なことではなく、個々の人の日常生活の個々の場面における価値判断と勇気。
      • 「課題を分離することは、自己中心的になることではありません。むしろ他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです」p.159。「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた」「画期的な視点になります」p.150。

Uryah会話) 2013年12月30日 (月) 14:16 (UTC)、2014年1月3日 (金) 02:14 (UTC)、2014年5月30日 (金) 22:32 (UTC)、2014年6月1日 (日) 06:25 (UTC)、2014年8月10日 (日) 05:02 (UTC)、2016年8月15日 (月) 12:39 (UTC)、2016年8月15日 (月) 12:51 (UTC)

他人が嫌がっているという事実を無視して行動できる人は、他人と愛情交換をできない人だという説[編集]

良心
良心とは、「他人、友人、あるいは家族」のために働く「自制する気持ち」のこと(p.7)で、心理学的には、良心とは、他人の視線や世間体からくるものでも、自分が持つ自分自身のイメージつまり自尊心からくるものでもなく、「べつの生き物(かならずしも人間とはかぎらない)ないし人間の集団、あるいは人類全体への感情的な愛着から生まれる義務感」「感覚」(p.42)、「自分の行動をさまたげる、感情的な愛着にもとづく義務感」(p.162)のことで、その燃料は、「強い愛情」なのだそうです(pp.33-43)。「良心は、愛する能力を欠いては存在しない」ものだそうで(p.169)、また良心は、反射的に働くもので、いちいち考えて作動するものではないそうです(p.22)。
サイコパス
この「良心」を、本当にまったく持たない人がいて、その状態の人をサイコパスと呼び、その特徴は、「行動が制限されない」こと(p.20)なのだそうです。たとえば、「ふつうの人は、民族の大量虐殺と、たとえば会社で同僚について平然と上司に嘘をつく行為とのあいだに、共通点を見いださない」けれど、でもそこには「深い共通点」があって、それは、「自分が道徳や倫理に反した行為や、怠惰、利己的と思える行為を選ぼうとしたとき、それを抑えようとする内的メカニズムが欠けている」こと(p.21)なのだそうです。またサイコパスは、ふつうの人が思うよりは多く居て、一目でそれとわかるようなものではないそうです(pp.20-21)。(引用者注:内的メカニズムとは、良心、自制心のこと)
サイコパスとナルシシズム
「ナルシシズムは、言ってみれば、サイコパシーを半分にしたようなもの」「欠けているのは、ほかの人の気持ちを理解する能力」「他人の気持ちを感じとって適切に反応する能力が欠けている」(p.170)(引用者注:共感能力や想像力が欠けている?(他)人が本当に嫌がっているのか、そうでないのかが判らないということ?)。「自分以外のものは目に入らず」「外からのものはすべて跳ね返して受け付けない」(p.170)(引用者注:いわゆる「無神経の壁」?)。
サイコパスは、他人の気持ちが本当に気にならないので他人の気持ちを無視する。ナルシシストは、ほかの人の気持ちを理解する能力が欠けているから他人の気持ちを無視する、と。
個人主義世界と集団主義世界
西欧世界の心理学におけるチェックリストで調査したら、集団主義の日本や中国においては西欧世界よりもサイコパシーの割合が低い(pp.180-184)そうです。ということは、日本においては(西欧世界と比べた場合)、サイコパスの問題よりナルシシズムの問題のほうが問題が大きい(被害者の割合、数が多い)ということ?
それとも、「サイコパス」は、「人間関係で利口に立ちまわ」り(p.178)、(他)人の感情に全然共感しない(できない)けれど「自分の利益のためにそれを利用するすべは知って」(p.145)おり、置かれている社会の作法を『習得』しまぎれこむもの(p.184)で、社会生活の表面上、個々のサイコパス達のやっていることは違うが、通底するのは、自分の利益のためには「罪悪感のかけらもなしに『どんなことでもやってしまう』点」だ(pp.161-162)ということだから、たとえば、直接働きかけるのではなく周囲の人間を巻き込んで動かすというような、自分の置かれている社会、つまり集団主義社会のやり方に合わせた仕方で、なんの罪悪感ももたずに自分の利益を追求できる(追求している)サイコパスの割合は、日本も西欧世界と同じかも、ということ?
Uryah会話) 2015年9月21日 (月) 17:48 (UTC)

支配、意思の強制または無理強い[編集]

  • <(他)人を支配(コントロール)しようとするところ> が、ナルルシシストとサイコパスが共通して持っている特徴のようです。
  • ナルルシシストやサイコパスは、もし「支配しようとしている」と受けとめられたら(気づかれたら)/受けとめられたとしたら(気づかれたとしたら)、それは魅力・能力(または道理)が足りていないということで、そこを埋めよう/補おうと発揮するのが、「暴力(「意志の強制」という顕著な特性)」(「日本軍の敗因 『勝てない軍隊』の組織論」 ISBN 978-4-05-405424-0 p.214)のようです。足りていれば、気づかないか、気づいても、支配(コントロール)されてもいいや、と思われるはず。つまり、「無理強い」をするまでもない。というか、無理強いに「ならない」。「無理強い」は起こらない。
  • 感情・意思を無視されたまま、欲望を押し付けられ(そうにな)る/利用され(そうにな)る/支配され(そうにな)ると感じたとき、ナルルシシストやサイコパスに接することになった者は、「遭難した」と感じるのだと思われます。
Uryah会話) 2015年9月24日 (木) 10:36 (UTC)
  • これは、完全な私見なのだけれども、下記のとき、人は、「無理強い」をするのではないか?
    • 「コミュニケーション抜きで」手に入れたいものがあるとき(人を支配したいとき)
      • 感情で繋がり合えない(繋がり合うことは出来ない(同意を説く魅力・能力・道理が(足りてい)ない))のだけれども、手に入れたいものがあるとき
      • 感情で繋がるのは怖いまたは相手を人間扱いしていない(内気、または、コミュニケーションをとる気がない/とらないで何かをしていいと思っている(=相手の人格を無視している))のでそれはしないのだけれど、手に入れたいものがあるとき
※手に入れたいもの -- 関心、注目、好意、愛情、尊敬(敬意)、人の気持ち、良い都合、お金、モノ、体、ほかなんでも。
Uryah会話) 2015年9月25日 (金) 10:39 (UTC)

「暴力」とは何か[編集]

  • 「人間の心性」という観点に着目した「暴力」とは何か(社会学・心理学):
    • 暴力とは、「自分の思うとおりにならない他(人)に、自分の思いを強制すること」のようです(暴力の特性 ISBN 978-4-05-405424-0 p.214)。 → 思うとおりにならないということは、思ったことに対して、暴力の行使者自身が力不足、すなわち魅力・能力または道理が足りていないということのようです(ふるわれた側を説得する魅力・能力または道理を持ち合わせていなかった(足りていなかった)ので、強制することになった)。
  • 物事を抽象して考える考察では「暴力とは」(哲学):
    • 思いどおりにならないのが「他人」であり(pp.116-127, 127- 140, 140-165)、それが人間の「苦しみ」であり(p.30)、他人が思い通りにならないから苦しいといって力に任せて思いを通すこと、「法のない支配・合意のない支配・力を有するものの恣意的欲望の支配」を「暴力」という(p.56)ようです(ISBN 978-4-00-431137-9)。
  • 社会のなかのどういう属性の人(たち)が何をすることが「暴力」なのか、「社会構造」という観点からみた「暴力」とは何か(社会学・数学):
    • ガルトゥングは論文「暴力・平和・平和研究」において、望ましい、追求すべき目標としての平和概念を作るために、その反対である暴力の概念を大きく広げようとした。狭い定義では、力を直接行使して他人の肉体を損傷させることだけが暴力となるが、その場合、たとえば威嚇によって間接的に人に危害を与えるのは暴力に含まれない。間接的な危害が常態化したような社会の維持を、望ましい平和として追求するわけにはいかない。その種の様々な疑念を払拭できるように大きく拡張したのが、「ある人にたいして影響力が行使された結果、彼が現実的に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼のもつ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこには暴力が存在する」という暴力の定義(ヨハン・ガルトゥング「暴力・平和・平和研究」、高柳先男・塩屋保・酒井由美子訳『構造的暴力と平和』、中央大学出版部、1991年。原論文は"Violence, Peace and Peace Research", Journal of Peace Research, No.3, 1969. 構造的暴力 2015年8月28日 (金) 10:01)である。
Uryah会話) 2016年2月7日 (日) 07:07 (UTC)

強制とは何か[編集]

  • 「強制(きょうせい)とは、相手が快諾しない物事を有無を言わせずに押し付けること」(1
  • 「一般に,力や圧力による脅迫あるいはその誇示や実際の行使を媒介として,一定の決定や行動を個人ないし集団に強いること」。「(1)心理的強制 (2)物理的強制 (3)社会的強制」がある。 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

「強制して成し遂げる」の反対は「説得して成し遂げる」。説得できなくて(説得する者/側に説得するだけの魅力・能力または道理が(足りてい)なくて)、でもあきらめられないときは、強制・無理強いするしかない。
Uryah会話) 2016年3月6日 (日) 06:07 (UTC)

欲望と強欲[編集]

「私たちは日々、さまざまな欲望を抱えて生きています」。欲望は「人間が生きていく上での前提だといってもいい」。ただ、「やり過ぎたり、やらなさ過ぎは駄目で、両方の中間が最善」。なぜ強欲は駄目かといえば、「強欲とは、言葉の通り欲張り過ぎで」「周りにとってもよくない状態」だから。「強欲が欲望と違って問題なのは、その程度が過剰だから」で、過剰だとなぜ問題なのかといえば、「それによって、人に迷惑をかける可能性があるから」である。 - いちばんわかりやすい哲学 枻出版社 2016年2月第1刷 p.99

  • 欲望は、人が生きていく上での前提。
  • 強欲は、周りの人に迷惑をかけるからダメ。周りの人によくないことを起こすからダメ(以下は私見:たぶん、強欲は強欲でも、他人に迷惑をかけない、つまり他人に一切関与しない/関係しない強欲なら、たぶん問題ない。問題ないというか、周囲は気にしない。絡まれなければ、無問題。それが何かはパッとわからないけど※)。

※強欲が当人にとってどうなのかは、周りの人にとってはどうでもいいことだ(冷たい?)。親や先生や親友やパートナーなど、程度・度合に違いはあっても、当人の人生に責任を引き受ける気持ちのある人/立場の人は、「心配する」という形で関与するかもしれない。気持ちも立場にもない人は、何かを与えてきた人にはお礼を返すかもしれないし、譲り合いはお互い様だからするだろうし、気の毒な人がいたら手を差し伸べるかもしれないし、社会で(社会として)解決すべきことには完全な無関心ではいられないけど、そうでない場合、無関係の人には何もしないし、まして、何かを強制しにきた人/奪いにきた人に遭遇したら、払い除けるか、そこから離れる。

Uryah会話) 2016年3月15日 (火) 12:34 (UTC)

太平洋戦争の経験から、1948年~1953年に日本で目指された個人主義[編集]

「軍国主義の時代に日本の政治家や思想家たちは、民主主義を圧迫した。したがって、その根本にある個人主義を、いやしむべき利己主義であるとのヽしった。しかし、これほど大きなまちがいはない」。 p.153


「人間を個人として尊重する立場は、個人主義である。だから、民主主義の根本精神は個人主義に立脚する」。「個人主義は、個人こそあらゆる社会活動の単位であり、したがって、個人の完成こそいっさいの社会進歩の基礎であることを認める立場である」。「尊重さるべきものは『一部の人間』ではなく、ましていわんや『おのれひとり』ではなく、生きとし生ける『すべての個人』である」。 p.153

「個人主義は、自分であると他人であるとを問わず、すべての人間を個人として尊重する。自分を尊重するのは、自分の人格をたいせつにすることであり、自己の正当な権利を擁護することである」。「自己の正当な権利を主張する者は、同様に、他人の正当な権利を重んじなければならない」。「他人の立場を重んじないで、どうして自分の立場だけを認めさせる資格があろうか。だから、個人主義は、個人の権利を重んずると同時に、個人の責任を重んずる。個人個人がその責任を自覚することによって、すべての社会活動が円滑に行われるようになることを期待する」。 p.156, 157

「社会生活」において「は」、数多ある人々、「その中には、悪い人間もある。したいほうだいなことをして、他人に大きな迷惑をかける者もある」。「それをそのまゝにしておいたのでは、社会生活は成り立たない。そこで、法律があって、犯罪を処罰する。悪い人間を取り締まる」。「同時に、法律上の権利を主張することにだけ急であって、義務を行うことをなおざりにするようであってはならないことは、いうまでもない」。「まして、法律をたてにとって弱い者をいじめ」「不当な利益をむさぼるようなことは、はなはだしい法律の悪用である」。 p.158

人々の中には、「法律で罰せられる心配がなければ、どんな悪いことでもやってのける連中も」いる。「やヽもすれば、見ず知らずの人にぶあいそで、非社交的で、公衆道徳を守らないという」人もいる。しかし、「民主主義の社会では、何よりもまず、だれもが同じ対等の人間として尊敬しあうという気持を養わなければならない。個人の自由の尊さを認識せず、個人の尊厳を自覚しない者は、他人の自由を侵し、他人の人格を傷つけることを意に介しない」。しかし、「みんなの住む社会をできるだけ住みよい、気持ちのいいものにして行くことは、お互の義務である。そのためには、各人がお互の個性を認めあい、自分も他人から不当に自由を束縛されることがないようにすると同時に、自分も他人の自由を尊重しなければならない」。 p.161, 162

「常に真実を語り、真実を実行する誠意と、正義のためには断乎として譲らぬ勇気とを持ち続けなければならない」。「社会生活における民主主義の成否は」「誠意と勇気と持った人々が、多いか少ないかによって決まる」。 p.162

「民主主義は決して単なる政治上の制度ではない。それは、その根本において社会生活のあり方であり、社会生活を営むすべての人々の心の持ち方である」。人々が自身の内に持つ気持ち、価値判断、価値観、哲学がその核心であり、制度はそれを具現化(しようと)したもの/目指そうとした1つの形に過ぎない。 p.146

文部省著作教科書 民主主義 径書房 2015年8月15日 第9刷 ISBN 978-4-7705-0144-8 146~162ページ 第八章 社会生活における民主主義

Uryah会話) 2016年7月31日 (日) 04:53 (UTC)

他者危害でない限り自由[編集]

「他者危害でない限り自由」という考え方において、自分は、リバタリアン的だったのかも。ところで、世の中では、強欲者利己主義者がリバタリアンを自称しているってことない?

1. 「他者危害でない限り自由」「他者危害原則」。
  • 茶髪も金髪もパーマも、どんなヘアスタイル・ヘアカラーも他者危害でない限り自由です。
  • 授業中に寝るのは、いびきがひどければ、他の生徒の学習機会を毀損したことになりますが、スヤスヤ静かに寝る限り自由です。
  • 大教室での講義で、
  • 物を食べるのも、ヘッドホンで自分の世界に入るのも禁止はしない。
  • しかし、近隣の学生とおしゃべりをして、授業を聞こうとする他の学生の邪魔をするのは他者危害で認められない。
2. 【リバタリアニズムとは】自由主義との違いと批判・役割をわかりやすく解説|リベラルアーツガイド
  • リバタリアニズムが共通して持つ思想
  • 他者とは相互不可侵の関係性であるべき
  • 「ヒエラルキー・ソリューション」を否定する
  • 消極的自由に積極的で、積極的自由に消極的
3. 他者危害 - google検索


「他人に迷惑をかけなければ自由」という考え方は、1980年代の日本には在ったはずなんですけどね。これがその後「他人に迷惑をかけなければ」の部分が欠落していったのは、前提・下敷きになる個人主義が日本では浸透していなかった、日本にはなかったから、ということなのか。

Uryah会話) 2021年1月2日 (土) 05:47 (UTC)、2021年1月2日 (土) 21:29 (UTC)