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利用者:Voyant2016/sandbox

楫西 貞雄(かじにし さだお、生年不明)は日本の詩人。太宰治の弟子にあたる田中英光と交友関係にあった。田中の関係から金史良(キム・サリャン)とも接触していた可能性がある。

昭和十年代の中ごろ、東満州の国境近い斐徳にいた楫西はそこで出来た詩を丸山薫に送り、その縁あって『野にて』が雑誌「四季」に掲載される。「四季」にはその後『墓地』、『すすき』が掲載されている。

昭和17年、京城府の雑誌「國民文學」に『野にて』が再掲載される。同掲載誌には田中英光や木山捷平などが名を連ねている。この雑誌にはのちに金史良が長編小説『太白山脈』を連載することとなる。召集解除の帰途、朝鮮(京城府?)で田中英光に会い詩集の出版を勧められるが実現しなかった。

戦後は関西を拠点に「詩文化」、「青い花」、「詩使徒」、「炉」、「純正詩」、「詩学」、「鮟鱇」などの雑誌に作品を発表。昭和30年7月、戦前からの作品をまとめた詩集『辺境』を上梓する。装幀は大泉米吉、題字は小野十三郎が手掛けた。出版は東川紀志男の尽力によるものだったという。

楫西に関する資料はほとんどなく、安宇植(アン・ウシク)著の「評伝 金史良」にその名をちらりと覗かせるのみである。詩集『辺境』の奥付に記された住所は「神戸市東灘区(以下略)」となっている。


木津 五郎(きづ ごろう、生年不明-1954年1月16日[1])は日本の詩人、画家。東京外国語大学フランス語科卒。大学の同級に渋沢孝輔、友人に野村修真継伸彦らがいた。野村、真継の関係から小島衛とも交流があった可能性も考えられる。[2]

浅草蔵前町の自宅の片隅に小さなアトリエを建て、そこで暮らしていた。アルチュール・ランボーの詩を愛読し、自らも詩作する。絵は壁ばかりを描いていた。徹底的なペシミストで自殺未遂を繰り返していたという。また、幽霊をみる見者(Voyant)であった。

昭和29年1月、雪の降る夜に風月堂 (東京都新宿区)で仲間と集っていたところ、ふいに店を抜けだし明治神宮外苑青酸カリを服毒し自殺を遂げる。享年25。同年7月、詩集『詩』が私家版にて上梓される。

大学時代の恩師にあたる田島宏は、無名ながらも天才的な詩人だったと忘れがたい教え子の一人として木津の名をあげている。[3]木津に関する資料はほとんどなく、真継伸彦著の「死の彼方からの光」[4]に収録されている『わが薄明の時』と題されたエッセイが唯一の資料といえる。残された詩集に奥付はなく、詩の純粋、静謐を貫徹するがごとく余分なことは一切書かれていない。

  1. ^ 詩集『詩』の目次末尾に「一九五四・七」という記載があり、その横に肉筆で「・一、一六 死 二十五才」と書き込まれている。
  2. ^ 小島は昭和27年4月に同人雑誌「地下水」を発刊している。同雑誌には野村、真継ともに参加している。
  3. ^ 東京外国語大学 フランス語研究室論集 「Flambeau 特集:西ヶ原キャンパスの思い出」 2000年
  4. ^ 真継伸彦 「死の彼方からの光」 編集工房ノア 1984年