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中井町 | |
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国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 神奈川県 |
郡 | 足柄上郡 |
市町村コード | 14361-8 |
面積 |
19.99km2 |
総人口 |
8,902人 [編集] (推計人口、2024年11月1日) |
人口密度 | 445人/km2 |
隣接自治体 |
平塚市、小田原市、秦野市、 中郡二宮町、足柄上郡大井町 |
町の木 | キキョウ |
町の花 | キンモクセイ |
町の鳥 | シラサギ |
中井町役場 | |
町長 | 戸村裕司 |
所在地 |
〒259-0153 神奈川県足柄上郡中井町比奈窪56番地 北緯35度19分50.5秒 東経139度13分7.8秒 / 北緯35.330694度 東経139.218833度 |
外部リンク | 中井町公式ウェブサイト |
ウィキプロジェクト |
中井町(なかいまち)は、神奈川県の南西に位置する町である。酪農が盛んであり、町の農業生産の4割以上を占める。その他、露地野菜や温暖な気候を利用したみかんの栽培もある。東名高速道路のインターチェンジ付近には工業団地が造成されている。
地理
[編集]神奈川県の南西部、足柄上郡の東端にあたる。大磯丘陵の北西部にある町域の3分の1は山林で、そのすべてが民有林であり、丘陵地の間の川沿いに農地と市街が位置する。西部には中村川、東部では葛川が町を縦断している。関東大震災によるがけ崩れで北部の川が堰き止められ震生湖ができた。震生湖という名はこれに由来する。震生湖は、日本一新しい自然湖であるとされ、湖畔には震災の調査に訪れた寺田寅彦の句碑がある。町の南西部には曽我山・不動山など200-300mほどの山があり、斜面にはみかん畑が点在する。
歴史
[編集]平安時代末に豪族中村氏が発祥した。
明治時代
[編集]現在の中井町に通ずる近代的な行政区画が誕生したのは1884年(明治17年)のことで、足柄上郡の東方に位置する15か村(比奈窪・松本・岩倉・雑色・鴨沢・古怒田・半分形・田中・遠藤・北田・久所・藤沢・境・境別所・井ノ口の各村)が連合し比奈窪村内に役場を置いたことにまで遡ることができる[1]。この15か村の範囲が現在の中井町の範囲の原型となった。2年後の1886年(明治19年)には大住郡五分一村を足柄上郡井ノ口村に編入している[1]。
1889年(明治22年)に町村制が施行された際[1]、井ノ口村を除く14か村に井ノ口村と足柄下郡小竹村両村の飛地を合併して新たに中村が誕生した[2]。合併以前の各村の名前は大字として継承され、役場は15か村連合時代同様に比奈窪に置かれた[2]。一方井ノ口村はそのまま単立の村として町村制下の井ノ口村として存立し[3]、村内の米倉寺の一部を借り受けて村役場とした[1]。こうしてかつての15か村は中村・井ノ口村の2村に分かれることとなったが、1908年(明治41年)に両村は再び合併、かつての15か村の範囲をおおむね継承する形で、中村・井ノ口村の両村から一字ずつもらい受けた合成地名[4]を冠する中井村が誕生した[1]。この際に新設された中井村がこんにちの中井町の直接の前身である。
中井村成立以前の明治30年代から40年代にかけては、産業・交通ともに変化があった。まず産業面では政府主導の農業振興策を背景に農事改良が進められ、乳牛の導入、落花生の栽培、中井町となって以降も主産業であるミカンの栽培などが行われるようになった[5]。これらの農事改良は行政主導によるものではなく、主に在地の豪農が主となって指導にあたった[5]。さらに1899年(明治32年)に耕地整理法が成立したことを踏まえ、「大正天皇御大典記念事業」として中村川流域の水田耕地の整理が行われた[6]。この事業には2万1,500円が投じられ、結果3町9反0畝26歩の増田に繋がり、同地では二毛作も可能となった[6]。一方交通面では1887年(明治20年)にのちの東海道線が国府津駅まで延長され(二宮駅は未開設)最寄り駅として機能した[7]。1906年(明治39年)には秦野-二宮間に軽便鉄道の湘南軌道が開通し[7]、中井村内にも上井ノ口駅・下井ノ口駅・一色駅が開設された。
大正時代
[編集]1923年(大正12年)9月1日に発生した大正関東地震によって引き起こされた関東大震災により、中井村内でも死者を伴う被害が発生した。足柄上郡は神奈川県内でも比較的被害が軽微だったとされるが、郡内だけで死者234名・重軽傷者395名に達しており、また郡内ではないが中井村民と関係の深かった二宮駅も倒壊の被害を受けた[8]。中井村では死者24名・重傷者21名を出し、全843戸のうち58%に相当する488戸が全半潰(うち全潰163戸、半潰325戸)したため、震災直後には507世帯がバラックでの居住を余儀なくされた[8]。上井ノ口の簡易水道をはじめ橋梁・道路・用水路・堤防等にも被害が及び[8]、村内の総損害額は15万9,000円に達した[9]。また、関東大震災による土砂崩れは村内各地で相次ぎ、この時の土砂崩れで震生湖が誕生している[8]。
昭和時代(戦前)
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
戦後から平成
[編集]1953年(昭和28年)に町村合併促進法が制定されると、足柄上郡を含む神奈川県全域で市町村の廃置分合の可能性が模索された。1954年(昭和29年)に県の専門委員に任じられていた東京大学教授の鵜飼信成により市町村合併の草案である「鵜飼試案」が提出されると、県はこれを踏まえて「神奈川県町村合併計画案」を策定した[10]。同策定によると中井村は「 足柄下郡下中村との合併が適当と考えられる 」とされたが[11]、中井村自体が足柄上郡の足柄平野側の村々から「足柄上郡のチベット」と揶揄されていたこともあり、所属する足柄上郡内での合併ではなく隣接する中郡との合併を模索する意見も現れた。しかしこれは秦野と合併するか二宮と合併するかで村内各地で意見が割れ統一を見ず、最終的には一切の合併を行わず現状を維持する方向で合併論争は沈静したという。この結果中井村は1958年(昭和33年)12月1日に単独で町制を施行、中井町が誕生することとなった。
人口
[編集]中井町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 中井町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 中井町
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
中井町(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
行政
[編集]行政区域の変遷
[編集]経済
[編集]総世帯数約3,000のうち、6分の1にあたる約500世帯が農家であり、また120世帯余が林業に携わっている。主たる産品は酪農であるが、近年では東名高速道路のインターチェンジ付近に工業団地を造成したことにより、就業人口にも変化がみられる。
産業
[編集]農林業
[編集]農畜産業
[編集]- 中井町の町域面積のうち約4分の1が農地であり、世帯数の16%、人口の23%ほどが農家であるが、その数は年々減少している。
- 2000年(平成12年)の耕地面積は513haで、そのうち作付延べ面積は430ha(耕地利用率83.8%)である。内訳は以下のとおり。
- 田 - 34ha(水稲23ha・陸稲1haなど)
- 畑 - 479ha
- 普通畑 - 319ha(らっかせい33ha・とうもろこし31ha・だいこん25ha・甘藷22haなど)
- 樹園地 - 160ha(みかん87ha・くり20ha・うめ11haなど)
- 酪農農家は30戸あり、乳牛800頭余が飼育されている。生乳の出荷額は5億5千万円で、全体の4割以上を占める。
林業
[編集]- 中井町の町域の約3分の1にあたる679haが山林・林野であり、その約3分の2、476haが天然の広葉樹林である。92haある人工林にはスギ(72ha)、ヒノキ(20ha)が植林されている。
- 林業に携わる戸数は123戸である。
工業
[編集]- 2000年の工業事業所数は97で、製造品出荷額は約842億円である。
- 東名高速道路秦野中井IC附近に造成された工業団地、グリーンテク中井には、富士ゼロックス、テルモ、日本通運、日立コンビューター機器、日立インフォメーションテクノロジー、岡村製作所、ブルックス(コーヒー豆)、他の工場が立地している。
商業
[編集]- 卸・小売・飲食店数は134で、卸・小売を合わせた年間販売額は約210億円である。
地域
[編集]健康と福祉
[編集]- 2000年の老齢人口比は14.3%である。これは全国平均よりも低く、県内平均とほぼ同じ数値であったが、2014年には28.4%まで上昇し、全国平均の25.2%、県内平均の22.5%を大きく上回り、高齢化の進展が著しい。
教育
[編集]- 中井町立中村小学校
- 中井町立井ノ口小学校
- 中井町立中井中学校
交通
[編集]かつては湘南軌道という軽便鉄道が町内を通っていたが、廃止され現在は町内に鉄道路線はない。隣接する秦野市・二宮町からのバス路線が主たる公共交通機関である。
バス路線
[編集]道路
[編集]町の北部を東名高速道路が東西に横断する。
高速道路・有料道路
[編集]県道
[編集]出身有名人
[編集]その他
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 中井町誌編纂委員会 1990, p. 165.
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1984, p. 662.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1984, p. 128.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1984, p. 635.
- ^ a b 中井町誌編纂委員会 1990, p. 166.
- ^ a b 中井町誌編纂委員会 1990, p. 168.
- ^ a b 中井町誌編纂委員会 1990, p. 169.
- ^ a b c d 中井町誌編纂委員会 1990, p. 171.
- ^ 中井町誌編纂委員会 1990, p. 172.
- ^ 神奈川県企画調査部県史編集室 1977, pp. 573–574.
- ^ 神奈川県企画調査部県史編集室 1977, pp. 573–576.
参考文献
[編集]- 井ノ口遺跡発掘調査団 編『井ノ口墓ノ前遺跡』井ノ口遺跡発掘調査団、1982年12月10日。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』角川書店、1984年。ISBN 4040011406。
- 神奈川県企画調査部県史編集室 編『『神奈川県史 資料編12 近代・現代 (2)』』1977年。
- 中井町誌編纂委員会 編『中井町誌』1990年。
関連項目
[編集]外部リンク
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