利用者:Yamanosora/和声 理論と実習
『和声 理論と実習』(わせい りろんとじっしゅう)は、東京芸術大学音楽学部の和声の集団授業のための教科書として1964年から1967年にかけて音楽之友社から出版された和声学の教科書で[1]、日本語による和声教育の標準的教科書である[2]。通称「芸大和声」[2]。
概要
[編集]『和声 理論と実習』に先行する日本語の和声教科書で直接関係するものは、1958年に音楽之友社から出版された外崎幹二と島岡譲による『和声の原理と実習』である[2]。これは従来の和音記号の方式を総合した新たな和音記号を使って記述されている[2]。この『和声の原理と実習』をもとに東京芸術大学で島岡譲が執筆責任者となって新たな和声教科書が企画され、企画に参加した各教官の教育現場での経験に基づく提言と工夫が『和声 理論と実習』全3巻および別巻1巻にまとめられ、1964年から1967年にかけて音楽之友社から出版された[2]。その後、各音楽大学で和声教科書として広く採用され、日本語による和声教育の標準的教科書の地位を占めるに至った[2][3]。教科書編纂にあたっては個人指導によらなくとも学習効果の上がることが企図されている[1]。
著者
[編集]島岡譲(執筆責任)、丸田昭三(執筆補佐)、佐藤眞(執筆補佐)、池内友次郎、長谷川良夫、石桁真礼生、松本民之助、矢代秋雄、柏木俊夫、小林秀雄[4]、三善晃、末吉保雄、南弘明。
内容
[編集]この教科書では用語、和音記号が独自のものになっていて、伝統的にクラシック音楽の世界で使われてきたものとは異なっている[5]。この点について本書は、冒頭で「用語や記号などが,従来の理論に馴れた人には奇異に感じられるかもしれないが,それらは目標に最短距離で到達するために考案された手段にすぎないのであり,とくに問題にするにはあたらない」[6]と主張している。
第1巻では、まず三和音の説明をする。次に四声、すなわちソプラノ、アルト、テノール、バスの混成四部合唱のような場合を仮定して、実際にどの音を選べば連続する和音において各声部のつながりがよくなるかを説明する。例題による実習をはさみながら、四声による説明、課題が続く。和声終止形(カデンツ)、和音の転回形、属七の和音などを学びながら、実習によって各和音をどのように扱えばよいかを会得するようになっている。
第2巻では、さらに多くの和音を学びながら、和声終止形においても最も基本的な形よりやや複雑な場合を学び、転調に進む。実習ではバス課題、すなわち最低音の上にどのような和音を作るかを練習する段階から、ソプラノ課題、すなわち高音部に置かれたメロディに和声をつける練習を含む段階に進む。
第3巻では、和音の各音が半音変化したりして出来る和音などを扱いながら、一般に非和声音として解釈される音などを[7]「構成音の転位」[8]さらには偶成和音として説明し[9]、一つ一つ規則を示しながら、反復進行(ゼクヴェンツ)などの実習をはさんで学んでゆく。巻末に付録として、バッハの合奏曲などのチェンバロ演奏などに不可欠な知識である数字付き低音についての説明があり、数字付き低音を利用した一般的な和声学、和声理論と本書の違いを説明している。
別巻には、第1巻から第3巻までの課題に対する模範例を掲載している。
評価
[編集]本書は合理的で分かりやすいと評価される一方、和声感覚の会得に資すべき実習課題が型どおりで機械的になりがちである点、機能和声に係る歴史的な音楽スタイルの変遷については考慮していない点が指摘される[2]。さらに第1巻の属七の和音などに関する部分が過重である一方、音階の第3度音や第6度音の上に出来る三和音などに関しては説明不足である点や、説明の文体が古くなり学習者の理解に悪影響を与えている点も指摘され、独自の和音記号、「準固有和音」などの独自の用語についても分かりにくいという指摘がある[10]。
この『芸大和声』を使って授業をした尚美学園大学の竹内誠によれば、大部分の学生が「実際の音楽の理解と創作には、まったく役に立たないレベル」にしかならず、「他大学でも、実情は同じ」という[11]。
付:その他の和声教科書
[編集]- リムスキー・コルサコフ『和声法要義』菅原明朗訳[2]
- ルードルフ・ルイ、 ルートヴィヒ・トゥイレ『和声学』山根銀二、渡鏡子共訳[2][12]
- テオドール・デュボア『和声学』平尾貴四男訳[2]
- ヒンデミット『和声学』坂本良隆訳[2][12]
- シェーンベルク『和声学第1巻』山根銀二訳[2]
- ディーター・デ・ラ・モッテ『大作曲家の和声』滝井敬子訳(「ドイツの音楽大学で広く用いられている」[2])
- シャラン(H. Challan) "380 basses et chants donnés" 1-10(課題集)[2]
日本語による和声教科書
[編集]翻訳ではない日本語による最初の和声教科書は、1908年に出版された福井直秋の『和声学初歩』である[2]。その後山田耕筰や田中敬一の教科書などが出版された[2]。
戦後1950年に出版された長谷川良夫『大和声学教程』(音楽之友社)と1954年の諸井三郎『機能和声法』(音楽之友社)には共にルードルフ・ルイ、 ルートヴィヒ・トゥイレ共著の『和声学』(山根銀二ほか訳)の影響がある[12]。1959年の下総皖一『和声学』(全音楽譜出版社)にはヒンデミットの影響がある[12]。これらはいずれもドイツの和声学をもとにしている[12]。これに対して池内友次郎はフランスの和声法を日本に紹介した[12]。池内の方法はのちに出版された池内友次郎編の『和声課題集』と『和声実施集』上下巻の3冊(1989年、1990年)によって知られる[12]。池内の後継者と目される島岡譲は1958年の外崎幹二との共著『和声の原理と実習』(音楽之友社)でドイツ、フランスいずれの表記法とも異なる和音の転回形を明示する記号を考案した[12]。この和音記号方式は『和声 理論と実習』(通称『芸大和声』)によって継承され、日本語による音楽教育現場で定着した[12]。島岡はさらに1982年から1988年にかけて『音楽の理論と実習』全3巻および『別巻』全3巻を音楽之友社から出版している。これは学問としては価値の高いものであるが難解にすぎる弊がある[12]。島岡の後輩にあたる矢代秋雄と野田暉行は日本独特の島岡による転回形の明示を継承していない[12]。それぞれ『矢代秋雄 和声集成』1-3(全音楽譜出版社、1982年)および『和声50課題集』(野田暉行著、音楽之友社、1990年)がある[12]。
1998年になって島岡らによって新たに『総合和声 実技・分析・原理』(音楽之友社)が出版された[2]。2006年と2007年には大阪音楽大学教授の植野正敏らによる『明解 和声法』上下巻(音楽之友社)が出版された[13]。
脚注
[編集]- ^ a b 島岡譲ほか『和声 理論と実習』I、1-7頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 森田信一、松本清「日本における和声理論教育の歴史」。
- ^ 当の東京芸術大学では1998年に出版された『総合和声 実技・分析・原理』(島岡譲ほか著、音楽之友社)を使うようになった。「専門科目(ソルフェージュ和声)」『シラバス / 音楽学部・音楽研究科 / 平成26年度 授業計画』東京芸術大学、9-16 (594-601頁) の「教材・参考書」を参照。
- ^ 評論家の小林秀雄とは別人。
- ^ 島岡譲ほか『和声 理論と実習』I、1-2頁。
- ^ 島岡譲ほか『和声 理論と実習』I、1頁「本書の趣旨」。
- ^ 竹内誠によれば「芸大和声の教育システムで最も困った問題は、この非和声音の扱い」(「大学で音楽を専門とする価値」2.3.4. 非和声音の早期学習)。
- ^ 竹内誠によれば「“構成音の転位”という、独自の論理を行っていることも、非和声音の正しい理解の妨げ」(「大学で音楽を専門とする価値」2.3.4. 非和声音の早期学習)
- ^ 竹内誠によれば、芸大和声のシステムでは偶成和音の扱い方が「最も評価されるべきもの」(「大学で音楽を専門とする価値」2.3.5. 偶成和音の学習)。
- ^ 竹内誠「大学で音楽を専門とする価値」2.2. 現状の授業成果と問題点。
- ^ 竹内誠「大学で音楽を専門とする価値」2.2. 現状の授業成果と問題点、2.3.4. 非和声音の早期学習
- ^ a b c d e f g h i j k l 八杉忠利「和声教育に関する一考察」11-15頁。
- ^ 『明解 和声法』と『芸大和声』の和音記号の差異の実際については「ロマン派音楽における非機能的和声の役割」(永田孝信、2013年)の注(5), (6)を参照。
参考文献
[編集]- 島岡譲 執筆責任『和声 理論と実習』I、音楽之友社、1990年、ISBN 4276102057。第1刷、1964年。第6刷で少し改訂。
- 島岡譲 執筆責任『和声 理論と実習』II、音楽之友社、1990年、ISBN 4276102065。第1刷、1965年。第4刷で少し改訂。
- 島岡譲 執筆責任『和声 理論と実習』III、音楽之友社、1990年、ISBN 4276102073。第1刷、1966年。第2刷で少し改訂。
- 島岡譲 執筆責任『和声 理論と実習』別巻 課題の実施、音楽之友社、1989年、ISBN 4276102081。第1刷、1967年。
- 竹内誠「大学で音楽を専門とする価値」尚美学園大学 芸術情報研究 第18号、2010年。
- 森田信一、松本清「日本における和声理論教育の歴史」 富山大学 学術情報リポジトリ、2008年。
- 八杉忠利「和声教育に関する一考察」聖徳大学研究紀要 短期大学部 第26号(III)、1993年。