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劉瀬章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
劉 瀬章
基本情報
国籍 中華民国の旗 中華民国
出身地 中華民国
生年月日 1911年
没年月日 1972年
身長
体重
176 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1938年
初出場 1938年9月23日
最終出場 1940年12月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

劉 瀬章(りゅう せしょう、1911年 - 1972年)は、中国出身の元プロ野球選手投手)。

日本プロ野球南海軍に在籍した。日本プロ野球初の中国出身の選手であり、現在でもNPBで一軍出場のある唯一の中国大陸出身選手である[1]

来歴・人物

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日本本牧中学ではエース投手として活躍。右のアンダースロー投手であった。

本牧中を卒業後、法政大学へと進み同野球部へ入る。東京六大学野球リーグ戦1932年秋シーズンにおいて若林忠志と共に法政2度目の優勝に貢献した。

1938年に発足したばかりの南海軍へ入団。同年7月24日、南海初の公式戦となる「第2回読売優勝大会」の対ライオン軍戦に先発投手として登板したが、3回3失点で降板、チームも5対8で敗れている。続く7月28日の阪急軍との「南海結成記念試合」でも先発したが、こちらは3回降雨コールドゲームに終わっている[2]

1940年4月6日の対阪急軍戦で先発するものの1アウトも取れずに4安打1四球4失点で降板、試合は2対32で現在でも最多失点日本記録の大敗となっている。この後も名古屋軍戦でも2対14で大敗するなど、1つも勝てずに6連敗を喫し[3]現役を引退した。

政野岩夫平野正太郎と並んで「南海のアンダースロー三人衆」と呼ばれた[4]。武器はカーブ、シュート、決め球はシンカーだった。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1938 南海 6 3 1 0 0 0 2 -- -- .000 121 27.2 25 1 14 -- 1 7 1 0 16 13 4.18 1.41
1939 28 25 9 2 0 8 12 -- -- .400 709 161.0 138 4 88 -- 4 29 0 0 73 43 2.40 1.40
1940 30 13 6 0 0 2 8 -- -- .200 611 130.0 129 2 73 -- 2 28 1 0 66 43 2.98 1.55
通算:3年 64 41 16 2 0 10 22 -- -- .313 1441 318.2 292 7 175 -- 7 64 2 0 155 99 2.80 1.47

背番号

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  • 6 (1938年 - 1940年)

脚注

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  1. ^ NPBにのちの中華人民共和国出身の選手は、呂建剛安旭崔暁呉猛朱大衛陳瑋王靖超の7人が在籍したが、いずれも一軍出場は果たしていない(呂と朱以外は育成選手止まり)。
  2. ^ 南海ホークス刊『南海ホークス四十年史』84ページ
  3. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」559ページ
  4. ^ 職業野球!実況中継(14年 南海vsセネタース 5回戦)

関連項目

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外部リンク

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