加納久儔
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政9年(1797年) |
死没 | 弘化4年7月10日(1847年8月20日) |
改名 | 英太郎(幼名)、久儔、寛山(法名) |
戒名 | 荘厳院温恭日敬 |
墓所 |
東京都台東区の谷中墓地 東京都新宿区須賀町の戒行寺 |
官位 | 従五位下、遠江守、備中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 伊勢国八田藩主→上総国一宮藩主 |
氏族 | 加納氏 |
父母 | 父:加納久慎、母:植村家長の娘 |
妻 | 高木正剛の娘 |
子 |
久徴、娘(石川総貨正室)、 娘(松平正和正室)、娘(大久保教義正室)、 娘(加納久成正室のち加納久恒正室) |
加納 久儔(かのう ひさとも)は、伊勢八田藩(東阿倉川藩)の第5代藩主、後に上総一宮藩の初代藩主。一宮藩加納家5代。
寛政9年(1797年)、八田藩の第4代藩主・加納久慎の長男として生まれる。文化8年(1811年)11月1日、将軍徳川家斉に拝謁する。文政4年(1821年)10月6日、久慎の死去により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下・遠江守に叙任する。後に備前守、遠江守に改めた。文政9年(1826年)3月に上総一宮に藩庁を移転し、一宮藩主となる。
藩政では家臣・岩堀市兵衛を用いて洞庭湖という灌漑用水を築き[1]、天保9年(1838年)の天保の大飢饉では囲米の制を定めて困窮者の救済に努めた。文政10年(1827年)11月20日、大番頭に就任した。天保4年(1833年)6月24日に伏見奉行、天保9年(1838年)9月10日に奏者番となった。天保12年(1841年)11月14日、病気を理由に奏者番を辞任した。
天保13年(1842年)10月21日、家督を長男の久徴に譲って隠居する。同年11月4日、寛山と号した。弘化4年(1847年)7月10日に死去。享年51。
系譜
[編集]父母
正室
- 高木正剛の娘
子女