松平正和
表示
時代 | 江戸時代後期 - 末期(幕末) |
---|---|
生誕 | 文政6年(1823年) |
死没 | 文久2年9月29日(1862年11月20日) |
改名 | 亀次郎(幼名)→正和 |
別名 | 主膳(通称) |
官位 | 従五位下、備前守、備中守、織部正 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 上総大多喜藩主 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 | 父:松平正敬、養父:松平正義 |
兄弟 | 正和、輝聴 |
妻 | 加納久儔の娘 |
子 |
峯子(三女、松平正質正室)、 鍈子(水野忠敬正室)、貴子(間部詮道正室) 養子:正質 |
松平 正和(まつだいら まさとも)は、江戸時代後期から幕末期の大名。上総大多喜藩の第8代藩主。大河内松平宗家10代。
生涯
[編集]文政6年(1823年)、第6代藩主松平正敬の長男として生まれる。文政9年(1826年)に父が隠居したとき、家督を継げなかったのは幼少のためと思われる。天保8年(1837年)に叔父で第7代藩主の正義が死去したため、その養子として跡を継ぎ、12月に叙任する。しかし天保13年(1842年)には大多喜城天守閣の焼失、弘化3年(1846年)閏5月の大洪水、さらに嘉永2年(1849年)4月には幕府の日光祭礼奉行などの役職歴任による出費など、その治世は多難を極めている。
正和には女児しかなかったため、文久2年(1862年)9月29日に40歳で死去した後は、婿養子として迎えた正質が跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 加納久儔の娘
子女
養子