コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

加藤セチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1948年

加藤 セチ(かとう せち、明治26年(1893年10月2日 - 平成元年(1989年3月29日)は、日本化学者理学博士。日本の女性科学者の草分けの一人。元理化学研究所主任研究員。上野学園大学名誉教授山形県東田川郡三川町名誉町民

人物

[編集]

北海道帝国大学初の女子学生。保井コノ黒田チカに続く日本人3番目の女性の理学博士(既婚女性としては初)。理化学研究所初の女性の主任研究員。有機物質の分光分析等に顕著な業績を残す。

徳川家光時代に改易された熊本藩の第2代藩主、加藤忠広の末裔とされる山形県東田川郡押切村(現・三川町)の名家・加藤与治左衛門家本家の三女として生まれたが、生家の破産と父の死去により、在学中の山形県立鶴岡高等女学校を3年次に中退して山形県女子師範学校(現・山形大学地域教育文化学部)に移る。女子師範卒業後は小学校教師として一時家計を支え、ついで東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に進学する。東京女高師卒業後は高等女学校の教師を務めながら、1918年に北海道帝国大学に全科目履修選科生として入学。苦学の末、結婚後は理化学研究所に勤務し、在職中の昭和6年(1931年)に「アセチレン重合」を主論文として、京都帝国大学より理学博士号を授与される。

家族

[編集]

1歳の時に被災した庄内地震で兄を亡くしたため、婿(得三郎)を迎えて家督を継いだ。夫との間にもうけた子供のうち、長男は太平洋戦争で戦死、残った娘は嫁に出したため、セチの家系(加藤本家)は絶えることとなった。

来歴

[編集]
  • 1893年(明治26年)10月2日 - 山形県東田川郡押切村に加藤家の3女として生まれる。
  • 1908年(明治41年) - 鶴岡高等女学校を中退する。
  • 1911年(明治44年)- 山形県女子師範学校を卒業。狩川小学校に勤務。
  • 1918年(大正7年)- 東京女子高等師範学校を卒業。
  • 1918年(大正7年) - 北海道帝国大学に全科目履修選科生として入学。
  • 1921年(大正10年) - 佐藤得三郎と結婚。
  • 1922年(大正11年) - 理化学研究所に勤務。
  • 1931年(昭和6年)6月8日 - 京都帝国大学より理学博士号を授与。
  • 1968年(昭和43年) - 三川町名誉町民となる。
  • 1989年(平成元年)3月29日 - 死去する。

博士論文

[編集]
  • 1931年(昭和6年) - 『アセチレンの重合』 理研彙報、10(1931),p.343

出典・参考資料

[編集]