コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

加藤信夫 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加藤 信夫
基本情報
出身地 日本の旗 日本 愛知県
生年月日 1917年4月2日
没年月日 戦死
身長
体重
160[1] cm
56[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手三塁手捕手[2]
プロ入り 1936年
初出場 1936年
最終出場 1937年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

加藤 信夫(かとう のぶお、1917年4月2日[2] - 戦死)は愛知県出身のプロ野球選手

来歴・人物

[編集]

中京商業学校(現:中京大学附属中京高等学校)在学中、チームは甲子園に3回出場(1933年春1933年夏1934年春)したが、加藤自身は補欠だった[2]

中京商を卒業後、1936年専修大学に入学。しかし、同年7月に佐々木政の斡旋により大阪タイガースに電撃入団(このため、専大を僅か半年で中退せざるを得なくなった)。この入団の裏には滝野通則(後にプロ野球審判員)が契約不履行を犯し(タイガースと契約し選手登録も済んだが、許可なく法政大学に進学した)、職業野球聯盟から除名処分(滝野が除名第一号選手でもある)を受けたため、阪神の内野陣が不足した事情があったと言われている[2]

入団後は小島利男の入団・台頭や藤村富美男コンバート投手から二塁手へ)があったことも影響して、出場機会にはほとんど恵まれなかった。選手としては18試合(捕手1試合、二塁手10試合、三塁手1試合)[2]の出場にとどまった。一方で、裏方としてチームを支えた面もあり、1937年には青木正一と共に「打倒沢村」をモットーに打撃投手役を務めた。その練習法とは、通常の投球位置の1m手前から投げるという当時では斬新な物だった[3]。練習の甲斐があって、タイガースはこの年のペナントを制した。

1938年1月に応召され、戦死(没年月日、死没場所は不明)した。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1936 大阪 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 -- 0 -- 0 0 -- .000 .000 .000 .000
1936 6 2 2 1 0 0 0 0 0 2 0 -- 0 -- 0 -- 0 0 -- .000 .000 .000 .000
1937 6 4 3 1 1 0 0 0 1 0 0 -- 0 -- 1 -- 0 2 -- .333 .500 .333 .833
1937 4 2 2 2 1 0 0 0 1 0 0 -- 0 -- 0 -- 0 0 -- .500 .500 .500 1.000
通算:2年 18 9 8 4 2 0 0 0 2 2 0 -- 0 -- 1 -- 0 2 -- .250 .333 .250 .583

背番号

[編集]
  • 20 (1936年 - 1937年)[2]

脚注

[編集]
  1. ^ a b わたしはかもめ(加藤信夫のページ)
  2. ^ a b c d e f 加藤信夫 - げんまつWEBタイガース歴史研究室
  3. ^ 裏方伝説 げんまつWEBタイガース歴史研究室

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]