加藤泰広
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝永7年3月17日(1710年4月15日) |
死没 | 天明5年2月16日(1785年3月26日) |
改名 | 泰春(初名)、泰広 |
別名 | 右京(通称) |
墓所 | 愛媛県大洲市新谷の大恩寺 |
官位 | 従五位下織部正 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重 |
藩 | 伊予新谷藩主 |
氏族 | 加藤氏(光泰系) |
父母 |
父:加藤泰恒、母:法心院 養父:加藤泰貫 |
兄弟 | 泰統、泰都、泰広、板倉昌信正室、徳大寺実憲室ら |
妻 | 正室:大関増恒娘 |
子 | 泰宦、高力直道(6男)、安西政泰(7男)、近藤用常正室ら |
加藤 泰広(かとう やすひろ)は、江戸時代中期から後期の大名。通称は右京。伊予国新谷藩4代藩主。
略歴
[編集]享保9年(1724年)閏4月16日、先代藩主で従兄の加藤泰貫の養嗣子となる。享保12年(1727年)12月18日に叙任する。教養に優れた人物で、藩士子弟の教育化に尽くした。駿府加番も務めている。宝暦6年(1756年)8月26日、長男の泰宦に家督を譲って隠居し、天明5年(1785年)2月16日に新谷で死去した。享年76。