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加藤直泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
加藤 直泰
加藤直泰像(法眼寺蔵、愛媛県歴史文化博物館寄託)
時代 江戸時代前期
生誕 元和元年(1615年
死没 天和2年1月5日1682年2月12日
改名 大蔵(幼名)、直泰
別名 織部
戒名 要関院殿一機直入居士
墓所 愛媛県大洲市新谷の法眼寺
官位 従五位下織部正
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
伊予新谷藩
氏族 加藤氏(光泰系)
父母 父:加藤貞泰、母:法眼院(小出吉政娘)
兄弟 泰興直泰細川興昌正室
正室:小出吉親の三女
泰觚
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加藤 直泰(かとう なおやす)は、江戸時代前期の大名伊予国新谷藩初代藩主。官位従五位下織部正

略歴

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伊予大洲藩初代藩主・加藤貞泰の次男として誕生。大洲藩2代藩主・加藤泰興の弟に当たる。

元和9年(1623年)、貞泰が世嗣を定めないまま死去したため、幕命により泰興がその後継とされ、直泰には1万石分与の内諾が下されたが、泰興はこれを認めようとしなかったため対立した。寛永16年(1639年)、藩内分知とすることで和解した。寛永19年(1642年)、喜多郡上新谷村に新谷陣屋を築いた。また歌道を良くし、古今伝授を受けている[要出典]

天和2年(1682年)正月5日、68歳で死去し、跡を泰興の孫で養嗣子の泰觚が継いだ。