尼子十勇士
尼子十勇士(あまごじゅうゆうし)は、戦国大名尼子氏滅亡後に尼子氏の復興に勤めたとされる10人の勇士である。この10人は、尼子晴久が部下4万人余りの中から選び出した勇力の優れた人物という[1][2]。山中鹿之助(山中幸盛)を筆頭とするが、その構成員は幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。また、名前の最後に皆「介(助)」が付くことから「尼子十勇十介」ともいう。
十勇士の成立
[編集]尼子十勇士は、明治時代に立川文庫から発刊された『武士道精華 山中鹿之助』によって有名になったが、立川文庫の創作ではない。それ以前から、その存在は知られていた。 しかしながら、幸盛が活躍していた当時の史料には「尼子十勇士」の名称は見られない。
十勇士の存在がいつ頃から信じられえていたか定かでないが、史料に初めて出てくるのは、延宝5年(1677年)に発行された『後太平記[3]』である。ただし、十勇士と明記されている人物は、五月早苗介(助)[注 1]、寺元生死助[注 2]、横道兵庫介[注 3]、山中鹿之助幸盛[注 4]の4人だけであり、その他の人物が十勇士であったかどうかは判断できない。
十勇士すべての名が史料に出てくるのは、享保2年(1717年)に刊行された『和漢音釈 書言字考節用集[4]』である。この書は、日常語の用字、語釈、語源などを示した、いわゆる国語辞典のようなものである。そのため、この時代に「尼子十勇士」という名称が一般的に通用するものであったことが分かる。正徳3年(1713年)10月、松山藩士であった前田市之進時棟と佐々木軍六が、幸盛の死を哀れみ建立した墓碑[注 5]にも「尼子十勇」の文字が刻まれている。明和4年(1767年)に湯浅常山が発行した戦国武将の逸話集、『常山紀談 [5]』にも10名の勇士の名が連ねてある。
しかし、これら史料は、幸盛以外の人物の記載は乏しく、十勇士の面々がどういった性格で、どんな活躍をしたか等を知ることができなかった。十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙[6]』である。
この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画[7][8]や歌舞伎の上演[9]、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納される[10]など、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。
明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝[11]』とした書が刊行される。明治44年(1911年)12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助[12]』が立川文庫より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。昭和26年(1951年)には『大百科事典』にも掲載された[13]。現在は、『広辞苑[14]』にもその項目がある。
構成員
[編集]尼子十勇士の構成員は、山中幸盛を除けば不定であり、時代によっても異なる。
年 | 史料 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
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延宝5年(1677年) | 後太平記[3] | 山中 鹿之助 幸盛[注 4] | 五月 早苗介(助)[注 1] | 秋宅 庵助[注 6] | 尤 道理助[注 6][注 7] | 寺本 生死助[注 2] | 薮中 荊助[注 7] | 植田 稲葉助[注 7] | 今川 鮎助[注 7] | 横道 兵庫介[注 3] | 柴橋 大力介[注 8] | 大谷 古猪介[注 8] | 穴内 狐狸介[注 8] |
享保2年(1717年) | 書言字考[4] | 山中 鹿助 | 秋宅 庵助 | 寺本 生死助 | 尤 道理助 | 今川 鮎助 | 薮中 荊助 | 横道 兵庫助 | 小倉 鼠助 | 深田 泥助 | 植田 草苗助 | ||
明和4年(1767年) | 常山紀談 [5] | 山中 鹿之介 | 藪原 茨之介 | 五月 早苗之介 | 上田 稲葉之介 | 尤 道理之介 | 早川 鮎之介 | 川岸 柳之介 | 井筒 女之介 | 阿波 鳴戸之介 | 破骨 障子之介 | ||
文化8年(1811年) | 絵本更科草紙[6] | 山中 鹿之助[注 9] | 大谷 古猪之助[注 10] | 早川 鮎之助[注 11] | 横道 兵庫之助[注 12] | 寺本 生死之助[注 13] | 五月 早苗之助[注 14] | 高橋 渡之助[注 15] | 秋宅 庵之助[注 16] | 薮中 茨之助[注 17] | 荒波 碇之助[注 18] | ||
天保9年(1838年) | 清水寺の絵馬 [10] | 山中 鹿之助 | 秋上 伊織之助 | 横道 兵庫之助 | 寺本 生死之助 | 植田 早苗之助 | 今川 鮎之助 | 小倉 鼠之助 | 尤 道理之助 | 薮中 荊之助 | 深田 泥之助 | ||
江戸時代(19世紀) | 歌川芳虎の浮世絵 [7] | 山中 鹿之助[注 19] | 大谷 古猪之助[注 20] | 早川 鮎之助[注 21] | 横道 兵庫之助[注 22] | 五月 早稲之介[注 23] | 高橋 渡之助[注 24] | 秋宅 庵之助[注 25] | 寺本 生死之助[注 26] | 薮中 茨之助[注 27] | 荒波 錠之助[注 28] | ||
江戸時代(19世紀) | 豊原国周の浮世絵 [8] | 山中 鹿之助 | 大谷 古猪之助 | 早川 鮎之助 | 横道 兵庫之助 | 皐月 早苗之介 | 高橋 亘之助 | 秋宅 庵之助 | 寺本 生死之助 | 薮中 茨之助 | 荒波 碇之助 | ||
文久3年(1863年) | 城安寺の絵画[15] | 山中 鹿之助 幸盛 | 秋上 伊織之助 | 横道 兵庫之助 | 寺本 生死之助 | 植田 早苗之助 | 今川 鮎之助 | 小倉 鼠之助 | 尤 道理之助 | 薮中 荊之助 | 深田 泥之助 | ||
明治16年(1883年) | 尼子十勇士伝[11] | 山中 鹿之助[注 9] | 大谷 古猪之助[注 10] | 早川 鮎之助[注 11] | 横道 兵庫之助[注 12] | 寺本 生死之助[注 13] | 五(皐)月 早苗之助[注 14] | 高橋 渡之助[注 15] | 秋宅 庵之助[注 16] | 薮中 茨之助[注 17] | 荒波 碇(錠)之助[注 18] | ||
明治44年(1911年) | 立川文庫 [12] | 山中 鹿之助 幸盛[注 29] | 大谷 古猪之助 幸虎[注 30] | 早川 鮎之助 幸高[注 31] | 横道 兵庫之助 幸晴[注 32] | 寺本 生死之助[注 33] | 皐月 早苗之助[注 34] | 高橋 渡之助[注 35] | 秋宅 庵之助[注 35] | 薮中 茨之助[注 35] | 荒波 碇之助[注 36] | ||
昭和8年(1933年) | 読史備要[16] | 山中 鹿介 | 秋宅 庵介 | 横道 兵庫介 | 早川 鮎介 | 尤 道理介 | 寺本 生死介 | 植田 早苗介 | 深田 泥介 | 薮中 荊介 | 小倉 鼠介 | ||
昭和60年(1985年)? | 広瀬少年剣士会[17] | 山中 鹿介 | 秋上 庵介 | 横道 兵庫介 | 寺本 生死介 | 植田 早苗介 | 小倉 鼠介 | 早川 鮎介 | 薮中 荊介 | 深田 泥介 | 大谷 古猪介 | ||
平成10年(1998年) | 広辞苑 [14] | 山中 鹿介 | 秋宅 庵之介 | 横道 兵庫之介 | 早川 鮎之介 | 尤 道理之介 | 寺本 生死之介 | 植田 早稲之介 | 深田 泥之介 | 薮中 荊之介 | 小倉 鼠之介 |
『武功夜話』には、山中鹿之介に従う一騎当千の武者、伯・雲・但の牢人衆が記載されている[18]。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
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容赦 無手介 | 草葉 百手之介 | 破骨 障子之介 | 阿波 鳴戸介 | 井筒 女之介 | 五月 早苗之介 | 尤 道理之介 | 藪原 茨之介 | 上田 稲葉之介 | 早川 柳之介 | 淵川 鯰之介 | 因幡 伯兎之介 | 六方 破之介 |
人物の信憑性
[編集]構成員の名前はすべて駄洒落じみたものとなっており、その実在性が疑問視されていた。しかし、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物もいる。また、十勇士が活躍していた当時の資料にその名が確認でき、存在の可能性を否定できない人物もいる。
実在する人物
[編集]次の3名は、自ら著した書状等が現存しており、実在することが確実な人物である。
- 山中幸盛[19](山中鹿之助、山中鹿助、山中鹿之介、山中鹿介)
- 秋上宗信[20](秋宅庵助、秋上伊織之助、秋宅庵之助、秋宅庵介、秋上庵介、秋宅庵之介)
- 横道秀綱[21](横道兵庫介、横道兵庫助、横道兵庫之助、横道兵庫之介)
実在の可能性がある人物
[編集]現存する当時の書状等では存在が確認できないが、軍記史料や江戸時代初期の書状等にその名が記載され、実在の可能性がある人物もいる。
- 五月早苗介(五月早苗之助、植田稲葉助、植田早苗助、上田稲葉之介、植田早苗之助、五月早稲之介、皐月早苗之介、皐月早苗之助、植田早苗介、植田早稲之介、植田早稲之介)
- 元亀元年6月8日、吉川元春から掘立壱岐守宛への書状に、「上田早苗助」が同年6月3日に佐陀勝間城を攻撃して討ち死にしたと記載される[22]。
- 尼子氏の家臣の知行高を記した文書、『尼子家分限牒(あまごけぶんげんちょう)』に「五月早苗之介」の名前がある[23]。備中国の内、8,013石を所領した。
- 『雲陽軍実記』に「五月早苗介」の名が記載されている[24]。
- 藪中荊助(薮原茨之介、藪中茨之助、藪中荊之助、藪中荊介、藪中荊之介)
- 寺本生死助(寺本生死之助、寺本生死介、寺本生死之介)
- 井筒女之介
脚注
[編集]- ^ a b 「尼子家三軍の中にて十勇と選出されたる」。地部巻第三十八 雲州志賀城没落之事 並 高瀬城明去事
- ^ a b 「(尼子)晴久朝臣選出されたる十勇の兵」。地部巻第四十 寺本生死助借前立物事
- ^ a b 「尼子十勇士の内に横道兵庫介と言ふ者あり」。地部巻第四十 雲州富部合戦之事
- ^ a b 「尼子晴久、四萬余騎の群下の中より大勇十騎を選出し、その第一に定められる」。地部巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事
- ^ 阿井の渡し(現在の岡山県高梁市)に建つ幸盛の墓
- ^ a b 「当家三軍の中より選出されたる庵助、道理助の両助」と記載され、尼子十勇士とは明記されていない。地部巻第四十 雲州多久和城明退事 並 月山城囲解事
- ^ a b c d 「尼子十勇士の1人、寺本生死助と共に鹿之助の傍に控えたる人物として、「尤 道理助」「薮中 荊助」「植田 稲葉助」「今川 鮎助」「五月 早苗助」の記載があるため、これら面々も十勇士であると読み取れる可能性はある。地部巻第四十 寺本生死助借前立物事
- ^ a b c 鹿之助と共に、上月城に籠もった人物。尼子十勇士についての記載はない。地部巻第四十二 山中鹿之助被誅事
- ^ a b 父は村上家の将「相木 森之助 幸雄」。後に武田家の将「馬場 美濃守 信房」の影武者を勤めた。母は「更科姫」。村上家の将「楽岩寺 右馬助」の娘。「鹿之助」の名は、父森之助の伯父「相木 市兵衛」が命名。市兵衛は、山の中で赤子(鹿之助)を拾ってくるが、出会ったとき、その赤子は鹿の背中に乗っていたため「鹿之助」と名づけた(鹿之助は、赤ん坊の時いろいろあって母と別れ、森の中で迷子となっていた。)。また、苗字の「山中」は、山中村(「今の安田村」と記載される。)で育ったため。鹿之助は、父母の師匠でもあった「井上 九郎 光興」の下で、15歳まで軍法剣術を学んでいた。その師匠が住んでいたのが山中村。
- ^ a b 元の名は「大谷 猪之助」。父は信州の「木曾 右馬之助」に仕えた「大谷 半左衛門」(『尼子十勇士伝』では「大谷 半右衛門」。フリガナは「はんざえもん」であるため、半右衛門は間違いか。)。木曾家が没落後、半右衛門は鉄砲が得意であったため狩人となったが、後に病死。猪之助は樵(きこり)となり、母を養いながら暮らしていた。他人の山の木を切り盗み、薪にして売っていたため、村人から火あぶりで殺されそうになっていたところを、鹿之助に助けられ配下となる。奉公始めに、鉄砲も効かない、牛と同じほどの大きさもある古猪を素手で打ち殺し、鹿之助からこの名をもらった。
- ^ a b 元の名は「吉田 七助」。先祖は、山陰中納言の家臣「吉田 某」であったが、落ちぶれて漁師となっていた。鹿之助に声をかけられ配下となる。長さ2間ばかりの板を使って急流の川をせき止め、川上へ板を押すことで鮎を取っていたことから、鹿之助にこの名をもらった。
- ^ a b 元の名前は不明。兵庫の横町で「熊井 大五郎」に太刀打ちの勝負を挑まれ、窮地に陥っていた場面で鹿之助と出会う。争いの理由は、兵庫之助が遊女「浮船」と恋仲になり駆け落ちをしたところ、浮船の馴初めの主人、大五郎が浮船を取り返そうと追ってきたため。窮地に陥っていた理由は、金のため刀を売り払い、竹光しか持っていなかったため。鹿之助から刀を借り、太刀打ちの勝負に勝利すると、恩人である鹿之助に「優れた武芸の持ち主なのに、女性に執心していることが残念だ」と諭され、改心して配下となる。名前の由来は、「今まで色情に溺れていたが、本日より心を改める。生まれ変わるにあたり、名を賜りたい」と鹿之助に願い、鹿之助が「兵庫の土地の横道で苦難に会い、心を改めたため」という理由から「横道 兵庫之助」と名づけたため。
- ^ a b 元の名は「寺元 半四郎」。尼子の家臣「尼子 九郎左エ門」が、謀叛を起して尼子家をのっとったとき、偽って九郎左エ門の家臣となった。このとき「寺元 半四郎は、九郎左エ門殿の家臣となって生死を共にせん。半四郎は尼子義久公の為に死んだ。今日より九郎左エ門の臣下に生まれ出たる心をもって、寺元 生死之助と名乗る」と言って自ら名を変えた。
- ^ a b 元の名は不明。新田開発を行う際、大人数でも動かせない大石を、当時13・14歳であった早苗之助が1人で取り除いた。たまたま城下を巡視していた「尼子 義久」が、これを見て早苗之助を気に入り、家来にして「五月 早苗之助」と命名した。
- ^ a b 元の名は不明。尼子 晴久の代に、坂豊島の合戦に名をあげた「高橋 太郎」の嫡子。
- ^ a b 元の名は「秋宅 甚助」。
- ^ a b 元の名は「藪中 卯之助」。播州室の明神の神主「藪中 主水」の子。幼少より喧嘩を好み、あぶれ者となっていたため、皆に“触るに痛い”人物であるから「茨之助」と呼ばれた。
- ^ a b 元の名は「徳蔵」。船の船頭。数十人がかりでも引き上げることが出来なかった碇を1人で引き上げる。その怪力をたたえて、鹿之助が「荒浪 碇之助」と命名した。なお、碇が上がらなかったのは、「早川 鮎之助」が碇を掴んでいたため。鮎之助は、龍宮城で3年間過ごし、この碇に取り付いて地上へ戻ってきた。
- ^ 鹿之助は信州塩尻山の麓に出生して父は相木森之助とゆふ 母は更科姫と云ふて世にまれなる勇婦なり 幼きときより山中に有て鹿猿のたすけを得て成長 力強武芸に達して雲州富田の城主尼子式部太夫義久にきてより雷名を轟かす 尼子十勇士の随一なり
- ^ 古猪の介は信州木曽左馬之助の臣大谷半左衛門の子なり 父浪人して鉄砲上手なれば遠州の山里の狩人となり生業とする 幼名を猪之助と呼なり 強弓にして樵夫(きこり)の業をなして母につくす孝行なり 古猪を手捕にして打ち殺せしより大谷古猪の助と名乗 山中鹿之助に従いて勇名をあらわせり
- ^ 鮎之助は播州の産なり 家貧しく漁をするにあみ(網)なければ小川の流れを川下より板をうって水を瀬ぎり押しあげて鮎を取る 鹿之助その力の豪傑なるを見て武士に取立 早川鮎之助と号し 其の所を鮎川村と云いて古跡となりしと云いつたふ
- ^ 兵庫の介はまずしき浪人なり 色情に泥み遊女のために冷落して漂泊なし途中にして口論なし 鹿之助の刀をかり闘争に及ひし 働き武芸の達人なりければ尼子の臣となす 鹿之助にあいしたがいしところ兵庫之横みちなりとて横道兵庫之助となりけし
- ^ 早苗之助は尼子義久上月城の城主たりし時釣りに出しに農家の童怪力有りて大石を転倒せしを見て家臣となしける 其の時五月なり 早苗を取り植付の時節なりけらば斯く号たりしとぞ 幼君勝丸を補佐して勇名を挙たり
- ^ 鹿之助か尼子晴久の代に坂豊島の合戦に高名せし高はし太郎の嫡子なり 生まれつき力量強く武術に達して万夫不当の勇士とよばれ君に忠を励み同盟の士に信なる義気猛勇の士なり
- ^ 庵之助は始め甚助と呼われしに改名して庵之介といふ 武芸に達して比類なき忠臣なり 婦女を扶け勝丸の幼雅を守護なし尼子再興の軍議をなし英勇の名践あらわせし豪傑なり
- ^ 生死の助は始め半四郎といえり 尼子九郎左エ門上月の城代山中鹿の助を殺して再び城をうばひ(奪い)返さんと 座頭徳市に毒酒を持たせて 酒宴の時是を鹿の助はじめ勇士等に呑ましめ皆ごろしにす 其の時半四郎はこのまざりしゆえ毒に中ず 義久の為に死なんとなし九郎左エ門の臣下となりて再び生れたかが如く往来生死をともにせんと誓いしよう名を更たり
- ^ 茨之助は播州室の明神の神主藪中主水の倅なり 幼名を卯之助といふ 放蕩無頼にして親の家に居ず常に喧嘩をこのみ人に傷を蒙らしめ痛るゆえに渾名して茨の助といふ 尼子にしたかつて勇士の一人と呼すけり
- ^ 荒なみいかりの助は尼子の勇士等勝丸を守護なし家再興の合戦に船出なさんとせしに 錠の引きあげかたかりしを船頭徳蔵苦もなく挙げたりし 早川鮎之助竜宮城に三年ありて此の錠に付きてあがりしゆえ勇士の烈をなせしかば船頭とく蔵を武士に取立十勇士に加たり 力量すぐれし豪傑とつげし
- ^ 父は村上家の将「相木 森之助 幸雄」。後に武田家の将「馬場 美濃守 信房」の影武者を勤めた。母は「更科姫」。村上家の将「楽岩寺 右馬助 信高」の娘。父森之助の伯父「相木 市兵衛 幸安」に拾われ育てられた(鹿之助は、赤ん坊のとき諸所の事情があって母と別れ、森の中で迷子となっていた。)。名づけ親は伯父の市兵衛。名前の由来は、拾われた場所が山の中で、そのとき鹿の背に乗っていたため「山中 鹿之助」。また、自らの名の1文字(幸安の「幸」)と「この先人生、幸が盛んになるように」と願いをこめて「幸盛」と名づけた。
- ^ 元の名は「大谷 猪之助」。父は信州の「木曾 右馬助」に仕えた「大谷 半左衛門」。木曾家が没落後、半左衛門は猟師となったが、後に病死。猪之助は樵(きこり)となり、母を養いながら暮らしていた。山の木を切り盗んだため、村人から火あぶりで殺されそうになっていたところを、鹿之助に助けられ配下となった。奉公始めに、人を何人も撥ね殺した、牛と同じほどの大きさもある古猪を仕留め、鹿之助からこの名をもらった。
- ^ 元の名は「吉田 七助」。先祖は、山陰中納言の家臣「吉田 八郎」であったが、落ちぶれて漁師となっていた。長さ2間ばかりの板を使って急流の川をせき止め、川上へ板を押すことで鮎を取っていた。その怪力に感心した鹿之助に、声をかけられ配下となった。名前の由来は、この早川をものともせず、鮎を捕る大力をひとつの名として、鹿之助が命名した。
- ^ 元の名前は不明。兵庫の横町で、「熊井 大九郎」に太刀打ちの勝負を挑まれ窮地に陥っていた場面で、鹿之助と出会う。争いの理由は、兵庫之助が遊女「浮船」と恋仲になり駆け落ちをしたところ、同じく浮船に心を寄せる大九郎が浮船を取り返そうと追ってきたため。窮地に陥っていた理由は、金のため刀を売り払い、竹光しか持っていなかったため。鹿之助から刀を借り、太刀打ちの勝負に勝利すると、恩義を感じ鹿之助の配下となる。名前の由来は、「今まで色情に溺れていたが、本日より心を改める。生まれ変わるにあたり、名を賜りたい」と鹿之助に願い、鹿之助が「兵庫の土地の横道で出会った」という理由から「横道 兵庫之助」と名づけたため。
- ^ 元の名は「寺元 半四郎」。尼子の家臣「尼子 九郎左エ門」が、謀叛を起して尼子家をのっとったとき、偽って九郎左エ門の家臣となった。このとき「半四郎は毒酒を飲んで死去し(九郎左エ門は謀叛をおこすにあたり、城を守っていた鹿之助、鮎之助、兵庫之助、半四郎を毒殺しようとした。この中で、半四郎は下戸であったため毒酒を飲まなかった。)、今日より生まれ出でたる拙者である。よって、寺元 生死之助と名を改め、九郎左エ門殿の家臣となり忠勤を励みたい」と言って自ら名を変えた。
- ^ 元の名は「寅蔵」。水呑百姓の寅右衛門の子。川の中にある大きな石を取り除く際、50人がかりでも動かせない大石を、当時12・13歳であった早苗之助が1人で取り除いた。この場面に、たまたま領内を巡視していた「尼子 義久」が早苗之助を気に入り、家来にして鹿之助に預けた。名前の由来は、性は皐月村の者であったから「皐月」。名の「早苗之助」の由来は明記されていない。鹿之助が命名した。
- ^ a b c 名前についての説明記載なし。
- ^ 元の名は「新井 徳蔵」。南蛮鉄の徳蔵。飲んだくれの徳蔵とも。父は、大友家の家臣「新井 一角」。両親が死亡した後に浪人となり、鐵丸(くろがねまる)という船の船頭となっていた。大勢の船頭でも引き上げることが出来なかった碇を、1人で引き上げる。また「早川 鮎之助」と互角の力比べをしたことにより、その怪力を見込まれ、鹿之助が「荒浪 碇之助」と命名し配下とした。
出典
[編集]- ^ 『後太平記』地部巻第四十 山中鹿之助品川狼介勝負之事
- ^ 『名将言行録』巻三 山中幸盛
- ^ a b 「多々良 一龍」が編纂した、『太平記』の後の時代、応安元年(1368年)足利義満の時代から天正6年(1578年)尼子再興軍の滅亡までを記した軍記物語。延宝5年(1677年)刊行。元禄5年(1692年)に発行された「井上家正」校正の『後太平記』には、「多々良 一龍」の原選80巻を「多々良 一吹」が元和3年(1617年)より集録して42巻としてまとめたと著されるため、1617年には草案ができていたという説もある。
- ^ a b 正式な名称は『和漢音釈 書言字考節用集』。「槇島昭武」編纂。享保2年(1717年)刊行。日常語の用字、語釈、語源などを示した書で、いわゆる国語辞典のようなもの。「第10巻 数量、性氏」に「尼子十勇十介(あまごじゅうゆうじゅっすけ)」の項目がある。
- ^ a b 岡山藩士「湯浅常山」がまとめた戦国武将の逸話集。明和4年(1767年)に完成したが、発刊は文政(1818年から1830年)年間の後半とされる。巻六に「尼子十勇士」について記載がある。
- ^ a b 文化8年(1811年)から文政4年1821年にかけて発行された、鹿之助の母、更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語。初編、後編、第三篇それぞれ5冊からなる全15巻。著者は栗杖亭鬼卵。画は、初編、後編が石田玉山。第三編の画は一峰斎馬円が担当した。
- ^ a b 表題は「尼子十勇士之図」。江戸時代に活躍した錦朝楼芳虎(歌川芳虎)<生没不明>の浮世絵。芳虎は歌川国芳の門下生。
- ^ a b 表題は「尼子十勇士面々会合主家再興評定図」。江戸時代に活躍した豊原国周<1835年-1900年>の浮世絵。国周は歌川豊国の門下生。幸盛の妻とされる九重姫も共に描かれる。
- ^ 文化10年(1813年)8月27日 京都因幡薬師『絵本更科話』、天保3年(1832年)8月吉日 京都北座『絵本更科話』ほか
- ^ a b 天保9年閏4月(1838年5月)、伯耆国会見郡車尾(現在の鳥取県米子市車尾)に住む深田稲保之助が清水寺へ奉納した絵馬。表題は「尼子十勇十介」。現在は清水寺の根本堂に掲示される。
- ^ a b 明治16年(1883年)4月21日、春陽堂より発刊。上巻、中巻、下巻からなる全3巻。内容は『絵本更科草紙』と同じ。編集は出版人でもある「和田篤太郎」。
- ^ a b 明治44年(1911年)12月10日、立川文明堂より発刊。表題は、『立川文庫 第十七編 武士道精華 山中鹿之助』。著者は「雪花散(山)人」。内容は、『絵本更科草紙』の話をほぼ踏襲するが、処所に脚色や簡易化が見られる。
- ^ 『尼子盛衰人物記』P270より。『大百科辞典 全16巻・縮刷版』(平凡社 1951年)か。なお、現在の『世界大百科辞典』には記載がない。
- ^ a b 『広辞苑-第五版』新村出 編(岩波書店 1998年11月11日)。
- ^ 表題は「尼子十勇士図」。文久3年(1863年)、広瀬藩9代藩主、松平直諒の命により、藩お抱えの絵師であった堀江友声が描いたもの。尼子経久も共に描かれる。
- ^ 昭和8年(1933年)7月15日、内外書籍より発刊。編集・著者は、東京帝国大学史料編纂所。大日本資料・大日本古文書を調べる際の手引となることを目的に作成された集成資料集。P729、第一類、名数一覧の〔十〕に「尼子十勇士(尼子十介)」として記載。
- ^ 島根県安来市(尼子氏の拠点、月山富田城のあった地)に現在残っている性(山中・秋上・寺本・早川・大谷・高橋・深田・植田・小倉)と、『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』に確実に出でくる名前を取り上げて、広瀬少年剣士会がまとめた十勇士。“広瀬少年剣士会”とは、地元の少年剣道団体。『尼子盛衰人物記』妹尾豊三郎 編(広瀬町観光協会 昭和60年(1985年)12月刊行)P271。
- ^ 『武功夜話』巻七「西国毛利家由来の事、尼子氏の事、山中鹿之介の事、恵仙写し」
- ^ (天正6年(1578年))7月8日 遠藤勘介宛 山中幸盛書状「吉川家文書」ほか
- ^ (永禄12年(1569年))12月5日 坪内(次郎右衛門尉)宛 秋上宗信書状「坪内家文書」ほか
- ^ (永禄12年(1569年))10月1日 富兵部大夫宛 尼子氏家臣連著奉書「富家文書」ほか
- ^ (元亀元年(1570年))6月8日 掘立壱岐守宛 吉川元春書状「掘立家証文写」
- ^ 佐々木文書二三六『尼子氏分限牒』。この書は江戸時代に入ってから作成されたとされ、その信憑性については諸説ある。
- ^ a b 『雲陽軍実記』第四巻 山中鹿之助、品川大膳、富田川中嶋合戦の事。
- ^ 『太閤記』巻十九 山中鹿助伝。
- ^ 『陰徳太平記』巻四十六 出雲国布部合戦之事。
参考文献
[編集]- 槇島昭武『和漢音釈 書言字考節用集 第十巻 数量、性氏』(1717年)
- 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第六巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
- 早稲田大学編集部 編集『通俗日本全史 第七巻』(早稲田大学出版部 1913年) 中に『後太平記』を含む
- 湯浅常山 原著『戦国武将逸話集-注釈『常山紀談』巻一〜七』大津雄一・田口寛 訳注(勉誠出版 2010年) ISBN 978-4-585-05441-2
- 栗杖亭鬼卵 著・石田玉山 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 初編 巻一之〜五』(群玉堂河内屋 1811年)
- 栗杖亭鬼卵 著・石田玉山 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 後編 巻一之〜五』(群玉堂河内屋 1812年)
- 栗杖亭鬼卵 著・一峰斎馬円 画『勇婦全伝 絵本更科草紙 三編 巻一之〜五』(河内屋茂兵衛 1821年)
- 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 上巻』(春陽堂 1883年)
- 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 中巻』(春陽堂 1883年)
- 和田篤太郎 編纂『尼子十勇士伝 下巻』(春陽堂 1883年)
- 雪花散人『武士道精華 山中鹿之助』(立川文明堂 1911年)
- 東京帝国大学史料編纂所 編著『読史備用』(内外書籍 1933年)
- 新村出 編『広辞苑-第五版』(岩波書店 1998年)
- 妹尾豊三郎『尼子盛衰人物記』(広瀬町観光協会 1985年)
- 島根県立古代出雲歴史博物館『戦国大名 尼子氏の興亡-平成二十四年度企画展』(島根県立古代出雲歴史博物館 2012年)
- 香川景継『陰徳太平記 全6冊』米原正義 校注(東洋書院、1980年) ISBN 4-88594-252-7
- 河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年 校注(新人物往来社 1978年)
- 小瀬甫庵『太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕 校注(岩波書店 1996年) ISBN 4-00-240060-3
- 岡谷繁実『名将言行録(一)〔全8冊〕』(岩波書店 1943年) ISBN 4-00-331731-9
- 広瀬町教育委員会 編集『尼子氏関係資料調査報告書』(広瀬町教育委員会 2003年)
- 広瀬町教育委員会 編集『出雲尼子史料集(下巻)』(広瀬町教育委員会 2003年)
- 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社 1989年) ISBN 4-404-01648-4
- 吉田蒼生雄 訳注『武功夜話(第四巻)第一巻』(新人物往来社 1987年) ISBN 4-404-01396-5