勘解由小路資生
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勘解由小路資生 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文政10年3月3日(1827年3月29日) |
死没 | 明治26年(1893年)1月25日[1] |
墓所 | 東京都港区 善光寺 |
官位 | 正三位 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 裏松家→勘解由小路家 |
父母 | 父:裏松恭光、養父:勘解由小路光宙 |
兄弟 |
裏松勲光、資生 養兄弟:藪実方 |
妻 | 勘解由小路光宙娘・咏 |
子 |
資承、秋子、立子、直子、操子 養子:光尚 |
勘解由小路 資生(かでのこうじ すけより[2]/すけなり[1])は、江戸時代後期の公家・歌人。官位は正三位。明治期の官僚・政治家。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]山城国京都で、裏松恭光の四男として生まれ、勘解由小路光宙の養子となる[2][1]。天保15年1月(1844年)中務権少輔に任じられ、以後、中務少輔、弁官を歴任[1]。文久2年12月(1863年)国事御用掛に就任し、国事に活動した[1]。
慶応4年2月20日(1868年3月13日)明治天皇の親征大坂行幸に供奉を命ぜられた[3]。以後、左中弁、弁官事、即位御用掛、山稜総管、侍従、宮内省六等出仕、宮中祗候などを歴任[3]。
1881年4月28日、元老院御用掛に就任し、以後、建白課勤務、兼編纂局、兼宮内省御用掛、明宮出仕などを務め、1884年7月8日、子爵を叙爵。1886年1月21日、元老院御用掛を非職となり、1889年1月20日、非職満期で退官した[3]。
1890年7月10日、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した[4]。
栄典
[編集]著作
[編集]系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 犬養廉他編『和歌大辞典』明治書院、1986年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
公職 | ||
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先代 万里小路博房 |
山陵総管 1869年 |
次代 (欠員→)戸田忠至 諸陵頭 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
子爵 勘解由小路家初代 1884年 - 1893年 |
次代 勘解由小路資承 |