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勘解由小路資生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
勘解由小路資生
勘解由小路資生
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政10年3月3日1827年3月29日
死没 明治26年(1893年1月25日[1]
墓所 東京都港区 善光寺
官位 正三位
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 裏松家勘解由小路家
父母 父:裏松恭光、養父:勘解由小路光宙
兄弟 裏松勲光資生
養兄弟:藪実方
勘解由小路光宙娘・咏
資承、秋子、立子、直子、操子
養子:光尚
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勘解由小路 資生(かでのこうじ すけより[2]/すけなり[1])は、江戸時代後期の公家歌人官位正三位明治期の官僚政治家貴族院子爵議員

経歴

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山城国京都で、裏松恭光の四男として生まれ、勘解由小路光宙の養子となる[2][1]天保15年1月1844年中務権少輔に任じられ、以後、中務少輔、弁官を歴任[1]文久2年12月1863年国事御用掛に就任し、国事に活動した[1]

慶応4年2月20日1868年3月13日)明治天皇の親征大坂行幸に供奉を命ぜられた[3]。以後、左中弁、弁官事、即位御用掛、山稜総管、侍従宮内省六等出仕、宮中祗候などを歴任[3]

1881年4月28日、元老院御用掛に就任し、以後、建白課勤務、兼編纂局、兼宮内省御用掛、明宮出仕などを務め、1884年7月8日、子爵を叙爵。1886年1月21日、元老院御用掛を非職となり、1889年1月20日、非職満期で退官した[3]

1890年7月10日、貴族院子爵議員に選出され、死去するまで在任した[4]

栄典

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著作

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系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e 『明治維新人名辞典』278頁。
  2. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、428頁。
  3. ^ a b c 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』216-219頁。
  4. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』40頁。
  5. ^ 『官報』第308号、1884年7月9日。
  6. ^ 『官報』第1065号「叙任及辞令」1887年1月21日。
  7. ^ 『官報』第2871号「叙任及辞令」1893年1月26日。
  8. ^ 『和歌大辞典』551頁。

参考文献

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公職
先代
万里小路博房
日本の旗 山陵総管
1869年
次代
(欠員→)戸田忠至
諸陵頭
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
勘解由小路家初代
1884年 - 1893年
次代
勘解由小路資承