勝部村
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かちべそん 勝部村 | |
---|---|
廃止日 | 1953年7月1日 |
廃止理由 |
新設合併 青谷町(初代)、勝部村、中郷村、日置谷村 → 青谷町 |
現在の自治体 | 鳥取市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陰地方) |
都道府県 | 鳥取県 |
郡 | 気高郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 26.28 km2 |
総人口 |
1,898人 ([1]、1952年) |
隣接自治体 |
中郷村、日置村 東伯郡三徳村、泊村、東郷町 |
勝部村役場 | |
所在地 | 鳥取県気高郡勝部村大字紙屋字河原町194-1 |
座標 | 北緯35度27分58秒 東経133度58分32秒 / 北緯35.46606度 東経133.97567度座標: 北緯35度27分58秒 東経133度58分32秒 / 北緯35.46606度 東経133.97567度 |
特記事項 | 村役場および小学校(1981年の移転まで)は弥勒寺隣接地に所在した[2] |
ウィキプロジェクト |
勝部村(かちべそん)は、鳥取県気高郡にあった自治体である。1896年(明治29年)3月31日までは気多郡に属した。
概要
[編集]現在は鳥取市西端の青谷町桑原・青谷町澄水(すんず)・青谷町楠根・青谷町紙屋・青谷町田原谷・青谷町八葉寺(はつしょうじ)に相当する。勝部川上流域に位置した。
勝部の名は、南鮮からの渡来人「勝」(すぐり、朝鮮語で村主・村長の意味)の居住した地「勝部」(すぐりべ)に由来すると考えられる。平安時代からは気多郡勝部郷と称した[1][2]。
藩政時代には鳥取藩領の気多郡勝部奥郷(かちべおくのごう)に属する八葉寺村・田原谷村・紙屋村・楠根村・澄水村・桑原村があった[1]。
沿革
[編集]- 1881年(明治14年)9月12日 - 鳥取県再置。
- 1883年(明治16年)3月 - 鳴瀧村(後の中郷村大字鳴瀧)に置かれた気多郡第七連合戸長役場の管轄区域となる[1]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制の施行により、八葉寺村・田原谷村・紙屋村・楠根村・澄水村・桑原村が合併して村制施行し、気多郡勝部村が発足。旧村名を継承した6大字を編成し、役場を紙屋村に設置[1][3]。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制の施行により、高草郡・気多郡の区域をもって気高郡が発足し、気高郡勝部村となる。
- 1915年(大正4年)1月1日 - 「勝部村大字◯◯村」から大字の「村」を削除し、「勝部村大字◯◯」と改称[4]。
- 1933年(昭和8年)1月1日 - 役場位置を大字紙屋字河原町194番ノ1に変更[5]。
- 1953年(昭和28年)7月1日 - 青谷町(初代)・中郷村・日置谷村と合併し、改めて青谷町(2代)が発足。同日勝部村廃止[6]。
行政
[編集]歴代村長
[編集]代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 出身 | 備考 |
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初 | 尾崎重平 | 1889年(明治22年)11月 | 1892年(明治25年)3月 | 澄水 | |
2 | 長田吉三郎 | 1892年(明治25年)5月 | 1893年(明治26年)2月 | 紙屋 | |
3 | 長谷川律次郎 | 1893年(明治26年)3月 | 1894年(明治27年)4月 | 澄水 | |
4 | 尾崎重平 | 1894年(明治27年)7月 | 1897年(明治30年)5月 | 澄水 | |
5 | 植田国吉 | 1897年(明治30年)5月 | 1898年(明治31年)9月 | 八葉寺 | |
6 | 長谷川駒蔵 | 1898年(明治31年)9月 | 1899年(明治32年)10月 | 澄水 | |
7 | 長谷川律次郎 | 1899年(明治32年)10月 | 1899年(明治32年)11月 | 澄水 | |
8 | 長谷川栄松 | 1899年(明治32年)11月 | 1900年(明治33年)3月 | 澄水 | |
9 | 山根芳五郎 | 1900年(明治33年)4月 | 1901年(明治34年)3月 | 楠根 | |
10 | 稲脇仲蔵 | 1901年(明治34年)4月 | 1901年(明治34年)4月 | 八葉寺 | |
11 | 長谷川駒蔵 | 1901年(明治34年)5月 | 1902年(明治35年)9月 | 澄水 | |
12 | 植田国吉 | 1902年(明治35年)10月 | 1903年(明治36年)6月 | 八葉寺 | |
13 | 尾崎重平 | 1903年(明治36年)6月 | 1905年(明治38年)12月 | 澄水 | |
14 | 植田国吉 | 1905年(明治38年)12月 | 1913年(大正2年)1月 | 八葉寺 | |
15 | 清水増治郎 | 1913年(大正2年)2月 | 1915年(大正4年)4月 | 桑原 | |
16 | 植田国吉 | 1915年(大正4年)4月 | 1916年(大正5年)8月 | 八葉寺 | |
17 | 尾崎重平 | 1917年(大正6年)2月 | 1918年(大正7年)2月 | 澄水 | |
18 | 長谷川駒蔵 | 1918年(大正7年)5月 | 1920年(大正9年)1月 | 澄水 | |
19 | 勝川豊吉 | 1921年(大正10年)3月 | 1933年(昭和8年)3月 | 紙屋 | |
20 | 尾崎孝順 | 1933年(昭和8年)6月 | 1935年(昭和10年)3月 | 澄水 | |
21 | 中林雄平 | 1935年(昭和10年)4月 | 1945年(昭和20年)6月 | 桑原 | |
22 | 伊藤勝市 | 1945年(昭和20年)7月 | 1946年(昭和21年)11月 | 八葉寺 | |
23 | 池田正由 | 1947年(昭和22年)4月 | 1947年(昭和22年)12月 | 八葉寺 | |
24 | 尾崎晴二 | 1948年(昭和23年)1月 | 1953年(昭和28年)6月30日 | 桑原 | |
参考文献 - [1]・[2] |
教育
[編集]- 勝部村立勝部小学校(後の鳥取市立勝部小学校、2007年閉校)
- 中郷村外三か村学校組合立山西中学校(1947年4月 - 1948年3月):中郷村大字亀尻257番地に中郷村・勝部村・日置村・日置谷村の組合立として創設。しかし4ヶ村の組合立が地域的に困難であることから2ブロックに分かれることになり、1年で閉校した[1]。
- 中郷村勝部村学校組合立山西第一中学校(1948年4月以降):中郷村大字亀尻257番地に所在。合併後は青谷町立となる。1958年(昭和33年)9月30日統合により新・青谷中学校となり閉校、同第一校舎となる[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 青谷町誌(青谷町誌編さん委員会、1984年)
- ^ a b c 勝部小学校誌 : 一三〇年のあゆみ(勝部小学校誌編纂委員会、2005年)
- ^ 鳥取県改正市町村名及役場区域 明治22年10月改正(横山敬次郎、1889年)
- ^ 「大字名改称」『官報』1914年12月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「村役場位置変更」『官報』1933年2月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鳥取県告示第280号・市町村の廃置分合」『鳥取県公報 第2424号』1953年6月23日(鳥取県立公文書館)