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北村益

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北村益
きたむら ます
生年月日 1869年1月13日
出生地 日本の旗 日本 青森県三戸郡八戸町
(現・青森県八戸市
没年月日 (1951-04-15) 1951年4月15日(82歳没)
前職 八戸新聞社長
所属政党立憲同志会→)
憲政会→)
立憲政友会

選挙区 三戸郡選挙区
当選回数 1回
在任期間 1915年 - 1919年

舘村
在任期間 1915年 - 1918年

当選回数 4回
在任期間 1907年10月 - 1913年
1918年 - 1923年
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北村 益(きたむら ます、1869年1月13日明治元年12月1日[1]〉 - 1951年昭和26年〉4月15日[1])は、日本の政治家青森県八戸町、舘村の町長

来歴・人物

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三戸郡八戸町長横町で生まれる。1888年(明治21年)に小田為綱を招いて八戸義塾を立ち上げ、1889年(明治22年)に八戸青年会を設立する。

1901年(明治34年)に八戸消防団の組頭を務め、1905年(明治38年)4月に八戸新聞の社長に就任する。

1907年(明治40年)10月に八戸町長となり、1913年大正2年)まで2期、1918年(大正7年)から1923年(大正12年)の2期の計4期八戸町長を務めた。1915年(大正4年)から1918年の間、舘村村長も務めている。また、1915年に青森県会議員選挙に三戸郡選挙区から立憲同志会公認で立候補して、当選した[2][3][注釈 1]1919年(大正8年)の選挙には立候補しなかった[5]

1923年2月に政界を引退。1929年(昭和4年)、八戸市発足に伴い、市長に推挙されたが、これを辞退した[6]

俳諧にも造詣が深く、「百仙洞古心」の俳号を持ち、政界引退後も俳諧活動は続けた。

神道無念流の免許皆伝であった[7]

関連項目

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参考文献

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  • 「北村 益 郷土の先達」1975年、八戸市立図書館編

脚注

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注釈

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  1. ^ 党派はその後、憲政会を経て、政友会に入党した[4]

出典

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  1. ^ a b 北村益』 - コトバンク
  2. ^ 青森県議会史 大正2-15年 9コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ 青森県議会史 大正2-15年 124コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 青森県議会史 大正2-15年 255コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ 青森県議会史 大正2-15年 255コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 八戸市総覧 51コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  7. ^ デーリー東北デジタル”. デーリー東北デジタル. 2024年11月13日閲覧。
  8. ^ 「青森県の101人」『月刊れぢおん青森』2月号、青森地域社会研究所、1990年、27頁。 
  9. ^ 北村小松「ナイト・ファイティング - 車の中からみたはだかの日本 -」『オーナードライバー』文芸春秋新社、1961年、174頁。 
先代
遠山景三
第3 代八戸町
1907年 - 1913年
次代
奈須川光宝
先代
奈須川光宝
第5 代八戸町
1918年 - 1923年
次代
関春茂