北条元利
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北条 元利(きたじょう もととし、1849年9月21日(嘉永2年8月5日[1])- 1905年(明治38年)7月26日[2])は、幕末の米沢藩士、明治期の裁判官・検察官。官選岩手県知事。旧名・河村徳次[3]。
経歴
[編集]出羽国置賜郡米沢館山口町(現:山形県米沢市)で米沢藩士・河村徳友の二男として生まれ、万延元年(1860年)北条家の養子となる[1]。戊辰戦争では、振勇隊士官として板谷峠防禦陣地の構築に従事した[4]。
明治4年(1871年)上京して築地の明治協會学院に入学しドイツ語を学ぶ。明治政府に出仕し、明治5年4月4日(1872年5月10日)東京府権区長に就任。その後、警視庁で権中警部などを務めた[5]。
1875年(明治8年)6月、司法省に転じ、長崎上等裁判所在勤となり、同年12月13日、四級判事補に任官。その後、京都裁判所在勤、梅津区裁判所長、小浜区裁判所長、大阪上等裁判所在勤などを歴任し、1881年(明治14年)3月8日、判事任官[6]。
以後、金沢始審裁判所詰、新潟始審裁判所詰、根室始審裁判所長、根室重罪裁判所長、東京控訴院判事、水戸地方裁判所長などを歴任。1894年(明治27年)1月11日、検事に転じ、新潟地方裁判所検事正に就任した[7]。
1900年(明治33年)4月27日、岩手県知事に就任。規則の整備、教育施設の整備、岩手県庁舎新築などに尽力[8]。1904年(明治37年)11月17日、知事を休職となる[9]。1905年7月、病のため死去した[10]。
栄典
[編集]- 位階
- 1894年(明治27年)2月28日 - 正六位[11]
- 1896年(明治29年)7月30日 - 従五位[12]
- 1900年(明治33年)7月10日 - 正五位[13]
- 1905年(明治38年)7月27日 - 従四位[14]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[15]
- 1895年(明治28年)6月21日 - 勲五等瑞宝章[16]
- 1900年(明治33年)12月20日 - 勲四等瑞宝章[17]
- 1904年(明治37年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[18]
- 1905年(明治38年)7月27日 - 旭日中綬章[19]
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b 『人事興信録 初版』187頁。
- ^ 『北条元利の生涯』818頁。死亡届は「7月27日」。
- ^ 『北条元利の生涯』794頁。
- ^ 『北条元利の生涯』796頁。
- ^ 『北条元利の生涯』798-799頁。
- ^ 『北条元利の生涯』800-803頁。
- ^ 『北条元利の生涯』804-810頁。
- ^ 『新編日本の歴代知事』122頁。
- ^ 『官報』第6417号、明治37年11月18日。
- ^ 『北条元利の生涯』819頁。
- ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
- ^ 『官報』第3927号「叙任及辞令」1896年7月31日。
- ^ 『官報』第5106号「叙任及辞令」1900年7月11日。
- ^ 『官報』第6624号「叙任及辞令」1905年7月29日。
- ^ 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
- ^ 『官報』第5393号「叙任及辞令」1895年6月22日。
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』第6450号「叙任及辞令」1904年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
参考文献
[編集]- 『人事興信録 初版』人事興信所、1903年。
- 北条元一『北条元利の生涯』北条元一、1970年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。