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北条政顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北条政顕
時代 鎌倉時代後期・末期
生誕 文永6年(1269年[1][2]
死没 不詳[1][2]正和5年(1316年)?)
改名 政顕
別名 顕道、金沢政顕
官位 掃部助上総介
幕府 鎌倉幕府
鎮西探題肥前肥後豊前守護(兼任)
主君 将軍惟康親王久明親王守邦親王
氏族 金沢流北条氏
父母 父:北条実政、母:千葉氏の娘?
兄弟 政顕義政政基岩難手殿
不詳
種時時直?、家政、顕茂、顕義、師顕、時継、
規矩高政糸田貞義、娘(安達時顕室)
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北条 政顕(ほうじょう まさあき)は、鎌倉時代後・末期の武将鎮西探題北条氏の一門。父は金沢流北条実政で、金沢政顕とも称される。北条貞顕の従兄にあたる。

生涯

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文永6年(1269年)[1][2]、北条(金沢)実政の子として生まれる。正応5年(1292年)ごろ、肥後守護となったという[3][4]

正安3年(1301年)9月、父・実政の出家に伴い、家督と探題職・守護職を譲られる[5]。その後、15年ほどに亘って在任し、相論に対するものをはじめとした85通の裁許状鎮西下知状[6]を発給している[1]

その間、嘉元2年(1304年)ごろには上総介となっている[3]ようだが、翌嘉元3年(1305年)から延慶2年(1309年)までの間は北条宗方の陰謀事件(嘉元の乱)との関連により裁許状を発給していない[1]

正和5年(1316年)には鎮西探題を辞任。その後、次の阿蘇随時が探題に就任するまで約1年間、嫡子種時(たねとき)が代理で探題職を務めている[7]ことから、同年に没したとも考えられる。

脚注・出典

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  1. ^ a b c d e 『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収)「北条政顕」の項(著:瀬野精一郎)より。
  2. ^ a b c 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(コトバンク所収)「金沢政顕」の項より。
  3. ^ a b 世界帝王事典 北条氏(金沢流)
  4. ^ 西ヶ谷、1998年、p.266によれば、永仁年間(1293年-1298年)以降、政顕・(規矩)高政の父子に亘って務めたとあり、ほぼ一致する。
  5. ^ 安田、1990年、p.540 「北条実政」の項 より。
  6. ^ 鎌倉時代の鎮西探題が発給した下知状(『歴史民俗用語辞典』より)。
  7. ^ 或いは、随時の次の赤橋英時(最後の鎮西探題)が自害するまで代行していたともいう(世界帝王事典 北条氏(金沢流)より)。

参考文献・関連史料

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書籍
史料
  • 鎮西下知状(正安四年八月十八日、『肥後志賀文書』、鎌倉遺文所収)
  • 鎮西下知状(正安四年八月十八日、『大隅有馬家文書』、鎌倉遺文所収)
先代
北条実政
鎮西探題
2代
次代
北条随時