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北条時直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北条時直/金沢時直
時代 鎌倉時代中期 - 末期
生誕 不詳
死没 元弘3年/正慶2年(1333年
別名 越後九郎(通称)
官位 上野介
幕府 鎌倉幕府大隅周防長門守護長門探題
主君 守邦親王
氏族 北条氏金沢流北条氏
父母 父:北条実時?、北条政顕?[1]北条実村?[2]、母:未詳
北条上野四郎
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北条 時直(ほうじょう ときなお)は、鎌倉時代中期から末期の北条氏の一門で武将北条実時の子、または北条政顕の子[1]北条実村の子[2]とも。長門探題金沢 時直(かねさわ ときなお)とも。

生涯

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永仁3年(1295年)から文保元年(1317年)まで上野介、大隅守護を務めた。永仁5年(1297年)、鎮西評定衆に任命され、鎮西探題となった兄弟(または祖父もしくは叔父)の北条実政とともに西国へ下り、これを補佐する。元亨3年(1323年)、周防・長門の守護に任命され、長門探題となる[3][4]

元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月11日、及び3月12日に祝安親土居通増得能通綱忽那重清らが後醍醐天皇に呼応して倒幕の挙兵をすると、これを鎮圧するために伊予へ進軍するが、石井浜・星岡で相次いで敗れ[3]長門まで後退する。さらに、山陰から宮方に長門を攻められたが、援軍の到着もあって撃退することに成功する。

5月、厚東・由利・高津などの討幕軍に攻められて瀬戸内海に逃れる。そして海上で六波羅探題、鎮西探題、鎌倉幕府が相次いで宮方の攻撃によって滅び孤立無援となった。このため5月26日、朝廷方の少弐貞経に降伏し、罪を許されて本領を安堵された。しかし程なく没した。死因は病死であったという[3]

子の北条上野四郎は時直の死の2年後に反乱を起こすが、鎮圧されて殺された。

脚注

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  1. ^ a b コトバンク「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」「朝日日本歴史人物事典」
  2. ^ a b 時直の系譜は、『尊卑分脈』『続群書類従』所収「北条系図」、『諸家系図纂』所収「浅羽本北条系図」では、実時―実村―時直(顕時実政の兄)。『正宗寺本北条系図』『野津本北条系図』では、実時―実村(顕時・実政の兄)。『系図纂要』所収「北条系図」、『姓氏分脈』所収「北条系図」では、実時―実政(顕時の弟)―実村(政顕の兄)―時直。「入来院本平氏系図」では、実時―実村(顕時・実政の兄)―時直。
  3. ^ a b c 安田 1990, p. 544.
  4. ^ 佐藤秀成「防長守護小考」(三田史学会『史学(第82巻第1号)』、2013年)は、長門探題は北条氏一門が長門・周防の守護を兼ねたことによる俗称に過ぎず、制度上は存在しない職制であったとしている。

参考文献

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  • 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。 
  • 北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年。