北条資時
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時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 正治元年(1199年) |
死没 | 建長3年5月5日(1251年5月26日) |
改名 | 資時、真昭(法名) |
別名 | 相模三郎 |
幕府 | 鎌倉幕府 評定衆、三番引付頭人 |
主君 | 藤原頼経、頼嗣、宗尊親王 |
氏族 | 北条氏 |
父母 | 父:北条時房、母:足立遠元の娘[1] |
兄弟 |
時盛、時村、資時、朝直、時直、時定、 一条頼氏室、北条朝時室、安達義景室、他 |
子 | 時成、姉小路忠時室、北条時広室、畠山泰国室、阿野公仲室、北条時治室[2] |
北条 資時(ほうじょう すけとき)は、鎌倉時代中期の武将、北条氏の一門。鎌倉幕府の初代連署・北条時房の三男。母は正室の足立遠元の娘。
生涯
[編集]承久2年(1220年)正月14日、22歳で兄時村と共に突然出家する。詳細は不明だが、兄弟間で家督争いがあったと見られ、最終的に資時の同母弟の朝直が時房の嫡男とされた。
嘉禄3年(1237年)、39歳で北条氏で初めての評定衆となり、建長元年(1249年)12月、三番引付頭人に就任。建長3年(1251年)5月5日、在職のまま53歳で没。
和歌に秀で、『新勅撰和歌集』『続後撰和歌集』をはじめ、複数の勅撰和歌集に22首歌が採録されている。その歌の資質は藤原定家も高く評価したという。『吾妻鏡』には、資時がしばしば将軍が催した歌会に出席していることが描かれている。蹴鞠にも堪能であった。鈴木宏美は資時は文化人としての素質には恵まれたが、政治の手腕は具備していなかったと評している。[要出典]
子の時成は「物狂」として子孫を残さなかったと見られ、資時の系統は断絶している。
出典・脚注
[編集]- ^ 『関東評定衆伝』建長3年条による。ただし弟の朝直・時直が「直」字を共字としているのに対して、資時は名前に共字性がないので、母は別人の可能性がある。
- ^ 北条氏(時房流) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~
参考文献
[編集]- 北条氏系譜人名辞典(新人物往来社)