北沢貞治郎
北沢 貞治郎 | |
---|---|
生誕 |
1889年4月13日 日本 兵庫県 |
死没 |
1953年8月16日(64歳没) ソビエト連邦 ハバロフスク地方 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1910年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
北沢 貞治郎(きたざわ ていじろう、1889年(明治22年)4月13日[1] - 1953年(昭和28年)8月16日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[3]。
経歴
[編集]1889年(明治22年)に兵庫県で生まれた[1]。陸軍士官学校第22期卒業[1]。1937年(昭和12年)7月31日に第16碇泊場司令官に就任し[3]、8月2日に陸軍砲兵大佐に進級して8月18日に第6碇泊場司令官に着任[3]。1938年(昭和13年)7月に姫路連隊区司令官に転じた[3]。
1940年(昭和15年)8月1日に陸軍少将進級と同時に第20師団司令部附となり[1][3]、9月7日に南支那碇泊場監に就任[1]。1942年(昭和17年)7月に第3船舶輸送司令官に転じ[1]、1944年(昭和19年)10月14日に船舶司令部附兼陸軍運輸部附となり[4]、10月26日に陸軍中将に進級した[3]。独立混成第73旅団を基幹に編成された第123師団(関東軍・第4軍)の師団長に1945年(昭和20年)1月20日に親補され[1]、司令部は孫呉に位置した[5]。ソ連対日参戦の際には相模山陣地[6]、秋月山陣地などの前線守備部隊が第2赤旗軍と激戦を繰り広げた[6]。師団主力は孫呉主陣地に[6]、師団隷下に編入した独立混成第135旅団は璦琿主陣地に健在であり[6]、陣地より挺身攻撃を反復しソ連軍に多大な損害を出した[6]。8月14日からソ連軍は孫呉地区に侵攻を開始[7]。8月15日正午の玉音放送を師団では聴取できなかったが[8]、師団長の決心により[8]、同日夜各部隊長に停戦命令を伝達して8月18日までに武装解除を終えた[8]。しかし、独立混成第135旅団は無線不通により8月21日まで戦闘を継続した[9]。戦後はソ連に抑留され、ハバロフスクで死去[2]。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[10]。
栄典
[編集]- 勲章
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 福川 2001, 255頁.
- ^ a b 第123師団(松風) アジア歴史資料センター
- ^ a b c d e f 外山 1981, 281頁.
- ^ 「第215号 昭和19年10月17日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120922900
- ^ 中山 1990, 293頁.
- ^ a b c d e 中山 1990, 328頁.
- ^ 中山 1990, 316頁.
- ^ a b c 中山 1990, 317頁.
- ^ 中山 1990, 325頁.
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
- ^ 『官報』第4280号「叙任及辞令」1941年4月16日。
参考文献
[編集]- 中山隆志 著『ソ連軍進攻と日本軍』国書刊行会、1990年。ISBN 4336031673。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。