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北田原城

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北田原城
奈良県
別名 田原城、田原塁
城郭構造 連郭式山城[1]
築城年 16世紀?[2]
主な城主 伝・坂上(坂ノ上)氏
廃城年 不明
遺構 曲輪、帯曲輪、堀切、竪堀、畝状空堀群土塁台、石積
位置 北緯34度43分53.5秒 東経135度42分17.5秒 / 北緯34.731528度 東経135.704861度 / 34.731528; 135.704861座標: 北緯34度43分53.5秒 東経135度42分17.5秒 / 北緯34.731528度 東経135.704861度 / 34.731528; 135.704861
地図
北田原城の位置(奈良県内)
北田原城
北田原城
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北田原城(きたたはらじょう[3][注釈 1])は、奈良県生駒市北田原町(旧大和国添下郡[6])にあった日本の城山城[1][4][5]。かつては田原城田原塁と呼ばれたが、大阪府四條畷市田原城(南西1.7キロメートルの地点に所在[7])と区別するため、2024年現在では北田原城と呼ばれている[8][注釈 2]

概要

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北へと流れる天野川流域の田原の谷(田原盆地[7])中央にある、標高196メートル、比高45メートルの山上に位置している[1]。天野川から西は河内国で、山城国の国境ともほど近い[7]。北田原城がある場所は、西からやってきた清滝街道が、城の南麓を通る伊賀街道と合流する地点で[5]、清滝街道は南は生駒王寺に通じ、北では磐船街道とつながって交野枚方に通じるなど[7]、交通の要衝となっている[5][7]

北田原城は城郭遺構が比較的よく残っていることで知られる城だが、文献史料は少ない[9]。城に関わる唯一の同時代史料が『多聞院日記』の記述で、永禄10年(1567年)9月22日に「田原之坂上」が三好三人衆方から松永久秀方に再度寝返ったと記されている[10][11]

坂上(坂ノ上)氏は、後世の文献において北田原城の城主とされている[12]享保21年(1736年)に成立した『大和志』(『五畿内志』)には、北田原村の城に「坂ノ上丹後守」が拠ったとあり[10][13]安永3年(1774年)の「十一ケ村村鑑」にも、北田原村に「坂上丹後守殿城跡」があると記されている[14]。また、北田原城の南方1.4キロメートルにある岩蔵寺の縁起『大和国添下郡岩屋山岩蔵寺記』には、天正7年(1579年)に坂上丹後守が本堂外陣を再建したとの記述がある[15]。この他、『鷹山氏系図写』には、坂上肥後守と丹波守尊忠が親子2代にわたって北田原城の城主(「田原ノ城主」)だったと記される[16]。同系図によると尊忠は天正13年(1585年)に城を去り、元和元年(1615年)、大坂夏の陣豊臣方として戦死したという[16]

2022年令和4年)から2023年(令和5年)にかけて、主郭部分に建つ[1]送電線鉄塔の建替工事にともない、北田原城跡では初となる発掘調査が行われた[17]。この発掘調査では土師器皿が多く出土し、輸入陶磁である白磁皿や染付皿も発見されている[9]。この他、瀬戸美濃天目椀や鉄鍋、土管も出土した[9]。これらの遺物は16世紀前半から中頃にかけてのものが中心とみられ、文献から見える坂上氏の動きと整合性が取れているといえる[18]

また、日常の雑器や天目椀などの茶道具が見つかっていることなどから、北田原城は有事の際の詰の城というより、ある程度の日常生活が送られた場であると考えられる[19]

北田原城の役割については、4.7キロメートル西にある飯盛城(四條畷市・大東市)の支城だったとの見方がある[7]三好長慶津田城(枚方市)や田原城(四條畷市)を飯盛城の支城としており、北田原城も同様であった可能性があり、城主として伝えられる坂上氏も三好長慶ら河内勢力の傘下に入った大和の武士であるとも考えられる[4]

構造

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城の規模は、東西約190メートル、南北約220メートルとなる[4][注釈 3]

標高196メートルの最高所の[20]、現在では高圧線の鉄塔が建つ削平地が主郭(本丸[1]、曲輪I[5][20])とされる[1][5]。主郭から北西方向の尾根沿いには、小規模な曲輪が3つ(あるいはそれ以上[4])連なっている[5]。主郭の南東にも小さな曲輪(腰曲輪[21])が一つあり、そこから下った場所には東西両側から北へと回り込む帯曲輪がある[5]。主郭の西にはこの帯曲輪を通じてつながる台がある[5]

主郭の南側には北田原城跡で最大規模となる曲輪がある[5]。その中央東寄りの位置には土壇があり[5]、櫓台であるとも考えられている[4]。この曲輪の南端部から西側には長さ70メートル、幅20メートルの大規模な曲輪があり[5]、そこでは大峯山が祀られている[1]。この曲輪から西の斜面を下った先には、土塁竪堀を備えた帯曲輪がある[5]

主郭の北東の尾根や北西の曲輪と曲輪の間などには堀切が見られ、主郭南の曲輪から南東の斜面には畝状空堀群が敷設されている[5]

先述の発掘調査では、主郭南東の腰曲輪のすぐ南で検出された小規模な曲輪周辺において、石積や階段状の遺構などが発見された[22]。この石積では石塔基壇石や石仏の転用が見られる[23]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本城郭大系』などの各書籍では「きたたわらじょう」と読まれている[1][4][5]
  2. ^ 城名となる「北田原」の地名は、17世紀後半に成立した北田原村(東田原村から分村)に由来する[7]
  3. ^ 『日本城郭大系』では、東西160メートル、南北130メートルとされる[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 平井聖; 村田益男; 村田修三 編『日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山』新人物往来社、1980年、321頁。全国書誌番号:80036837 
  2. ^ 生駒市の中世山城・北田原城跡 石積遺構が出土 戦国時代に築城可能性”. 産経ニュース. 産経デジタル (2023年5月25日). 2024年8月5日閲覧。
  3. ^ 元興寺文化財研究所 2024, 報告書抄録.
  4. ^ a b c d e f 吉澤雅嘉 著「北田原城」、城郭談話会 編『図解 近畿の城郭IV』中井均 監修、戎光祥出版、2017年、256–258頁。ISBN 978-4-86403-256-8 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 高橋成計 著「北田原城」、髙田徹 編『奈良中世城郭事典』戎光祥出版〈図説 日本の城郭シリーズ17〉、2022年、93–95頁。ISBN 978-4-86403-455-5 
  6. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年、374頁。ISBN 4-04-001290-9 
  7. ^ a b c d e f g 元興寺文化財研究所 2024, p. 4.
  8. ^ 元興寺文化財研究所 2024, p. 56.
  9. ^ a b c 元興寺文化財研究所 2024, p. 50.
  10. ^ a b 元興寺文化財研究所 2024, pp. 6, 54, 62.
  11. ^ 辻善之助 編『多聞院日記 第二巻』三教書院、1935年、34頁。全国書誌番号:50007652https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920644/22 
  12. ^ 元興寺文化財研究所 2024, pp. 6, 54.
  13. ^ 正宗敦夫 編『五畿内志 中巻』日本古典全集刊行会〈日本古典全集 第三期〉、1930年、258頁。全国書誌番号:47026162https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179437/31 本書では「坂上丹後守」と書かれている。
  14. ^ 元興寺文化財研究所 2024, pp. 54, 59.
  15. ^ 元興寺文化財研究所 2024, pp. 7, 53, 58.
  16. ^ a b 元興寺文化財研究所 2024, pp. 6, 60–61.
  17. ^ 元興寺文化財研究所 2024, pp. 1, 50.
  18. ^ 元興寺文化財研究所 2024, pp. 50, 54.
  19. ^ 元興寺文化財研究所 2024, p. 52.
  20. ^ a b 元興寺文化財研究所 2024, p. 9.
  21. ^ 元興寺文化財研究所 2024, p. 10.
  22. ^ 元興寺文化財研究所 2024, pp. 10, 19–25.
  23. ^ 元興寺文化財研究所 2024, pp. 19–23, 50–51.

参考文献

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