南部利視
表示
南部利視 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝永5年4月26日(1708年6月14日) |
死没 | 宝暦2年3月28日(1752年5月11日) |
改名 | 吉助(幼名)、信視、利視 |
別名 | 号:徳州、壺雲斎 |
官位 | 従四位下修理大夫、大膳大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重 |
藩 | 陸奥盛岡藩主 |
氏族 | 南部氏 |
父母 |
父:南部信恩、母:黒沢氏の娘・浄智院 養父:南部利幹 |
兄弟 | 利視、永井直期正室ら |
妻 |
正室:榊原政邦の娘・国姫 側室:瀬山氏 |
子 |
信伝、信居、三戸信駕、信周、三戸信明、利正、アイら 養子:利雄 |
南部 利視(なんぶ としみ)は、江戸時代中期の大名。陸奥国盛岡藩の第7代藩主。官位は従四位下・修理大夫、大膳大夫。
経歴
[編集]宝永5年(1708年)、第5代藩主・南部信恩の次男として誕生。信恩の死後に生まれたため、叔父の利幹が6代藩主となった。幼少時は毛馬内直道が近習を務めた。享保10年(1725年)7月21日、利幹の末期養子として家督を継いだ。同年7月28日、8代将軍・徳川吉宗に御目見した。同年12月18日、従五位下・修理大夫に叙任した。寛延2年(1750年)12月18日、従四位下に昇進する。寛保4年(1744年)1月27日、頭髪の薄さから幕府に惣髪願いを出し、許可されている。
藩主の就任当時は18歳で、家老・中野光康(吉兵衛)に藩政を委ねた。しかし、中野は前藩主時代の倹約政策を破棄して旧制度を復活させたため、翌年には参勤交代の下向の費用に窮する事態となる。なお、藩主・利視は「頗る遊狩を好み、普く領内を巡視せるを以て、能く風俗を諳じ民情」(『南部史要』)に通じていたという。
長男の信伝は旗本南部信弥の養子としており、前藩主・利幹の長男(利視の従弟)利雄を養子にして家督を継がせた。宝暦2年(1752年)に死去した。
なお、次男の南部信居は新屋敷三戸家を、三男の三戸信駕は中屋敷三戸家、四男の南部信周は角屋敷三戸家を興している。
系譜
[編集]子女は11男8女、うち1人は養女
- 父:南部信恩(1678-1707)
- 母:浄智院 - 黒沢氏
- 養父:南部利幹(1689-1725)
- 正室:国姫、本性院 - 榊原政邦の娘
- 側室:要津院、綾 - 横浜通宴の娘
- 側室:円成院 いよ - 漆戸茂英の娘
- 次男:南部信居 - 娘に南部信丞室(南部利用 (吉次郎)生母)
- 側室:瀬山氏
- 六男:南部利正(1751-1784)
- 側室:霜林院、三保 - 関式忠養の娘
- 側室:普明院、艶 - 工藤祐定の娘
- 四男:南部信周
- 養子