南部正太郎
南部 正太郎 | |
---|---|
1956年 | |
生誕 |
1918年11月23日 日本・岐阜県大垣市 |
死没 |
1976年11月5日(57歳没) 日本・兵庫県宝塚市 |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家 |
活動期間 | 1946年 - 1976年 |
ジャンル | 4コマ漫画 |
代表作 | 『ヤネウラ3ちゃん』 |
南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月23日 ‐ 1976年11月5日)は、日本の漫画家。昭和20年代の関西漫画界の第一人者[1]で、代表作に焼け跡派の4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」がある。生前は大阪読売新聞夕刊の「マンガアンデパンダン」選者、日本漫画家協会関西支部所属。
生涯
[編集]1918年11月23日、岐阜県大垣市生まれ。すぐ大阪府高槻市に移住[2]。
1937年、都島工業学校建築科卒業後、大阪の建築事務所で働きはじめる。一時的に大映京都撮影所で助監督を務めるが、建築事務所に復帰[3]。
1945年、勤めていた建築事務所が解散。漫画を描きはじめ、大阪新聞社の雑誌『漫画日本』や『読物と漫画』(『大阪パック』改題)で作品を発表。『漫画日本』に掲載された「千一夜」が『大阪新聞』編集部の目に留まり、年末に『大阪新聞』で「Q太郎青春メモ」を短期連載[4]。
1946年、『大阪新聞』3月12日付から4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」連載開始。戦後日本の世相・風俗取り入れた作風が評判を呼び、本作を読むために新聞を買う人の行列ができ、松竹で喜劇として上演、“3ちゃん”を冠したお店が大阪に数か所作られるほどだった[4]。手塚治虫は「ロストワールド」執筆時に「この漫画、もっと3ちゃんみたいになりまへんかな」と意見されたという[5]。年末、手塚治虫らと関西まんが人クラブに参加。これは東京へ行かずに関西で漫画の根を生やそうとした会[6]。
1947年、手塚治虫、武田将美とスリー・マンガ・クラブを結成。南部は8ミリ映画に凝り、自作の劇映画を見せることもあった[7]。東京の『朝日新聞』から連載の声がかかり[6]『大阪新聞』での手ごたえから自信をもって東京へ上京した[8]が、大阪出身者への偏見から苦労し[9]、大阪に戻ってきたという[10]。
1976年11月5日、脳溢血のため兵庫県宝塚市の大室病院で死去。57歳。手塚治虫も東京から駆けつけ、葬儀を執り行った[11]。生涯独身だった。
主な単行本
[編集]- 『コドモマンガ ウミノミヤコ』(不二出版社、1946年9月15日発行)
- 『3ちゃんコロちゃん』第1集(有文堂、1947年2月1日発行)
- 『3ちゃんコロちゃん』第2集(有文堂、1947年)
- 『ポケットモンチャン』(不二出版社、1947年4月20日発行)
- 『長編爆笑漫画 ヤネウラ3ちゃん せまいながらもの巻』(光書房、1947年5月10日発行)※大阪新聞連載「ヤネウラ3ちゃん」の単行本第1巻
- 『長編爆笑漫画 ヤネウラ3ちゃん せまいながらもの巻』(ロマン書房、1947年9月10日発行)※出版社変更
- 『3ちゃんのマンガ 20の扉 第1集』(中矢書房、1948年3月20日発行)※NHKラジオのクイズ番組「二十の扉」をもとにした描き下ろし漫画
- 『長編漫画ロマンス マリヤの秘密』(不二書房、1948年4月5日発行)
- 『長編爆笑漫画 ヤネウラ3ちゃん 住めば天国の巻』(玩具社、1948年5月31日発行)※大阪新聞連載「ヤネウラ3ちゃん」の単行本第2巻
- 『長編爆笑漫画 ヤネウラ3ちゃん 青い鳥の巻』(玩具社、1948年8月30日発行)※大阪新聞連載「ヤネウラ3ちゃん」の単行本第3巻
- 『長編爆笑漫画 ヤネウラ3ちゃん 愉しからずやの巻』(有規文庫、1948年11月25日発行)※大阪新聞連載「ヤネウラ3ちゃん」の単行本第4巻
- 『長編爆笑漫画 ヤネウラ3ちゃん 愉しからずやの巻』(蘭書房、1949年8月25日発行)※出版社変更
- 『新作長編漫画 3ちゃんの冒険 魔神島の巻』(平書房、1949年11月20日発行)
- 『ヤネウラ3ちゃん ナンセンス漫画傑作集』(小学館文庫、1977年4月20日発行)※表紙イラストは滝瀬源一、解説は副田義也
主な作品
[編集]- 「Q太郎青春メモ」:『大阪新聞』(大阪新聞社)1945年末
- 「(タイトル不明)」:『漫画日本』1946年1月号
- 「ヤネウラ3ちゃん」:『大阪新聞』(大阪新聞社)1946年3月12日‐
- 『まんがマン』創刊号
- 「3ちゃん」:『さくらんぼ』(昭和出版)1948年2月号‐
- 『婦人朝日』1948年頃連載
- 「3ちゃんのガチャバイ放送局」(絵と文):『ラジオ・オーサカ』(大阪中央放送局事業部)1948年4月号
- 「続3ちゃんのガチャバイ放送局」(絵と文):『ラジオ・オーサカ』(大阪中央放送局事業部)1948年5月号
- 「ボロボロの天使」:『シスター』(白川書店)1948年11月号
- 「3ちゃんの冒険」:『コドモ大阪』(コドモ大阪新聞社)
- 「3ちゃんのホームラン王」:『少年界』(中央文芸社)1949年
- 「3ちゃん」:『こども太陽』(太陽社)1949年頃
- 「屋根裏3ちゃん」:『面白倶楽部』(光文社)1950年8月号‐1952年12月号
- 「ララ子ちゃん」:『少女』(光文社)1951年前後
- 「3ちゃん」:『朝日新聞』夕刊(朝日新聞社)1951年1月
- 「3ちゃん劇場」:『面白倶楽部』(光文社)1953年1月号‐1956年12月号
- 「春野いずこさん」:『明星』(集英社)1954年?‐1960年?
- 『文芸春秋臨時増刊 漫画読本』(文芸春秋社)1954年12月号の創刊号からほぼ毎号掲載(1966年6月号まで確認)
- 「タンちゃんとイヌ」:『小学生上級版』(河出書房)1956年
- 『週刊娯楽よみうり』(読売新聞社)1956年前後
- 「ちどりの青春」:『平凡』(平凡出版)1956年5月号‐1958年8月号(全28回)
- 「3ちゃんの迷探偵」:『面白倶楽部』(光文社)1957年1月号‐1957年12月号
- 「3ちゃんの捕物帖」:『面白倶楽部』(光文社)1958年1月号‐1958年12月号
- 「とっくり父さん」:『平凡』(平凡出版)1958年9月号
- 「ボテ社長とイケズ娘」:『平凡』(平凡出版)1958年12月号
- 「3ちゃんシネマ」:『面白倶楽部』(光文社)1959年1月号‐1960年12月号
- 「コッペ君」:『中学コース』(学習研究社)1959年4月号‐1960年3月号(全12回)
- 「のんびり君」:『週刊サンケイ』(扶桑社)1959年10月4日号‐1961年8月21日号(全100回)
- 「ナイス坊や」:『中学生の友』(小学館)1962年10月号‐1963年3月号(全6回)
- 「横町先生」:『中学生の友』(小学館)
- 「GOちゃんの冒険」:『週刊サンケイ』(扶桑社)1966年9月12日号‐1966年12月26日号(全16回)
脚注
[編集]- ^ 『朝日新聞』1976年11月6日朝刊物故者覧プロフィール
- ^ 『CD現代日本人名録 物故者編2004』日外アソシエーツ株式会社、2004年
- ^ 『昭和新聞漫画史』毎日新聞社、1981年
- ^ a b 清水勲『大阪漫画史 漫画文化発信都市の300年』ニュートンプレス、1998年12月
- ^ 中野晴行『手塚治虫と路地裏のマンガたち』筑摩書房、1993年
- ^ a b 手塚治虫『漫画の奥義 作り手からの漫画論』光文社、2007年
- ^ 手塚治虫『ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝』大和書房、1979年
- ^ 「ヤネウラ3ちゃん」のリメイク作品「3ちゃん」を、『夕刊朝日新聞』に1951年1月1日から31日までの1か月間連載した。
- ^ われら六稜人【第39回】がちゃぼいマンガ道 第5話 男子志を立てて東京へ出る(1973年10月9日北野高校講堂における手塚治虫の講演採録)
- ^ うしおそうじ『手塚治虫とボク』草思社、2007年
- ^ 『大阪新聞75周年記念誌』大阪新聞社、1997年12月
参考文献
[編集]- 松本零士+日高敏編集『漫画歴史大博物館』(ブロンズ社、1980年)
- 尾崎秀樹『子どもの偶像 小さなシンボル1946‐1956』(楡出版、1991年)
- 竹内オサム『手塚治虫 アーチストになるな』(ミネルヴァ書房、2008年)
- 『占領期雑誌資料大系 大衆文化編』全5巻(岩波書店、2008‐2009年)