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原亮三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原 亮三郎(はら りょうざぶろう、1848年11月13日嘉永元年10月18日[1][2]) - 1919年大正8年)12月8日[2][3])は、明治から大正時代の政治家公吏実業家出版経営者。銀行家衆議院議員

経歴

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美濃国羽栗郡平方村岐阜県羽栗郡平方村、福寿村を経て現羽島市)出身[1]。原忠左衛門の子[1]。生家は代々農業を営み、同地の里正を務めた[1]。亮三郎は16歳にして家業を継ぎ、大庄屋となった[1]

1871年(明治4年)東京に出て藤川三渓の門に入り、のち神奈川県史生に任ずる[1]。ついで権少録に進み戸長も務めた[1]1875年(明治8年)横浜に出版社金港堂を創業し、翌年東京日本橋に移転する[2]。教科書や文芸雑誌、書籍などの出版にあたった[2]

1893年(明治26年)には金港堂を株式会社に改組し取締役に就任したほか[2]、第九十五銀行[注 1]頭取、富士製紙相談役を歴任した[3]

1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選[3]。衆議院議員を1期務めた[3]

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 三菱UFJ銀行の前身行のひとつ。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 成瀬、土屋 1913, は67頁.
  2. ^ a b c d e f 上田ほか 2001, 1540頁.
  3. ^ a b c d 衆議院、参議院 1962, 407頁.
  4. ^ 原亮一郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  5. ^ 小林清一郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  6. ^ 向井忠晴 (第8版 [昭和3(1928)年7月 の情報]日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
  7. ^ 原亮一郞 (第8版 [昭和3(1928)年7月 の情報)]日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース

参考文献

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  • 成瀬麟、土屋周太郎 編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933863 
  • 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3000139 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496